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2016年12月15日 (木)

菖蒲嶽城

12月10日は毎年恒例、城友忘年会を兼ねた山城踏査会
私も彼是、2013年から4年連続での参加となりました。毎年お声掛けくださる幹事や、参加者たちとの縁には本当に感謝ですね。

今年(2016年)のスタートは菖蒲嶽城から。
朝10時に彦根駅で集合~車3台に分乗して移動します。

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旧中山道が番場宿より摺針峠へと差し掛かる手前、城山の南麓からアタック開始です。
今年の参加者は中井先生や西股先生(1年間に渡る真田丸の軍事考証、お疲れさまでした)、城郭ライターの萩原さちこさんを含む、城仲間総勢17~8名!

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まずは登山道を北へ、ただひたすらに直登します。これが結構キツい…(^-^;
写真の時点で既に10分ほど登っていますが、目指す尾根はあの鉄塔の辺り・・・。

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ようやく辿り着いた尾根上から、伊吹山の眺め。
トータルで20分以上は直登しましたでしょうか・・・。

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背後を振り返ると、スタート地点の真横を通っていた名神高速が遥か下方に見えています。
到達した尾根はここから東と北へ分岐しており、菖蒲嶽城はその両方向に城跡遺構が存在しています。

ひとしきり景色を堪能(という名の休憩)したら、まずは東の尾根に残る遺構を目指します。

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いくつか階段状の小曲輪を越えると、若干薄いものの2本連続で切られた堀切が出てきます。

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上から見た2連続堀切。

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堀切(2本め)の先は土塁(左)と切岸に挟まれた通路のような空間になっており、写真奥には右に折れて切岸上の曲輪へ入る虎口もあります。

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足元には石がゴロゴロと・・・或いはこの切岸、石垣張りだったのかもしれません。

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虎口を抜けた先の曲輪。

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曲輪北側の斜面には連続する竪堀もありましたが…崩れやすい地質らしく、殆ど埋まってしまっている印象でした。

一旦引き返し、今度は北側の尾根に残る遺構へ向かいます。

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北側の尾根には、堀切が2本切られていました。
写真は、1本めの堀切に架かる土橋を渡る参加者の図。

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その土橋を渡った先から。

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そして2本め。
この堀切の先が、北城の曲輪になります。

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2本めの堀切の土橋は、エッジも効いていて綺麗でしたね。

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北城曲輪、その北西側の切岸。
この先にも尾根が伸びています。

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その尾根を少し進むと、堀切や土橋らしき痕跡も見受けられました。
お城の遺構か否か、意見は分かれるところですが。

北側の城跡は東のそれに比べ、全体的に作り込みが浅い印象でした。
これには、それぞれの城が現在に残る形に造成された「時期的な差」というものが考えられるのだそうです。

菖蒲嶽城は、文献などから天文年間(1532~1555)には既に存在していたと考えられています。その立地は、城山の東から南にかけて抜ける中山道を押さえる、近江⇔美濃間の境目。
そうした条件下で、その東側の城のみを改修したとすると、それはいつどの勢力によるものなのか・・・。
個人的には元亀年間(1570~1573)の初頭、東の美濃(岐阜)を本拠とする織田信長と敵対することになった、北近江の浅井家によるものかもしれない、と考えました。

麓の中山道を西へ進んで摺針峠を越えると、目の前には佐和山城が出てきます。
元亀争乱時に於いてはまだ、摺針峠は主要な街道ではなく、中山道の礎となる東山道はもっと北を通り、米原市街の方へ抜けていました(信長が摺針峠を拡張・整備して街道筋を改変したのは、後の天正年間→参考記事)が、織田と浅井がまだ敵対する以前の永禄11年(1568)には、足利義昭を奉じての上洛に先立ち、信長は南近江の六角氏との交渉のため、佐和山城まで出向いています。この時、彼が通ったのは摺針峠でした(浅井三代記)。
このことからしても、摺針峠越えが信長による改修以前から、既に重要な交通路の一つであったことは想像に難くありません。

東方からの街道筋を押さえる浅井家の重要拠点、佐和山城。
その支城として手を加えられたのが、菖蒲嶽の城だった・・・なんとなく辻褄も合う気がしませんか?(笑)
東城にしろ北城にしろ、互いにそれほど離れてはいないので方角にこだわる必要はないのかもしれませんが、いずれにしても天文年間からの城を後に改修したと仮定すると、その後の歴史を考えた時、浅井家以外にその必要性を見出せないのもまた、事実かとも思います。

まぁ、金ヶ崎での浅井長政離反~佐和山城包囲までの期間、僅か2~3ヶ月・・・ちょっと強引かもしれませんが、そんなことを考えながらの城攻めも、また一興かと…(^_^;)

元来たルートを引き返し、下山後は昼休憩を挟んで物生山城へ向かいます。

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