佐和山城
楽しく更けた前夜の余韻をどっぷりと残しつつ、ど~んよりと目覚めた2日めの朝・・・。
どうにか身支度を整え、9時前にホテルを出発しました。

集合場所は佐和山城下、龍潭寺。
実は私、毎年コンスタントに滋賀県を訪れているにも関わらず、佐和山城に登るのはこれが初めて。どうした訳か後回しになっていたんですよね…その分、とても楽しみです。

佐和山城絵図

佐和山城縄張図

佐和山城といえば、やはりこの方…という訳で、登城前にご挨拶。
※なのに私にかかると佐和山城も、カテゴリー分類は「織田信長」(笑)…その理由は後半で。

今回は龍潭寺の墓地を抜け、かもう坂通り往還(龍潭寺越え)で塩硝櫓跡~西の丸を経由し、本丸を目指すルート。
写真の切通が龍潭寺越えの峠。ここから右手へ進んでいきます。

峠の脇には竪堀も落とされていました。

塩硝櫓跡

塩硝櫓跡には、古そうな瓦の破片がたくさん転がっていました。

そして早くも、本丸を見晴らすこともできました。

西の丸の切岸。

西の丸下には横堀らしき痕跡も。

本丸の枡形虎口

いい枡形♪

佐和山城本丸

佐和山城址碑

彦根八景「武士の夢 佐和山」

本丸からは、前日に訪れた菖蒲嶽城(写真中央)が見えました。

同じく前日に訪れた、佐和山城包囲のための砦北の山=物生山城は何故か、手前の尾根に邪魔されて見通せず・・・。
物生山城側からは佐和山が見えていたのにねぇ…?

南西方向に目をやると、和田山から観音寺城までもが一望のもと。
永禄11年(1568)、足利義昭を奉じての上洛を控えた織田信長は佐和山まで出向き、7日間も滞在して観音寺城の六角氏との交渉に臨んでいます。
この光景がまさに、その7日間に及ぶ上洛前夜の歴史を語る眺め、とも言えそうですね。

どうにか身支度を整え、9時前にホテルを出発しました。

集合場所は佐和山城下、龍潭寺。
実は私、毎年コンスタントに滋賀県を訪れているにも関わらず、佐和山城に登るのはこれが初めて。どうした訳か後回しになっていたんですよね…その分、とても楽しみです。

佐和山城絵図

佐和山城縄張図

佐和山城といえば、やはりこの方…という訳で、登城前にご挨拶。
※なのに私にかかると佐和山城も、カテゴリー分類は「織田信長」(笑)…その理由は後半で。

今回は龍潭寺の墓地を抜け、かもう坂通り往還(龍潭寺越え)で塩硝櫓跡~西の丸を経由し、本丸を目指すルート。
写真の切通が龍潭寺越えの峠。ここから右手へ進んでいきます。

峠の脇には竪堀も落とされていました。

塩硝櫓跡

塩硝櫓跡には、古そうな瓦の破片がたくさん転がっていました。

そして早くも、本丸を見晴らすこともできました。

西の丸の切岸。

西の丸下には横堀らしき痕跡も。

本丸の枡形虎口

いい枡形♪

佐和山城本丸

佐和山城址碑

彦根八景「武士の夢 佐和山」

本丸からは、前日に訪れた菖蒲嶽城(写真中央)が見えました。

同じく前日に訪れた、佐和山城包囲のための砦北の山=物生山城は何故か、手前の尾根に邪魔されて見通せず・・・。
物生山城側からは佐和山が見えていたのにねぇ…?

南西方向に目をやると、和田山から観音寺城までもが一望のもと。
永禄11年(1568)、足利義昭を奉じての上洛を控えた織田信長は佐和山まで出向き、7日間も滞在して観音寺城の六角氏との交渉に臨んでいます。
この光景がまさに、その7日間に及ぶ上洛前夜の歴史を語る眺め、とも言えそうですね。

よ~く目を凝らすと、近江富士・三上山の姿もハッキリと。

なかなかにサディスティックな急斜面を下る参加者たち…(^_^;)
赤や黒い服の方が覗き込む先には・・・

石垣跡と思われる石列があったのですが、写真は見事に失敗…(´-ω-`)
↑つまり私も斜面を下りたww

これが有名な佐和山城の隅石垣ですね。

本丸から南側へ下った先にある千貫井。

千貫井横の、本丸切岸にも石垣が見えていました。

千貫井前から、南の方角を見る。
頂部が平坦(ゴルフ場)になっている山が里根山。
物生山城の記事でもご紹介しましたが、姉川合戦後に織田信長が築かせた佐和山城包囲線。その南の山と「信長公記」に記された砦(水野信元)が築かれていたと考えられる山です。

法華丸(右)と太鼓丸(左)への分岐点。

その分岐点に築かれた竪堀。
ここの竪堀は、尾根の左右で喰い違いになっていました。

法華丸への入り口付近には石垣らしき跡も見えましたが、この先は私有地のため立入禁止。
仕方ないので太鼓丸へと進みます。

太鼓丸へと続く尾根道。右側には土塁が盛られていました。

太鼓丸

太鼓丸の先、北東方向に切岸を下るともう一つ曲輪跡があり、その更に先には・・・

国道8号線に切り落とされた斜面の護岸がありました。高所恐怖症にはお薦めしません・・・。

太鼓丸下の曲輪には、なかなか立派な枡形虎口が2つありました。
上写真は北東端の枡形で・・・

こちらは南東側の枡形。
図面によっては竪堀と表現されているものもあるようですが、曲輪を取り巻く城道に繋がりますし、形状からしても虎口でしょう。
さて、ここまででも充分に佐和山城を堪能しましたが、実は私が一番観たかった遺構は、まだこの先にあるのです・・・

太鼓丸南側の斜面を下ると、その先に足元の岩盤が恐ろしく落ち込んだ箇所があります。
写真だと暗くて分かりませんが、ほぼ直角で足がすくむほどの高さです。
この場所から脇の急斜面をなんとか下りていくと・・・

ズッドーン!!と現れた切通!
(写真提供:サイガさん)

反対側から
(写真提供:サイガさん)
実はこの切通、信長が佐和山城攻略後、岐阜⇔安土・京往来のルートとして整備した下街道(後の朝鮮人街道/彦根道)の痕跡なのです。
※下街道(朝鮮人街道)については、コチラの記事参照。
鳥居本で上街道(東山道/後の中山道)と分岐したこの下街道は、往還の重要拠点である佐和山城内に引き込まれ、彦根側へと抜けていました。

西の方から見ていくと、彦根側から伸びてきた下街道が・・・

件の切通を抜けて・・・
(写真提供:流星☆さん)

その先で少しカーブし・・・

鳥居本側へと下っていきます。
佐和山に御茶屋立て、惟住五郎左衛門一献進上。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)
信長から佐和山城を預けられていた丹羽(惟住)長秀は天正10年(1582)、佐和山に御茶屋を建て、甲州征伐を終えて安土へ帰還する信長をもてなしています。
その御茶屋は、果たしてどこに建てられていたのか・・・個人的な推測に過ぎませんが、私は太鼓丸か、或いは先ほどご紹介した枡形虎口を2つ備える曲輪が気になります。
切通道からの高低差、枡形にも連なる曲輪を取り巻く城道などを考えると・・・後者か?
織田信長が整備し、佐和山城内へ引き入れられた下街道。
膨らみ続けた期待をも遥かに超越する巨大な遺構に、心底圧倒されました。観に来れて本当に良かった。

一旦本丸まで引き返し、彦根城や琵琶湖の美しい風景を眺めながら昼休憩・・・♪

下山後は、佐和山城の大手口へ。

大手口に残る土塁。

同じく大手口の土塁と堀跡。

少し城山側へ近づくと、1mほどの段差の残る部分があります。

大手口の土塁や堀が築かれる前は、この段差部分が防衛の最前線に想定されていたのではないかと考えられているそうです。
佐和山城、素晴らしい訪問になりました。
旅も大詰め、ラストは摺針峠へ向かいます。

なかなかにサディスティックな急斜面を下る参加者たち…(^_^;)
赤や黒い服の方が覗き込む先には・・・

石垣跡と思われる石列があったのですが、写真は見事に失敗…(´-ω-`)
↑つまり私も斜面を下りたww

これが有名な佐和山城の隅石垣ですね。

本丸から南側へ下った先にある千貫井。

千貫井横の、本丸切岸にも石垣が見えていました。

千貫井前から、南の方角を見る。
頂部が平坦(ゴルフ場)になっている山が里根山。
物生山城の記事でもご紹介しましたが、姉川合戦後に織田信長が築かせた佐和山城包囲線。その南の山と「信長公記」に記された砦(水野信元)が築かれていたと考えられる山です。

法華丸(右)と太鼓丸(左)への分岐点。

その分岐点に築かれた竪堀。
ここの竪堀は、尾根の左右で喰い違いになっていました。

法華丸への入り口付近には石垣らしき跡も見えましたが、この先は私有地のため立入禁止。
仕方ないので太鼓丸へと進みます。

太鼓丸へと続く尾根道。右側には土塁が盛られていました。

太鼓丸

太鼓丸の先、北東方向に切岸を下るともう一つ曲輪跡があり、その更に先には・・・

国道8号線に切り落とされた斜面の護岸がありました。高所恐怖症にはお薦めしません・・・。

太鼓丸下の曲輪には、なかなか立派な枡形虎口が2つありました。
上写真は北東端の枡形で・・・

こちらは南東側の枡形。
図面によっては竪堀と表現されているものもあるようですが、曲輪を取り巻く城道に繋がりますし、形状からしても虎口でしょう。
さて、ここまででも充分に佐和山城を堪能しましたが、実は私が一番観たかった遺構は、まだこの先にあるのです・・・

太鼓丸南側の斜面を下ると、その先に足元の岩盤が恐ろしく落ち込んだ箇所があります。
写真だと暗くて分かりませんが、ほぼ直角で足がすくむほどの高さです。
この場所から脇の急斜面をなんとか下りていくと・・・

ズッドーン!!と現れた切通!
(写真提供:サイガさん)

反対側から
(写真提供:サイガさん)
実はこの切通、信長が佐和山城攻略後、岐阜⇔安土・京往来のルートとして整備した下街道(後の朝鮮人街道/彦根道)の痕跡なのです。
※下街道(朝鮮人街道)については、コチラの記事参照。
鳥居本で上街道(東山道/後の中山道)と分岐したこの下街道は、往還の重要拠点である佐和山城内に引き込まれ、彦根側へと抜けていました。

西の方から見ていくと、彦根側から伸びてきた下街道が・・・

件の切通を抜けて・・・
(写真提供:流星☆さん)

その先で少しカーブし・・・

鳥居本側へと下っていきます。
佐和山に御茶屋立て、惟住五郎左衛門一献進上。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)
信長から佐和山城を預けられていた丹羽(惟住)長秀は天正10年(1582)、佐和山に御茶屋を建て、甲州征伐を終えて安土へ帰還する信長をもてなしています。
その御茶屋は、果たしてどこに建てられていたのか・・・個人的な推測に過ぎませんが、私は太鼓丸か、或いは先ほどご紹介した枡形虎口を2つ備える曲輪が気になります。
切通道からの高低差、枡形にも連なる曲輪を取り巻く城道などを考えると・・・後者か?
織田信長が整備し、佐和山城内へ引き入れられた下街道。
膨らみ続けた期待をも遥かに超越する巨大な遺構に、心底圧倒されました。観に来れて本当に良かった。

一旦本丸まで引き返し、彦根城や琵琶湖の美しい風景を眺めながら昼休憩・・・♪

下山後は、佐和山城の大手口へ。

大手口に残る土塁。

同じく大手口の土塁と堀跡。

少し城山側へ近づくと、1mほどの段差の残る部分があります。

大手口の土塁や堀が築かれる前は、この段差部分が防衛の最前線に想定されていたのではないかと考えられているそうです。
佐和山城、素晴らしい訪問になりました。
旅も大詰め、ラストは摺針峠へ向かいます。
| 固定リンク
「織田信長・信長公記」カテゴリの記事
- 別所は連々忠節の者(新発見の織田信長文書)(2022.12.07)
- 旧東海道、藤川宿~池鯉鮒宿(2022.11.15)
- 「こぬか薬師」を拝観(2022.10.13)
- 島津家久が信長を目撃した場所とは?(2022.10.12)
- 織田信長“幻の”京屋敷計画(吉田神社・宗忠神社)(2022.10.11)
コメント