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2017年1月

2017年1月31日 (火)

今帰仁城、古宇利大橋、美ら海水族館、玉陵、他 (沖縄グスクめぐり②)

沖縄旅2日目。
朝一番でレンタカーを確保して高速道路を一気に北上、まずは今帰仁城(今帰仁村)を目指します。

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今帰仁城図
今帰仁城は北山王の居城だったと伝わる城です。
15世紀前半、北山は中山の尚巴志(後に南山も滅ぼして琉球を統一した第一尚氏の二代)に攻め滅ぼされ、それ以降は旧北山地方統治の拠点として、今帰仁城には監守が派遣されるようになります。
1609年、薩摩の島津氏が琉球に侵攻してくると、今帰仁城はその第一攻略目標とされ、あえなく落城の憂き目に遭いました。

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今帰仁城模型

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外郭の城壁
琉球の城は、この独特の曲線を伴う城壁が特に格好いいですね。

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平郎門から中心部内へ。

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平郎門の脇、城内で一番高いという大隅の城壁。
うねりのような曲線が見事です。

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平郎門

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カーザフ
カーは「川」や「泉」、ザフは「谷間」を意味します。名前からして、昔は水を湛えてていたのでしょうか。

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平郎門を抜け、大庭へと続く城の旧道。

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大庭から、一段上の主郭方面。

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大庭にあるソイツギ(城内下之御嶽)

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御内原から、大隅の城壁越しの眺め。
これぞグスク!って感じの偉容ですね。

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こちらは志慶真門郭を眼下に収める眺め。
城壁奥の地形がまた凄い・・・。

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御内原のテンチジアマチジ(城内上之御嶽)・・・今帰仁城の守護神。
御内原は男子禁制だった聖域で、国家繁栄や五穀豊穣、子孫繁栄などを祈りました。

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主郭

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今帰仁里主所火の神の祠。
第二尚氏時代の北山監守一族の火の神を祀っています。

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主郭から志慶真門郭へ抜ける石門

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志慶真門郭
出土品などから、城内で仕える人々の生活空間と推定されています。
写真左上が主郭の石垣。

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志慶真門郭の外郭城壁

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城跡前にあったお店。こちらで・・・

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試しにサトウキビ・ジュースを買ってみました。
・・・脳天に突き抜けるような甘さです(笑)

今帰仁城・・・素人目線の感想ですが、これぞグスク!といえる特徴の詰まった、とても象徴的な城に感じました。

さて、折角沖縄まで来たことだし、予報に反して空には晴れ間も覗いている・・・という訳で、今帰仁城から程近い古宇利島にも立ち寄ってみることになりました。
・・・何故か出発後、すぐにまた今帰仁城跡へUターンせざるをえなくなるハプニングもありつつ(笑)

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古宇利大橋で古宇利島へ渡るの図
古宇利島の海岸でしばし波と戯れ(波に弄ばれている人もいましたがww)、昼休憩のために再度橋を渡り・・・

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美らテラスへ。
こちらで海を眺めつつ、お昼をいただきます。

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私は海ぶどうのスペシャル丼を選択しました。
なんともカラフル♪
(この旅で食した海ぶどうの中では、ここのものが一番粒も大きくて美味しかったです)

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美らテラスから古宇利島を眺める。

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古宇利大橋
海の青さが、信じられないくらいに美しかった。。。

更に更に、これも折角沖縄まで来たんだから・・・

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という訳で、美ら海水族館にもお立ち寄り(笑)
ジンベエザメ・・・でかっ!

凄まじい入館者の数、そして某大陸国からの観光客の自撮り棒乱立に多少辟易しつつ、駆け足気味に見学して回りました。

美ら海水族館を出たら、今度は一気に那覇市内へ戻ります。
一日遅れで那覇入りした最後の参加者とも合流し、2日目のラストは首里城近くの・・・

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第二尚氏の陵墓玉陵(タマウドゥン)へ。
美ら海水族館からの移動距離、そして那覇市内の名物渋滞にハマって拝観時間ギリギリでしたが、なんとか間に合いました・・・。

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参道を進むと見事な石垣が現れます。

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玉陵・・・正面より。

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玉陵は1945年の沖縄戦で甚大な被害を受け、1974年より3年の歳月を掛けて修復されました。

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歴代の王族らが眠る石室

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向かって左から、王と王妃の東室・洗骨前の遺骸を安置する中室・限られた家族の西室

さて、2日目の行程はこれにて終了。
今帰仁城が那覇から遠くて移動に時間を要したこともあり、グスクは結局1城だけになりました。
それでも沖縄らしい観光もできたし、これはこれでよかったかな。

この日も夜は、国際通り近くのお店で2次会まで。
1軒目のお店は料理も美味しく、店員さんの感じも良くてGoodでした。

この日回れなかった分、3日目はガッツリ城をめぐります。

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2017年1月30日 (月)

首里城 (沖縄グスクめぐり①)

2017年1月20~23日の3泊4日で、初めて沖縄を旅しました。
冬の沖縄・・・目的が海ではないのでいいんです。沖縄といえば、グスク(城)でしょう!
※当blog内では文意によって「城」「グスク」を使い分けることもありますが、基本的に城名を記す時は「城」と表記します。

初日はお昼過ぎに無事、那覇空港に到着。
全参加者6名の内、私を含む3名が同じような時間帯に到着する予定でしたので、一番乗りだった私はそのまま空港で残りの2人を出待ち(笑)
無事に合流後、ゆいレールで移動して一旦ホテルにチェックインした後、再びゆいレールで首里城へ向かいます。

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沖縄都市モノレール「ゆいレール」
1日乗車券700円を購入すると購入時間から24h乗り放題で、しかも首里城の入城券も団体割引が適用されます。

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首里城図
まずは図の左側から赤いラインに沿って、外周の城壁から観ていきます。

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琉球石灰岩で積まれた、沖縄独特の曲線を帯びた石垣。
隅のピョコっと飛び出たとんがりも特徴的ですね。あれは「隅頭石」というのだそうですが、どのような意図があるのかは、実はよく分かっていないのだそうです。
単にデザイン的なものなのか、或いは宗教的な意味合いでもあったのか・・・。

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・・・このスケール!

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久慶門

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第二次大戦時に築かれた日本軍第32軍司令部の壕跡

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園比屋武御嶽石門
この門の奥にある御嶽(ウタキ)は、国王が外出の際などに拝礼した場所で、国家の聖地でもあります。

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歓会門から東の方角
奥に正殿などの屋根も見えています。
が、この時点(午後4時頃?)までお昼を食べておらず、お腹が空いたので正殿は後回しにして・・・

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先に腹拵え(笑)
折角なので、ソーキそばをいただきました。

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お腹も落ち着いたところで、首里城の中心部へ向かいます。

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左:広福門/右:漏刻門

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広福門前からの眺め・・・城壁が格好いいですねぇ~

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奉神門前にある首里森御嶽
琉球神話に於ける神がつくった聖地で、城内で最も格式の高い拝所の一つ。
首里城には「十嶽」といって、城内に10ヶ所もの御嶽があったと云われています。
この後の旅で訪れる各城にも、必ず御嶽(拝所)がありました。そしてそれらは単なる城の遺構の一つなどではな、今も祈りを捧げに来る人がいることを知りました。
今も昔も、そして身分の上下も関係なく、信仰が人々の生活に深く根付いていることに大変驚かされました。

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正殿前の御庭へ通じる奉神門

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正殿と御庭

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正殿二階の御差床
国王の玉座で、主に儀式や祝宴の際に出座しました。
正月儀式などでは国王はこの御轎椅に座り、御庭に居並ぶ諸官の拝礼を受けます。

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一階の御差床
こちらは政治や儀式を執り行う場所であったとか。

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一階には床がガラス張りになっている箇所があり、地下に眠る石垣が見えるようになっていました。

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現存と復元石垣の境界
こうして見比べると結構違いますね・・・現在、首里城で目にすることのできる石垣は、その大半が復元のようです。

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瑞泉門

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歓会門
日も暮れて、ぼちぼちライトアップが始まりました。

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御存じ守礼門

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ライトアップされた諸建築物を目当てに、再び広福門前へ。

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奉神門もライトアップ
しかし、残念ながらタイムアップで正殿前の御庭には入れませんでした。

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ちょいと城外に出て・・・真珠道
16世紀に築かれた、首里城と那覇港を結ぶ軍用道です。

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城壁のライトアップ・・・歓会門脇から。

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首里駅へ戻りがてら、城壁に沿って東へ進みます。

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ライトの当たっている部分の雑草が特に生育がいいように思えるのは・・・きっと気のせいではないでしょうね(笑)

グスクめぐりオフの前乗りで訪れた首里城。
特別、大きな期待を持って訪れた訳でもありませんでした(←失礼)が、さすがは琉球王朝の王城。
広大な規模と、石垣造りの独特な城壁には痺れました☆

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首里城をあとにした我々は、ゆいレールの牧志駅から県庁前方面へ、国際通りをブラブラと歩いて前夜祭?のお店を探すことにしました。

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夜の国際通り

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で、選んだお店がこちら。
沖縄料理や泡盛は勿論、店員さんたちによる沖縄民謡の披露などもあって楽しいお店でした。
2次会からは、遅れて那覇に到着した2名も合流して盛り上がりました。

翌日からいよいよ、本島各地のグスクめぐりをスタートさせます。

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2017年1月29日 (日)

旧東海道…袋井宿~天竜川

静岡旅2日め。この日は単独行動になります。
とはいえ、朝起きた時点で未だノープラン・・・さて、どうしよ?

いろいろ考えた末、そもそも今回は古道めぐりで訪れた静岡・・・前日に歩いた宇津ノ谷峠からの繋がりで、旧東海道を歩くことにしました。
ゴールを以前から訪れてみたかった天竜川に設定し、そこまでの距離を考えて・・・

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袋井宿をスタート地点に選択。
駅前から少し北上して、旧東海道を目指します。

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袋井宿場公園。
看板に「どまん中」とありますが、袋井宿は東海道五十三次のちょうど中間、27番目の宿場にあたります。

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袋井宿東本陣、田代家跡。

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袋井の丸凧は、歌川広重の「東海道五十三次袋井」にも描かれいます。

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本町宿場公園
高札場があった場所のようで、常夜灯も移設されています。

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朝一番の、まだ人気のない冬の旧東海道。

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寺澤家長屋門
明治元年(1868)の建立。

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しばらくすると旧東海道は、県道413号線に合流します。
写真は413号から、合流ポイントを振り返った様子(右が旧東海道)。

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そのまま413号をひたすら真っすぐ歩くこと500m、木原で再び分岐します。

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木原松橋の案内板

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旧東海道と県道413号線の分岐点手前にある、現在の松橋。

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「東海道分間延絵図」に描かれた木原村。右端に松橋も。

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木原村の旧東海道
この辺りにはかつて、一里塚がありました。

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跡地近く(60m西)に復元された木原一里塚

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許禰神社境内に建つ木原畷古戦場碑と、徳川家康の腰掛石
木原畷の戦いとは元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦の直前、物見に出た徳川勢が武田軍と接触して起きた戦い。
また、腰掛石は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の折、西へ向かう家康が戦勝祈願に当社を訪れた際に腰を掛けたとの伝承があるようです。

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許禰神社を過ぎると、旧東海道は再び県道413号に戻ります。

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再合流後、1kmほどで太田川を越えます。
太田川から西の方角を見ると、南北に広く伸びる台地が広がります。

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太田川を渡る三ヶ野橋。
川を渡った先で旧東海道は、県道のすぐ左脇に別れます。

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旧東海道に残る松並木。
先ほどの台地、三ヶ野坂も近づいてきました。

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三ヶ野坂のすぐ足元で右に分岐するのは、大正期に開設された東海道。
大正期の東海道はここから右斜めへ進み、すぐに現在の県道413号と合流したようです。

私は勿論左、江戸期までの東海道を進みます。

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大正期の道との分岐後すぐ、旧東海道はここを左に折れて三ヶ野坂の台地に登ります。

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三ケ野坂上に建つ大日堂
元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦直前、物見に出た徳川軍は武田軍と遭遇し、追撃を受けます。
ここはその時、木原畷・三ケ野・一言坂と続く浜松への撤退戦の起きた場所の一つ。境内には本田平八郎物見の松もあったそうです。

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三ヶ野坂から、歩いてきた旧東海道方面の眺め。
武田軍に追われる徳川勢が、木原から退いてきたルートでもあります。
※実は大日堂に着くと、前日の歓昌院坂や宇津ノ谷峠でご一緒した方が待っていてくれて、三方ヶ原合戦時の徳川・武田両軍の動きや、周辺の地理について教えてくださいました。

みつけの国府の上、鎌田ケ原、みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より(以下、引用同)

天正10年(1582)4月、甲州征伐を終えて安土への凱旋途上にある織田信長は、この三ヶ野坂に用意された御屋形で休息し、馬伏塚・高天神・小山などの各城を眺め渡したと云います。
すぐ南の同じ台地上には鎌田の地名も残りますが、みつけの国府の上という表現には疑問が・・・。
この書き方だと遠江の国府が三ヶ野坂の下にあったように受け取れますが、みつけ=見付はここから更に西へ行った先。国府もそちらにあったと考えられています。

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三ヶ野坂から、信長も目にした高天神城方面の眺め。
でも・・・小山はおろか、距離からして高天神ですら手に取るように見えたとは思えないのですが・・・(^_^;)

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大日堂から西へ延びる旧東海道

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付近には今も旧東海道(江戸期)の他、鎌倉古道や明治・大正期に開かれた街道も残ります。

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鎌倉古道

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こちらは明治期に敷設された東海道
大日堂を経由せず、その西側で江戸期の東海道に合流していました。

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大日堂から先も地形が複雑に入り組んでおり、結構アップダウンがありました。

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松並木
こちらはどうやら、大正期に植えられたもののようです。

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行人坂を越えると・・・

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またまた県道413号線に合流。
右が県道に合流してきた旧東海道です。

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県道に合流後すぐにまた、今度は右へ分岐します。

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分岐後の旧東海道。常夜灯の姿も。

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この坂を下った先が見付宿になります。

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愛宕山から見渡す東海道五十三次見付宿。

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見付宿の町並み

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「東海道分間延絵図」に描かれた見付宿

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見付宿脇本陣大三河屋門(藥医門)
移築復元になります。

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見付宿で気になった路地。
この路地沿いには店が1軒もなく、住人以外には必要のない通りだったことから「不用小路」・・・いや、住人には大切な路地でしょ(笑)

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先ほどの「東海道分間延絵図」にもちゃんと描かれている通り、旧東海道はここで左(南/県道43号線)へ折れます。
これは江戸期の宿場に合わせて築かれた東海道の道筋で、一言坂の古戦場はこのまま真っすぐ進んだ先の方角にあります。

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分岐と合流を繰り返す旧東海道。

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遠江国分寺跡

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発掘調査成果から推定される国分寺の姿。
昭和26年の発掘調査で金堂・講堂・塔・中門・回廊・南大門・築地塀跡などが判明しています。

さて、先ほど三ヶ野坂の時に「信長公記」の一節、みつけの国府の上を引用して疑問を呈しましたが、国府もこの国分寺の近くにあったものと考えられています。

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現に国分寺跡の地名は「国府台」
その名の通り、見付宿から坂を登った台地上にあります。尚更、みつけの“国府の上”という表現とも矛盾を覚えます・・・「信長公記」編纂時には年数も経っていて、記憶が混同しちゃったのかな?(^_^;)
(こういった矛盾は時折散見されます)

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国分寺跡から更に南へ進むと、磐田駅前に出ます。
磐田といえば・・・ねぇ?(笑)

旧東海道は磐田駅前で西へ進路を変えますが、ここで一旦昼休憩。
駅前とはいえ、食事のできそうなお店が殆ど見当たらない・・・どうにか1軒だけみつけた蕎麦・うどんのお店でひと心地・・・寒さに加え、前日からの疲労も重なって結構腰にもきていました。
この先はまた電車の沿線から離れてしまうこともあり、ここで切り上げるか否か迷っていたのですが・・・暖を取り、お腹も満たされて復活(笑)

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という訳で、旧東海道歩きを続けます。

※私はこの先も近世東海道のルートに沿って歩きましたが、信長一行は見附宿より先は南へ迂回する近世東海道ルートではなく、真っ直ぐ天竜川の渡し場となる池田までを繋ぐ姫街道のルートを採ったものと思われます。

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磐田駅前からしばらく西へ進むと下り坂に差し掛かり、その先で県道261号線に合流します。
この坂は少し北方の、一言坂に連なる台地の縁にあたります。

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県道261号に合流した旧東海道。松並木も残っていました。
右端に台地の縁も、ほんの僅かに写っています…(^_^;)

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一言橋

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県道沿いに点々と残る松並木

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森下の分岐点・・・ここは左へ。

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まだまだ延々と続きます。

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長森の辺りで右へ折れ、今度は県道262号線を北へ進みます。
目指す天竜川も目前で、川に沿って歩く形になります。

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国道1号線を越えて、こちらの分岐は左へ。

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池田の町中で見かけた常夜灯。

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そして・・・天竜川を越える池田の渡し碑

池田の宿より天龍川へ着かせられ、爰に舟橋懸け置かれ、(中略)此の天龍は、甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、川の面寒しく、渺ゝとして、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり。

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池田の渡し跡
家康は信長一行の通行のため、この天竜川に舟橋を架け渡したと云います。
天竜川は東海道屈指の大河で難所としても知られ、太田牛一も上古よりの初めなりと驚いているように、そこに舟橋を架けるなど、当時の人々の常識からは考えられないことでした。
家康の粉骨砕身ぶりが窺い知れるエピソードですね。

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私も天竜川を渡ります。
強風吹きっ晒しで寒かったこと!ww

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池田の渡し方向・・・見づらい(^_^;)

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大天竜の雄姿

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天竜川を越えると、そこはもう浜松市・・・よく歩いたなぁ~

ゴールに定めた天竜川も越えたので目的は達しましたが、電車に乗って帰らないといけませんので、引き続きこの先の天竜川駅まで歩きます。
(ここからの道のりが思いの外長かった・・・)

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天竜川を越えた先の旧東海道

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横町通りの標柱
この奥には舟橋之記の碑や、明治天皇玉座跡の碑が建っていました。

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この辺りは中野町といって、中ノ町道路元標も残ります。
大正9年の旧道路法施行により全国の市町村に設置されたものの一つです。全国に現存するものは1600基ほどで、静岡県内では唯一とも。

十返舎一九が;
「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」
と書いているように、江戸⇔京都間のちょうど中間の距離に位置していることから「中野(の)町」となったようです。

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中野町を通過する旧東海道。
右に見えるのは金原明善生家跡。

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安間一里塚跡と、姫街道の起点だった付近。

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最後にもう一度、旧東海道の松並木。

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ようやく天竜川駅に到着です。
距離にして14~5kmほどかな?…たいした距離でもないけど、終始寒風に晒されてきつかったなぁ~

この先にもまだまだ訪れてみたいポイントはありますので、いずれまた、旧東海道歩きを続けたいと思います。

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2017年1月28日 (土)

宇津ノ谷峠~岡部宿

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古くから交通の要衝としても知られる宇津ノ谷峠
現在はトンネルが開通して国道1号線が貫いていますが、その山中には歴史ある古道が今も残っています。

まずは静岡口から蔦の細道と呼ばれる、一般的に古代~中世までの主要道と認識されている道を歩いて峠を越えてみることにします。

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蔦の細道の登り口は、こちらの道の駅の裏手。
スタート前にちょっと昼休憩をとることにしました。すると・・・
その間、日本列島を襲った寒波の影響でみるみる天候が悪化し、静岡だというのに風花のような雪が猛烈な勢いで風吹きだしました・・・。

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果たして峠越えできるのか・・・心配でしたが、自然相手のことでは仕方がありません。
道の駅で購入したしぞ~かおでんで暖を取りつつ待機・・・おでん、美味しかったなぁ~♪

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20分ほども休んでいると日頃の行いが良かったお陰か(?)、つい先ほどまでの風吹もピタッと収まりましたので、いよいよ峠越えをスタートします。

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この辺りから本格的な峠越えの山道に入ります。

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道を挟むように、両サイドには沢が流れていました。
或いは獣除けの意味合いもあったのかな?などと考えました。

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雰囲気のある石積みも・・・

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蔦の細道
一般的に宇津の山を越える中世までの官道と云われ、事実その成立は古く、平安初期に成立した「伊勢物語」にも;
『宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心捕捉、
駿河なるうつの山辺のうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり』
とあります。

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しかし、江戸期に東海道が成立すると、蔦の細道は次第に廃れていきました。
現在、我々が歩くことのできるこの道は、昭和に入って地元の研究者が埋もれていた古道をみつけ、復元したものです。

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蔦の細道に沿って流れる沢

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15分ほども登ると峠が見えてきます。

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宇津ノ谷峠(蔦の細道)

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この日は残念ながら雲に隠れていましたが、峠からは富士山を望むこともできます。

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富士山とは反対側、岡部宿方面の眺め。

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峠を越え、今度は岡部口へ向けて蔦の細道を下ります。

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岡部口側の道は比較的、全体的に開けていました。

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猫石
古代信仰の象徴的な石なのだそうです。

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猫石のある場所から先は、とても雰囲気のある石畳になっています。

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石畳の先、崩れた岩がゴロゴロと転がって歩きづらかったポイント・・・

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沢を渡る石橋がまた、雰囲気あっていい感じ。

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あちらの石垣、いつの時代に積まれたものかは分かりませんが、茶屋でも建っていたような雰囲気がありますね。

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最後の下り。ここも岩がゴロゴロと転がっていて歩きづらいです。
上からだと、どこが道なのか分かりづらいのですが・・・

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下から振り返ると、沢沿いにちゃんと石段が組まれていました。

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蔦の細道での宇津ノ谷峠越え、所要30分程といったところでしょうか。
とてもいい散策になりました。

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蔦の細道で岡部口へ下ると、そこは木和田川の畔になります。
木和田川には明治・大正期に築かれた堰堤(砂防ダム)が、全部で8基存在しています。
写真は2号堰堤。平成15年7月の豪雨で流失し、翌16年に復旧されました。

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こちらは1号堰堤。
木和田川の堰堤は、その形状から「兜堰堤」とも呼ばれているのだそうです。

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さて、今度はこちらの旧東海道で、反対に岡部口から静岡口へと宇津ノ谷峠を越えます。

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宇津ノ谷峠の旧東海道は天正18年、豊臣秀吉が小田原征伐に乗り出した際に、軍勢の移動のために切り開かせたのが始まりとされています。
その後、江戸期に徳川家康が東海道として整備し、西国諸藩の参勤交代や人々の往来を支えてきました。

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なかなか見事な切通を抜けいきます。

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さすがは江戸期のメイン・ストリート、道幅も山中の街道としては立派なものです。

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旧東海道は一旦舗装路に出ますので、ここは右へ。
(左へ進むと明治時代に開かれた街道へ繋がります)

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この管理道路によって旧道は一部消失していますが、写真左の細い遊歩道を上がり、手摺伝いに右の方へ回り込んだ先から続いています。

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この切通のピークが峠。

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宇津ノ谷峠(旧東海道)
ここからは静岡口へ向けて下っていきます。

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延命地蔵堂跡

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地蔵堂跡の石垣

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地蔵は現在、宇津ノ谷集落の慶龍寺に安置されているそうです。

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この地蔵堂、江戸期の絵図にもしっかり描かれています。
よ~く見ると石垣も。

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松尾芭蕉と同門の俳人・山口雁山の墓。
雁山は1731年、旅に出たまま消息を絶ちました。このお墓は、彼が旅先で亡くなったと思い込んだ友人らによって建てられたものです。
ところが雁山は、駿河で黒露と名を変えて俳諧の師匠として活動し、36年後の1767年まで生存していました。

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さぁ、宇津ノ谷の集落が眼下に見えてきました。
宇津ノ谷は丸子⇔岡部間の間宿で、集落の中央を貫くのは無論、旧東海道です。

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宇津ノ谷へと下る旧東海道のヘアピン・カーブ。

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麓まで下りてきました。

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宇津ノ谷の集落と旧東海道。

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最初に立ち寄った道の駅に展示されていた宇津ノ谷のジオラマ。

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御羽織屋
天正18年、豊臣秀吉が小田原征伐の折に立ち寄って馬の草鞋を求めたところ、こちらの亭主は3つしか渡さなかったと云います。
訝しんだ秀吉が理由を尋ねると亭主は、縁起の悪い4を避けて戦勝を祈願したのだと答えたとか。
戦勝後、帰路にも再び立ち寄った秀吉から褒美に羽織を与えられました。これが「御羽織屋」の屋号の由来。
後年、家康からも茶碗を貰っているようです。

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全国を巡幸した明治天皇も、こちらに立ち寄られていたのですね。

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宇津ノ谷峠のジオラマ。
奥:宇津ノ谷の集落(静岡口)/手前:岡部口
向かって右のラインが蔦の細道で、左の峠を越えるのが旧東海道になります。

これまでも何度か触れましたが、一般的には蔦の細道古代~中世までの街道で、旧東海道は(根拠・出典は不勉強により不明ですが)秀吉が小田原征伐の際に切り開かせたのが始まり、とされています。
蔦の細道が古くからの主要道であったことには、特に異論もありません。しかし、旧東海道が天正18年までは全く存在していなかったのか、ということになると疑問を感ぜずにはいられません。
ジオラマでも地形を確認しましたが、旧東海道のルートに道を通す方が自然に思えます。

実際に歩いてみた感想として蔦の細道は、軍勢の移動にはあまりに心許ない隘路
例えば道中でも話題に上りましたが、今川義元が尾張へ向けて出陣した桶狭間合戦(1560)。この時、義元は25,000もの軍勢を率いていたと伝わります(実際にはもっと少なかったとの説もありますが、それに関してはここでは詳しく触れません)。
それだけの軍勢が蔦の細道1本だけで宇津の山を越えたとも思えず、おそらくは蔦の細道とは別に、後に秀吉が軍用道として整備させる道の元となるものが、既に存在していた可能性は考えられないでしょうか。

名にしおふ宇津の山辺の坂口に、御屋形を立て、一献進上侯なり。字津の屋の坂をのぼりにこさせられ、
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より

天正10年(1582)、織田信長は甲府から駿河を経由して安土へと凱旋する際、宇津ノ谷峠も越えています。
この時、信長一行が峠越えに利用した道も、通説(秀吉の小田原征伐=旧東海道ルートの敷設は8年後)通りだとすると蔦の細道ということになります
となると、徳川家康が用意していたと云う宇津の山辺の坂口御屋形は、冒頭に立ち寄った道の駅辺りとなりそうですが・・・

家康は信長一行の通行のため、本栖の峠道など山中の道に至るまでをも切り開いて整備したと云います。
その徹底ぶりには「信長公記」の著者・太田牛一も最大級の感嘆と称賛を贈っているくらいですので、宇津ノ谷峠越えの時だけ、蔦の細道のような隘路を辿らせたということにも違和感を覚えます。
名にしおふが、古くから文学の世界で語られてきた、と解するなら素直に蔦の細道となるのかもしれませんが…)

遅くとも戦国期には既に存在していた道を、秀吉の小田原征伐より以前、家康が信長一行のためにある程度の整備をしていた・・・
それが後に小田原征伐時の軍用道となり、江戸期の東海道へと変遷していく・・・

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仮にこの説が成立するとすれば、宇津の山辺の坂口御屋形は宇津ノ谷の集落付近に建てられていた、ということになりそうですね。

さて、既に宇津ノ谷峠を往復しましたが、この日の旧道散策で設定されたゴールは岡部宿・・・
という訳でもう一度、宇津ノ谷峠を越えます(笑)

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3度めの峠越えは、明治の東海道(隧道)で。
写真は明治9年に開通されたトンネル。このトンネルの開通により、旧東海道(江戸期)はその役目を終えました。

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トンネル工事の際、両サイドから掘り進めて少しずれが生じたため、微妙に屈曲しているのだそうです・・・歩いていても殆ど分かりませんでしたが。

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レンガ造りが醸すレトロ感がまた、いい感じです。

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開通したトンネルの様子を伝える明治期の絵図。

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岡部口へ抜けた先の国道1号線。峠を越えると藤枝市に入ります。

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藤枝市側の麓、坂下地蔵堂に安置されている蘿徑記碑
文政13年(1830)からの9年間、駿河代官を務めた羽倉簡道が蔦の細道の荒廃を憂い、その静岡口付近に建てたものです。
私は当初、江戸期にも蔦の細道は生きていて、参勤交代時などには庶民のバイパス・迂回路になっていたのでは?とも考えましたが、少なくとも江戸時代も後半になるとすっかり廃れていたようです。

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峠を越えて2㎞ほどで、岡部宿入口に到達します。

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こうして現在の航空写真と見比べると、江戸期の絵図がいかに地形まで含めて正確に描かれていたかが分かりますね。

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岡部橋で見かけたレリーフ

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そして・・・この日のゴール、大旅籠柏屋
いやぁ~午前中の歓昌院坂から本当によく歩いた。

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・・・弥次喜多と一緒になって旅装を解いてるよ(笑)

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江戸時代の旅籠の雰囲気がよく再現されています。

この後はバスで静岡駅前まで戻り、参加者で打ち上げ&新年会の乾杯☆
1日充実した古道・旧道歩きができて、いい1年のスタートが切れました。

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歓昌院坂~丸子城の北尾根

今回は宇津ノ谷峠をメインに、駿河の山中に残る古道をめぐるオフ会。
静岡駅で集合して、まずはバスで羽鳥まで移動・・・

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枕草子にその名が見られ、古くから歌枕にもなっている木枯しの森を眺めつつ藁科川を越え、牧ヶ谷から歓昌院坂を南へ向かって登っていきます。

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牧ヶ谷で見かけた観音堂。古い庚申塔などもありました。

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歓昌院坂は牧ヶ谷~(歓昌院のある)丸子の泉ヶ谷を結ぶ峠道で、古くから駿府への往来を繋ぐルートの一つだったと考えられています。

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山道へと分け入る分岐点には道標がありました。
左 歓昌院坂 ○△□(←読み取れずw)
とある通り、ここは左へ進みます。

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歓昌院坂の山道
登りはじめこそ、まずまずの歩きやすさでしたが・・・

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次第に道は荒れ始め・・・

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一部、殆ど崩れてしまっているような箇所もありました。

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山道に入ってから20分ほどで、峠が見えきます。

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峠に上がる部分で道は、綺麗に切り通されていました。

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歓昌院坂の峠

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目指す泉ヶ谷へはそのまま真っ直ぐ、こちらの道を北へ下っていけばいいのですが・・・

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思いの外、時間が早かったので急遽ルートを変更して峠からはこちらの西尾根を登り、その先の尾根の分岐点で南へと進路を取って、丸子城を経由して下山することになりました。

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結構な細尾根。

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途中、明らかに人の手が入った痕跡も見受けられましたが・・・まぁ、畑の跡といったところでしょうね。

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歓昌院坂の峠から西へ伸びる尾根は勾配もきつく、体力的にしんどかった・・・。
すっかり泉ヶ谷へ下るつもりでいた私は、ペースを乱してバテバテ・・・同行者にご迷惑をおかけしました(´-∀-`;)

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ようやく、丸子城へ向けて南へ伸びる尾根との分岐点まで到達しました。
丸子城の北方、高所に位置する尾根の合流点・・・地理的条件からして、何かしら城の背後を警戒するための施設でもあったのでは?と期待していましたが、それらしい痕跡は見受けられませんでした
ここからは丸子城へ向け、ひたすら下っていきます。

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しばらくは急勾配な下りが続きます。

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北側の尾根から見下ろす丸子城跡

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勾配がなだらかになると、明らかに古道を思わせる痕跡が続いていました。

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まるで横堀みたいですね。

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写真では分かりづらいですが、古道が二股に分岐し、まるで二重堀のように並行している箇所も。

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S字を描くように右へカーブし・・・

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そして、すぐにまた左へカーブする古道。

しばらくすると、この道は丸子城北曲輪の堀切に達します。
道としての痕跡や、周辺で交錯する山中の古道の存在などから考えても、往時からきっと城へのルートの一つだったのは間違いなさそうです。

この後は、少し丸子城にも立ち寄ってから下山しました。
風花舞い散る中バスで移動し、次は旧東海道の名所としても知られる宇津ノ谷峠へ向かいます。

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2017年1月 7日 (土)

勝沼・柏尾古戦場

先日、武田勝頼の遺蹟をめぐって大善寺にも立ち寄ったのですが、大善寺のある勝沼は慶応4年(1868)3月、近藤勇ら新選組を中心に編成された甲陽鎮撫隊が、板垣退助らが率いる新政府軍と衝突した勝沼・柏尾戦争(以下「柏尾戦争」で統一)の舞台としても知られます。

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柏尾戦争といえば、近藤勇を描いたこちらの錦絵が有名ですが、奥に描かれているのが大善寺の山門です。

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大善寺山門

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柏尾戦争の様子を伝える諸資料
(内外新報/甲府大功記/柏尾戦争図)

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現在の柏尾橋の脇、「深沢入口」交差点に建つ近藤勇像
・・・おそらく、先ほどの錦絵を元に製作されたのではないかと…(;・∀・)

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永倉新八ら、鎮撫隊の別働部隊が展開した南の方角。

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「深沢入口」交差点にはかつて、大善寺境内の東の境界を示す東神願鳥居が建っていました。
勝沼宿まで進んでいた近藤は、宿場から甲州道中沿いにいくつかの関門を築かせつつ、この東神願鳥居前に本陣を構え、大砲2門を据えて新政府軍と対峙したと伝わります。
斜面の上、鉄製のフェンス内側に見える窪みが旧甲州道中の痕跡で、この斜面は後に明治天皇行幸の際に開削されています。

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在りし日の東神願鳥居を伝える説明板

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「深沢入口」交差点でに折れ、深沢川に沿ってなだらかに下っていく柏尾坂
無論、先ほどの痕跡から続いていた旧甲州道中にあたります

柏尾坂を下っていくと・・・

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明治期の柏尾橋跡があり、右隣りには大正期の柏尾橋の跡も見えています。

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こちらが大正柏尾橋跡

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ちょっと樹木が邪魔で見えづらいですが・・・大正柏尾橋を斜め横から。
「深沢」というだけあって、かなり切り立った地形であることは見て取れるかと思います。

柏尾坂を更に下っていくと・・・

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突当りに江戸期の柏尾橋跡がありました。
つまりこの橋を渡るルートが、柏尾戦争時に於ける甲州道中ということになります。

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甲州街道分間延絵図に描かれる柏尾橋周辺
先にご紹介した内外新報の戦争絵図同様、東から西へ進んできた旧甲州道中が東神願鳥居のところでに折れ、坂を下って橋に至る・・・現在に垣間見える痕跡を、そっくり描き出してくれています

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現柏尾橋を勝沼側へ渡ってすぐ、北から国道20号に合流してくる細道。
これも江戸柏尾橋を渡り、深沢川を越えた旧甲州道中の続きということになりそうですね。

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柏尾の古戦場を、深沢川の東岸から俯瞰・・・
橋の位置が当時とは違い、写真右下方向になりますので、近藤が本陣を置いた東神願鳥居前(写真左端)は、西から甲州道中を進んでくる新政府軍が橋を渡ろうとすると、川の対岸から横矢を掛けられる位置になります。

ほんのついでのように立ち寄った形ではありましたが、新たな気付きもあり、とても楽しい散策になりました。
いずれ近いうちに、もっと詳しく訪ね歩きたいと思います。

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2017年1月 6日 (金)

新府城~武田勝頼の終幕

2017年最初の城攻めは、山梨県韮崎市にある新府城です。

新府城図
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新府城は武田勝頼の命により、躑躅ヶ崎館(古府中)に替わる甲斐武田家の新たな本拠として築城されました。
東に塩川、西には釜無川が流れ、両河川の浸食により形成された七里岩の台地上に築かれています。

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江戸時代に描かれた新府城図
実際にめぐってみて分かったのですが、ほぼこの絵図通りの遺構がよく残っていました。
駐車場が城跡の北側にありましたので、そのまま北から順にまわっていきます。

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駐車場に城跡北面の、東西2本の出構に関する説明板があったので、まずはその出構から見ていきます。

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東出構
奥に小さく、西の出構も写っています。

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西出構

これら2本の出構、如何なる目的を持って築かれたものかがはっきりとせず、横堀の水量を調節するためのダム的なものではないか、との説もあるようです。
或いは、突出させた鉄砲陣地とも・・・。

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(城跡北面の)西堀
正面奥、七里岩の断崖の縁に築かれた土橋は、搦手の乾門に繋がります。

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乾門の枡形

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綺麗な枡形虎口です。

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枡形を抜けた先の曲輪。
城外側となる北面にのみ、しっかりとした土塁が残っていました。

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帯曲輪へと続く土橋
右側は七里岩の断崖へ向けて竪堀が落とされていました。

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土橋から落とされた竪堀

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それにしても見事な、七里岩の絶壁っぷり・・・
眼下を流れているのは釜無川です。

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帯曲輪から見る西出構

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帯曲輪
北面の東堀・西堀の内側に配されていますが、堀底道のようにも見えます。
二重の横堀としての側面もあったのかもしれません。

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同じく、帯曲輪からの東出構

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井戸跡

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二の丸虎口

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二の丸

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二の丸を抜けると、いよいよ本丸へ・・・

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新府城本丸

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本丸には、とても広い空間が広がっていました。

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本丸に建つ藤武神社
新府城築城の際、城の鎮守として勝頼が城内に勧請しました。
天正10年に城と共に焼失しますが、後に徳川家康の命により再興されています。

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武田勝頼霊社の石祠
地元の民によって祀られ、お新府さんと呼んで親しまれてきたと伝わっています。

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本丸には他に、長篠役陣歿将士墓小塚に・・・

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大塚もありました。
大塚・小塚の脇には、長篠合戦で戦死した諸将の墓標が並びます。

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本丸から見上げる西方の山々・・・きっと勝頼たちも目にしていた光景ですね。

続けて南側の遺構を見てまわります。

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西三の丸の虎口

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東・西三の丸の南へ回り込み、横堀状の遺構を眺めつつ進むと・・・

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いよいよ一番の見どころのお出ましです。

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大手(南)の枡形、そして・・・

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その平虎口の先には丸馬出

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丸馬出から南側の眺め
城域南面も“断崖”とまではいかないものの、結構な高低差がありました。

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丸馬出から振り返る枡形

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そして、新府城で最もポピュラー?な…丸馬出の三日月堀

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草も刈られ、とても見易くなっていました。

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一通り見てまわり、駐車場へ戻る道すがら城跡東側の地形も観察。
堰のようなものが設けられていた痕跡も見受けられますが・・・

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流れ込んでいた沢の幅を掘り広げ、外堀として見立てていたのではないかと思います。

新府城…遺構の保存状態も良く、とても見応えのあるお城でした。
ただ、七里岩の断崖を利用しているとはいえ、構造そのものは特別戦う城という印象は受けませんでした
城跡だけで比較すると、躑躅ヶ崎館からあえて移転する必要性も認められません。釜無川と塩川に挟まれた台地に地勢・地形的な要害性を求め、首都機能をそっくり移そうとした・・・といったところでしょうか。
新首都(まさに新府中)の完成を見るには、移転着手(天正9年)から織田軍の侵攻(天正10年)まで、あまりに時間が少なすぎたか・・・。

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塩川の対岸で見かけた、切り立った断崖。
周辺の地形を見るにつけ、勝頼にもっと時間があれば、果たしてどのような要塞都市が出来上がっていたのか・・・想像を膨らませずにはいられません。

天正10年3月、織田軍の侵攻を受けて家臣の離反も相次いだ武田勝頼は、新府城を捨て、小山田信茂の岩殿山城(大月市)を目指して落ちていきます。
しかし笹子峠に差し掛かったところで、今度はその信茂にも背かれ、やむなく北の天目山へ向かうことになりました。
天目山には、武田家13代・信満の菩提寺でもある栖雲寺があります。

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甲州市大和町田野の山間に建つ土屋惣藏片手切遺蹟の碑

天目山を目指し、険しい山中を逃れる勝頼一行でしたが、その動きは既に織田方に察知されており(信長公記)、捜索の末に田野の山中に潜伏しているところを捕捉されました。
織田勢に先回りされていることを悟った勝頼は田野の郷へと引き返します。

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最後まで勝頼に従った土屋惣藏昌恒は殿軍を引き受け、山中の険しい細道で蔦に掴まり、片手で迫る織田の将兵を次々と切り伏せ、日川の狭隘な渓谷に叩き落としていったと云います。

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今でこそ県道が舗装されていますが、大正期に撮影された写真でその険阻な様子が充分に見て取れます。

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日川は切り捨てられた織田兵の血で、三日間も赤く染まったとか・・・そのため、三日血川との呼称も伝えられています。

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片手切の碑から2㎞弱ほど麓側へ下ると、武田勝頼夫妻、嫡子・信勝らの最期の地となった景徳院(別名:田野寺)があります。
元々はお寺ではありませんでしたが、勝頼らの菩提を弔うため、武田家滅亡~本能寺の変の後、甲斐を領有した徳川家康によって創建されました。天正16年には諸伽藍も完成したようです。
この高台を利して最後の決戦に挑む心づもりだったのでしょうか。

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景徳院駐車場にあった北条夫人、及び侍女16人のレリーフ。
天正10年3月11日、北条夫人の侍女ら16名は日川の渕に身を投じ、夫人に殉じたと云います。

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レリーフ裏の日川の淵
侍女らの悲劇にちなみ、別名姫ヶ淵とも呼ばれています。
※(三日血川)とは既に書きましたが、土屋惣藏に斬られた織田兵の血で日川が三日間赤く染まった、というエピソードに由来します。

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境内に向かって斜面を登っていくと、没頭地蔵が祀られています。
一説には、首級を獲られた勝頼ら3人を憐れんだ田野の民が、その遺骸をこの場所に葬ったとも。

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武田勝頼(奥)と北条夫人(手前)の生害石

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北条夫人、享年19

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武田勝頼、享年37

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こちらは夫妻のものから少し離れていますが、武田信勝の生害石。享年16

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奥から北条夫人、武田勝頼、武田信勝のお墓。
安永4年(1775)に建立されました。3名の戒名などを記した経石も大量に見つかっているそうです。

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北条夫人の辞世歌碑

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景徳院山門
天正16年の建立以来、唯一の現存建築物です。

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本堂前の旗竪松
織田軍に追い詰められた武田勝頼は、この松の根元に武田家累代の家宝である御旗を立て、嫡子信勝に盾無鎧を着せてかん甲の礼(跡目継承)を行ったとされます。

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景徳院境内から眺める天目山

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最後は勝沼の大善寺へ。
新府城を落ち、現大月市の岩殿山城を目指す勝頼一行はその途次、ここ大善寺に立ち寄っています。

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大善寺薬師堂は、1286年建立の国宝。
勝頼らが逃れてきた時にも既に存在しており、或いは実際に泊った可能性もあるのでは?と考えると、何だか感慨深くもなってきます。
御本尊の葡萄薬師は来年(平成30年)10月1日~14日の御開帳(5年に1度)を待たねばなりませんが、薬師堂内は拝観できました。

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大善寺には信玄の従妹にあたる理慶尼(勝沼氏の出)という尼僧がいました。
勝頼らを迎えた理慶尼は一行を篤くもてなし、後にその顛末を記した「理慶尼記」(武田滅亡記とも)を残しています。

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理慶尼墓所

理慶尼のもてなしは勝頼らにとり、最後の安らぎのひと時になったかもしれませんね。

新府城本丸跡の勝頼霊社にせよ、景徳院の墓所にせよ、、、武田家が後世まで、甲斐の人々から慕われていたことを改めて実感した1日にもなりました。

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2017年1月 3日 (火)

新年のお墓参り

喪中ということもあり、2017年は新年のご挨拶を遠慮させていただいておりますが、我が家の愛犬・ボンと出会って14度目のお正月を無事に迎えることができました♪

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1月2日はその報告も兼ねて?、一緒に母方のお墓参りへ。

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見つめる先には家族の姿・・・

2017010203
八王子城の城山をバックに・・・

だいぶ歳をとり、怪我の影響で足腰も弱ってきていますが、食欲はいまだ至って旺盛。
元気に過ごしております(^o^)
こんなボンを、2017年もどうぞ温かく見守ってやってください☆

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