丸子城を経由した“街道”の存在について
静岡旅2日目。
サイガさんと朝イチで駿府城を散策した後、ゆっきーとも合流して丸子城へ。
丸子城は今年の1月に続いて2度目の訪問。
勿論、前回は見逃した本丸南の尾根を少し下った先の竪堀や・・・
丸馬出&長大竪堀などの素晴らしい遺構も堪能しましたが、個人的な今回の訪問テーマは、丸子城を経由していたのではないかと思われる山中の旧街道探しにありました。
山中路次通りまりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。
(信長公記 巻十五「信長公、甲州より御帰陣の事」より)
これは天正10年(1582)、甲州征伐を終えた織田信長が、東海道を安土へ向けて凱旋した際の「信長公記」の記述です。これを読む限り、著者の太田牛一(即ち織田信長も)は、山中の道を通って丸子城に至ったように受け取れます。
1月に丸子城を訪れた際にも城山に道らしき痕跡を見つけ、サイガさんらと「街道っぽいよね…」と話していました。
そして後日、上記「信長公記」の記述を見つけ、これはいよいよ可能性がある!と思い、この機会に探索してみることにしたのです。
北曲輪の堀切を越えた先の尾根には道がついており、ここから北へ進んだ後、丸子の谷戸を迂回するように稜線沿いに東へ向かうと、今川義元の祖母・北川殿の菩提寺である徳願寺に繋がります。
東から西へ進んできた信長一行は、安倍川を越えて川沿いに少し北上し、そこから西へ舵を切って山中に取りついたのではないでしょうか。
北曲輪の堀切に下りたら城内には入らず、城の右側面(西)へ進み・・・
横堀の一段下を通ります。
※この写真は少し進んだ先から進行方向の反対を見ていますので、横堀は右上。
実際、街道を取り込んだ山城などでは堀切を道とし、城内から往来を監視する構造を持たせたものもあります。
城域南西端にある長大竪堀を越えます。
道の痕跡から続く長大竪堀の堀底は、人が通って渡れるように土を盛って平らに均してありました。竪堀の傾斜が急に変わっているのがお分かりいただけますでしょうか。
土塁も切れています。
実は、道がこの長大竪堀を越えたのか否か、越えたとして如何に?が分からなかったのですが、ゆっきーが竪堀の土塁に接続している道の痕跡を、藪の中から発見してくれたお陰で堀底の渡し場も含め、全てが繋がりました。
まぁ、北曲輪の堀切から長大竪堀までの間も、既述した横堀脇だろうと推定するまでは、その更に下の急斜面をさまよったりして、かなり大変でしたが…(^o^;)
横堀脇から逸れ、竪堀に向かってくる道の跡。
写真だとアレですが、現地に立てばハッキリ「道」でしたよ(^-^;
竪堀を越えた先。
この後は一旦、 城跡西側の谷戸に下ったのではないかと思われます。
この付近の山中には、駿府に繋がる間道がいくつか走っていたことは確かなようです。
それらと、主街道たる東海道との(近世以前に於ける)規模や用途の違いといったことについては把握できておりませんが、少なくとも天正10年の4月14日、織田信長の一行が通った道が丸子城を経由していた可能性は、「信長公記」の記述が示唆しているのではないかと考えています。
※以下2017年1月追記
但し、「信長公記」のまりこの川端にという表現からは、文字通り丸子川の畔から城を見ている印象も受け、若干の違和感も覚えます。
丸子川沿いを走る近世東海道は確かに麓を通りますが、安倍川を越えて丸子に近づくにつれ、前方や左右には山並みが迫ってくるようになります。今でこそ開発されて雰囲気も変わってしまっていますが、当時の景観を想像すると、この山並みが近づいてくる景色を山中の路次と表現したのかもしれない、とも思い直しています…これもちょっと無理がありますが。
或いは木枯森~牧ヶ谷を経由して歓昌院坂を南下してくる古道は、丸子城とは尾根違いなので直接は経由せず、丸子の集落(麓)へ下って旧東海道に合流するようなので、仮に山の中の道(路次)を通ったとすると、こちらのルートだったかもしれません。
※2017年1月14日、実際に牧ヶ谷~歓昌院坂峠までのルートを歩いてみましたが、とても細くて険しい山道で、わざわざ家康が信長を案内するには、あまりに心許ないと感じました。
やはり現状では、素直に旧東海道を通ってきたと考えるのが妥当なのかもしれません。
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