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2017年1月28日 (土)

宇津ノ谷峠~岡部宿

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古くから交通の要衝としても知られる宇津ノ谷峠
現在はトンネルが開通して国道1号線が貫いていますが、その山中には歴史ある古道が今も残っています。

まずは静岡口から蔦の細道と呼ばれる、一般的に古代~中世までの主要道と認識されている道を歩いて峠を越えてみることにします。

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蔦の細道の登り口は、こちらの道の駅の裏手。
スタート前にちょっと昼休憩をとることにしました。すると・・・
その間、日本列島を襲った寒波の影響でみるみる天候が悪化し、静岡だというのに風花のような雪が猛烈な勢いで風吹きだしました・・・。

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果たして峠越えできるのか・・・心配でしたが、自然相手のことでは仕方がありません。
道の駅で購入したしぞ~かおでんで暖を取りつつ待機・・・おでん、美味しかったなぁ~♪

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20分ほども休んでいると日頃の行いが良かったお陰か(?)、つい先ほどまでの風吹もピタッと収まりましたので、いよいよ峠越えをスタートします。

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この辺りから本格的な峠越えの山道に入ります。

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道を挟むように、両サイドには沢が流れていました。
或いは獣除けの意味合いもあったのかな?などと考えました。

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雰囲気のある石積みも・・・

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蔦の細道
一般的に宇津の山を越える中世までの官道と云われ、事実その成立は古く、平安初期に成立した「伊勢物語」にも;
『宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心捕捉、
駿河なるうつの山辺のうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり』
とあります。

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しかし、江戸期に東海道が成立すると、蔦の細道は次第に廃れていきました。
現在、我々が歩くことのできるこの道は、昭和に入って地元の研究者が埋もれていた古道をみつけ、復元したものです。

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蔦の細道に沿って流れる沢

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15分ほども登ると峠が見えてきます。

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宇津ノ谷峠(蔦の細道)

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この日は残念ながら雲に隠れていましたが、峠からは富士山を望むこともできます。

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富士山とは反対側、岡部宿方面の眺め。

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峠を越え、今度は岡部口へ向けて蔦の細道を下ります。

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岡部口側の道は比較的、全体的に開けていました。

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猫石
古代信仰の象徴的な石なのだそうです。

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猫石のある場所から先は、とても雰囲気のある石畳になっています。

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石畳の先、崩れた岩がゴロゴロと転がって歩きづらかったポイント・・・

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沢を渡る石橋がまた、雰囲気あっていい感じ。

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あちらの石垣、いつの時代に積まれたものかは分かりませんが、茶屋でも建っていたような雰囲気がありますね。

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最後の下り。ここも岩がゴロゴロと転がっていて歩きづらいです。
上からだと、どこが道なのか分かりづらいのですが・・・

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下から振り返ると、沢沿いにちゃんと石段が組まれていました。

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蔦の細道での宇津ノ谷峠越え、所要30分程といったところでしょうか。
とてもいい散策になりました。

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蔦の細道で岡部口へ下ると、そこは木和田川の畔になります。
木和田川には明治・大正期に築かれた堰堤(砂防ダム)が、全部で8基存在しています。
写真は2号堰堤。平成15年7月の豪雨で流失し、翌16年に復旧されました。

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こちらは1号堰堤。
木和田川の堰堤は、その形状から「兜堰堤」とも呼ばれているのだそうです。

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さて、今度はこちらの旧東海道で、反対に岡部口から静岡口へと宇津ノ谷峠を越えます。

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宇津ノ谷峠の旧東海道は天正18年、豊臣秀吉が小田原征伐に乗り出した際に、軍勢の移動のために切り開かせたのが始まりとされています。
その後、江戸期に徳川家康が東海道として整備し、西国諸藩の参勤交代や人々の往来を支えてきました。

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なかなか見事な切通を抜けいきます。

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さすがは江戸期のメイン・ストリート、道幅も山中の街道としては立派なものです。

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旧東海道は一旦舗装路に出ますので、ここは右へ。
(左へ進むと明治時代に開かれた街道へ繋がります)

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この管理道路によって旧道は一部消失していますが、写真左の細い遊歩道を上がり、手摺伝いに右の方へ回り込んだ先から続いています。

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この切通のピークが峠。

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宇津ノ谷峠(旧東海道)
ここからは静岡口へ向けて下っていきます。

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延命地蔵堂跡

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地蔵堂跡の石垣

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地蔵は現在、宇津ノ谷集落の慶龍寺に安置されているそうです。

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この地蔵堂、江戸期の絵図にもしっかり描かれています。
よ~く見ると石垣も。

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松尾芭蕉と同門の俳人・山口雁山の墓。
雁山は1731年、旅に出たまま消息を絶ちました。このお墓は、彼が旅先で亡くなったと思い込んだ友人らによって建てられたものです。
ところが雁山は、駿河で黒露と名を変えて俳諧の師匠として活動し、36年後の1767年まで生存していました。

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さぁ、宇津ノ谷の集落が眼下に見えてきました。
宇津ノ谷は丸子⇔岡部間の間宿で、集落の中央を貫くのは無論、旧東海道です。

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宇津ノ谷へと下る旧東海道のヘアピン・カーブ。

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麓まで下りてきました。

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宇津ノ谷の集落と旧東海道。

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最初に立ち寄った道の駅に展示されていた宇津ノ谷のジオラマ。

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御羽織屋
天正18年、豊臣秀吉が小田原征伐の折に立ち寄って馬の草鞋を求めたところ、こちらの亭主は3つしか渡さなかったと云います。
訝しんだ秀吉が理由を尋ねると亭主は、縁起の悪い4を避けて戦勝を祈願したのだと答えたとか。
戦勝後、帰路にも再び立ち寄った秀吉から褒美に羽織を与えられました。これが「御羽織屋」の屋号の由来。
後年、家康からも茶碗を貰っているようです。

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全国を巡幸した明治天皇も、こちらに立ち寄られていたのですね。

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宇津ノ谷峠のジオラマ。
奥:宇津ノ谷の集落(静岡口)/手前:岡部口
向かって右のラインが蔦の細道で、左の峠を越えるのが旧東海道になります。

これまでも何度か触れましたが、一般的には蔦の細道古代~中世までの街道で、旧東海道は(根拠・出典は不勉強により不明ですが)秀吉が小田原征伐の際に切り開かせたのが始まり、とされています。
蔦の細道が古くからの主要道であったことには、特に異論もありません。しかし、旧東海道が天正18年までは全く存在していなかったのか、ということになると疑問を感ぜずにはいられません。
ジオラマでも地形を確認しましたが、旧東海道のルートに道を通す方が自然に思えます。

実際に歩いてみた感想として蔦の細道は、軍勢の移動にはあまりに心許ない隘路
例えば道中でも話題に上りましたが、今川義元が尾張へ向けて出陣した桶狭間合戦(1560)。この時、義元は25,000もの軍勢を率いていたと伝わります(実際にはもっと少なかったとの説もありますが、それに関してはここでは詳しく触れません)。
それだけの軍勢が蔦の細道1本だけで宇津の山を越えたとも思えず、おそらくは蔦の細道とは別に、後に秀吉が軍用道として整備させる道の元となるものが、既に存在していた可能性は考えられないでしょうか。

名にしおふ宇津の山辺の坂口に、御屋形を立て、一献進上侯なり。字津の屋の坂をのぼりにこさせられ、
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より

天正10年(1582)、織田信長は甲府から駿河を経由して安土へと凱旋する際、宇津ノ谷峠も越えています。
この時、信長一行が峠越えに利用した道も、通説(秀吉の小田原征伐=旧東海道ルートの敷設は8年後)通りだとすると蔦の細道ということになります
となると、徳川家康が用意していたと云う宇津の山辺の坂口御屋形は、冒頭に立ち寄った道の駅辺りとなりそうですが・・・

家康は信長一行の通行のため、本栖の峠道など山中の道に至るまでをも切り開いて整備したと云います。
その徹底ぶりには「信長公記」の著者・太田牛一も最大級の感嘆と称賛を贈っているくらいですので、宇津ノ谷峠越えの時だけ、蔦の細道のような隘路を辿らせたということにも違和感を覚えます。
名にしおふが、古くから文学の世界で語られてきた、と解するなら素直に蔦の細道となるのかもしれませんが…)

遅くとも戦国期には既に存在していた道を、秀吉の小田原征伐より以前、家康が信長一行のためにある程度の整備をしていた・・・
それが後に小田原征伐時の軍用道となり、江戸期の東海道へと変遷していく・・・

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仮にこの説が成立するとすれば、宇津の山辺の坂口御屋形は宇津ノ谷の集落付近に建てられていた、ということになりそうですね。

さて、既に宇津ノ谷峠を往復しましたが、この日の旧道散策で設定されたゴールは岡部宿・・・
という訳でもう一度、宇津ノ谷峠を越えます(笑)

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3度めの峠越えは、明治の東海道(隧道)で。
写真は明治9年に開通されたトンネル。このトンネルの開通により、旧東海道(江戸期)はその役目を終えました。

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トンネル工事の際、両サイドから掘り進めて少しずれが生じたため、微妙に屈曲しているのだそうです・・・歩いていても殆ど分かりませんでしたが。

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レンガ造りが醸すレトロ感がまた、いい感じです。

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開通したトンネルの様子を伝える明治期の絵図。

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岡部口へ抜けた先の国道1号線。峠を越えると藤枝市に入ります。

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藤枝市側の麓、坂下地蔵堂に安置されている蘿徑記碑
文政13年(1830)からの9年間、駿河代官を務めた羽倉簡道が蔦の細道の荒廃を憂い、その静岡口付近に建てたものです。
私は当初、江戸期にも蔦の細道は生きていて、参勤交代時などには庶民のバイパス・迂回路になっていたのでは?とも考えましたが、少なくとも江戸時代も後半になるとすっかり廃れていたようです。

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峠を越えて2㎞ほどで、岡部宿入口に到達します。

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こうして現在の航空写真と見比べると、江戸期の絵図がいかに地形まで含めて正確に描かれていたかが分かりますね。

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岡部橋で見かけたレリーフ

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そして・・・この日のゴール、大旅籠柏屋
いやぁ~午前中の歓昌院坂から本当によく歩いた。

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・・・弥次喜多と一緒になって旅装を解いてるよ(笑)

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江戸時代の旅籠の雰囲気がよく再現されています。

この後はバスで静岡駅前まで戻り、参加者で打ち上げ&新年会の乾杯☆
1日充実した古道・旧道歩きができて、いい1年のスタートが切れました。

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