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2017年1月29日 (日)

旧東海道…袋井宿~天竜川

静岡旅2日め。この日は単独行動になります。
とはいえ、朝起きた時点で未だノープラン・・・さて、どうしよ?

いろいろ考えた末、そもそも今回は古道めぐりで訪れた静岡・・・前日に歩いた宇津ノ谷峠からの繋がりで、旧東海道を歩くことにしました。
ゴールを以前から訪れてみたかった天竜川に設定し、そこまでの距離を考えて・・・

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袋井宿をスタート地点に選択。
駅前から少し北上して、旧東海道を目指します。

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袋井宿場公園。
看板に「どまん中」とありますが、袋井宿は東海道五十三次のちょうど中間、27番目の宿場にあたります。

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袋井宿東本陣、田代家跡。

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袋井の丸凧は、歌川広重の「東海道五十三次袋井」にも描かれいます。

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本町宿場公園
高札場があった場所のようで、常夜灯も移設されています。

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朝一番の、まだ人気のない冬の旧東海道。

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寺澤家長屋門
明治元年(1868)の建立。

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しばらくすると旧東海道は、県道413号線に合流します。
写真は413号から、合流ポイントを振り返った様子(右が旧東海道)。

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そのまま413号をひたすら真っすぐ歩くこと500m、木原で再び分岐します。

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木原松橋の案内板

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旧東海道と県道413号線の分岐点手前にある、現在の松橋。

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「東海道分間延絵図」に描かれた木原村。右端に松橋も。

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木原村の旧東海道
この辺りにはかつて、一里塚がありました。

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跡地近く(60m西)に復元された木原一里塚

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許禰神社境内に建つ木原畷古戦場碑と、徳川家康の腰掛石
木原畷の戦いとは元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦の直前、物見に出た徳川勢が武田軍と接触して起きた戦い。
また、腰掛石は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の折、西へ向かう家康が戦勝祈願に当社を訪れた際に腰を掛けたとの伝承があるようです。

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許禰神社を過ぎると、旧東海道は再び県道413号に戻ります。

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再合流後、1kmほどで太田川を越えます。
太田川から西の方角を見ると、南北に広く伸びる台地が広がります。

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太田川を渡る三ヶ野橋。
川を渡った先で旧東海道は、県道のすぐ左脇に別れます。

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旧東海道に残る松並木。
先ほどの台地、三ヶ野坂も近づいてきました。

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三ヶ野坂のすぐ足元で右に分岐するのは、大正期に開設された東海道。
大正期の東海道はここから右斜めへ進み、すぐに現在の県道413号と合流したようです。

私は勿論左、江戸期までの東海道を進みます。

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大正期の道との分岐後すぐ、旧東海道はここを左に折れて三ヶ野坂の台地に登ります。

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三ケ野坂上に建つ大日堂
元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦直前、物見に出た徳川軍は武田軍と遭遇し、追撃を受けます。
ここはその時、木原畷・三ケ野・一言坂と続く浜松への撤退戦の起きた場所の一つ。境内には本田平八郎物見の松もあったそうです。

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三ヶ野坂から、歩いてきた旧東海道方面の眺め。
武田軍に追われる徳川勢が、木原から退いてきたルートでもあります。
※実は大日堂に着くと、前日の歓昌院坂や宇津ノ谷峠でご一緒した方が待っていてくれて、三方ヶ原合戦時の徳川・武田両軍の動きや、周辺の地理について教えてくださいました。

みつけの国府の上、鎌田ケ原、みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より(以下、引用同)

天正10年(1582)4月、甲州征伐を終えて安土への凱旋途上にある織田信長は、この三ヶ野坂に用意された御屋形で休息し、馬伏塚・高天神・小山などの各城を眺め渡したと云います。
すぐ南の同じ台地上には鎌田の地名も残りますが、みつけの国府の上という表現には疑問が・・・。
この書き方だと遠江の国府が三ヶ野坂の下にあったように受け取れますが、みつけ=見付はここから更に西へ行った先。国府もそちらにあったと考えられています。

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三ヶ野坂から、信長も目にした高天神城方面の眺め。
でも・・・小山はおろか、距離からして高天神ですら手に取るように見えたとは思えないのですが・・・(^_^;)

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大日堂から西へ延びる旧東海道

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付近には今も旧東海道(江戸期)の他、鎌倉古道や明治・大正期に開かれた街道も残ります。

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鎌倉古道

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こちらは明治期に敷設された東海道
大日堂を経由せず、その西側で江戸期の東海道に合流していました。

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大日堂から先も地形が複雑に入り組んでおり、結構アップダウンがありました。

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松並木
こちらはどうやら、大正期に植えられたもののようです。

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行人坂を越えると・・・

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またまた県道413号線に合流。
右が県道に合流してきた旧東海道です。

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県道に合流後すぐにまた、今度は右へ分岐します。

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分岐後の旧東海道。常夜灯の姿も。

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この坂を下った先が見付宿になります。

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愛宕山から見渡す東海道五十三次見付宿。

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見付宿の町並み

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「東海道分間延絵図」に描かれた見付宿

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見付宿脇本陣大三河屋門(藥医門)
移築復元になります。

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見付宿で気になった路地。
この路地沿いには店が1軒もなく、住人以外には必要のない通りだったことから「不用小路」・・・いや、住人には大切な路地でしょ(笑)

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先ほどの「東海道分間延絵図」にもちゃんと描かれている通り、旧東海道はここで左(南/県道43号線)へ折れます。
これは江戸期の宿場に合わせて築かれた東海道の道筋で、一言坂の古戦場はこのまま真っすぐ進んだ先の方角にあります。

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分岐と合流を繰り返す旧東海道。

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遠江国分寺跡

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発掘調査成果から推定される国分寺の姿。
昭和26年の発掘調査で金堂・講堂・塔・中門・回廊・南大門・築地塀跡などが判明しています。

さて、先ほど三ヶ野坂の時に「信長公記」の一節、みつけの国府の上を引用して疑問を呈しましたが、国府もこの国分寺の近くにあったものと考えられています。

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現に国分寺跡の地名は「国府台」
その名の通り、見付宿から坂を登った台地上にあります。尚更、みつけの“国府の上”という表現とも矛盾を覚えます・・・「信長公記」編纂時には年数も経っていて、記憶が混同しちゃったのかな?(^_^;)
(こういった矛盾は時折散見されます)

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国分寺跡から更に南へ進むと、磐田駅前に出ます。
磐田といえば・・・ねぇ?(笑)

旧東海道は磐田駅前で西へ進路を変えますが、ここで一旦昼休憩。
駅前とはいえ、食事のできそうなお店が殆ど見当たらない・・・どうにか1軒だけみつけた蕎麦・うどんのお店でひと心地・・・寒さに加え、前日からの疲労も重なって結構腰にもきていました。
この先はまた電車の沿線から離れてしまうこともあり、ここで切り上げるか否か迷っていたのですが・・・暖を取り、お腹も満たされて復活(笑)

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という訳で、旧東海道歩きを続けます。

※私はこの先も近世東海道のルートに沿って歩きましたが、信長一行は見附宿より先は南へ迂回する近世東海道ルートではなく、真っ直ぐ天竜川の渡し場となる池田までを繋ぐ姫街道のルートを採ったものと思われます。

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磐田駅前からしばらく西へ進むと下り坂に差し掛かり、その先で県道261号線に合流します。
この坂は少し北方の、一言坂に連なる台地の縁にあたります。

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県道261号に合流した旧東海道。松並木も残っていました。
右端に台地の縁も、ほんの僅かに写っています…(^_^;)

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一言橋

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県道沿いに点々と残る松並木

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森下の分岐点・・・ここは左へ。

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まだまだ延々と続きます。

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長森の辺りで右へ折れ、今度は県道262号線を北へ進みます。
目指す天竜川も目前で、川に沿って歩く形になります。

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国道1号線を越えて、こちらの分岐は左へ。

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池田の町中で見かけた常夜灯。

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そして・・・天竜川を越える池田の渡し碑

池田の宿より天龍川へ着かせられ、爰に舟橋懸け置かれ、(中略)此の天龍は、甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、川の面寒しく、渺ゝとして、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり。

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池田の渡し跡
家康は信長一行の通行のため、この天竜川に舟橋を架け渡したと云います。
天竜川は東海道屈指の大河で難所としても知られ、太田牛一も上古よりの初めなりと驚いているように、そこに舟橋を架けるなど、当時の人々の常識からは考えられないことでした。
家康の粉骨砕身ぶりが窺い知れるエピソードですね。

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私も天竜川を渡ります。
強風吹きっ晒しで寒かったこと!ww

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池田の渡し方向・・・見づらい(^_^;)

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大天竜の雄姿

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天竜川を越えると、そこはもう浜松市・・・よく歩いたなぁ~

ゴールに定めた天竜川も越えたので目的は達しましたが、電車に乗って帰らないといけませんので、引き続きこの先の天竜川駅まで歩きます。
(ここからの道のりが思いの外長かった・・・)

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天竜川を越えた先の旧東海道

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横町通りの標柱
この奥には舟橋之記の碑や、明治天皇玉座跡の碑が建っていました。

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この辺りは中野町といって、中ノ町道路元標も残ります。
大正9年の旧道路法施行により全国の市町村に設置されたものの一つです。全国に現存するものは1600基ほどで、静岡県内では唯一とも。

十返舎一九が;
「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」
と書いているように、江戸⇔京都間のちょうど中間の距離に位置していることから「中野(の)町」となったようです。

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中野町を通過する旧東海道。
右に見えるのは金原明善生家跡。

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安間一里塚跡と、姫街道の起点だった付近。

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最後にもう一度、旧東海道の松並木。

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ようやく天竜川駅に到着です。
距離にして14~5kmほどかな?…たいした距離でもないけど、終始寒風に晒されてきつかったなぁ~

この先にもまだまだ訪れてみたいポイントはありますので、いずれまた、旧東海道歩きを続けたいと思います。

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