新府城~武田勝頼の終幕
2017年最初の城攻めは、山梨県韮崎市にある新府城です。
新府城図
新府城は武田勝頼の命により、躑躅ヶ崎館(古府中)に替わる甲斐武田家の新たな本拠として築城されました。
東に塩川、西には釜無川が流れ、両河川の浸食により形成された七里岩の台地上に築かれています。
江戸時代に描かれた新府城図
実際にめぐってみて分かったのですが、ほぼこの絵図通りの遺構がよく残っていました。
駐車場が城跡の北側にありましたので、そのまま北から順にまわっていきます。
駐車場に城跡北面の、東西2本の出構に関する説明板があったので、まずはその出構から見ていきます。
東出構
奥に小さく、西の出構も写っています。
西出構
これら2本の出構、如何なる目的を持って築かれたものかがはっきりとせず、横堀の水量を調節するためのダム的なものではないか、との説もあるようです。
或いは、突出させた鉄砲陣地とも・・・。
(城跡北面の)西堀
正面奥、七里岩の断崖の縁に築かれた土橋は、搦手の乾門に繋がります。
乾門の枡形
綺麗な枡形虎口です。
枡形を抜けた先の曲輪。
城外側となる北面にのみ、しっかりとした土塁が残っていました。
帯曲輪へと続く土橋
右側は七里岩の断崖へ向けて竪堀が落とされていました。
土橋から落とされた竪堀
それにしても見事な、七里岩の絶壁っぷり・・・
眼下を流れているのは釜無川です。
帯曲輪から見る西出構
帯曲輪
北面の東堀・西堀の内側に配されていますが、堀底道のようにも見えます。
二重の横堀としての側面もあったのかもしれません。
同じく、帯曲輪からの東出構
井戸跡
二の丸虎口
二の丸
二の丸を抜けると、いよいよ本丸へ・・・
新府城本丸
本丸には、とても広い空間が広がっていました。
本丸に建つ藤武神社
新府城築城の際、城の鎮守として勝頼が城内に勧請しました。
天正10年に城と共に焼失しますが、後に徳川家康の命により再興されています。
武田勝頼霊社の石祠
地元の民によって祀られ、お新府さんと呼んで親しまれてきたと伝わっています。
本丸には他に、長篠役陣歿将士墓の小塚に・・・
大塚もありました。
大塚・小塚の脇には、長篠合戦で戦死した諸将の墓標が並びます。
本丸から見上げる西方の山々・・・きっと勝頼たちも目にしていた光景ですね。
続けて南側の遺構を見てまわります。
西三の丸の虎口
東・西三の丸の南へ回り込み、横堀状の遺構を眺めつつ進むと・・・
いよいよ一番の見どころのお出ましです。
大手(南)の枡形、そして・・・
その平虎口の先には丸馬出
丸馬出から南側の眺め
城域南面も“断崖”とまではいかないものの、結構な高低差がありました。
丸馬出から振り返る枡形
そして、新府城で最もポピュラー?な…丸馬出の三日月堀
草も刈られ、とても見易くなっていました。
一通り見てまわり、駐車場へ戻る道すがら城跡東側の地形も観察。
堰のようなものが設けられていた痕跡も見受けられますが・・・
流れ込んでいた沢の幅を掘り広げ、外堀として見立てていたのではないかと思います。
新府城…遺構の保存状態も良く、とても見応えのあるお城でした。
ただ、七里岩の断崖を利用しているとはいえ、構造そのものは特別戦う城という印象は受けませんでした。
城跡だけで比較すると、躑躅ヶ崎館からあえて移転する必要性も認められません。釜無川と塩川に挟まれた台地に地勢・地形的な要害性を求め、首都機能をそっくり移そうとした・・・といったところでしょうか。
新首都(まさに新府中)の完成を見るには、移転着手(天正9年)から織田軍の侵攻(天正10年)まで、あまりに時間が少なすぎたか・・・。
塩川の対岸で見かけた、切り立った断崖。
周辺の地形を見るにつけ、勝頼にもっと時間があれば、果たしてどのような要塞都市が出来上がっていたのか・・・想像を膨らませずにはいられません。
天正10年3月、織田軍の侵攻を受けて家臣の離反も相次いだ武田勝頼は、新府城を捨て、小山田信茂の岩殿山城(大月市)を目指して落ちていきます。
新府城図
新府城は武田勝頼の命により、躑躅ヶ崎館(古府中)に替わる甲斐武田家の新たな本拠として築城されました。
東に塩川、西には釜無川が流れ、両河川の浸食により形成された七里岩の台地上に築かれています。
江戸時代に描かれた新府城図
実際にめぐってみて分かったのですが、ほぼこの絵図通りの遺構がよく残っていました。
駐車場が城跡の北側にありましたので、そのまま北から順にまわっていきます。
駐車場に城跡北面の、東西2本の出構に関する説明板があったので、まずはその出構から見ていきます。
東出構
奥に小さく、西の出構も写っています。
西出構
これら2本の出構、如何なる目的を持って築かれたものかがはっきりとせず、横堀の水量を調節するためのダム的なものではないか、との説もあるようです。
或いは、突出させた鉄砲陣地とも・・・。
(城跡北面の)西堀
正面奥、七里岩の断崖の縁に築かれた土橋は、搦手の乾門に繋がります。
乾門の枡形
綺麗な枡形虎口です。
枡形を抜けた先の曲輪。
城外側となる北面にのみ、しっかりとした土塁が残っていました。
帯曲輪へと続く土橋
右側は七里岩の断崖へ向けて竪堀が落とされていました。
土橋から落とされた竪堀
それにしても見事な、七里岩の絶壁っぷり・・・
眼下を流れているのは釜無川です。
帯曲輪から見る西出構
帯曲輪
北面の東堀・西堀の内側に配されていますが、堀底道のようにも見えます。
二重の横堀としての側面もあったのかもしれません。
同じく、帯曲輪からの東出構
井戸跡
二の丸虎口
二の丸
二の丸を抜けると、いよいよ本丸へ・・・
新府城本丸
本丸には、とても広い空間が広がっていました。
本丸に建つ藤武神社
新府城築城の際、城の鎮守として勝頼が城内に勧請しました。
天正10年に城と共に焼失しますが、後に徳川家康の命により再興されています。
武田勝頼霊社の石祠
地元の民によって祀られ、お新府さんと呼んで親しまれてきたと伝わっています。
本丸には他に、長篠役陣歿将士墓の小塚に・・・
大塚もありました。
大塚・小塚の脇には、長篠合戦で戦死した諸将の墓標が並びます。
本丸から見上げる西方の山々・・・きっと勝頼たちも目にしていた光景ですね。
続けて南側の遺構を見てまわります。
西三の丸の虎口
東・西三の丸の南へ回り込み、横堀状の遺構を眺めつつ進むと・・・
いよいよ一番の見どころのお出ましです。
大手(南)の枡形、そして・・・
その平虎口の先には丸馬出
丸馬出から南側の眺め
城域南面も“断崖”とまではいかないものの、結構な高低差がありました。
丸馬出から振り返る枡形
そして、新府城で最もポピュラー?な…丸馬出の三日月堀
草も刈られ、とても見易くなっていました。
一通り見てまわり、駐車場へ戻る道すがら城跡東側の地形も観察。
堰のようなものが設けられていた痕跡も見受けられますが・・・
流れ込んでいた沢の幅を掘り広げ、外堀として見立てていたのではないかと思います。
新府城…遺構の保存状態も良く、とても見応えのあるお城でした。
ただ、七里岩の断崖を利用しているとはいえ、構造そのものは特別戦う城という印象は受けませんでした。
城跡だけで比較すると、躑躅ヶ崎館からあえて移転する必要性も認められません。釜無川と塩川に挟まれた台地に地勢・地形的な要害性を求め、首都機能をそっくり移そうとした・・・といったところでしょうか。
新首都(まさに新府中)の完成を見るには、移転着手(天正9年)から織田軍の侵攻(天正10年)まで、あまりに時間が少なすぎたか・・・。
塩川の対岸で見かけた、切り立った断崖。
周辺の地形を見るにつけ、勝頼にもっと時間があれば、果たしてどのような要塞都市が出来上がっていたのか・・・想像を膨らませずにはいられません。
天正10年3月、織田軍の侵攻を受けて家臣の離反も相次いだ武田勝頼は、新府城を捨て、小山田信茂の岩殿山城(大月市)を目指して落ちていきます。
しかし笹子峠に差し掛かったところで、今度はその信茂にも背かれ、やむなく北の天目山へ向かうことになりました。
天目山には、武田家13代・信満の菩提寺でもある栖雲寺があります。
甲州市大和町田野の山間に建つ土屋惣藏片手切遺蹟の碑
天目山を目指し、険しい山中を逃れる勝頼一行でしたが、その動きは既に織田方に察知されており(信長公記)、捜索の末に田野の山中に潜伏しているところを捕捉されました。
織田勢に先回りされていることを悟った勝頼は田野の郷へと引き返します。
最後まで勝頼に従った土屋惣藏昌恒は殿軍を引き受け、山中の険しい細道で蔦に掴まり、片手で迫る織田の将兵を次々と切り伏せ、日川の狭隘な渓谷に叩き落としていったと云います。
今でこそ県道が舗装されていますが、大正期に撮影された写真でその険阻な様子が充分に見て取れます。
日川は切り捨てられた織田兵の血で、三日間も赤く染まったとか・・・そのため、三日血川との呼称も伝えられています。
片手切の碑から2㎞弱ほど麓側へ下ると、武田勝頼夫妻、嫡子・信勝らの最期の地となった景徳院(別名:田野寺)があります。
元々はお寺ではありませんでしたが、勝頼らの菩提を弔うため、武田家滅亡~本能寺の変の後、甲斐を領有した徳川家康によって創建されました。天正16年には諸伽藍も完成したようです。
この高台を利して最後の決戦に挑む心づもりだったのでしょうか。
景徳院駐車場にあった北条夫人、及び侍女16人のレリーフ。
天正10年3月11日、北条夫人の侍女ら16名は日川の渕に身を投じ、夫人に殉じたと云います。
レリーフ裏の日川の淵
侍女らの悲劇にちなみ、別名姫ヶ淵とも呼ばれています。
※(三日血川)とは既に書きましたが、土屋惣藏に斬られた織田兵の血で日川が三日間赤く染まった、というエピソードに由来します。
境内に向かって斜面を登っていくと、没頭地蔵が祀られています。
一説には、首級を獲られた勝頼ら3人を憐れんだ田野の民が、その遺骸をこの場所に葬ったとも。
武田勝頼(奥)と北条夫人(手前)の生害石
北条夫人、享年19
武田勝頼、享年37
こちらは夫妻のものから少し離れていますが、武田信勝の生害石。享年16
奥から北条夫人、武田勝頼、武田信勝のお墓。
安永4年(1775)に建立されました。3名の戒名などを記した経石も大量に見つかっているそうです。
北条夫人の辞世歌碑
景徳院山門
天正16年の建立以来、唯一の現存建築物です。
本堂前の旗竪松
織田軍に追い詰められた武田勝頼は、この松の根元に武田家累代の家宝である御旗を立て、嫡子信勝に盾無鎧を着せてかん甲の礼(跡目継承)を行ったとされます。
景徳院境内から眺める天目山
最後は勝沼の大善寺へ。
新府城を落ち、現大月市の岩殿山城を目指す勝頼一行はその途次、ここ大善寺に立ち寄っています。
大善寺薬師堂は、1286年建立の国宝。
勝頼らが逃れてきた時にも既に存在しており、或いは実際に泊った可能性もあるのでは?と考えると、何だか感慨深くもなってきます。
御本尊の葡萄薬師は来年(平成30年)10月1日~14日の御開帳(5年に1度)を待たねばなりませんが、薬師堂内は拝観できました。
大善寺には信玄の従妹にあたる理慶尼(勝沼氏の出)という尼僧がいました。
勝頼らを迎えた理慶尼は一行を篤くもてなし、後にその顛末を記した「理慶尼記」(武田滅亡記とも)を残しています。
理慶尼墓所
理慶尼のもてなしは勝頼らにとり、最後の安らぎのひと時になったかもしれませんね。
新府城本丸跡の勝頼霊社にせよ、景徳院の墓所にせよ、、、武田家が後世まで、甲斐の人々から慕われていたことを改めて実感した1日にもなりました。
天目山には、武田家13代・信満の菩提寺でもある栖雲寺があります。
甲州市大和町田野の山間に建つ土屋惣藏片手切遺蹟の碑
天目山を目指し、険しい山中を逃れる勝頼一行でしたが、その動きは既に織田方に察知されており(信長公記)、捜索の末に田野の山中に潜伏しているところを捕捉されました。
織田勢に先回りされていることを悟った勝頼は田野の郷へと引き返します。
最後まで勝頼に従った土屋惣藏昌恒は殿軍を引き受け、山中の険しい細道で蔦に掴まり、片手で迫る織田の将兵を次々と切り伏せ、日川の狭隘な渓谷に叩き落としていったと云います。
今でこそ県道が舗装されていますが、大正期に撮影された写真でその険阻な様子が充分に見て取れます。
日川は切り捨てられた織田兵の血で、三日間も赤く染まったとか・・・そのため、三日血川との呼称も伝えられています。
片手切の碑から2㎞弱ほど麓側へ下ると、武田勝頼夫妻、嫡子・信勝らの最期の地となった景徳院(別名:田野寺)があります。
元々はお寺ではありませんでしたが、勝頼らの菩提を弔うため、武田家滅亡~本能寺の変の後、甲斐を領有した徳川家康によって創建されました。天正16年には諸伽藍も完成したようです。
この高台を利して最後の決戦に挑む心づもりだったのでしょうか。
景徳院駐車場にあった北条夫人、及び侍女16人のレリーフ。
天正10年3月11日、北条夫人の侍女ら16名は日川の渕に身を投じ、夫人に殉じたと云います。
レリーフ裏の日川の淵
侍女らの悲劇にちなみ、別名姫ヶ淵とも呼ばれています。
※(三日血川)とは既に書きましたが、土屋惣藏に斬られた織田兵の血で日川が三日間赤く染まった、というエピソードに由来します。
境内に向かって斜面を登っていくと、没頭地蔵が祀られています。
一説には、首級を獲られた勝頼ら3人を憐れんだ田野の民が、その遺骸をこの場所に葬ったとも。
武田勝頼(奥)と北条夫人(手前)の生害石
北条夫人、享年19
武田勝頼、享年37
こちらは夫妻のものから少し離れていますが、武田信勝の生害石。享年16
奥から北条夫人、武田勝頼、武田信勝のお墓。
安永4年(1775)に建立されました。3名の戒名などを記した経石も大量に見つかっているそうです。
北条夫人の辞世歌碑
景徳院山門
天正16年の建立以来、唯一の現存建築物です。
本堂前の旗竪松
織田軍に追い詰められた武田勝頼は、この松の根元に武田家累代の家宝である御旗を立て、嫡子信勝に盾無鎧を着せてかん甲の礼(跡目継承)を行ったとされます。
景徳院境内から眺める天目山
最後は勝沼の大善寺へ。
新府城を落ち、現大月市の岩殿山城を目指す勝頼一行はその途次、ここ大善寺に立ち寄っています。
大善寺薬師堂は、1286年建立の国宝。
勝頼らが逃れてきた時にも既に存在しており、或いは実際に泊った可能性もあるのでは?と考えると、何だか感慨深くもなってきます。
御本尊の葡萄薬師は来年(平成30年)10月1日~14日の御開帳(5年に1度)を待たねばなりませんが、薬師堂内は拝観できました。
大善寺には信玄の従妹にあたる理慶尼(勝沼氏の出)という尼僧がいました。
勝頼らを迎えた理慶尼は一行を篤くもてなし、後にその顛末を記した「理慶尼記」(武田滅亡記とも)を残しています。
理慶尼墓所
理慶尼のもてなしは勝頼らにとり、最後の安らぎのひと時になったかもしれませんね。
新府城本丸跡の勝頼霊社にせよ、景徳院の墓所にせよ、、、武田家が後世まで、甲斐の人々から慕われていたことを改めて実感した1日にもなりました。
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