« 菖蒲嶽城 | トップページ | 佐和山城 »

2016年12月16日 (金)

物生山城

20161210b01
菖蒲嶽城から下山した後は、佐和山城下の龍潭寺前でお弁当タイム。

腹拵えも済んだところで、午後の部のスタート。
龍潭寺北方の大洞弁財天裏手から、佐和山城の北へと伸びる尾根に取りつきます。

20161210b02
ちなみに大洞弁財天の山門からは、正面に彦根城天守が見えていました。

直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ東百々屋敷御取出仰せつけられ、丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通路をとめ、
(信長公記 巻三「あね川合戦の事」より)

元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した織田信長は7月1日、佐和山城へ軍勢を寄せて、東の百々屋敷(※1)に砦を築かせて丹羽長秀を置き、南の山(※2)に水野信元、西の彦根山(※3)には河尻秀隆を配置し、北の山にも砦を築かせて市橋九郎右衛門に守らせて、東西南北四方から佐和山城を包囲させています。

※1 百々屋敷とされている場所は佐和山城の東1㎞、国道8号線沿いのトラックターミナル付近。但し、ここでいう御取出は、その南東500mほどの丸山城と比定されている。現に丸山城の麓には「ニワドノマエ」という字名も残っているとか。
※2 里根山。現在はほぼ全域がゴルフ場。

※3 実際に砦が築かれたのは、彦根山のすぐ東にあった尾末山とされている。彦根城築城の際、周辺の湿地帯埋め立てのために切り崩されて消滅。現在の尾末町。

物生山城は、佐和山の北へ伸びる尾根の先端部に残る城跡で、その位置からしても市橋九郎右衛門が置かれた北の山砦と考えられている遺構です。
大洞弁財天の裏から尾根に登ったら、あとはひたすら北へ向かって進みます。

20161210b03
尾根上から遠くに見えているのは磯山。
磯山にも古い城跡があり、以前は磯山を北の山砦に比定する意見もあったそうです。
しかし、磯山から手前に向かって広がる平地は、当時は松原内湖だった場所。佐和山城との間を内湖で隔てられていては、包囲陣城として機能するのか甚だ疑問。そんな訳で、現在ではほぼ否定されているようです。
※磯山は井伊家が入封した際、最初の築城候補地でもあったそうです。もしそのまま築城されていれば、彦根藩ではなく磯山藩、或いは米原藩になっていた訳で・・・歴史って不思議ですね。

20161210b04
尾根の途中には小さな片堀切(西側)や・・・

20161210b05
更に先にも、割と大きな堀切がありました。

20161210b06
踏み段の横には土橋らしき痕跡も。

20161210b07
当然、堀切の先は竪堀になっています。

この堀切、果たして織田方が築いたものなのか、それとも佐和山に籠る浅井方か・・・意見の分かれるところですが、佐和山城からは少し距離が離れ過ぎている点からして、織田方ではないかと。
何より興味深いのは、松原内湖遺跡で見つかった堀切とこの堀切が、ちょうど線で繋がる位置になるのだそうです。
中井先生によると、「信長公記」に鹿垣結はせられとある、佐和山包囲のための鹿垣に連なる堀切ではないか、とのことでした。
そう考えると何の変哲もない(?)堀切も、何だか特別なものに思えてくるから不思議(笑)

さて、尾根を北進してピークに達し、そこから右に折れて少し進むといよいよ物生山城に到着です。

20161210b08
堀切を1本越えて2本めに達すると、本格的に城域へ入ります。
写真はその2本めの堀切に架かる土橋。

20161210b09
反対側から。
写真奥、2本の堀切に挟まれた空間は、馬出の機能を持たせた曲輪のようにもなっていました。

20161210b10
2本めの堀切の先、方形状の曲輪(仮にⅡ曲輪とする)の南面下を取り巻く横堀。
包囲する佐和山城方向に面して築かれていました。

20161210b11
Ⅱ曲輪と主郭部との間を隔てる横堀(主郭部側より)

20161210b12
主郭部最高所、おそらくは本丸と思われる曲輪から見る佐和山城
この距離感で両者は、半年以上に及ぶ籠城(包囲)戦に臨んでいました。
※佐和山城は包囲開始の翌元亀2年(1571)2月に開城。

20161210b13
本丸から北の方角へ、切岸を2段ほど下った先にあった土橋。

20161210b14
この土橋、物生山城北側からのルートにあたる(搦手口か)ようで、土橋の脇に竪堀、そして先には城道が続き、左へ折れる切岸上段への虎口とセットになっていました。

20161210b15
最後は、主郭部の南東方向に伸びる尾根へ。
ここでも佐和山城の方向に面して、立派な土塁が築かれていました。
細尾根の連絡路と身隠しのための土塁、といったところでしょうか。

織田信長の命によって築かれた佐和山城包囲戦線
諸説あるでしょうが、北の山は立地・遺構の構造・その方角からしても、この物生山城で間違いないように思えます。

下山したところで、時刻は午後3時半。
しかし冬の日没は早いので、この日の城攻めはこれにて終了です。

一旦ホテルへチェックインした後、午後6時からは彦根駅前で忘年会☆とても楽しく盛り上がりました♪
但し、当ブログでは忘年会の様子は省略しますので、他の参加者のものでお楽しみください。何故?・・・だって、記憶にないものは書けないでしょ?(;^ω^)

翌日は佐和山城を攻めます。

|

« 菖蒲嶽城 | トップページ | 佐和山城 »

織田信長」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 菖蒲嶽城 | トップページ | 佐和山城 »