織田信長の凱旋旅
天正10年(1582)3月、甲斐武田家征伐を終えた織田信長は、翌4月には甲府を発って駿河へ向かい、東海道を西へ安土までの凱旋の途に就きます。
その道中は天下の名峰・富士山遊覧に始まり、各地の名所を尋ね歩きながらのゆったりとしたものであったことが、「信長公記」巻十五、「信長公甲州より御帰陣の事」に詳しく綴られています。
本記事ではその「信長公記」に則りながら、日付毎に信長の凱旋旅を追っていきたいと思います。
■天正10年(以下同)4月10日
・甲府を発って笛吹川を越え、この日は右左口(うば口)に宿陣。

道を広々と整備し、石を除いて水を撒き、道の左右には隙間なく警護の兵を配置しました。また、各所に休憩のための御茶屋や、二重三重に塀を廻らせた宿泊用の御殿(御陣屋/御屋形)を設け、御殿の四方には随行する諸卒のための小屋も千軒以上築くという念の入れようであったとか。

その道中は天下の名峰・富士山遊覧に始まり、各地の名所を尋ね歩きながらのゆったりとしたものであったことが、「信長公記」巻十五、「信長公甲州より御帰陣の事」に詳しく綴られています。
本記事ではその「信長公記」に則りながら、日付毎に信長の凱旋旅を追っていきたいと思います。
■天正10年(以下同)4月10日
・甲府を発って笛吹川を越え、この日は右左口(うば口)に宿陣。

中道往還の宿場、右左口。
信長一行の甲府から駿河までの道のりは、この中道往還を辿っていくことになります。
右左口宿もこの時、家康が道と共に整備したことで発展したと云われています。
武田家征伐の功により、駿河国は(一部を除いて)徳川家康に与えられます。
従って駿河以降、遠江~三河と領国内に信長を迎えることになった家康は、その歓待に心を砕きます。信長一行の甲府から駿河までの道のりは、この中道往還を辿っていくことになります。
右左口宿もこの時、家康が道と共に整備したことで発展したと云われています。
武田家征伐の功により、駿河国は(一部を除いて)徳川家康に与えられます。
道を広々と整備し、石を除いて水を撒き、道の左右には隙間なく警護の兵を配置しました。また、各所に休憩のための御茶屋や、二重三重に塀を廻らせた宿泊用の御殿(御陣屋/御屋形)を設け、御殿の四方には随行する諸卒のための小屋も千軒以上築くという念の入れようであったとか。

右左口宿にある東照神君御殿場跡。
信長らが右左口に泊まった日から僅かに3か月弱の後、家康は本能寺の変による信長の横死で混乱する甲斐を掌握するため、甲府へ向かいます。
その道中、右左口にも数日間滞在しているのですが、その際に家康滞在のための仮屋が置かれた場所とされています。
そうなると、その当の家康が築かせたと云う信長のための御陣屋も、或いは・・・?
■4月11日
信長らが右左口に泊まった日から僅かに3か月弱の後、家康は本能寺の変による信長の横死で混乱する甲斐を掌握するため、甲府へ向かいます。
その道中、右左口にも数日間滞在しているのですが、その際に家康滞在のための仮屋が置かれた場所とされています。
そうなると、その当の家康が築かせたと云う信長のための御陣屋も、或いは・・・?
■4月11日
・払暁に右左口を出発。

・峠に用意された御茶屋で休憩。

峠を越え、青木ヶ原樹海の中を抜ける中道往還。
・本栖に宿陣。

本栖湖
■4月12日
・未明に本栖を出発。
・富士山を御覧じ、人穴も見物。

信長が御覧じた場所とはちょっと違うけど・・・御殿場からの富士山。

人穴浅間神社(富士宮市)

信長が見物した人穴
人穴にも御茶屋が建てられていました。
そこへ富士山本宮浅間大社の神官らが、この先の道筋の清掃を手配しつつ挨拶に訪れます。
昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井手の丸山あり。西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、
人穴の近くには昔、源頼朝が富士の巻狩りを挙行した折に館を建てたと云う上井出の丸山があり、その西の山には白糸の滝があります。
信長は神官らに対し、この辺りのことを詳しく尋ねています。

上井出(かみ井手)交差点(富士宮市)
頼朝の富士の巻狩りといえば、日本三大仇討ちにも数えられる曽我兄弟の仇討ちが有名です。
それを証明するかのように、上井出交差点近くには・・・

曽我の隠れ岩や、

兄弟に討たれた工藤祐経のお墓があります。

また、白糸の滝のすぐ脇の崖上には、頼朝がこの水面に自らを映して鬢のほつれを直したとの言い伝えが残るお鬢水。
この辺りは天正の頃にも既に、頼朝の旧跡として認識されていたことが分かるエピソードで興味深いです。
※かりくらの屋形、かみ井手の丸山については、コチラの記事参照。

白糸の滝

太田牛一も「名所」と記すだけあって、幾筋もの滝が横にずらっと並ぶ姿は壮観で見応えがありました。

こちらは音止めの滝。
・この日は富士山本宮浅間大社(大宮)に宿陣。

富士山本宮浅間大社
この時、浅間大社は北条の手勢によって諸伽藍悉くを焼失していましたが、家康は一夜の御陣宿たりといへども手を抜くことなく、同地に金銀を鏤めた見事な御殿を用意していました。

また、浅間大社近くには、信長が腰を掛けて富士山を眺めたと云う富士見石もあります。
(富士宮市立中央図書館前)
■4月13日
・払暁に浅間大社を出発。
・浮島ヶ原から愛鷹山(足高山)を左に見て富士川を渡り、蒲原(神原)に用意された御茶屋で休憩。
ここで少し馬を使い、土地の者から吹上の松、六本松、和歌の宮、伊豆浦、妻良ヶ崎のことなどを聞き、興国寺・吉原・三枚橋・鐘突免・天神川・深沢の各城についても尋ねました。

旧東海道、蒲原宿に残る御殿道。
信長のために設けられた御茶屋は、後に徳川将軍の「蒲原御殿」として整備・拡張されたと云います。
・蒲原の浜辺から由井では磯辺の波に袖を濡らし、清見関、興津の白波、田子の浦、三保ヶ崎、三保の松原、羽衣の松・・・天下も治まって長閑な中、各地の名所をゆったりと見物して進みます。

由比と興津方面の間には、薩た山が海岸線までせり出しています。
薩た峠を越える旧東海道が整備されたのは江戸時代に入ってからのことで、それまでは主に薩た山の麓、馬1頭が通るのもやっとという狭隘な波打ち際(親知らず子知らずの道)を通っていたと云います。(1854年の大地震で海底が隆起し、現在はそこに国道1号線が通る)
神原の浜辺を由比て、磯部の浪に袖ぬれて
信長公記で表現されたこの一節が、信長一行も親知らず子知らずの磯部を通行したことを暗示しているように思えてなりません。

この時は波打ち際の道を通って峠は越えていないかもしれませんが・・・薩た峠からの富士山。

清見寺

清見寺に転用されている清見関の血天井

三保の松原

羽衣の松
・江尻の南の山を越えて久能城を訪ね、この日は江尻城泊。
※久能城は「訪ね 」たのではなく「尋ね 」ただけで、誤読しておりました。訂正いたします。
(2023年7月12日)

久能山東照宮

江尻城本丸跡
■4月14日
・夜の内に江尻を出発。
・駿府の町口に設けられた御茶屋で休息。
ここで今川氏の旧跡や千本桜のことを詳しく尋ね、安倍川を越えました。

安倍川
山中路次通りまりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。
この山城とは、丸子川の川端という立地からしても丸子城 を指していると思われますが、表現からしてこの時の通行路が山中を通って丸子城を経由するルートだったと推測できます。

丸子城の三日月堀と長大竪堀

山中を通り、丸子城を経由する旧道らしき痕跡。
名にしおふ宇津の山辺の坂口に、御屋形を立て、一献進上侯なり。字津の屋の坂をのぼりにこさせられ、
宇津ノ谷峠 には蔦の細道と呼ばれる古代~中世までの道とされるものと、天正18年に豊臣秀吉が小田原征伐のために開いたのが始まり(後に家康が整備)とされる旧東海道が通っています。
(明治以降に設けられた道を除く)

こちらは道の駅脇にある、蔦の細道の登り口(静岡口)
旧東海道が天正18年以降の道ということであれば、この時、信長一行が通ったのは蔦の細道ということにもなり・・・

家康が信長のために用意した御屋形があったと云う宇津の山辺の坂口とは、道の駅付近ということにもなりそうですが・・・。

蔦の細道の宇津ノ谷峠

蔦の細道(岡部口)

変わってこちらは旧東海道
蔦の細道とはうって変わって道幅も広く、旧街道の姿をしっかりと留めています。

旧東海道の宇津ノ谷峠

旧東海道の静岡側麓に佇む宇津ノ谷の集落
仮に信長一行が通ったのが旧東海道のルートだった場合は、宇津の山辺の坂口はこの宇津ノ谷の集落を指すことになりそうです。
果たして信長はどちらの道を通ったのか・・・
これに関してはコチラの記事で触れていますので、合わせてご参照ください。
藤枝の宿入り口に、誠に卒渡したる偽之橋とて、名所あり。

偽之橋が架けられていたという、藤枝市「本町」交差点。

この時はお店が開いていたので確認できませんでしたが、実は交差点近くのとある商店のシャッターには偽之橋の絵が描かれていたりします。
かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。

東海道が朝比奈川を渡る地点に架けられた横内橋。
この橋から、かい道より左を見ると・・・

花沢城の城山(左手前、尾根先端付近)や、遠くには虚空蔵山(奥の尾根先端部)を望むこともできます。
とう目とは当目で、虚空蔵山がある辺りの焼津市の地名です。その山頂には当目山香集寺があり、虚空蔵菩薩を祀っています。
正確な地点を知る術はもはやありませんが、織田信長も同様の光景を眺めていることは確かです。
・この日は田中城泊。

田中城本丸跡
ここでちょっと、「信長公記」の記述に違和感が・・・。
本記事はあくまで「信長公記」の記載順にご紹介しているのですが、偽之橋は東から西へ向かうと、田中城を少し通り越した場所に位置しています。
無論、街道の左手に花沢城跡や虚空蔵山が見えたであろう地点も、遥かに通り過ぎているはず・・・或いは翌日、田中城を出発してすぐ藤枝宿を通過する際に見たものと、記憶を混同させているのかもしれません。
■4月15日
・未明に田中城を出発。
・藤枝宿を越え、瀬戸川の川端に建てられた御茶屋で休息。
・瀬戸川を渡って島田を経由し、大井川を越える。
瀬戸川こさせられ、せ戸の染飯とて、皆道に人の知る所あり。

上青島村瀬戸町(現藤枝市上青島付近)に建つ、染飯茶屋址の碑。

今も売られている瀬戸の染飯。
真木のゝ城右に見て、諏訪の原を下り、きく川を御通りありて、
真木のゝ城とは牧野城、即ち諏訪原城のこと。

真木のゝ城右に見て、

諏訪の原を下り、

きく川を御通りありて、
間違いなく太田牛一は、これら旧東海道からの光景を描写しています。
430年以上前の描写が、現代の地理・地形とも一致して感動すら覚えます。
のぼれば、さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。是れより、につ坂こさせられ、懸川に御泊り。

のぼれば、

小夜の中山公園
さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。

日坂宿本陣跡
是れより、につ坂こさせられ、

懸川に御泊り。
※真木のゝ城~懸川までの詳しい行程は、コチラの記事を参照。
■4月16日
・払暁に掛川を出発。
みつけの国府の上、鎌田ケ原、みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り、

太田川を渡る三ヶ野(みかの)橋

旧東海道松並木と、奥に三ヶ野坂

三ヶ野坂上に建つ大日堂
旧東海道沿いで坂を登った台地の縁、高天神などがある東方への眺望も開けていますので、御屋形が立て置かれていたのもこの辺りではないかと思われます。(鎌田はここより少し南)
但し・・・

距離的に高天神城や馬伏塚(まむし塚)城、ましてや小山城が手に取るように見えたとは、とても思えないのですが・・・(^_^;)

馬伏塚城

高天神城

小山城
また、みつけの国府の上ともありますが、見付は三ヶ野から更に西へ行った先で、国府もそちらにあったものと考えられています・・・なぜ牛一は、三ヶ野の前にこのフレーズを挿し込んだのでしょうか…?
後年「信長公記」を編纂する際、国府や見付が三ヶ野坂の下にあったと記憶違いしたのでしょうかね。

見付の遠江国分寺跡
国府もこの付近にあったと推定されています。

それを示すように、周辺の地名は「国府台」
※見附宿から先、近世東海道は南へ迂回していますが、信長一行は天竜川の渡し場となる池田までを真っ直ぐ繋ぐ、姫街道のルートを採ったものと思われます。
池田の宿より天龍川へ着かせられ、爰に舟橋懸け置かれ、(中略)此の天龍は、甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、川の面寒しく、渺ゝとして、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり。

天竜川、池田の渡し碑

池田の渡し跡
家康は信長一行の通行のため、ここになんと舟橋を架け渡していました。
天竜川は甲斐・信濃の川が集まる大河で、本来であればとても舟橋など架けられるような川ではありませんでした。太田牛一も、上古よりの初めなり。といって驚いています。
天竜川に架け渡された舟橋によほど感動したのか、牛一はここで改めて;
遠国まで道を作らせ、
川には舟橋を渡し、
道端には警固を申し付け、
泊まる先々の御殿や、道々の御茶屋・厩の見事な普請、
諸国の珍奇を集めた御膳の用意、
諸卒の賄いや1500軒ずつの小屋の準備、、、
これら家康の心尽くしのもてなしを並べ立て、その苦労に思いを馳せて称賛の言葉を述べています。
信長公の御感悦、申すに及ばず。
とも・・・。

天竜川
※三ケ野坂~天竜川までの詳細はコチラ。
・天竜川の舟橋を渡り、この日は浜松に宿陣。

浜松城
浜松で小姓・馬廻衆には暇を出して先に帰らせ、弓・鉄砲衆のみを残しました。
また、黄金50枚で用意させた兵糧8000俵余りを、もはや不要として家康やその家臣らに分け与えています。
きっと、道中のもてなしに報いる心づもりもあったのではないでしょうか。
■4月17日
・払暁に浜松を出発。
・今切の渡しを、用意された御座船に乗って浜名湖を越える。

浜名湖今切の渡し付近。
舟を下りて少しすると、右手にはまなの橋という名所があり、徳川家臣・渡辺弥一郎が機転を利かせ、はまの橋や今切の由来、舟方のことなどを説明しました。
これに感心した信長は、弥一郎に黄金を与えています。

浜名橋跡
しほみ坂に御茶屋、御厩立て置き、夫ゝの御普請候て、一献進上候なり。

潮見坂上からの眺め。
・晩に及んで雨となり、この日は吉田に宿陣。

吉田城
※浜松~吉田までの詳しい行程は、コチラの記事を参照。
■4月18日
・吉田川を越え、御油(五位)の御茶屋で休憩。
表の入口に結構な橋が架けられ、風呂も用意されていました。

旧東海道御油宿江戸方の入口、音羽川に架けられた御油橋。
・本坂、長沢の街道は山中で岩が露出していましたが、それも今回、金棒で岩を砕いて取り除き、平に均してありました。
・山中(山中郷)の法蔵寺(宝蔵寺)にも御茶屋が構えられていて、寺僧・喝食悉くが挨拶に出向きました。

法蔵寺
家康幼少期の手習いの寺、そして新選組局長・近藤勇の首塚とされるものがあることでも知られます。

法蔵寺前を通る旧東海道
当然この時、信長らが通った道でもあります。
※御油~法蔵寺までの詳細なルートは、コチラの記事を参照。
・大比良川を越え、岡崎城下のむつ田川・矢作川には橋が架けられていました。

大比良川(大平川)

岡崎城
・矢作宿を過ぎ、知立(池鯉鮒)に宿陣。
矢作宿

織田信長が宿陣した御屋形跡地と推定される知立古城跡。
※4月18日後半の詳細なルートは、コチラの記事を参照。
■4月19日
・清州着

清州城
これ以降、信長の凱旋旅は中山道を経由し、近江鳥居本からは下街道を進むことになります。
■4月20日
・岐阜へ移動

岐阜城
■4月21日
・呂久の渡し(揖斐川/瑞穂市)を、稲葉一徹の用意した御座船で渡る。

呂久の渡し跡
・垂井では、ごぼう殿(五坊/織田勝長)が用意した御屋形で一献進上。
・今須(関ヶ原町)では、不破直光が用意した御茶屋で一献進上。

旧中山道、今須宿。
・柏原でも、菅屋長頼が御茶屋を建てて一献進上。

中山道、柏原宿
・佐和山城に御茶屋を建て、丹羽(惟住)長秀が一献進上。

佐和山城

佐和山城内に引き入れられた下街道(朝鮮人街道)
頭上の太鼓丸か、その下段の曲輪辺りに、丹羽長秀が用意した御茶屋が建っていたのではないかと思われます。
・山崎山城に御茶屋を建て、山崎源太左衛秀家が一献進上。

山崎山城
・同日、安土に帰陣。
最終日は家臣たちによる、接待漬けの道中だったようですね…(^_^;)

安土城天主跡
天正10年4月10日~21日の12日間に及ぶ、織田信長の凱旋旅。
今後も新たに沿道の関連地を訪れた際には、本記事に写真などを追加していきたいと思います。

右左口宿から峠に差し掛かる迦葉坂。
柏尾坂とも呼ばれ、牛一が「信長公記」にかしは坂と記しているのは、この迦葉坂を指しているものと思います。
※詳細はコチラの記事にて。
この日の行程は峠越えとなりますが、ここでも家康は鬱蒼と茂る左右の大木を伐り伏せて道を開き、警護の兵を並べていました。
柏尾坂とも呼ばれ、牛一が「信長公記」にかしは坂と記しているのは、この迦葉坂を指しているものと思います。
※詳細はコチラの記事にて。
この日の行程は峠越えとなりますが、ここでも家康は鬱蒼と茂る左右の大木を伐り伏せて道を開き、警護の兵を並べていました。
・峠に用意された御茶屋で休憩。

峠を越え、青木ヶ原樹海の中を抜ける中道往還。
・本栖に宿陣。

本栖湖
■4月12日
・未明に本栖を出発。
・富士山を御覧じ、人穴も見物。

信長が御覧じた場所とはちょっと違うけど・・・御殿場からの富士山。

人穴浅間神社(富士宮市)

信長が見物した人穴
人穴にも御茶屋が建てられていました。
そこへ富士山本宮浅間大社の神官らが、この先の道筋の清掃を手配しつつ挨拶に訪れます。
昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井手の丸山あり。西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、
人穴の近くには昔、源頼朝が富士の巻狩りを挙行した折に館を建てたと云う上井出の丸山があり、その西の山には白糸の滝があります。
信長は神官らに対し、この辺りのことを詳しく尋ねています。

上井出(かみ井手)交差点(富士宮市)
頼朝の富士の巻狩りといえば、日本三大仇討ちにも数えられる曽我兄弟の仇討ちが有名です。
それを証明するかのように、上井出交差点近くには・・・

曽我の隠れ岩や、

兄弟に討たれた工藤祐経のお墓があります。

また、白糸の滝のすぐ脇の崖上には、頼朝がこの水面に自らを映して鬢のほつれを直したとの言い伝えが残るお鬢水。
この辺りは天正の頃にも既に、頼朝の旧跡として認識されていたことが分かるエピソードで興味深いです。
※かりくらの屋形、かみ井手の丸山については、コチラの記事参照。

白糸の滝

太田牛一も「名所」と記すだけあって、幾筋もの滝が横にずらっと並ぶ姿は壮観で見応えがありました。

こちらは音止めの滝。
・この日は富士山本宮浅間大社(大宮)に宿陣。

富士山本宮浅間大社
この時、浅間大社は北条の手勢によって諸伽藍悉くを焼失していましたが、家康は一夜の御陣宿たりといへども手を抜くことなく、同地に金銀を鏤めた見事な御殿を用意していました。

また、浅間大社近くには、信長が腰を掛けて富士山を眺めたと云う富士見石もあります。
(富士宮市立中央図書館前)
■4月13日
・払暁に浅間大社を出発。
・浮島ヶ原から愛鷹山(足高山)を左に見て富士川を渡り、蒲原(神原)に用意された御茶屋で休憩。
ここで少し馬を使い、土地の者から吹上の松、六本松、和歌の宮、伊豆浦、妻良ヶ崎のことなどを聞き、興国寺・吉原・三枚橋・鐘突免・天神川・深沢の各城についても尋ねました。

旧東海道、蒲原宿に残る御殿道。
信長のために設けられた御茶屋は、後に徳川将軍の「蒲原御殿」として整備・拡張されたと云います。
・蒲原の浜辺から由井では磯辺の波に袖を濡らし、清見関、興津の白波、田子の浦、三保ヶ崎、三保の松原、羽衣の松・・・天下も治まって長閑な中、各地の名所をゆったりと見物して進みます。

由比と興津方面の間には、薩た山が海岸線までせり出しています。
薩た峠を越える旧東海道が整備されたのは江戸時代に入ってからのことで、それまでは主に薩た山の麓、馬1頭が通るのもやっとという狭隘な波打ち際(親知らず子知らずの道)を通っていたと云います。(1854年の大地震で海底が隆起し、現在はそこに国道1号線が通る)
神原の浜辺を由比て、磯部の浪に袖ぬれて
信長公記で表現されたこの一節が、信長一行も親知らず子知らずの磯部を通行したことを暗示しているように思えてなりません。

この時は波打ち際の道を通って峠は越えていないかもしれませんが・・・薩た峠からの富士山。

清見寺

清見寺に転用されている清見関の血天井

三保の松原

羽衣の松
・江尻の南の山を越えて久能城を訪ね、この日は江尻城泊。
※久能城は「訪ね 」たのではなく「尋ね 」ただけで、誤読しておりました。訂正いたします。
(2023年7月12日)

久能山東照宮

江尻城本丸跡
■4月14日
・夜の内に江尻を出発。
・駿府の町口に設けられた御茶屋で休息。
ここで今川氏の旧跡や千本桜のことを詳しく尋ね、安倍川を越えました。

安倍川
山中路次通りまりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。
この山城とは、丸子川の川端という立地からしても丸子城 を指していると思われますが、表現からしてこの時の通行路が山中を通って丸子城を経由するルートだったと推測できます。

丸子城の三日月堀と長大竪堀

山中を通り、丸子城を経由する旧道らしき痕跡。
※但し、「信長公記」のまりこの川端にという表現からは、文字通り丸子川の畔から城を見ている印象も受け、若干の違和感も覚えます。
丸子川沿いを走る近世東海道は確かに麓を通りますが、安倍川を越えて丸子に近づくにつれ、前方や左右には山並みが迫ってくるようになります。今でこそ開発されて雰囲気も変わってしまっていますが、当時の景観を想像すると、この山並みが近づいてくる景色を山中の路次と表現したのかもしれない、とも思い直しています…これもちょっと無理がありますが。
或いは木枯森~牧ヶ谷を経由して歓昌院坂を南下してくる古道は、丸子城とは尾根違いなので直接は経由せず、丸子の集落(麓)へ下って旧東海道に合流するようなので、仮に山の中の道(路次)を通ったとすると、こちらのルートだったかもしれません。
丸子川沿いを走る近世東海道は確かに麓を通りますが、安倍川を越えて丸子に近づくにつれ、前方や左右には山並みが迫ってくるようになります。今でこそ開発されて雰囲気も変わってしまっていますが、当時の景観を想像すると、この山並みが近づいてくる景色を山中の路次と表現したのかもしれない、とも思い直しています…これもちょっと無理がありますが。
或いは木枯森~牧ヶ谷を経由して歓昌院坂を南下してくる古道は、丸子城とは尾根違いなので直接は経由せず、丸子の集落(麓)へ下って旧東海道に合流するようなので、仮に山の中の道(路次)を通ったとすると、こちらのルートだったかもしれません。
2017年1月追記
※2017年1月14日、実際に牧ヶ谷~歓昌院坂峠までのルート を歩いてみましたが、とても細くて険しい山道で、わざわざ家康が信長を案内するには、あまりに心許ないと感じました。
やはり現状では、素直に旧東海道を通ってきたと考えるのが妥当なのかもしれません。

山麓を通る近世東海道、丸子宿。※2017年1月14日、実際に牧ヶ谷~歓昌院坂峠までのルート を歩いてみましたが、とても細くて険しい山道で、わざわざ家康が信長を案内するには、あまりに心許ないと感じました。
やはり現状では、素直に旧東海道を通ってきたと考えるのが妥当なのかもしれません。

名にしおふ宇津の山辺の坂口に、御屋形を立て、一献進上侯なり。字津の屋の坂をのぼりにこさせられ、
宇津ノ谷峠 には蔦の細道と呼ばれる古代~中世までの道とされるものと、天正18年に豊臣秀吉が小田原征伐のために開いたのが始まり(後に家康が整備)とされる旧東海道が通っています。
(明治以降に設けられた道を除く)

こちらは道の駅脇にある、蔦の細道の登り口(静岡口)
旧東海道が天正18年以降の道ということであれば、この時、信長一行が通ったのは蔦の細道ということにもなり・・・

家康が信長のために用意した御屋形があったと云う宇津の山辺の坂口とは、道の駅付近ということにもなりそうですが・・・。

蔦の細道の宇津ノ谷峠

蔦の細道(岡部口)

変わってこちらは旧東海道
蔦の細道とはうって変わって道幅も広く、旧街道の姿をしっかりと留めています。

旧東海道の宇津ノ谷峠

旧東海道の静岡側麓に佇む宇津ノ谷の集落
仮に信長一行が通ったのが旧東海道のルートだった場合は、宇津の山辺の坂口はこの宇津ノ谷の集落を指すことになりそうです。
果たして信長はどちらの道を通ったのか・・・
これに関してはコチラの記事で触れていますので、合わせてご参照ください。
藤枝の宿入り口に、誠に卒渡したる偽之橋とて、名所あり。

偽之橋が架けられていたという、藤枝市「本町」交差点。

この時はお店が開いていたので確認できませんでしたが、実は交差点近くのとある商店のシャッターには偽之橋の絵が描かれていたりします。
かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。

東海道が朝比奈川を渡る地点に架けられた横内橋。
この橋から、かい道より左を見ると・・・

花沢城の城山(左手前、尾根先端付近)や、遠くには虚空蔵山(奥の尾根先端部)を望むこともできます。
とう目とは当目で、虚空蔵山がある辺りの焼津市の地名です。その山頂には当目山香集寺があり、虚空蔵菩薩を祀っています。
正確な地点を知る術はもはやありませんが、織田信長も同様の光景を眺めていることは確かです。
・この日は田中城泊。

田中城本丸跡
ここでちょっと、「信長公記」の記述に違和感が・・・。
本記事はあくまで「信長公記」の記載順にご紹介しているのですが、偽之橋は東から西へ向かうと、田中城を少し通り越した場所に位置しています。
無論、街道の左手に花沢城跡や虚空蔵山が見えたであろう地点も、遥かに通り過ぎているはず・・・或いは翌日、田中城を出発してすぐ藤枝宿を通過する際に見たものと、記憶を混同させているのかもしれません。
■4月15日
・未明に田中城を出発。
・藤枝宿を越え、瀬戸川の川端に建てられた御茶屋で休息。
・瀬戸川を渡って島田を経由し、大井川を越える。
瀬戸川こさせられ、せ戸の染飯とて、皆道に人の知る所あり。

上青島村瀬戸町(現藤枝市上青島付近)に建つ、染飯茶屋址の碑。

今も売られている瀬戸の染飯。
真木のゝ城右に見て、諏訪の原を下り、きく川を御通りありて、
真木のゝ城とは牧野城、即ち諏訪原城のこと。

真木のゝ城右に見て、

諏訪の原を下り、

きく川を御通りありて、
間違いなく太田牛一は、これら旧東海道からの光景を描写しています。
430年以上前の描写が、現代の地理・地形とも一致して感動すら覚えます。
のぼれば、さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。是れより、につ坂こさせられ、懸川に御泊り。

のぼれば、

小夜の中山公園
さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。

日坂宿本陣跡
是れより、につ坂こさせられ、

懸川に御泊り。
※真木のゝ城~懸川までの詳しい行程は、コチラの記事を参照。
■4月16日
・払暁に掛川を出発。
みつけの国府の上、鎌田ケ原、みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り、

太田川を渡る三ヶ野(みかの)橋

旧東海道松並木と、奥に三ヶ野坂

三ヶ野坂上に建つ大日堂
旧東海道沿いで坂を登った台地の縁、高天神などがある東方への眺望も開けていますので、御屋形が立て置かれていたのもこの辺りではないかと思われます。(鎌田はここより少し南)
但し・・・

距離的に高天神城や馬伏塚(まむし塚)城、ましてや小山城が手に取るように見えたとは、とても思えないのですが・・・(^_^;)

馬伏塚城

高天神城

小山城
また、みつけの国府の上ともありますが、見付は三ヶ野から更に西へ行った先で、国府もそちらにあったものと考えられています・・・なぜ牛一は、三ヶ野の前にこのフレーズを挿し込んだのでしょうか…?
後年「信長公記」を編纂する際、国府や見付が三ヶ野坂の下にあったと記憶違いしたのでしょうかね。

見付の遠江国分寺跡
国府もこの付近にあったと推定されています。

それを示すように、周辺の地名は「国府台」
※見附宿から先、近世東海道は南へ迂回していますが、信長一行は天竜川の渡し場となる池田までを真っ直ぐ繋ぐ、姫街道のルートを採ったものと思われます。
池田の宿より天龍川へ着かせられ、爰に舟橋懸け置かれ、(中略)此の天龍は、甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、川の面寒しく、渺ゝとして、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり。

天竜川、池田の渡し碑

池田の渡し跡
家康は信長一行の通行のため、ここになんと舟橋を架け渡していました。
天竜川は甲斐・信濃の川が集まる大河で、本来であればとても舟橋など架けられるような川ではありませんでした。太田牛一も、上古よりの初めなり。といって驚いています。
天竜川に架け渡された舟橋によほど感動したのか、牛一はここで改めて;
遠国まで道を作らせ、
川には舟橋を渡し、
道端には警固を申し付け、
泊まる先々の御殿や、道々の御茶屋・厩の見事な普請、
諸国の珍奇を集めた御膳の用意、
諸卒の賄いや1500軒ずつの小屋の準備、、、
これら家康の心尽くしのもてなしを並べ立て、その苦労に思いを馳せて称賛の言葉を述べています。
信長公の御感悦、申すに及ばず。
とも・・・。

天竜川
※三ケ野坂~天竜川までの詳細はコチラ。
・天竜川の舟橋を渡り、この日は浜松に宿陣。

浜松城
浜松で小姓・馬廻衆には暇を出して先に帰らせ、弓・鉄砲衆のみを残しました。
また、黄金50枚で用意させた兵糧8000俵余りを、もはや不要として家康やその家臣らに分け与えています。
きっと、道中のもてなしに報いる心づもりもあったのではないでしょうか。
■4月17日
・払暁に浜松を出発。
・今切の渡しを、用意された御座船に乗って浜名湖を越える。

浜名湖今切の渡し付近。
舟を下りて少しすると、右手にはまなの橋という名所があり、徳川家臣・渡辺弥一郎が機転を利かせ、はまの橋や今切の由来、舟方のことなどを説明しました。
これに感心した信長は、弥一郎に黄金を与えています。

浜名橋跡
しほみ坂に御茶屋、御厩立て置き、夫ゝの御普請候て、一献進上候なり。

潮見坂上からの眺め。
・晩に及んで雨となり、この日は吉田に宿陣。

吉田城
※浜松~吉田までの詳しい行程は、コチラの記事を参照。
■4月18日
・吉田川を越え、御油(五位)の御茶屋で休憩。
表の入口に結構な橋が架けられ、風呂も用意されていました。

旧東海道御油宿江戸方の入口、音羽川に架けられた御油橋。
・本坂、長沢の街道は山中で岩が露出していましたが、それも今回、金棒で岩を砕いて取り除き、平に均してありました。
・山中(山中郷)の法蔵寺(宝蔵寺)にも御茶屋が構えられていて、寺僧・喝食悉くが挨拶に出向きました。

法蔵寺
家康幼少期の手習いの寺、そして新選組局長・近藤勇の首塚とされるものがあることでも知られます。

法蔵寺前を通る旧東海道
当然この時、信長らが通った道でもあります。
※御油~法蔵寺までの詳細なルートは、コチラの記事を参照。
・大比良川を越え、岡崎城下のむつ田川・矢作川には橋が架けられていました。

大比良川(大平川)

岡崎城
・矢作宿を過ぎ、知立(池鯉鮒)に宿陣。

矢作宿

織田信長が宿陣した御屋形跡地と推定される知立古城跡。
※4月18日後半の詳細なルートは、コチラの記事を参照。
■4月19日
・清州着

清州城
これ以降、信長の凱旋旅は中山道を経由し、近江鳥居本からは下街道を進むことになります。
■4月20日
・岐阜へ移動

岐阜城
■4月21日
・呂久の渡し(揖斐川/瑞穂市)を、稲葉一徹の用意した御座船で渡る。

呂久の渡し跡
・垂井では、ごぼう殿(五坊/織田勝長)が用意した御屋形で一献進上。
・今須(関ヶ原町)では、不破直光が用意した御茶屋で一献進上。

旧中山道、今須宿。
・柏原でも、菅屋長頼が御茶屋を建てて一献進上。

中山道、柏原宿
・佐和山城に御茶屋を建て、丹羽(惟住)長秀が一献進上。

佐和山城

佐和山城内に引き入れられた下街道(朝鮮人街道)
頭上の太鼓丸か、その下段の曲輪辺りに、丹羽長秀が用意した御茶屋が建っていたのではないかと思われます。
・山崎山城に御茶屋を建て、山崎源太左衛秀家が一献進上。

山崎山城
・同日、安土に帰陣。
最終日は家臣たちによる、接待漬けの道中だったようですね…(^_^;)

安土城天主跡
天正10年4月10日~21日の12日間に及ぶ、織田信長の凱旋旅。
今後も新たに沿道の関連地を訪れた際には、本記事に写真などを追加していきたいと思います。
| 固定リンク
「織田信長・信長公記」カテゴリの記事
- 安土城、他(2023.05.28)
- 妙覺寺の特別拝観(2023.05.25)
- 大徳寺、妙心寺の特別拝観(第57回 京の冬の旅)(2023.03.06)
- 別所は連々忠節の者(新発見の織田信長文書)(2022.12.07)
- 旧東海道、藤川宿~池鯉鮒宿(2022.11.15)
コメント