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2016年11月

2016年11月26日 (土)

小浜城、田辺城、他…城友会2016⑤

国吉城の後は、小浜市へ向かいます。

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途中、三方五湖のPAにも立ち寄り・・・

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小浜神社に到着。
当社は小浜城本丸跡に鎮座し、初代小浜藩主・酒井忠勝(雅楽頭家。徳川四天王の一人で左衛門尉家・忠次の孫に同名がいるが、これとは別人)を祀ります。

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小浜城は小浜湾に面し、南北を北川や南川などの河川に囲まれた中洲のような場所に築かれました。
現在では本丸周囲の石垣を残すのみですが、中洲全体が城内という地名になっています。

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境内南東隅に組屋地蔵尊
小浜城築城の際、人柱となった組屋六郎左衛門の娘を供養するものです。
寛文2年の大地震で崩れた石垣を修築する際、転用石として使われて所在不明となっていましたが、昭和28年の水害で崩壊した石垣を同34年に修築中、偶然発見されたのだそうです。

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南東隅から南面の石垣

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こちらは本丸の北面

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・・・あ、また紺色の人が写り込んでる(笑)
すぐ右手に流れているのは後世の河川拡張で築かれた多田川。往時は北ノ丸があった場所ですが、今となっては跡形もありません。
北ノ丸の脇を流れていた北川は、写真の更に右奥になります。

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北西隅から西面。
奥に天守台跡。

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西面石垣と天守台。

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最後に天守台へ。

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天守台
住宅地の向こう側にうっすらと、小浜湾が見えています。

さて、城友会2016も佳境…次は丹後国へ移動します。

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お城ではないですが、参加者の希望で海上自衛隊の舞鶴北吸岸壁へ。
護衛艦などの艦船を見学します。

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護衛艦あさぎり(手前)とふゆつき

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その艫側。
護衛艦一つとっても、いろいろな形があるのですね。

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対岸に見えるドックも格好いい!

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護衛艦くらまは佐世保の所属で、2017年春に除籍される予定のため、舞鶴で観れるのはこれが最後とか。

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護衛艦くらま

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その最後の雄姿を目に焼き付ける。

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こうしてズラッと並んだ姿を見ると、なかなか壮観ですね。

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舞鶴赤レンガ倉庫
さ、お城に戻ります。

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城友会2016
、ラストは田辺城です。

■田辺城図
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田辺城は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直前、細川幽斎が籠城し、包囲する西軍諸隊と戦ったことで有名ですね。
図を見てもお分かりの通り、現在では開発が進み、もはや城跡公園以外に何も残ってはいません。

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井戸跡

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天守台

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発掘調査に基づき復元された石垣。

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ゆうさいくんに見送られて、今回の城攻めも全て終了です。

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最後は車で一気に移動し、京都駅で解散。

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新幹線を待つ間、写真にちょいちょい登場していた紺色の人と打ち上げ♪

今回も楽しく、充実した時間を過ごせました。幹事を始め、参加者皆さんに感謝です。
来年は飛騨高山方面の予定。またどうぞ、よろしくお願いします(^_^)/

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国吉城…城友会2016④

城友会2016、2日目。
7時に起きて~(本当は5時起き)8時出発で~~♪

・・・という訳で8時に宿を出発(笑)、関峠を越えて若狭国へ。
向かった先は・・・

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国吉城です。

■国吉城図
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前年の金ヶ崎の退き口オフの際にも勿論立ち寄りましたが、あの時は城山には登らなかったので、今回が初登城になります。

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麓の居館跡を抜けて登城口へ。

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麓から山上の本丸までは、およそ500m。
しかし・・・

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その道のりは急勾配の連続で、結構ハードです…(^_^;)

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九十九折れの登山道で息を切らせ、やっとの思いで辿り着いた出丸跡

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土塁が綺麗に残っていました。
先端付近には虎口も。

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虎口を抜けた先にも、削平地が広がっていました。
上の図を見てもお分かりの通り、この出丸の先端にも麓からの道が付いています。
虎口の位置からして、当時もお城へのルートの一つだったのでしょう。

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出丸跡から主要部へは、ほぼ直登の急斜面。
よく整備されてはいますが歩幅が合わず、これが結構歩きづらい…(^_^;)

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点々と残る石積みを眺めつつ、尾根上に登ると・・・

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本丸下の堀切に出ます。
当時は橋が架けられていたのか、両サイドは石積みで固められていました。

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この周辺からみつかったものなのか、堀切には石仏がいくつかまとめて置かれていました。
転用石として用いられていたのでしょうか。

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堀切越しに見る本丸跡の切岸…凄い高低差です。

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まずは北西側の段郭群へ向かいます。

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・・・ちょいと振り返ると、石垣を見るため、大騒ぎしながら斜面を下ってる人が(≧艸≦)

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(上から数えて)一段目より、二段目の郭を見下ろす。
ここでは左側に道が付いており、中央付近で窪んでいるのが二段目郭の虎口だと思われます。

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二段目に降り、その虎口から一段目の切岸を見る。
この切岸、かなりの切り落としっぷりで、ロープがなければとても下りられそうにありませんでした。

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三段目。
これまた結構な虎口が見えています。
二段目の虎口は左(南)に設けられ、三段目は右(北)…経路を左右に折って直進させない、セオリーに適ったもの。

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しかも三段目の虎口は直角に折ってあり、枡形の形状が明瞭でした。

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虎口を抜けた先に、四段目の削平地も見えています。
図によると更に五段目もあるようですが、私はここで引き返しました。

堀切まで戻り、本丸跡へ登ると・・・
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ミニチュアの天守台石垣?!がお出迎えしてくれました。
よく出来ているなぁ~

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本丸虎口
両サイドには石垣跡

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この倒れている石は鏡石だったのではないか、と考えられているそうです。

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本丸跡

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本丸跡に建つ小さな石碑

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そして、私が国吉城で一番楽しみにしていたもの・・・それは本丸からの、この光景です。

元亀元年(1570)、越前朝倉攻めに向かう織田信長はその道中、国吉城にも滞在しています。
そこで国吉城の立地や、城主・粟屋勝久が永禄年間に朝倉勢の侵攻を食い止め、籠城を続けてきた武勇を称えた上で、

向の河辺より城下へ真直に道を付、町を作り、在々の侍共を少々城下に置からば、万事の自由然るべし。
(国吉籠城記)

という言葉を残しています。(参考記事
向の河とは現在の耳川(写真奥を横切る)のことと思われますし、城下には丹後街道(国道の左をほぼ並行する細い道)が走っています。
信長の言葉は、まさにこの光景を見ながら発せられたものでしょう。実際に己の目で確かめて・・・鳥肌がたちました。
※結果的に丹後街道が城下に通され、町が整備されたのは天正年間の木村氏時代になってからのようです。

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国吉城下を通る丹後街道。

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耳川

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本丸跡から北へ目を転じると、若狭湾がすぐ近くまで迫ります。
右に見える尾根続きの小山には出城(岩出山砦)があったようで、更にその周囲には、朝倉軍の付城跡がいくつも残っているのだとか・・・永禄期の籠城戦の規模を物語るかのようです。

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本丸跡に残るあちらの土塁の先を下ると・・・

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ここにも堀切が残ります。
史跡指定されている範囲はこの堀切までで、上の図に描かれているのもここまでですが・・・

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更に先にも堀切らしき痕跡が2本見えました。
ここは元々古墳だったそうですが、本丸防衛のため、尾根を分断する連続堀切を設けていた可能性もなくはないかな、と思います。

国吉城、なかなか見応えのある、いいお城でした。

※下山途中、パーンという音と共に大きな岩が落ちてくるというハプニングがありました。
幸い、すんでのところで事無きを得ましたが、山には危険がたくさん潜んでいることを改めて思い知らされました。

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2016年11月25日 (金)

金ヶ崎城、手筒山砦、敦賀城…城友会2016③

城友会2016、初日後半も引き続き敦賀市内をめぐります。

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金崎宮境内に建つ金ヶ崎城址
金ヶ崎城は元亀元年(1570)の金ヶ崎の退き口でも有名ですが、それより遡ること230年余り、建武3年(1336)には恒良・尊良の両親王を奉じた南朝方の新田義貞が拠り、足利尊氏が派遣した軍勢と戦った地でもあります。
※金ヶ崎城・手筒山砦には2度目の訪問になりますので、今回はさらっと流します。金ヶ崎城の詳細、及び「金ヶ崎の退き口」については、以下の記事を参照ください。
金ヶ崎の退き口(前篇:手筒山攻撃~浅井長政の離反)
金ヶ崎の退き口(後編:撤退開始~朽木越え)

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金崎宮から城山を登り始めるとすぐ、その尊良親王の御陵墓見込地の碑が建っている場所があります。
金ヶ崎城に拠った南朝方の抵抗もむなしく、翌1337年3月には落城します。
新田義貞は城を脱していましたが、尊良親王は義貞の子・義顕と共に自害して果てました。(恒良親王は捕縛される)
なお、金崎宮は恒吉・尊良両親王を祀っています。

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尊良親王御陵墓見込地碑は高い土塁のような場所に建っており、その足元を覗くと・・・郭のようにも見えました。

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金ヶ崎城主郭に建つ古戦場碑
書かれている内容は一見したところ、南北朝時の金ヶ崎城の戦いに関するものでした。

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主郭、月見御殿跡
元亀元年、当城を落とした織田信長もおそらく、ここに一時的に本陣を移しています。

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金ヶ崎城から尾根続きに、途中3本ほどの堀切を見ながら手筒山(天筒山)を登ります。

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こちらも堀切の底。

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手筒山展望塔からの眺め。
こちらは金ヶ崎の退き口の折、朝倉の軍勢が進攻してきた木ノ芽峠方面

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時計回りに南へ目を転じると、浅井長政の軍勢が敦賀に姿を現した場所(高架の架かっている辺り)に・・・

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信長が撤退していった関峠方面も一望のもと。
ここからの光景は、何度見ても興奮します。

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手筒山から見下ろす金ヶ崎城と敦賀湾。
帰りもあの尾根の先端まで歩いて下山します。

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さて、次に向かったのは敦賀城跡に建つ真願寺
最近リホーム?したらしく、1年半前に訪れた時とは雰囲気がだいぶ変わっていました。

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本堂も・・・

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本堂前に安置されている敦賀城の礎石

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真願寺のすぐ脇には、敦賀城の堀跡も。

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市立敦賀西小学校前に設置された石碑。

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その石碑から続くこちらの路地は、旧若狭街道です。

さて、これにて初日の行程は終了です。
この後は一旦ホテルに落ち着き・・・

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敦賀駅前のお店で懇親会♪

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初日の城攻めを慰労して・・・カンパーイ☆

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美味しい海の幸に舌鼓を打ちました♪
そして宴は、城友会恒例のカラオケへ・・・

ホテルに帰りついたのは、深夜12時を回っていたかな?
毎度のことですが、城友会はカラオケが一番疲れる(笑)

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八幡神社(敦賀市)…城友会2016②

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玄蕃尾城から下山した後は敦賀の市街地へ入り、まずは八幡神社へ。

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八幡神社の前を通るは、旧若狭街道(丹後街道)

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若狭街道の碑

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敦賀といえば大谷吉継、ということで彼の絵が奉納されていたり・・・

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吉継の奉納と伝わる石灯籠などもあります。

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また、天正元年(1573)の越前攻めの際には織田信長も立ち寄り、揚羽蝶模様(信長が好んで用いた平家紋)をあしらった刀の拵えを奉納したと伝えられています。

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折角なので資料館も見学させていただきましたが・・・残念ながら、その拵えはありませんでした。
どこかの博物館かに寄託しているのでしょうかね…いつかお目にかかってみたいものです。

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2016年11月24日 (木)

玄蕃尾城…城友会2016①

前記事の刀根坂(久々坂)峠から北の斜面を上がり、5分ほど九十九折れの山道を登ると開けた尾根に出ます。

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霧で視界が悪い中、漂う獣臭に警戒しながら慎重に進みます・・・近江北部は特に多いらしいですからね…熊。
尾根上を更に北へ、しばらく進むと・・・

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おぉ…いきなり凄い遺構が姿を現しました。

■玄蕃尾(内中尾山)城図
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玄蕃尾城は天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉と対峙した柴田勝家の本陣として築かれた、いわば陣城です。現在の滋賀県と福井県の県境に位置します。
上図の下方、南側の大手から探索開始。

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虎口郭Aへの大手虎口
左へ折れる枡形になっています。

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虎口郭B
写真左に虎口、その右手には武者溜りのような空間がありました。

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土塁やら切岸が複雑に入り組んだこの立体感…堪らない(笑)

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虎口郭Bから主郭方向
右の高まっている部分は、主郭南虎口を守る馬出です。

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主郭南虎口の土橋

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その土橋から続く馬出

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土橋西側の横堀に・・・

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東側の横堀・・・深い。

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主郭側から見た土橋、馬出、そして右奥に虎口郭B
土橋両脇の横堀も含め、その防御思考が明瞭に伝わる遺構です。

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主郭

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主郭東虎口を、その外側から見た様子。
こちらも土橋や横堀が綺麗に残っています。

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主郭東土橋脇の横堀。
・・・あ、この紺色の人、いつも一人でサクサク先に進んで行くので、城友会の記事にはちょいちょい写り込みます(笑)

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張出郭

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主郭櫓台

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主郭北側の馬出

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虎口郭C
かなり広い空間でした。

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虎口郭Cと、先ほどの馬出との間の横堀。

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搦手虎口と土橋。
城域の最北端に位置しており、北ノ庄へ敗走する柴田勝家は、或いはここから玄蕃尾城を出たか?などと話しながら見学しました。

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搦手虎口の先には、今も道が続いていました。

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虎口郭Cの横堀

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この横堀がまた素敵でした♪

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外側の掻き上げ土塁から。

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虎口郭Cの南西、見張台の切岸…凄い高低差。

玄蕃尾城…その遺構のどれをとっても、とても一時的な陣城の規模ではないです。きっと勝家は、秀吉との対陣がもっと長期化すると見込んでいたのでしょうね。
整備の具合も程良くて見やすく、素晴らしい城跡でした。

この後は敦賀市内へ入ります。

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2016年11月23日 (水)

刀根坂…城友会2016 プロローグ

5年連続での参加となった城友会
チャラくてゆる~い、それでいてちょっぴりハードな今年の城攻めは、米原で集合して北上し、琵琶湖の周囲を反時計回りにめぐるルート。

全員集合~出発後、私の希望でちょっと寄り道をしてもらいました。

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福井県との県境付近、柳ケ瀬の追分
3年前にも訪れてコチラの記事で詳しく触れていますが、近江から北上して中河内~福井市方面へと続く北国街道(右:中野河内口)と、刀根~疋田(疋壇)を経由して敦賀へ抜けるルート(左:刀根口引壇口)との分かれ道です。
天正元年(1573)、越前朝倉氏を滅亡に追い込む織田信長の追撃戦に於いては、重要なキーポイントにもなっています。
※( )内の青文字は「信長公記」より引用。

撤退する朝倉義景は、ひとまず疋壇城を目指して左の刀根口を進むのですが、追ってきた信長にその選択を見破られ、朝倉勢はこのすぐ先の刀根坂で織田の軍勢に激しく攻めたてられます。

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追分には、その刀根口の街道に向いて石仏も安置されていました。

車で少し移動し、刀根坂へ向かいます。

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柳ケ瀬の追分から続き、刀根坂(刀根越え)の峠に差し掛かった旧道。

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刀根坂峠
一般には「久々坂峠」、或いは「倉坂峠」とも呼ばれるようです。
峠は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで、佐久間盛政が布陣した行市山への分岐点にもなっているようです。

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刀根坂の切通道

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峠を越えるとすぐ、旧道は刀根へ向かって下っていきます…まさに刀根坂。
逃げる朝倉勢を一気呵成に追い崩す信長の軍勢・・・こっそり妄想に耽った瞬間。

ちなみに刀根坂峠から北へ向かって斜面を登っていくと、賤ヶ岳合戦で柴田勝家が本陣として築いた玄蕃尾(内中尾山)があります。
・・・という訳で、城友会2016最初のお城は玄蕃尾城です。

※柳ケ瀬から県道144号を進み、柳ケ瀬隊道のトンネルを刀根側へ抜けると、すぐ右手に林道入口があります。この林道を2kmほど登って駐車スペースに車を停め、山道を徒歩で登ると刀根坂の峠に至ります。
玄蕃尾城へのアプローチに利用したのですが、刀根口の旧道に直結していますので、この林道も往時の旧道をベースに整備されたものかもしれません。


つづく(笑)

※おまけ
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刀根坂を登る男性陣。
追いかける織田勢、というより・・・逃げのびる朝倉勢といった風情…か。
(写真提供:しろうさぎさん)

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2016年11月12日 (土)

はじめてのお買い物♪ その目的は・・・?

今日はボンを連れて、ペット同伴可のホームセンターへ。

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ペット専用の買い物カートに乗せてみる・・・もう13歳になるけど、実は一緒にお買い物するのはこれが初めて。
慣れないカートの乗り心地に、かなりビビっていました・・・(^_^;)

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そんなこんなで落ち着かないので、目的の品を見つけたら一目散にレジへ(笑)

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折角のお出かけなのに・・・店内での滞在時間はほんの5分程度(笑)
ホント、内弁慶な奴ww

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・・・で、買ってきたのがこちら。

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早速、家の中で乗せてみた(笑)
何をされているのかわからず・・・キョトンwww

肢を痛めて彼是3年・・・今ではあまり踏ん張りも効かず、結構ヨロヨロしてる。主治医に言わせると、未だに歩けているのが不思議なくらいなのだとか・・・。
そんな訳で当然、お散歩にも行けていなかったのですが・・・これでようやく、毎日お外の空気を吸いに行けるよ!

だから・・・早くカートに慣れてね(笑)


で、翌日・・・
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早速、近所をお散歩…割とおとなしく乗っていてくれたみたいです。

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これで毎日お外に出かけられるね♪よかったよかった☆

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2016年11月 7日 (月)

滝山城下町と「かまくら道」 (& 三ノ丸横堀)

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今回は滝山城の城下町を歩きます。
滝山城が築かれていた加住北丘陵と、それと並行して走る南丘陵の間には谷地川(写真)が流れており、城下町はこの谷地川に沿うような形で築かれていたと考えられます。

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谷地川河畔から北、滝山城方向を見る。

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反対の南側。
まるでこれら南北2つの丘陵に、包み込まれるかのような場所です。

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谷地川にはいくつか橋も架けられており、それらの中には城下町の名残を伝えてくれるものもあります。
こちらは八幡宿橋。

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八幡宿橋から少し東へ進むと・・・

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横山
昭和30年頃に加住地区(村)が八王子市に編入されるまで、この辺りは横山と呼ばれていました。また、先ほどの八幡宿橋と新横山橋の中間には、やはり八日市と呼ばれる地区もありました。
(横山・八日市ともに、加住村の八王子市編入後は滝山町に統一)

北条氏照が滝山城から居城を移した八王子城下にも八幡宿の名が見えますし、西から順に八幡宿→八日市→横山というこの並びは、現在のJR八王子駅北西の甲州街道沿い(江戸時代に甲州道中八王子宿が置かれていた場所)の八幡町→八日町→横山町とそっくり同じです。
現在の八王子の中心街は、天正18年(1590)の北条氏滅亡後に八王子城下から移されたもの(だから八王子城周辺を「元八王子」と呼ぶ)。
滝山城下から八王子城下、そして八王子宿へ・・・こうした地名の由来に、八王子の中心地の変遷が垣間見えるようです。

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八幡宿橋と新横山橋の間に架かる梅坪橋。

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梅坪橋から南へ伸びるこの道は、鎌倉や北条氏の本拠・小田原方面へと抜ける中世のかまくら道(鎌倉古道)と推定されます。
今度はこのかまくら道を辿って南へ歩いてみます。

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途中で横切る都道169号(新滝山街道)を越えて細い小路に入ると、古い庚申塔に道標がありました。
道標の文字は「向右 西中野・・・」までは辛うじて判読できたものの、あとは風化で読み取れませんでした。
確かに加住南丘陵を越えた先には、今でも「中野」という地名が存在します。

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加住南丘陵をなだらかに登っていくかまくら道。

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一旦下った先で・・・

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舗装路は途絶え、雑木林の中へ入っていきます。

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雑木林の先は都の管理地らしく、立入禁止の看板とフェンスが張り巡らされていましたが、そのフェンスを迂回するように右へ続く山道を進むと・・・

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峠や山中に於ける古道特有の、見事な堀割道が現れました。
右へカーブし・・・

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少し進んで・・・

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今度は左へカーブ・・・事前に想定していたものよりもハッキリとした形状でした。

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かまくら道はこの先、車道による開削で消滅していますが、本来はひよどり山~御殿峠へと続いていたものと思われます。
滝山城主時代には氏照も幾度となく、小田原への往還にこの道を利用していたのではないでしょうか。
(御殿峠についてはコチラの記事参照)


■滝山城三ノ丸外周の横堀

さて、滝山城の三ノ丸外周の横堀が最近、藪も払われて見易くなったとの情報を得たので、この機会にちょっと様子を見ていくことにしました。
かまくら道を北へ引き返し、少林寺山門前から加住北丘陵に上がって尾根を西へ進み城域内へ。
二ノ丸~三ノ丸間から堀底に下りてみると・・・

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ご覧のような見事な横堀がドーンと!

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元々立派な横堀があることは判ってはいましたが、藪で見えづらく、正直ここまで見事な形状を残しているとは思いませんでした。

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所々、畝のような盛り上がりも・・・3本くらいありました。

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三ノ丸の周囲をグルーッと廻って・・・

2016110622
最後は小宮曲輪の対面に繋がります。

2016110623
素晴らしい遺構に出会えて興奮しているところへ、こちらの立て看板が目に入ってビックリ・・・。
私は二ノ丸側から堀底に下りたので気づきませんでしたが、今まではこんな看板などありませんでした。

藪を刈って人が入り易くなったために掲げたのか、それとも今後調査でもする予定があるのか・・・?
「園路ではないから」とありますが、城址公園の敷地であることに変わりはないはず…仮に私有地だというのならば、それとわかるようにするべきだし。
「園路」しか通れないのであれば、この城郭遺構の傑作も魅力は半減。。。無論、無闇やたらに土塁や切岸に踏み入られるのは困るけど、それは城域全体にも言えること。
そこは節度ある見学マナーを喚起しつつ、折角整備していただいているのだから、公平にオープンにした方がいいのではないかと、個人的には思います。

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