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2016年12月

2016年12月25日 (日)

お城EXPO 2016 (12/24)

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12月24日、パシフィコ横浜で開催されたお城EXPO 2016(12/23~25)に足を運んできました。

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会場ではいきなり、4月の震災による石垣崩落で発見された熊本城の、「不思議な文様のある石」がお出迎え。

私は厳選プログラムと銘打たれた講演を聴くため、プレミアム・チケットでの入城。
24日の構成は;

11:00~12:30 トークショー
「山城の魅力を語る!」
春風亭昇太氏、千田嘉博氏、萩原さちこ氏

13:30~14:20 講演会
「秀吉の小田原攻めの意義と背景」
黒田基樹氏

15:00~17:00 フォーラム
「小田原攻めの実態に迫る」
小和田哲男氏、諏訪間順氏、伊東潤氏、コーディネーター:黒田基樹氏

といったものでした。
特に黒田先生のお話を聴いてみたくて、この日を選択しました。

見ての通りタイムテーブルがとってもタイトなので、出展ブースなどは朝イチや合間を縫ってサクッと流し見程度に。

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「城ラマ」ブースに展示されていた高天神城に長篠城。
パネルにはフィールドワークの第一人者、藤井尚夫先生のお姿も。

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こちらは小机城に真田氏上田城。

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ブース会場

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岐阜城山上石垣整備推進協議会のブースに展示されていた岐阜城のジオラマ。

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こちらの冊子も購入させていただきました。

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津市観光協会のブース

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イベントには欠かせないゆるキャラたちも登場。
出世大名家康くんに、出世法師直虎ちゃん。

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イベントステージには、ひごまるも。

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現存十二天守模型展
※中に小田原城天守が含まれていたのは、開催地(神奈川県)への配慮か?・・・深くツッコまないでおく(笑)

その他、子供たちによる城の自由研究コンテスト優秀作品展や、お城EXPOフォトコンテスト展示などもありました。

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さすがにこれだけのイベントにもなると、お城好きのフォロワーさんも大勢来城。
さらさんからはお手製の、お城EXPO煎餅をいただきました☆素晴らしいクォリティ♪

※会場ではクリス・グレンさんや平山優さんにもお会いすることができました。

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さて、肝心の講演の方ですが、感想は長くなるので割愛します…(^_^;)

何より、つい先日も近江の山城攻めをご一緒した萩原さんが、これだけのイベントを企画・推進し、大きな壇上で諸先生方と共にスポットライトを浴びている・・・その光景を不思議な気持ちで眺めながら聴講していました。
この日も大勢集まっていた城仲間・歴史仲間を含め、これら素晴らしい人々との出会い・ご縁も歴史や城を好きでいたからこそ。
そのことに一番感謝した一日。

・・・うん、とてもいい一年の「城納め」になりました☆

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2016年12月23日 (金)

織田信長の凱旋旅

天正10年(1582)3月、甲斐武田家征伐を終えた織田信長は、翌4月には甲府を発って駿河へ向かい、東海道を西へ安土までの凱旋の途に就きます。
その道中は天下の名峰・富士山遊覧に始まり、各地の名所を尋ね歩きながらのゆったりとしたものであったことが、「信長公記」巻十五、「信長公甲州より御帰陣の事」に詳しく綴られています。

本記事ではその「信長公記」に則りながら、日付毎に信長の凱旋旅を追っていきたいと思います。


■天正10年(以下同)4月10日
・甲府を発って笛吹川を越え、この日は右左口うば口)に宿陣。

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中道往還の宿場、右左口
信長一行の甲府から駿河までの道のりは、この中道往還を辿っていくことになります。
右左口宿もこの時、家康が道と共に整備したことで発展したと云われています。

武田家征伐の功により、駿河国は(一部を除いて)徳川家康に与えられます。
従って駿河以降、遠江~三河と領国内に信長を迎えることになった家康は、その歓待に心を砕きます。
道を広々と整備し、石を除いて水を撒き、道の左右には隙間なく警護の兵を配置しました。また、各所に休憩のための御茶屋や、二重三重に塀を廻らせた宿泊用の御殿(御陣屋御屋形)を設け、御殿の四方には随行する諸卒のための小屋も千軒以上築くという念の入れようであったとか。

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右左口宿にある東照神君御殿場跡
信長らが右左口に泊まった日から僅かに3か月弱の後、家康は本能寺の変による信長の横死で混乱する甲斐を掌握するため、甲府へ向かいます。
その道中、右左口にも数日間滞在しているのですが、その際に家康滞在のための仮屋が置かれた場所とされています。
そうなると、その当の家康が築かせたと云う信長のための御陣屋も、或いは・・・?


4月11日

 

・払暁に右左口を出発。

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右左口宿から峠に差し掛かる迦葉坂
柏尾坂とも呼ばれ、牛一が「信長公記」にかしは坂と記しているのは、この迦葉坂を指しているものと思います。
※詳細はコチラの記事にて。

この日の行程は峠越えとなりますが、ここでも家康は鬱蒼と茂る左右の大木を伐り伏せて道を開き、警護の兵を並べていました。

・峠に用意された御茶屋で休憩。

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峠を越え、青木ヶ原樹海の中を抜ける中道往還

・本栖に宿陣。

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本栖湖


4月12日
・未明に本栖を出発。
富士山御覧じ、人穴も見物。

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信長が御覧じた場所とはちょっと違うけど・・・御殿場からの富士山。

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人穴浅間神社(富士宮市)

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信長が見物した人穴

人穴にも御茶屋が建てられていました。
そこへ富士山本宮浅間大社の神官らが、この先の道筋の清掃を手配しつつ挨拶に訪れます。

昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井手の丸山あり。西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、

人穴の近くには昔、源頼朝が富士の巻狩りを挙行した折に館を建てたと云う上井出の丸山があり、その西の山には白糸の滝があります。
信長は神官らに対し、この辺りのことを詳しく尋ねています。

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上井出(かみ井手)交差点(富士宮市)

頼朝の富士の巻狩りといえば、日本三大仇討ちにも数えられる曽我兄弟の仇討ちが有名です。
それを証明するかのように、上井出交差点近くには・・・

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曽我の隠れ岩や、

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兄弟に討たれた工藤祐経のお墓があります。

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また、白糸の滝のすぐ脇の崖上には、頼朝がこの水面に自らを映して鬢のほつれを直したとの言い伝えが残るお鬢水。

この辺りは天正の頃にも既に、頼朝の旧跡として認識されていたことが分かるエピソードで興味深いです。
かりくらの屋形かみ井手の丸山については、コチラの記事参照。

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白糸の滝

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太田牛一も「名所」と記すだけあって、幾筋もの滝が横にずらっと並ぶ姿は壮観で見応えがありました。

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こちらは音止めの滝。

・この日は富士山本宮浅間大社(大宮)に宿陣。

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富士山本宮浅間大社

この時、浅間大社は北条の手勢によって諸伽藍悉くを焼失していましたが、家康は一夜の御陣宿たりといへども手を抜くことなく、同地に金銀を鏤めた見事な御殿を用意していました。

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また、浅間大社近くには、信長が腰を掛けて富士山を眺めたと云う富士見石もあります。
(富士宮市立中央図書館前)


4月13日
・払暁に浅間大社を出発。
・浮島ヶ原から愛鷹山(足高山)を左に見て富士川を渡り、蒲原(神原)に用意された御茶屋で休憩。
ここで少し馬を使い、土地の者から吹上の松、六本松、和歌の宮、伊豆浦、妻良ヶ崎のことなどを聞き、興国寺・吉原・三枚橋・鐘突免・天神川・深沢の各城についても尋ねました。

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旧東海道、蒲原宿に残る御殿道。
信長のために設けられた御茶屋は、後に徳川将軍の「蒲原御殿」として整備・拡張されたと云います。

・蒲原の浜辺から由井では磯辺の波に袖を濡らし、清見関、興津の白波、田子の浦、三保ヶ崎、三保の松原、羽衣の松・・・天下も治まって長閑な中、各地の名所をゆったりと見物して進みます。

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由比と興津方面の間には、薩た山が海岸線までせり出しています。
薩た峠を越える旧東海道が整備されたのは江戸時代に入ってからのことで、それまでは主に薩た山の麓、馬1頭が通るのもやっとという狭隘な波打ち際(親知らず子知らずの道)を通っていたと云います。(1854年の大地震で海底が隆起し、現在はそこに国道1号線が通る)
神原の浜辺を由比て、磯部の浪に袖ぬれて
信長公記で表現されたこの一節が、信長一行も親知らず子知らずの磯部を通行したことを暗示しているように思えてなりません。

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この時は波打ち際の道を通って峠は越えていないかもしれませんが・・・薩た峠からの富士山。

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清見寺

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清見寺に転用されている清見関の血天井

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三保の松原

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羽衣の松

・江尻の南の山を越えて久能城を訪ね、この日は江尻城泊。
※久能城は「訪ね 」たのではなく「尋ね 」ただけで、誤読しておりました。訂正いたします。
(2023年7月12日)

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久能山東照宮

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江尻城本丸跡


4月14日
・夜の内に江尻を出発。
・駿府の町口に設けられた御茶屋で休息。
ここで今川氏の旧跡や千本桜のことを詳しく尋ね、安倍川を越えました。

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安倍川

山中路次通り
まりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。


この山城とは、丸子川の川端という立地からしても丸子城 を指していると思われますが、表現からしてこの時の通行路が山中を通って丸子城を経由するルートだったと推測できます。

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丸子城の三日月堀と長大竪堀

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山中を通り、丸子城を経由する旧道らしき痕跡。

※但し、「信長公記」のまりこの川端にという表現からは、文字通り丸子川の畔から城を見ている印象も受け、若干の違和感も覚えます。
丸子川沿いを走る近世東海道は確かに麓を通りますが、安倍川を越えて丸子に近づくにつれ、前方や左右には山並みが迫ってくるようになります。今でこそ開発されて雰囲気も変わってしまっていますが、当時の景観を想像すると、この山並みが近づいてくる景色山中路次と表現したのかもしれない、とも思い直しています…これもちょっと無理がありますが。
或いは木枯森~牧ヶ谷を経由して歓昌院坂を南下してくる古道は、丸子城とは尾根違いなので直接は経由せず、丸子の集落(麓)へ下って旧東海道に合流するようなので、仮にの道(路次)を通ったとすると、こちらのルートだったかもしれません。

 

2017年1月追記

※2017年1月14日、実際に牧ヶ谷~歓昌院坂峠までのルート を歩いてみましたが、とても細くて険しい山道で、わざわざ家康が信長を案内するには、あまりに心許ないと感じました。
やはり現状では、素直に旧東海道を通ってきたと考えるのが妥当なのかもしれません。

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山麓を通る近世東海道、丸子宿。

名にしおふ宇津の山辺の坂口に、御屋形を立て、一献進上侯なり。字津の屋の坂をのぼりにこさせられ、

宇津ノ谷峠 には蔦の細道と呼ばれる古代~中世までの道とされるものと、天正18年に豊臣秀吉が小田原征伐のために開いたのが始まり(後に家康が整備)とされる旧東海道が通っています。
(明治以降に設けられた道を除く)

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こちらは道の駅脇にある、蔦の細道の登り口(静岡口)
旧東海道が天正18年以降の道ということであれば、この時、信長一行が通ったのは蔦の細道ということにもなり・・・

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家康が信長のために用意した御屋形があったと云う宇津の山辺の坂口とは、道の駅付近ということにもなりそうですが・・・。

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蔦の細道の宇津ノ谷峠

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蔦の細道(岡部口)

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変わってこちらは旧東海道
蔦の細道とはうって変わって道幅も広く、旧街道の姿をしっかりと留めています。

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旧東海道の宇津ノ谷峠

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旧東海道の静岡側麓に佇む宇津ノ谷の集落

仮に信長一行が通ったのが旧東海道のルートだった場合は、宇津の山辺の坂口はこの宇津ノ谷の集落を指すことになりそうです。

果たして信長はどちらの道を通ったのか・・・
これに関してはコチラの記事で触れていますので、合わせてご参照ください。

藤枝の宿入り口に、誠に卒渡したる偽之橋とて、名所あり。

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偽之橋が架けられていたという、藤枝市「本町」交差点。

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この時はお店が開いていたので確認できませんでしたが、実は交差点近くのとある商店のシャッターには偽之橋の絵が描かれていたりします。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。

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東海道が朝比奈川を渡る地点に架けられた横内橋。

この橋から、かい道より左を見ると・・・
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花沢城の城山(左手前、尾根先端付近)や、遠くには虚空蔵山(奥の尾根先端部)を望むこともできます。
とう目とは当目で、虚空蔵山がある辺りの焼津市の地名です。その山頂には当目山香集寺があり、虚空蔵菩薩を祀っています。
正確な地点を知る術はもはやありませんが、織田信長も同様の光景を眺めていることは確かです。

・この日は田中城泊。

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田中城本丸跡

ここでちょっと、「信長公記」の記述に違和感が・・・。
本記事はあくまで「信長公記」の記載順にご紹介しているのですが、偽之橋は東から西へ向かうと、田中城を少し通り越した場所に位置しています。
無論、街道の左手に花沢城跡や虚空蔵山が見えたであろう地点も、遥かに通り過ぎているはず・・・或いは翌日、田中城を出発してすぐ藤枝宿を通過する際に見たものと、記憶を混同させているのかもしれません。


4月15日
・未明に田中城を出発。
・藤枝宿を越え、瀬戸川の川端に建てられた御茶屋で休息。
・瀬戸川を渡って島田を経由し、大井川を越える。

瀬戸川こさせられ、せ戸の染飯とて、皆道に人の知る所あり。

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上青島村瀬戸町(現藤枝市上青島付近)に建つ、染飯茶屋址の碑。

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今も売られている瀬戸の染飯

真木のゝ城右に見て、諏訪の原を下り、きく川を御通りありて、

真木のゝ城とは牧野城、即ち諏訪原城のこと。

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真木のゝ城右に見て、

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諏訪の原を下り、

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きく川を御通りありて、


間違いなく太田牛一は、これら旧東海道からの光景を描写しています。
430年以上前の描写が、現代の地理・地形とも一致して感動すら覚えます。

のぼれば、さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。是れより、につ坂こさせられ、懸川に御泊り。

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のぼれば、

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小夜の中山公園
さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。

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日坂宿本陣跡
是れより、につ坂こさせられ、

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懸川に御泊り。

真木のゝ城懸川までの詳しい行程は、コチラの記事を参照。


4月16日
・払暁に掛川を出発。

みつけの国府の上、鎌田ケ原、みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り、

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太田川を渡る三ヶ野(みかの)橋

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旧東海道松並木と、奥に三ヶ野坂

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三ヶ野坂上に建つ大日堂
旧東海道沿いで坂を登った台地の縁、高天神などがある東方への眺望も開けていますので、御屋形立て置かれていたのもこの辺りではないかと思われます。(鎌田はここより少し南)
但し・・・

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距離的に高天神城や馬伏塚(まむし塚)城、ましてや小山城が手に取るように見えたとは、とても思えないのですが・・・(^_^;)

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馬伏塚城

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高天神城

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小山城

また、みつけの国府の上ともありますが、見付は三ヶ野から更に西へ行った先で、国府もそちらにあったものと考えられています・・・なぜ牛一は、三ヶ野の前にこのフレーズを挿し込んだのでしょうか…?
後年「信長公記」を編纂する際、国府や見付が三ヶ野坂の下にあったと記憶違いしたのでしょうかね。

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見付の遠江国分寺跡
国府もこの付近にあったと推定されています。

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それを示すように、周辺の地名は「国府台」

※見附宿から先、近世東海道は南へ迂回していますが、信長一行は天竜川の渡し場となる池田までを真っ直ぐ繋ぐ、姫街道のルートを採ったものと思われます。

池田の宿より天龍川へ着かせられ、爰に舟橋懸け置かれ、(中略)此の天龍は、甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、川の面寒しく、渺ゝとして、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり。

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天竜川、池田の渡し碑

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池田の渡し跡
家康は信長一行の通行のため、ここになんと舟橋を架け渡していました。
天竜川は甲斐・信濃の川が集まる大河で、本来であればとても舟橋など架けられるような川ではありませんでした。太田牛一も、上古よりの初めなり。といって驚いています。

天竜川に架け渡された舟橋によほど感動したのか、牛一はここで改めて;
遠国まで道を作らせ、
川には舟橋を渡し、
道端には警固を申し付け、
泊まる先々の御殿や、道々の御茶屋・厩の見事な普請、
諸国の珍奇を集めた御膳の用意、
諸卒の賄いや1500軒ずつの小屋の準備、、、
これら家康の心尽くしのもてなしを並べ立て、その苦労に思いを馳せて称賛の言葉を述べています。
信長公の御感悦、申すに及ばず。
とも・・・。

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天竜川
※三ケ野坂~天竜川までの詳細はコチラ

・天竜川の舟橋を渡り、この日は浜松に宿陣。

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浜松城

浜松で小姓・馬廻衆には暇を出して先に帰らせ、弓・鉄砲衆のみを残しました。
また、黄金50枚で用意させた兵糧8000俵余りを、もはや不要として家康やその家臣らに分け与えています。
きっと、道中のもてなしに報いる心づもりもあったのではないでしょうか。


4月17日
・払暁に浜松を出発。
・今切の渡しを、用意された御座船に乗って浜名湖を越える。

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浜名湖今切の渡し付近。

舟を下りて少しすると、右手にはまなの橋という名所があり、徳川家臣・渡辺弥一郎が機転を利かせ、はまの橋や今切の由来、舟方のことなどを説明しました。
これに感心した信長は、弥一郎に黄金を与えています。

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浜名橋跡

しほみ坂に御茶屋、御厩立て置き、夫ゝの御普請候て、一献進上候なり。

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潮見坂上からの眺め。

・晩に及んで雨となり、この日は吉田に宿陣。

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吉田城

※浜松~吉田までの詳しい行程は、コチラの記事を参照。


4月18日
・吉田川を越え、御油(五位)の御茶屋で休憩。
表の入口に結構な橋が架けられ、風呂も用意されていました。

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旧東海道御油宿江戸方の入口、音羽川に架けられた御油橋。

・本坂、長沢の街道は山中で岩が露出していましたが、それも今回、金棒で岩を砕いて取り除き、平に均してありました。
・山中(山中郷)の法蔵寺(宝蔵寺)にも御茶屋が構えられていて、寺僧・喝食悉くが挨拶に出向きました。

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法蔵寺
家康幼少期の手習いの寺、そして新選組局長・近藤勇の首塚とされるものがあることでも知られます。

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法蔵寺前を通る旧東海道
当然この時、信長らが通った道でもあります。

※御油~法蔵寺までの詳細なルートは、コチラの記事を参照。

大比良川を越え、岡崎城下のむつ田川・矢作川には橋が架けられていました。

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大比良川(大平川)

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岡崎城

・矢作宿を過ぎ、知立(池鯉鮒)に宿陣。

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矢作宿

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織田信長が宿陣した御屋形跡地と推定される知立古城跡。

※4月18日後半の詳細なルートは、コチラの記事を参照。


4月19日
・清州着

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清州城

これ以降、信長の凱旋旅は中山道を経由し、近江鳥居本からは下街道を進むことになります。


4月20日
・岐阜へ移動

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岐阜城


4月21日
・呂久の渡し(揖斐川/瑞穂市)を、稲葉一徹の用意した御座船で渡る。

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呂久の渡し

・垂井では、ごぼう殿(五坊/織田勝長)が用意した御屋形で一献進上。
・今須(関ヶ原町)では、不破直光が用意した御茶屋で一献進上。

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旧中山道、今須宿。

・柏原でも、菅屋長頼が御茶屋を建てて一献進上。

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中山道、柏原宿

・佐和山城に御茶屋を建て、丹羽(惟住)長秀が一献進上。

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佐和山城

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佐和山城内に引き入れられた下街道(朝鮮人街道)
頭上の太鼓丸か、その下段の曲輪辺りに、丹羽長秀が用意した御茶屋が建っていたのではないかと思われます。

・山崎山城に御茶屋を建て、山崎源太左衛秀家が一献進上。

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山崎山城

・同日、安土に帰陣
最終日は家臣たちによる、接待漬けの道中だったようですね…(^_^;)

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安土城天主跡

天正10年4月10日~21日の12日間に及ぶ、織田信長の凱旋旅
今後も新たに沿道の関連地を訪れた際には、本記事に写真などを追加していきたいと思います。

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2016年12月22日 (木)

旧東海道(松並木)と田中城

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丸子城の後は、車で旧東海道を辿りながら藤枝市方面へ向かいます。
※丸子城で旧道探しをしている時から、カメラが臍を曲げて全く撮影できなくなったので、以降はスマホで撮影した写真になります。
逆光迫る夕闇という悪条件も重なり、かなりお見苦しいものばかりですが、あしからずご了承ください…m(_ _)m

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藤枝市仮宿~横内付近に残る旧東海道の松並木。

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旧街道に沿って車を走らせてもらうと、このように所々に松の木が残っていますが、年々その数を減らしているのだそうです。

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同市水守3丁目、この辺りは街区自体が変えられたらしく、今となっては旧街道は姿を消し、数本の松並木のみがその存在した歴史を語ってくれています。
まだ命脈を保っている木々が、一年でも長く守られていくことを願って止みません。

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藤枝市郷土博物館にも立ち寄り、駿河を駆けた武田軍団展を見学。
なかなかの充実した展示内容でしたが、じっくり見学するにはあまりに時間が足りず…(;^ω^)

夕暮れも迫る中、旅のラストは田中城へ。

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田中城といえばコレ。
亀の甲のように丸く、渦を巻くように堀や曲輪が配された不思議な縄張でも有名です。
日没まで時間もありませんので、車に乗ったままサクッとめぐります。

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お城そのものは宅地開発によって消滅していますが、今もこうして円を描くように廻らされている路地に、往時の面影が色濃く残ります。

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場所によっては土塁が残っていたりも。

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三之堀と土塁

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こちらは・・・本丸西側、二之堀の名残だったかな?
なんとなく丸くカーブしている様子が分かります・・・か?

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本丸跡は地元の学校に。

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移築された二重櫓。
閉園時間15分前に駆け込みで見学。

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田中城ジオラマ
丸い縄張って、絶対に守りづらいと思うんだけどなぁ・・・敵に接近されたら死角だらけでしょ?

さて、すっかり日も暮れたところで、今回の旅も終了。
2016年もたくさんの旅に出ましたが、おそらく遠征はこれにて打ち止めです。
来年はどんな旅が待っていますかね?・・・今後とも、よろしくお願い致します。

※blogは、もう1本更新する予定です。

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丸子城を経由した“街道”の存在について

静岡旅2日目。
サイガさんと朝イチで駿府城を散策した後、ゆっきーとも合流して丸子城へ。

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丸子城は今年の1月に続いて2度目の訪問。
勿論、前回は見逃した本丸南の尾根を少し下った先の竪堀や・・・

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丸馬出&長大竪堀などの素晴らしい遺構も堪能しましたが、個人的な今回の訪問テーマは、丸子城を経由していたのではないかと思われる山中の旧街道探しにありました。

山中路次通りまりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。
(信長公記 巻十五「信長公、甲州より御帰陣の事」より)

これは天正10年(1582)、甲州征伐を終えた織田信長が、東海道を安土へ向けて凱旋した際の「信長公記」の記述です。これを読む限り、著者の太田牛一(即ち織田信長も)は、山中の道を通って丸子城に至ったように受け取れます。

1月に丸子城を訪れた際にも城山に道らしき痕跡を見つけ、サイガさんらと「街道っぽいよね…」と話していました。
そして後日、上記「信長公記」の記述を見つけ、これはいよいよ可能性がある!と思い、この機会に探索してみることにしたのです。

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北曲輪の堀切にあった案内表示。

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北曲輪の堀切を越えた先の尾根には道がついており、ここから北へ進んだ後、丸子の谷戸を迂回するように稜線沿いに東へ向かうと、今川義元の祖母・北川殿の菩提寺である徳願寺に繋がります。

東から西へ進んできた信長一行は、安倍川を越えて川沿いに少し北上し、そこから西へ舵を切って山中に取りついたのではないでしょうか。

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北曲輪の堀切に下りたら城内には入らず、城の右側面(西)へ進み・・・

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横堀の一段下を通ります。
※この写真は少し進んだ先から進行方向の反対を見ていますので、横堀は右上。

実際、街道を取り込んだ山城などでは堀切を道とし、城内から往来を監視する構造を持たせたものもあります。

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旧街道(と思われる位置)から見上げる、丸子城の横堀。

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この土塁に当たったら右へ下り・・・

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城域南西端にある長大竪堀を越えます。
道の痕跡から続く長大竪堀の堀底は、人が通って渡れるように土を盛って平らに均してありました。竪堀の傾斜が急に変わっているのがお分かりいただけますでしょうか。
土塁も切れています。

実は、道がこの長大竪堀を越えたのか否か、越えたとして如何に?が分からなかったのですが、ゆっきーが竪堀の土塁に接続している道の痕跡を、藪の中から発見してくれたお陰で堀底の渡し場も含め、全てが繋がりました。

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まぁ、北曲輪の堀切から長大竪堀までの間も、既述した横堀脇だろうと推定するまでは、その更に下の急斜面をさまよったりして、かなり大変でしたが…(^o^;)

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横堀脇から逸れ、竪堀に向かってくる道の跡。
写真だとアレですが、現地に立てばハッキリ「道」でしたよ(^-^;

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竪堀を越えた先。
この後は一旦、 城跡西側の谷戸に下ったのではないかと思われます。

この付近の山中には、駿府に繋がる間道がいくつか走っていたことは確かなようです。
それらと、主街道たる東海道との(近世以前に於ける)規模や用途の違いといったことについては把握できておりませんが、少なくとも天正10年の4月14日、織田信長の一行が通った道が丸子城を経由していた可能性は、「信長公記」の記述が示唆しているのではないかと考えています。

※以下2017年1月追記
但し、「信長公記」のまりこの川端にという表現からは、文字通り丸子川の畔から城を見ている印象も受け、若干の違和感も覚えます。
丸子川沿いを走る近世東海道は確かに麓を通りますが、安倍川を越えて丸子に近づくにつれ、前方や左右には山並みが迫ってくるようになります。今でこそ開発されて雰囲気も変わってしまっていますが、当時の景観を想像すると、この山並みが近づいてくる景色山中路次と表現したのかもしれない、とも思い直しています…これもちょっと無理がありますが。
或いは木枯森~牧ヶ谷を経由して昌院坂を南下してくる古道は、丸子城とは尾根違いなので直接は経由せず、丸子の集落(麓)へ下って旧東海道に合流するようなので、仮にの道(路次)を通ったとすると、こちらのルートだったかもしれません。

※2017年1月14日、実際に牧ヶ谷~歓昌院坂峠までのルートを歩いてみましたが、とても細くて険しい山道で、わざわざ家康が信長を案内するには、あまりに心許ないと感じました。
やはり現状では、素直に旧東海道を通ってきたと考えるのが妥当なのかもしれません。

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「花蔵の乱」陣場めぐり (栴岳承芳陣営)

12月17~18日は静岡への旅。
17日はさらさんの企画で、静岡の歴史や古城を研究されている方のご案内の元、花蔵の乱に於いて栴岳承芳(後の今川義元)方が、敵方(玄広惠探)の本拠・花倉城に対して築いた陣場(支塁)をめぐります。

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藤枝市岡部町の某所で集合~少し移動し、本日登らせていただく山の地権者のお宅へご挨拶。
年季の入ったとっても素敵なお宅で、最近襖から、豊臣秀頼や武田信玄の名前までもが散見される古文書が発見されたのだとか・・・!!(゜ロ゜ノ)ノ
実際に拝見させていただきましたが、本当にこういうことってあるんですねぇ・・・。
秀頼はともかく、信玄は史実的にもこの地方に関わりを持っていますからね・・・どのような内容なのか、今後の解明が待たれます。

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さて、地主の方に山の中腹まで運んでいただき、本日のスタート地点へ。
蜜柑畑の合間を抜けるこの農道は、府中街道の古道と考えられるそうです。
位置や抜ける方角を考えると、或いは古代~中世の東海道にも一部リンクしていた可能性も浮かび、興味を惹かれます。

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神入寺跡(下コース図1/以下数字のみ記載)
並べられた古い五輪塔や宝篋印塔は、地主の方が山の斜面に転がっていたものを拾い集めてきたものだそうです。中には南北朝期のものも・・・?!

この神入寺跡から山に取りつきます。

コース図
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この日の踏査コース。
東寄りの神入寺跡から尾根に取りつき、西へ向かって稜線上を進みます。

全体図
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花蔵の乱は天文5年、駿河今川氏の当主・氏輝と次弟の彦五郎が相次いで亡くなると、その跡目を巡って栴岳承芳玄広惠探の間で起きた家督争い。
駿河府中方面での戦いを経て、本拠である花倉城方ノ上城に拠る惠探側に対し、承芳側は朝比奈城朝日山城などの勢力を中心に、両城間の山岳地帯にも味方の連絡確保のため、そして敵方の花倉城⇔方ノ上城間の連携を断つように、幾つもの陣場を設けています。
今回はこれら承芳側の陣場跡を、時間と体力の許す限り丹念に観てまわります。

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神入寺跡から、かなりの急勾配をひたすらに登ります・・・。
道もかなり荒れて厳しい行程ですが、20分ほどで尾根に到達しました。

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尾根に出る直前、この道を登ってくると・・・

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左手に見張り場のような削平地があり・・・

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道はその先で、桝形のように折られて尾根に出ました。
この先が、桂島陣場2)と呼ばれる遺構のある場所となります。

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尾根に出た後、少しなだらかな坂を登ると、結構な広さを持つ平場がありました。

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平場の先には・・・西側からの進入を遮断するように、土塁が設けられていました。
土塁の先は堀になっています。

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反対側から。
横堀に土橋、平虎口、そして土塁。
この構成からして、明らかに花倉城のある西側を警戒しています。

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横堀・土塁越しに広い削平地を見る。

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虎口を抜けた先は再び登り勾配。
このように尾根のピークより一段下がった、しかも他の諸陣場跡よりも東寄りの立地、土塁などに守られた広い削平空間・・・これらの条件からこの桂島陣場は、この後に見てまわる陣場・支塁へ必要に応じて兵を送り込むための、承芳側の後方陣地、兵の集屯地ではないかと考えられています。
或いは指揮所とも・・・とすると、あの雪斎がここにいた可能性も出てくるのでしょうか。
※ちなみに、この付近には興津姓の家が多いそうです。興津といえば、雪斎の母方の姓。花蔵の乱を制した功で、その一族が入封したか?

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桂島陣場跡から西へ、先ほどの尾根を登っていくと、南の駿河湾方面に視界の開けた場所がありました。
正面の独立峰が潮山で、その脇に承芳側(岡部氏)の朝日山城
一番左奥の尾根先端付近には、惠探に与する方ノ上城。惠探の花倉城は、写真右手方向へ向かった先にあります。
そして手前から平野部に向かって伸びる数本の稜線上にも、承芳側は支塁を築いていました。

花蔵の乱は、承芳側が方ノ上城を落とすことで形勢が傾きます。
その攻略には、眼下に見える朝日山城の岡部氏が当たりましたが、承芳側の築いた山岳地帯の諸陣場・支塁もまた、府中街道を含む山中の通路を遮断し、方ノ上城や花倉城に対する圧力を強める一翼を担ったことでしょう。

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再び尾根を西へ進むと、今度は地形がポコッと稜線から飛び出した箇所がありました。
その先端部は削平されており、鬱蒼と繁る木々がなければ左右両方向に尾根を見晴らすことのできそうなポイントです。

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こうした尾根道も気になりますよねぇ・・・一見すると、右側が土塁みたいだし。

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3の陣場
見張り台程度の広さに削平され、皆が覗き込んでいる足元には・・・

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もう一段、テラス状の曲輪がありました。

引き続き西へ進むと・・・

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途中、古道が合流してくるポイントがあり、尾根への取り付き部分は枡形のように屈折させてありました。
こうした古道の存在が、この尾根上に陣場を築いた理由の一つだったであろうことは間違いないかと思います。

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天王山と呼ばれる山の山頂付近に達しました。
ここで尾根道は、谷合を包み込むように「コ」の字にカーブしていきます。その先端が・・・

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遠見番所4)と呼ばれる陣場になります。
分かりづらいですが、土塁が曲輪を取り巻いていました。

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曲輪の先端部分は虎口になっており、その手前に写真左から蔀状の土塁が伸びているのですが・・・写真だと“なんのこっちゃ”ですね…(;^ω^)

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天王山山頂
ここで昼休憩にしました。

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昼食はchizxxさんがご手配くださった東海道名物の一つ、「瀬戸の染飯」。

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「東海道中膝栗毛」や「信長公記」にも出てくる歴史ある名物を、史跡めぐりの山中で戴く・・・これがまた格別でした♪

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午後は一旦、葉梨神社(5)まで下山しました。
ここから東へ進路を変え、入野支塁・村良支塁を目指します。

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葉梨神社から望む花倉城跡(写真奥から2つ目の稜線のピーク付近)
栴岳承芳 vs 玄広恵探の両勢力が、山中で対峙していた距離感です。

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目指す入野支塁(7)は、あちらの稜線上にあります。

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途中、白藤の滝(6)を見るために少し寄り道。
こちらは観音滝で・・・

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白藤の滝
・・・陽射しが強く、コントラストがきつくて白飛びしちゃった…(;´∀`)

「駿河記」という文献に;
白藤ノ滝の上にコッチ番・向番と云うあり。今川氏の時、両所に番所を置きて西南の方を遠見せし地と云う
という記述があり、それが午前中に見てまわった陣場跡の発見に繋がったのだそうです。
西南の方花倉城を指していることは言うに及ばず、向番は西南の方角に視界の効く遠見番所4)でいいと思います。
コッチ番は・・・見解が分かれるとは思いますが、やはり西南の方角を意識した時、立地からして私は3の陣場ではないかと考えています。
※桂島陣場(2)では距離が離れている上に遠見番所と標高差もあり、花倉城への視界も開けていないように思えます。

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入野支塁の尾根上から、村良支塁(8)の稜線を見る。

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入野支塁の・・・堀切と土橋(・ω・)
分かりませんよね、はい。

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こっちから見たら、少しは堀切っぽく・・・見えないか。
でもご心配なく。

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奥(南)へ進めば、ハッキリとした堀切が現れますから。

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この堀切、どうやら府中街道の古道を遮断しているようです。
つまり、入野支塁自体が府中街道を押さえるための占地か。

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入野支塁が築かれた稜線。
その延長線上、写真左端に写っているのが朝日山城がある潮山。

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続けて村良支塁へ移動。
その途中、農道のコンクリートにはっきりと残された狸?らしき動物の足跡を発見。
舗装して乾く前に歩いちゃったんだね(笑)・・・何年前なんだろ?

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この日のスタート、神入寺跡から一気に登り詰めた山が見えていました。
あの急な斜面を登っていったのか・・・スタート前に分かっていたら挫折していたかも(笑)

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途中までは車道伝いに歩き、脇の山道へ逸れてしばらくすると、細尾根の両岸を削り落とした土橋が出てきました。
本日のラスト、村良支塁への入口です。

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先ほどの土橋を渡って少し歩いた先にも・・・おおっ?!

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これはまた、見事な土橋ではないですか・・・

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土橋の両サイドには、竪堀が綺麗に落とされていました。
その東側に・・・

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西側。

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エッジも効いて美しい・・・。

この土橋から更に南へ向かって進むと、やはり古道らしき痕跡が尾根に付けられている箇所がありました。もはや言うまでもありません。

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村良支塁から、樹間に僅かに覗く花倉城を見…たつもりが、少し角度がズレていましたね…(;・∀・)
花倉城は木の葉に隠れた右側になります。ま、距離感はお分かりいただけるかと・・・。

さて、花蔵の乱陣場めぐりは、これにて無事終了です。よく歩きました・・・(´-∀-`;)

今回ご案内いただいた陣場・支塁。
いずれも一つ一つは規模が小さく、とても単体での戦闘・防衛のための施設とは思えませんでした。そのことごとくが古道と接しているらしきことからも、あくまで見張り・連絡線の確保に主眼を置いた施設だったのではないでしょうか。
花蔵の乱は結果的に栴岳承芳が勝利を収めますが、実際に山中の遺構を見てまわった印象としては、玄広恵探を追い詰めているというよりも、むしろ恵探方の出方を窺う細心の注意と慎重さ、警戒感・緊張感のようなものが伝わってくる気がしました。

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スタート地点に戻ると、一日ご一緒いただいた地主の方が、ご自分の畑で蜜柑狩りをさせてくださいました。

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山歩きの後に頬張る、もぎたて蜜柑の美味しいこと♪

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特別便?で麓まで下山中~(笑)
ご案内くださった方は勿論、地権者の方にも大変お世話になりました。ありがとうございました。

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最後は藤枝駅前で打ち上げの乾杯☆
専門家のご案内で、とてもディープな場所まで踏み込んで踏査することができました。
お誘いいただいた幹事のさらさんにも感謝ですね。

この日は静岡駅前に泊り、翌日は丸子城などをめぐります。

■関連記事
花倉城についてはコチラを、
花倉城を逃れた後の、恵探の足取りについてはコチラをご参照ください。

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2016年12月20日 (火)

摺針峠に残る中山道の旧道

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ひとしきり佐和山城を堪能した後は、すぐ近くの摺針峠へ移動。
峠のピークに建つ神明宮から散策を開始し、鳥居本側へ旧中山道を下っていきます。

※摺針峠の街道を整備し、中山道の元となる東山道のメイン・ルートをこちらへ移したのは織田信長です。
この辺りのことはコチラの記事で詳しく触れていますので、合せてご参照ください。

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峠に建つ明治天皇磨針峠御小休所碑。
ここには江戸時代、望湖堂という茶屋が設けられて、参勤交代の大名や朝鮮通信使、皇女和宮降嫁の際にも立ち寄るなど、大変繁盛していたようです。
そのあまりの繁盛ぶりに、峠を挟む番場と鳥居本の両宿場から奉行所へ、望湖堂の本陣まがいの営業を慎ませるよう、訴えが出されたこともあるとか。
望湖堂は平成3年の火災で残念ながら焼失し、こちらの建物は後に望湖堂を模して再建されたものだそうです。

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中山道の碑

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まずは車道に沿って下っていきます。

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少しすると、車道から逸れる階段が出てきます。
これが中山道の旧道入口。

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摺針峠の中山道

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手すりや柱が邪魔ですが、峠の旧道特有の堀底道になっている様子は、よく見てとれるかと思います。

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一旦車道に分断されますが、ちゃんと車道の反対側へ繋がっています。

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車道を渡って再び旧道へ。

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織田信長が整備させた摺針峠の街道について、奈良東大寺金堂の僧侶の日記「東金堂万日記」には;
スリハリ峠ヨコ三間、深サ三尺ニホラル。人夫二万余、岩ニ火ヲタキカケ、上下作之。濃刕よりハ三里ホトチカクナルト也。
とあります。
横三間(約5.5m)×深さ三尺(90cm)・・・なんとなく雰囲気が伝わってきませんか?
この街道整備によって、美濃からの距離が三里(約12km)も短縮されました。

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旧道に沿うように、脇には細い水路も設けられていました。

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織田信長や皇女和宮も間違いなく通った道です。

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現在の車道と違い、旧道はほぼ一直線に峠を下っていきます。

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雰囲気を楽しみながら歩いていると、あっさりと麓に達しました。

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いつまでも歩いていたい気分になります。

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国道8号線脇の車道に合流するポイントに出ました。

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国道沿いに建つ摺針峠の碑。

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ところで、中山道の旧道は国道には合流せず、下ってきた峠道から真っすぐ先へ続きます。

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そのまま、この細い路地?を抜けると・・・

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なんと、中山道と北国街道の追分の石碑が建っていました。
こんな人目にもつかないような狭い路地が、2つの街道の追分だったとは・・・驚きました。

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さて、中山道はここで一旦途切れますので、我々も国道へ。
しかしすぐにまた、あちらのY字路左から再開されます。

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Y字路の中山道入口付近に建っていました。
後で調べたところ、米原市と彦根市の境は1kmほども北側・・・何故この場所に?

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中山道鳥居本宿

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佐和山城の城門(門扉)転用と伝わる、専宗寺太鼓門の天井を眺めつつ・・・

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中山道(左)と朝鮮人街道(彦根道/右)との追分へ。
※専宗寺以降、誰も付いてきていなくて、気が付いたら一人になっていました…(^_^;)

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追分の道標

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追分から見る朝鮮人街道方向。
奥に見えるのが佐和山。朝鮮人街道は前記事でも書いた通り、そのまま佐和山城内(太鼓丸下)を通過して、彦根側へと続いていきます。

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鳥居本の南、小野の集落。
小野小町の生誕地とも伝わり、集落内には小野小町塚があります。

さて、山城踏査会 & 忘年会からの1泊2日の旅も、これにて無事終了。
今回も、織田信長の歴史に関わり深い地をたくさんめぐることができ、念願だった佐和山城や朝鮮人街道の切通、摺針峠の旧道も歩けて大変充実した旅になりました。参加させていただき、本当にありがとうございました。
最後は私の希望に付き合わせちゃって、スミマセンでした…(^_^;)

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2016年12月18日 (日)

佐和山城

楽しく更けた前夜の余韻をどっぷりと残しつつ、ど~んよりと目覚めた2日めの朝・・・。
どうにか身支度を整え、9時前にホテルを出発しました。

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集合場所は佐和山城下、龍潭寺。
実は私、毎年コンスタントに滋賀県を訪れているにも関わらず、佐和山城に登るのはこれが初めて。どうした訳か後回しになっていたんですよね…その分、とても楽しみです。

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佐和山城絵図

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佐和山城縄張図

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佐和山城といえば、やはりこの方…という訳で、登城前にご挨拶。
※なのに私にかかると佐和山城も、カテゴリー分類は「織田信長」(笑)…その理由は後半で。

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今回は龍潭寺の墓地を抜け、かもう坂通り往還(龍潭寺越え)で塩硝櫓跡~西の丸を経由し、本丸を目指すルート。
写真の切通が龍潭寺越えの峠。ここから右手へ進んでいきます。

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峠の脇には竪堀も落とされていました。

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塩硝櫓跡

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塩硝櫓跡には、古そうな瓦の破片がたくさん転がっていました。

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そして早くも、本丸を見晴らすこともできました。

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西の丸の切岸。

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西の丸下には横堀らしき痕跡も。

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本丸の枡形虎口

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いい枡形♪

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佐和山城本丸

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佐和山城址

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彦根八景「武士の夢 佐和山」

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本丸からは、前日に訪れた菖蒲嶽城(写真中央)が見えました。

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同じく前日に訪れた、佐和山城包囲のための砦北の山=物生山城は何故か、手前の尾根に邪魔されて見通せず・・・。
物生山城側からは佐和山が見えていたのにねぇ…?

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南西方向に目をやると、和田山から観音寺城までもが一望のもと。
永禄11年(1568)、足利義昭を奉じての上洛を控えた織田信長は佐和山まで出向き、7日間も滞在して観音寺城の六角氏との交渉に臨んでいます。
この光景がまさに、その7日間に及ぶ上洛前夜の歴史を語る眺め、とも言えそうですね。

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よ~く目を凝らすと、近江富士・三上山の姿もハッキリと。

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なかなかにサディスティックな急斜面を下る参加者たち…(^_^;)
赤や黒い服の方が覗き込む先には・・・

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石垣跡と思われる石列があったのですが、写真は見事に失敗…(´-ω-`)
↑つまり私も斜面を下りたww

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これが有名な佐和山城の隅石垣ですね。

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本丸から南側へ下った先にある千貫井。

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千貫井横の、本丸切岸にも石垣が見えていました。

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千貫井前から、南の方角を見る。
頂部が平坦(ゴルフ場)になっている山が里根山
物生山城の記事でもご紹介しましたが、姉川合戦後に織田信長が築かせた佐和山城包囲線。その南の山と「信長公記」に記された砦(水野信元)が築かれていたと考えられる山です。

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法華丸(右)と太鼓丸(左)への分岐点。

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その分岐点に築かれた竪堀。
ここの竪堀は、尾根の左右で喰い違いになっていました。

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法華丸への入り口付近には石垣らしき跡も見えましたが、この先は私有地のため立入禁止。
仕方ないので太鼓丸へと進みます。

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太鼓丸へと続く尾根道。右側には土塁が盛られていました。

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太鼓丸

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太鼓丸の先、北東方向に切岸を下るともう一つ曲輪跡があり、その更に先には・・・

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国道8号線に切り落とされた斜面の護岸がありました。高所恐怖症にはお薦めしません・・・。

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太鼓丸下の曲輪には、なかなか立派な枡形虎口が2つありました。
上写真は北東端の枡形で・・・

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こちらは南東側の枡形。
図面によっては竪堀と表現されているものもあるようですが、曲輪を取り巻く城道に繋がりますし、形状からしても虎口でしょう。

さて、ここまででも充分に佐和山城を堪能しましたが、実は私が一番観たかった遺構は、まだこの先にあるのです・・・

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太鼓丸南側の斜面を下ると、その先に足元の岩盤が恐ろしく落ち込んだ箇所があります。
写真だと暗くて分かりませんが、ほぼ直角で足がすくむほどの高さです。

この場所から脇の急斜面をなんとか下りていくと・・・

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ズッドーン!!と現れた切通!
(写真提供:サイガさん)

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反対側から
(写真提供:サイガさん)

実はこの切通、信長が佐和山城攻略後、岐阜⇔安土・京往来のルートとして整備した下街道(後の朝鮮人街道/彦根道)の痕跡なのです。
※下街道(朝鮮人街道)については、コチラの記事参照。

鳥居本で上街道(東山道/後の中山道)と分岐したこの下街道は、往還の重要拠点である佐和山城内に引き込まれ、彦根側へと抜けていました。

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西の方から見ていくと、彦根側から伸びてきた下街道が・・・

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件の切通を抜けて・・・
(写真提供:流星☆さん)

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その先で少しカーブし・・・

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鳥居本側へと下っていきます。

佐和山に御茶屋立て、惟住五郎左衛門一献進上。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

信長から佐和山城を預けられていた丹羽(惟住)長秀は天正10年(1582)、佐和山に御茶屋を建て、甲州征伐を終えて安土へ帰還する信長をもてなしています。
その御茶屋は、果たしてどこに建てられていたのか・・・個人的な推測に過ぎませんが、私は太鼓丸か、或いは先ほどご紹介した枡形虎口を2つ備える曲輪が気になります。
切通道からの高低差、枡形にも連なる曲輪を取り巻く城道などを考えると・・・後者か?

織田信長が整備し、佐和山城内へ引き入れられた下街道。
膨らみ続けた期待をも遥かに超越する巨大な遺構に、心底圧倒されました。観に来れて本当に良かった。

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一旦本丸まで引き返し、彦根城や琵琶湖の美しい風景を眺めながら昼休憩・・・♪

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下山後は、佐和山城の大手口へ。

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大手口に残る土塁。

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同じく大手口の土塁と堀跡。

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少し城山側へ近づくと、1mほどの段差の残る部分があります。

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大手口の土塁や堀が築かれる前は、この段差部分が防衛の最前線に想定されていたのではないかと考えられているそうです。

佐和山城、素晴らしい訪問になりました。
旅も大詰め、ラストは摺針峠へ向かいます。

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2016年12月16日 (金)

物生山城

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菖蒲嶽城から下山した後は、佐和山城下の龍潭寺前でお弁当タイム。

腹拵えも済んだところで、午後の部のスタート。
龍潭寺北方の大洞弁財天裏手から、佐和山城の北へと伸びる尾根に取りつきます。

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ちなみに大洞弁財天の山門からは、正面に彦根城天守が見えていました。

直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ東百々屋敷御取出仰せつけられ、丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通路をとめ、
(信長公記 巻三「あね川合戦の事」より)

元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した織田信長は7月1日、佐和山城へ軍勢を寄せて、東の百々屋敷(※1)に砦を築かせて丹羽長秀を置き、南の山(※2)に水野信元、西の彦根山(※3)には河尻秀隆を配置し、北の山にも砦を築かせて市橋九郎右衛門に守らせて、東西南北四方から佐和山城を包囲させています。

※1 百々屋敷とされている場所は佐和山城の東1㎞、国道8号線沿いのトラックターミナル付近。但し、ここでいう御取出は、その南東500mほどの丸山城と比定されている。現に丸山城の麓には「ニワドノマエ」という字名も残っているとか。
※2 里根山。現在はほぼ全域がゴルフ場。

※3 実際に砦が築かれたのは、彦根山のすぐ東にあった尾末山とされている。彦根城築城の際、周辺の湿地帯埋め立てのために切り崩されて消滅。現在の尾末町。

物生山城は、佐和山の北へ伸びる尾根の先端部に残る城跡で、その位置からしても市橋九郎右衛門が置かれた北の山砦と考えられている遺構です。
大洞弁財天の裏から尾根に登ったら、あとはひたすら北へ向かって進みます。

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尾根上から遠くに見えているのは磯山。
磯山にも古い城跡があり、以前は磯山を北の山砦に比定する意見もあったそうです。
しかし、磯山から手前に向かって広がる平地は、当時は松原内湖だった場所。佐和山城との間を内湖で隔てられていては、包囲陣城として機能するのか甚だ疑問。そんな訳で、現在ではほぼ否定されているようです。
※磯山は井伊家が入封した際、最初の築城候補地でもあったそうです。もしそのまま築城されていれば、彦根藩ではなく磯山藩、或いは米原藩になっていた訳で・・・歴史って不思議ですね。

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尾根の途中には小さな片堀切(西側)や・・・

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更に先にも、割と大きな堀切がありました。

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踏み段の横には土橋らしき痕跡も。

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当然、堀切の先は竪堀になっています。

この堀切、果たして織田方が築いたものなのか、それとも佐和山に籠る浅井方か・・・意見の分かれるところですが、佐和山城からは少し距離が離れ過ぎている点からして、織田方ではないかと。
何より興味深いのは、松原内湖遺跡で見つかった堀切とこの堀切が、ちょうど線で繋がる位置になるのだそうです。
中井先生によると、「信長公記」に鹿垣結はせられとある、佐和山包囲のための鹿垣に連なる堀切ではないか、とのことでした。
そう考えると何の変哲もない(?)堀切も、何だか特別なものに思えてくるから不思議(笑)

さて、尾根を北進してピークに達し、そこから右に折れて少し進むといよいよ物生山城に到着です。

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堀切を1本越えて2本めに達すると、本格的に城域へ入ります。
写真はその2本めの堀切に架かる土橋。

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反対側から。
写真奥、2本の堀切に挟まれた空間は、馬出の機能を持たせた曲輪のようにもなっていました。

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2本めの堀切の先、方形状の曲輪(仮にⅡ曲輪とする)の南面下を取り巻く横堀。
包囲する佐和山城方向に面して築かれていました。

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Ⅱ曲輪と主郭部との間を隔てる横堀(主郭部側より)

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主郭部最高所、おそらくは本丸と思われる曲輪から見る佐和山城
この距離感で両者は、半年以上に及ぶ籠城(包囲)戦に臨んでいました。
※佐和山城は包囲開始の翌元亀2年(1571)2月に開城。

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本丸から北の方角へ、切岸を2段ほど下った先にあった土橋。

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この土橋、物生山城北側からのルートにあたる(搦手口か)ようで、土橋の脇に竪堀、そして先には城道が続き、左へ折れる切岸上段への虎口とセットになっていました。

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最後は、主郭部の南東方向に伸びる尾根へ。
ここでも佐和山城の方向に面して、立派な土塁が築かれていました。
細尾根の連絡路と身隠しのための土塁、といったところでしょうか。

織田信長の命によって築かれた佐和山城包囲戦線
諸説あるでしょうが、北の山は立地・遺構の構造・その方角からしても、この物生山城で間違いないように思えます。

下山したところで、時刻は午後3時半。
しかし冬の日没は早いので、この日の城攻めはこれにて終了です。

一旦ホテルへチェックインした後、午後6時からは彦根駅前で忘年会☆とても楽しく盛り上がりました♪
但し、当ブログでは忘年会の様子は省略しますので、他の参加者のものでお楽しみください。何故?・・・だって、記憶にないものは書けないでしょ?(;^ω^)

翌日は佐和山城を攻めます。

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2016年12月15日 (木)

菖蒲嶽城

12月10日は毎年恒例、城友忘年会を兼ねた山城踏査会
私も彼是、2013年から4年連続での参加となりました。毎年お声掛けくださる幹事や、参加者たちとの縁には本当に感謝ですね。

今年(2016年)のスタートは菖蒲嶽城から。
朝10時に彦根駅で集合~車3台に分乗して移動します。

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旧中山道が番場宿より摺針峠へと差し掛かる手前、城山の南麓からアタック開始です。
今年の参加者は中井先生や西股先生(1年間に渡る真田丸の軍事考証、お疲れさまでした)、城郭ライターの萩原さちこさんを含む、城仲間総勢17~8名!

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まずは登山道を北へ、ただひたすらに直登します。これが結構キツい…(^-^;
写真の時点で既に10分ほど登っていますが、目指す尾根はあの鉄塔の辺り・・・。

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ようやく辿り着いた尾根上から、伊吹山の眺め。
トータルで20分以上は直登しましたでしょうか・・・。

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背後を振り返ると、スタート地点の真横を通っていた名神高速が遥か下方に見えています。
到達した尾根はここから東と北へ分岐しており、菖蒲嶽城はその両方向に城跡遺構が存在しています。

ひとしきり景色を堪能(という名の休憩)したら、まずは東の尾根に残る遺構を目指します。

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いくつか階段状の小曲輪を越えると、若干薄いものの2本連続で切られた堀切が出てきます。

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上から見た2連続堀切。

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堀切(2本め)の先は土塁(左)と切岸に挟まれた通路のような空間になっており、写真奥には右に折れて切岸上の曲輪へ入る虎口もあります。

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足元には石がゴロゴロと・・・或いはこの切岸、石垣張りだったのかもしれません。

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虎口を抜けた先の曲輪。

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曲輪北側の斜面には連続する竪堀もありましたが…崩れやすい地質らしく、殆ど埋まってしまっている印象でした。

一旦引き返し、今度は北側の尾根に残る遺構へ向かいます。

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北側の尾根には、堀切が2本切られていました。
写真は、1本めの堀切に架かる土橋を渡る参加者の図。

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その土橋を渡った先から。

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そして2本め。
この堀切の先が、北城の曲輪になります。

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2本めの堀切の土橋は、エッジも効いていて綺麗でしたね。

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北城曲輪、その北西側の切岸。
この先にも尾根が伸びています。

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その尾根を少し進むと、堀切や土橋らしき痕跡も見受けられました。
お城の遺構か否か、意見は分かれるところですが。

北側の城跡は東のそれに比べ、全体的に作り込みが浅い印象でした。
これには、それぞれの城が現在に残る形に造成された「時期的な差」というものが考えられるのだそうです。

菖蒲嶽城は、文献などから天文年間(1532~1555)には既に存在していたと考えられています。その立地は、城山の東から南にかけて抜ける中山道を押さえる、近江⇔美濃間の境目。
そうした条件下で、その東側の城のみを改修したとすると、それはいつどの勢力によるものなのか・・・。
個人的には元亀年間(1570~1573)の初頭、東の美濃(岐阜)を本拠とする織田信長と敵対することになった、北近江の浅井家によるものかもしれない、と考えました。

麓の中山道を西へ進んで摺針峠を越えると、目の前には佐和山城が出てきます。
元亀争乱時に於いてはまだ、摺針峠は主要な街道ではなく、中山道の礎となる東山道はもっと北を通り、米原市街の方へ抜けていました(信長が摺針峠を拡張・整備して街道筋を改変したのは、後の天正年間→参考記事)が、織田と浅井がまだ敵対する以前の永禄11年(1568)には、足利義昭を奉じての上洛に先立ち、信長は南近江の六角氏との交渉のため、佐和山城まで出向いています。この時、彼が通ったのは摺針峠でした(浅井三代記)。
このことからしても、摺針峠越えが信長による改修以前から、既に重要な交通路の一つであったことは想像に難くありません。

東方からの街道筋を押さえる浅井家の重要拠点、佐和山城。
その支城として手を加えられたのが、菖蒲嶽の城だった・・・なんとなく辻褄も合う気がしませんか?(笑)
東城にしろ北城にしろ、互いにそれほど離れてはいないので方角にこだわる必要はないのかもしれませんが、いずれにしても天文年間からの城を後に改修したと仮定すると、その後の歴史を考えた時、浅井家以外にその必要性を見出せないのもまた、事実かとも思います。

まぁ、金ヶ崎での浅井長政離反~佐和山城包囲までの期間、僅か2~3ヶ月・・・ちょっと強引かもしれませんが、そんなことを考えながらの城攻めも、また一興かと…(^_^;)

元来たルートを引き返し、下山後は昼休憩を挟んで物生山城へ向かいます。

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2016年12月 5日 (月)

横須賀軍港めぐり

約3年ぶりに、横須賀の軍港めぐりへ出かけてきました。

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横須賀港に到着すると、海上自衛隊史上最大規模の護衛艦いずも(DDH-183)がお出迎え。

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予約した軍港クルーズは午後2時の便。
それまでの時間は、戦艦三笠の見学に費やしました。
言わずと知れた、日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊の旗艦です。

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NHKドラマ「坂の上の雲」を思い出しますね~

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遠くに見えているのは猿島。
三笠公園の隣から渡船も出ています。

猿島はまさに、東京(江戸)湾防衛のためには、ここに砲台を築かない訳がない!といわんばかりの位置に浮かぶ島(笑)
今回は時間の都合で渡るのを諦めますが、近いうちに必ず砲台跡をめぐりに行きたいですね。

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日本海海戦に於いて、司令長官・東郷平八郎以下、幹部連中が集まって指揮を執ったブリッジ。

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各人の立ち位置も示されています。

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このワンシーンですね。

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青空にZ旗も翻っています。
皇國ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ

三笠公園をあとにし、慌ただしく昼食を掻き込んだら、いよいよ軍港めぐりクルーズの出航です。
※今回乗船した船の案内人は、偶然にも3年前の時と同じ、とても綺麗な女性の方でした♪
…うん、なんかツイてるぞ(^o^) 幸先良し!(笑)

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出航してすぐ、右手にはアメリカ海軍基地のドライドック。
横須賀造船所(小栗上野介の提言で建設)時代の明治初期に完成し、今も現役として使用されています。

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海上自衛隊の潜水艦に、アメリカ海軍のイージス艦。

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逆光で苦しい写真ですが・・・冒頭でご紹介した護衛艦いずも
ヘリコプターを14機搭載する容量を誇るそうです。

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ズラーッと並ぶ米軍のイージス艦たちの向こうに見えてきた、あれはもしや・・・!?

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原子力空母ロナルド・レーガンではないですか!!
東日本大震災の折には、「トモダチ作戦」でも活躍しています。

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全長333m、排水量10万t・・・単純に排水量を比較すると、海上自衛隊最大のいずもの4~5倍にもなるそうです。
3年前には観ることが叶わなかったので、巨大空母の姿を見つけた時は興奮しました。

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艦番号も消された状態で佇むこちらの2隻は、役目を終えた木造の掃海艇
今や木造船建造の技術者が4名となり、その最年少の方でさえも80歳代になられたとのことで、新しく建造される掃海艇は強化プラスティック製に切り替えられたとのことです。
掃海艇の主な任務は機雷の除去。今も日本の近海には多くの機雷が残っており、海上自衛隊による地道な除去作業が続けられています。
木や強化プラスティックで造られるのは、機雷を起爆させかねない磁気を発しないためです。

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補給艦ときわ(左/AOE-423)
横須賀の逆光は、本当に写真泣かせ…(´-∀-`;)

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あちらの白い船は、特務(迎賓)艇はしだて(ASY-91)
国家元首クラスの要人を迎えた際に使われる、迎賓用の船なのだとか。
艦番号が2桁なのは、全海上自衛隊保有艦船の中ではしだてが唯一で、これまたなかなかお目に掛かることのできない貴重な船とのこと…ラッキーでしたね。

個人的には2度目の体験となった、横須賀軍港めぐり。
望んでいた空母も観れたし、楽しい一日となりました。

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2016年12月 2日 (金)

戦国時代展 (江戸東京博物館)

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2016年11月23日~2017年1月29日まで、江戸東京博物館で開催されている特別展戦国時代展に行ってきました。

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入場して最初に出迎えてくれたのは、太田道灌の書状。
※何故かこのコーナーのみ撮影可

私が訪れた前期(~12/25)は、西国大名に関する展示が中心の構成だったようで、大内や毛利、尼子といった中国地方の武将に関する史料も多く見受けられました。(でも何故か、九州関連は特に見受けられず)
※後期展示(1/2~)は、東国武将中心になるようです。

例によって、個人的に特に魅かれたものを・・・

泥足毘沙門天立像
上杉謙信が崇敬し、米沢藩に伝来した仏像。
個人的には4年前(2012)、米沢の法音寺を訪れ、1対1のサシで対面させていただいて以来の再会。
何故か足を止める人も少なく、間近でじっくりと拝観させていただきました。

義元左文字
織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、その手中に収めた義元の差料。
これまた個人的には1月の京都国立博物館で拝観して以来、11ヶ月ぶりの再会。
しかし茎の金象嵌銘は「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」の側が向けられていて、またしても「織田尾張守信長」は拝めず。

織田信長像(大雲院蔵)

朝倉英林入道家誡
越前朝倉家七代、孝景が遺した有名な「朝倉孝景条々」を、江戸期に編纂したものかな?

・(今川)仮名目録(写)
駿河今川家のいわゆる法度、分国法。
元亀・天正年間の写しとのことなので、義元が制定した「追加二十一条」も含まれるかと。

上杉家文書
貴重な文書類がとにかく豊富・・・展示数も図抜けていたように思います。

毛氈鞍覆
上杉謙信が足利幕府より使用を許可されたと伝わります。

川中島合戦図屏風(米沢本)
川の中で逃げる武田信玄を追う上杉謙信の姿が描かれています。

姉川合戦図屏風
徳川vs朝倉が中心の構図で、私は織田と浅井の軍勢が激突した場所の地形がどのように描かれているかが観たかったのですが、残念ながらそれは叶いませんでした。

小田原城仕寄陣取図
小田原城の惣構も探索したので、とても興味を惹かれました。

・etc...etc...etc......

なかなかこれだけの史料が一堂に会するという機会もないでしょうし、戦国時代に関心のある方には、一度は足を運んでみる価値のあるものと思います。
図録は値段(2,500円)よりも、そのサイズ・分厚さで手が出ませんでしたが・・・(;^ω^)

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代わりに素敵なクリアファイルなどをGET!

後期の展示替え後にもう一度、足を運んでみたいと思います。

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2016年12月 1日 (木)

富士見多聞櫓の内部公開(江戸城)

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平川門をくぐり、久しぶりに江戸城内へ。

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今回の目的は富士見多聞櫓。
2016年11月15日より、初めて内部を一般公開しています。

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富士見多聞櫓
・・・早速お邪魔します。

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富士見多聞櫓内部

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本来は、襖で細かく仕切られていたようです。

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富士見多聞櫓から、蓮池濠越しの眺め。
残念ながら平成の世の現在では、富士の姿を拝むことは叶いません。

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ちなみに、蓮池濠側から見た富士見多聞櫓はこんな感じ。
(乾通り一般公開時に撮影)

富士見多聞櫓は関東大震災によって外壁等に被害を受け、昭和43年に皇居東御苑を公開するのに先立ち、解体修理されているようです。
その際、継続使用に耐えない木材は新しいものに交換し、その交換木材には修理年を焼き印してあるそうなのですが・・・後で写真を見返しても、それらしい印は見当たりませんでした。
表面に出ない部分に捺してあるのかな?

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ちょっと逆光で苦しい写真になってしまいましたが・・・こちらは富士見(三重)櫓
富士見櫓も内部こそ公開されてはいませんが、今までよりはだいぶ近寄れるようになっています。

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まぁそれでも、表側からの姿には敵いませんけど。
(皇居参観時に撮影)

2016113008
また今度、久しぶりにゆっくりと散策してみたくなりました♪

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