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2017年2月

2017年2月27日 (月)

馬蹄段最下段部の発掘現場

2017年2月26日、ぶらりと八王子城跡へ。
今年度(平成28年度)は金子曲輪下馬蹄段、その最下段部発掘調査が行われているとの事だったので、ちょっと様子見に訪れてみました。

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いつもはボランティアガイドさんたちが常駐している管理棟も老朽化のため、現在は改修工事中。

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昨年実施された調査で顕在化した、ニの鳥居脇の石垣。
これまでも一部が表出していましたが、私はてっきり、後世に積まれた八王子神社参道の土止めの石積みと思っていました・・・。
しかし参道の途中で隅石状になっていて道とは形状が合わないし、或いは柵門台の東下(脇)から連なる石垣遺構の一部だったのかもしれません。

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そして、今月(2017年2月)に発掘調査が行われた、ニの鳥居を潜ってすぐの場所。
ブルーシートが掛けられていますが、三段ほどの段差が認められます。
間に八王子神社の参道(破壊道)を挟んで左側にも段差があり、左右それぞれの段差のラインは綺麗に繋がります。往時はそれぞれが一つの小さな曲輪のようになっていたのでしょうね。
果たして何か新しい発見はあったのか・・・報告が待たれます。

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金子曲輪下の馬蹄段

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柵門台東脇の石垣
枯葉が積もったせいでそう見えるだけなのか、調査直後(2~3年前)に比べて少々心許ない感じが・・・。

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2017年2月20日 (月)

最近の…癖?

コタツの出ている冬、私がコタツに入るとすぐに膝の上に乗って居眠りを始めるボン
ところが最近、ちょっと可笑しなポーズをとるようになりました。

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こうして片方の手を、ポンとテーブルに掛けるようにして・・・
目が開いているようにも見えますが、このままの姿勢で熟睡してます(笑)

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テーブルの上には肉球だけが、こんにちは(^o^)
面白いからつい写真を撮ってしまいましたw

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2017年2月 2日 (木)

2月2日といえば・・・

本日、2月2日は我が家の愛犬・ボンお誕生日♪
今年(2017年)で満14歳になりました。

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当然、毎年恒例のリンゴとさつま芋で作った特製ケーキ?(→昨年の記事参照)でお祝いしたのですが・・・
なんと、肝心な時にカメラが不調をきたし、撮影に失敗してしまいました・・・(>_<)

しかしもう、14年も経つのですねぇ・・・
思えば、皺の関係で喉が極端に狭く、粒の小さなドライフードですらまともに通らずに、最初の頃は知らなくて何度か窒息させかけもした・・・
若い頃に前立腺の大病も患った・・・克服した時の安堵感は今でも忘れられない。
4年前からは後脚の前十字靱帯を傷めたまま、騙し騙し過ごしているし、他にも皮膚が弱かったりと、、、まぁ何かと手のかかる子。

それでも14歳になる今もなお、食べたい!という欲求は衰えることを知らず、日に2回の食事の時間など、「早く寄越せ!」と急かすこと急かすこと・・・(^_^;)
その元気な姿に家族も勇気づけられ、たくさんの幸せを貰っています。

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これからも一日、一週間、一ヶ月、そして一年と、一緒の時間をより大切に暮らしていきたいと思います。
・・・そう言う割には、一人でホイホイ旅に出てるけど(笑)

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知念城、斎場御嶽、浦添ようどれ&浦添城 (沖縄グスクめぐり⑥)

楽しい時は過ぎるのも早いもの・・・沖縄の旅もいよいよ最終日です。
眠い目をこすりながら集合時間の7時にロビーへ下りてみると・・・どうやら別ホテルに宿泊している一人が姿を現さない模様。ま、前の晩に遅くまで遊んだからね(^_^;)
部屋に電話をかけてもらい、無事にお目覚めいただいてから出発(笑)


知念城(南城市知念知念)

最終日のスタートは、前日後半にも訪れていた南城市にある知念城。

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知念城前にあったノロ屋敷跡の石垣
ノロは琉球信仰に於ける女性神官のこと。祭祀を司り、御嶽を管理していました。
按司から屋敷地を与えられ、大切に保護されていたのでしょうか。

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知念城の城壁
知念城は主に、ミーグスク(新城)クーグスク(古城)と呼ばれる2つの郭から成ります。
写真はミーグスクの城壁(クーグスクは写真左にある斜面の上)

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正門を通ると、正面には石垣で築かれた蔀状の壁がありました。

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こうして見ると正門(右)だけでなく、裏門(左)にも蔀状の壁が設けられ、まるで枡型のようになっていますね。
こうした蔀、少なくともこの旅でめぐった城では他に例を見ませんでした。そういった意味では、かなり新しい時期に造られたのかもしれません・・・新城だけに。

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すぐ眼前の久高島(写真には写っていない)への遥拝所があった辺り。

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そして近くの山の中腹に、知念按司の墓があるというので向かったみたものの・・・

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かなり鬱蒼とした山道を登って行かねばならず、ビビリな私はハブを敬遠してパス・・・(^_^;)
ちなみに麓はウファカルといって、琉球の稲作発祥の地と伝えられているそうです。

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今では畑になっていて、水田を思わせるものは・・・これくらい?(^_^;)


斎場御嶽(せーふぁうたき)

次は、知念城のすぐ近くにある斎場御嶽へ。

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斎場御嶽へは、こちらの物産館で券を購入してから参拝します。

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物産館から斎場御嶽への道順。

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斎場御嶽は琉球王国最高の聖地
はじめに簡単なVTRで参拝の注意事項を確認してから、参道へ向かいます。

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大庫理(ウフグーイ)
「大広間」「一番座」という意味を持つ、御門口から登っていった先の最初の拝所。

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参道脇には、沖縄戦で撃ち込まれた砲弾による爪痕も残っていました。

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参道にも厳粛な空気が漂います。
心配していましたが、さすがに大陸からの観光客グループも、ここではあまり騒いではいませんでした。

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寄満(ユインチ)
意味としては「台所」。豊穣の満ちた所、と解されています。

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「聖なる水」を滴らせる2本の鍾乳石と、それを受けるシキヨダユル・アマダユルの壺。

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巨大な岩でできた三角形の通り道の先が三庫理(サングーイ)

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いざ、三庫理へ・・・

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三庫理

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三庫理からは、琉球創成の神アマミキヨが天から降臨し、国創りを始めたという神の島久高島を正面に見据えることができます。
各地に点在する全ての御嶽が拝する久高島・・・その先にあると云うニライカナイ。それが今、眼前に・・・。
この地が何故、琉球最高の聖地と成り得たのか・・・それを明瞭に物語ってくれるような光景でした。

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去り際、見送りに来てくれた小鳥。


浦添ようどれ浦添城(浦添市当山)

3泊4日の沖縄旅、ラストは浦添へ。

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浦添城図

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まずは13世紀の中山王・英祖、そして第二尚氏七代・寧の陵墓である浦添ようどれへ。

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浦添ようどれの石垣
「ようどれ」とは「夕凪」の意味。それだけだと、なぜ陵墓にそう名付けられたのか分りづらいのですが、他に「極楽」という意味もあるそうです。それなら・・・なんとなく分かるような気もしますね。
背後にある浦添城共々、ようどれは沖縄戦に於いてアメリカ軍の激しい攻撃に晒され、破壊されています
近年、発掘調査に基づき修復されて戦前の姿を取り戻しました。

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現地には戦前の古写真も展示されていましたが、岩肌の形まで随分と変わっていました
砲撃の激しさを物語っているかのようです。

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このアーチ門を抜けた先に・・・

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英祖王(手前)、尚寧王(奥)の眠る墓室があります。

続いて浦添城へ。
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復元された浦添城の石垣

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あちらの石垣も復元のようです。
沖縄戦での破壊により、遺構らしきものは殆ど残っていません。

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城跡内にあるディークガマ御嶽
沖縄戦により、市内各地で亡くなった5,000人もの人々を祀る「浦和の塔」もありました。

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かすかに痕跡を留めている浦添城の石垣

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浦添城の前の碑
1597年、浦添城と首里城とを結ぶ道路を建設した際の、竣工記念碑。尚寧王の命で国民が力を合わせ、道を築いた様子が具に記されています。
こちらも沖縄戦で破壊されたため、1999年に復元されました。

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確かに浦添城から、首里城の正殿の屋根も見えていました。
(写真中央、小高い丸い丘の左上)

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石碑前の岩は「馬ヌイ石」、馬に乗るための踏み台と考えられています。
とすると、その首里城とを結ぶ道はこの辺りから延びていたのでしょうか。

さて、これにて3泊4日に及ぶ沖縄グスクの旅も終了です。
この後は空港へ向かい、昼食がてらに簡単な打ち上げの後、各自のフライト時間に合わせて追々解散となりました。

初めて訪れた沖縄の地。
今回はグスクめぐりに主眼を置いた旅で、実際に訪れたグスクはどれも刺激的で素晴らしかった。
それと同時に、各地をめぐっているうちに自然と目にし、肌で感じることになる72年前の沖縄戦のこと、沖縄の人々の信仰のこと。。。
沖縄に限ったことではないが、旅をする時はその土地の歴史や風習、風土に敬意を払って臨まなくてはならない・・・改めてそう感じた4日間。
特に沖縄では「信仰」というものに、強烈な印象を刻まれました。

楽しく、有意義な旅を共有できた旅仲間にも感謝です。ありがとうございました(^_^)/
・・・次の機会には、7時に起こして桃色の○○○履かせ、緑の財布を持って波に弄ばれましょ~(^m^)

※全6回に渡って記事を上げてまいりましたが、何分、沖縄の歴史には疎いので、随分と薄っぺらい内容になってしまいました・・・。
より詳しく知りたい方は、旅の同行者がブログにまとめてくれているので、そちらも是非☆
山城Love☆ (カテゴリ「九州・沖縄地方」)

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糸数城、玉城城、垣花城、島添大里城、他 (沖縄グスクめぐり⑤)

糸数城(南城市玉城糸数)

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3日目後半は、南山地方のグスクが点在する南城市へ移動、まずは糸数城に到着です。
いきなり心奪われる光景がお出迎えしてくれました。

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城門
糸数城は、玉城(この後訪れます)の按司が自らの三男を糸数按司に任じて築かせたと伝わる城。

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見事な曲線を描きだす堅牢な城壁がとても美しく、感動すら覚えます。

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城門を抜け、城壁を城外側から。
櫓台のようにせり出した箇所もありました。
ちなみに、隅をとんがらせる隅頭石は見当たりません・・・地域差・築城年代などが関係するのでしょうか?

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城門を抜けた先は広い平坦地になっています。
石積みで区画された空間がいくつか散見され、城外ではありますが何らかの居住空間・施設があったものと思われます。

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では、城壁に上がってみます。

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城壁には武者走り状の通路が設けられていました。

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糸数城の城壁・・・素晴らしい

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台地の突端のような場所に築かれた糸数城。
従来はこの城壁が下に見える城壁と繋がっており、林道の辺りにも搦手の門があったのかもしれません。


玉城城(南城市玉城玉城)

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玉城城・・・別名アマツヅ城とも。
沖縄の国土を創成したと云う沖縄神話の神・アマミキヨが築いた城との伝説もあります。
但し、アマミキヨは女神とのことですが。

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玉城城からの眺め
既に夕方近い時刻でしたが、海の青がよく映えていました。

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自然の断崖を利用した一の郭の城壁。上部は石垣で整えられています。
玉城城には段階的に二の郭、三の郭もあったようですが、それらの城壁の石材は基地建設の用材として、米軍が運び去ってしまったようです。

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自然の岩盤をくりぬいたかのような城門

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城門を郭内から
内側には石垣が積まれていました。

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一の郭

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一の郭に祀られる「天つぎあまつぎ」の御嶽

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伝承通りなら沖縄最古ともいえる城。
凄い歴史が残っているものです。。。


垣花城(南城市玉城垣花)

垣花城に関しては特に記録・伝承もなく、詳細は不明です。
城内に残る石垣の垂直に近い野面積みの技法から、グスク時代初期の築城と推測されています。

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確かに垂直の野面積み・・・

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しかし城域全体に鬱蒼と樹木が生い茂り、ハブも怖いので早々に退散しました・・・(^_^;)

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垣花城からご覧のような切通の石畳小路を抜けると・・・

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全国名水百選にも選ばれている垣花桶川(ヒージャー)があります。

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垣花の町角で見かけた古い石敢當(いしがんどう/いしがんとう)
魔除けの風習で、沖縄ではマジムンという魔物が直進する性質を持ち、丁字路や三叉路などの突き当たりにぶつかると向かいの家に入ってきてしまうとされていることから、その丁字路や三叉路などの突き当たりに多く見られます。
塀に表札のようなプレートを埋め込んだものも多く見かけました。


島添大里城(南城市大里大里)

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3日目ラストは島添大里城
南山王・島添大里按司によって築城されたと伝わります。
後に三山統一に乗り出した尚巴志が、真っ先に攻略した城としても知られています。

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現在、城跡は公園になっていましたが、かつては小学校が建てられていたこともあったようで、遺構の残存状況はよろしくないようでした。
南山王の城だけあって、往時はかなり大きなグスクだったようです。

さて、3日目のグスクめぐりもこれにて終了。
結局、1日で11ものグスクをめぐることができました。前日に回れなかった分を補って余りある成果ですね。

夜は勿論、那覇市内で乾杯☆
沖縄での最後の夜は、2次会にカラオケへ。近づく旅の終わりを惜しむかのように、遅くまで盛り上がりましたとさ♪

履かせて~履かせて~♪ 桃色~○○○~♪♪

※4日目へつづく

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2017年2月 1日 (水)

中城城、具志川城、米須城、南山城、他 (沖縄グスクめぐり④)

中城城(中城村泊)

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阿麻和利の勝連城を訪れたら、護佐丸の中城城にも行かない訳にはまいりません。

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中城城図
順路に沿って図面左の、裏門から回ります。

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中城城は先中城按司が数代に渡って築き上げてきた城で、座喜味から移った護佐丸により、北の郭・三の郭が増築されて現在に残る形になりました。
勝連城の記事でも書きましたが、護佐丸は謀反の疑いを掛けられ、勝連の阿麻和利の軍勢が王旗を掲げて攻めてくると抵抗することもなく、中城城で自害して果てます。

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模型と並べてみるw

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裏門
1853年に来島したペリー艦隊一行は、この石造りのアーチ門を「エジプト式」と評しています。

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護佐丸が拡張した北の郭より。
左隅には、グスクでは珍しい狭間も。

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自然の断崖上に築かれた城壁がとにかく美しいです。
北の郭には大井戸(ウフガー/写真下、樹木の陰になっている箇所)もあります。

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西の郭への石門

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二の郭

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二の郭から三の郭を見下ろす。

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同じく、二の郭から一の郭の城壁。

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一の郭へのアーチ門
奥に南の郭へ抜けるアーチ門も見えています。

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二の郭内にある拝所

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一の郭

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南の郭にあった久高遥拝所
南の郭は城内の神域だったようです。
久高島は神の島とされる沖縄信仰の聖地。各地で見られる御嶽・拝所は皆、久高島の方角に向いているのだそうです。

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正門
こちらはどうやら、櫓門になっていたようです。

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南の郭の更に先へ抜けると・・・“例の”廃墟が(^_^;)

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南の郭の城壁を見上げる。狭間が2つ並んでいます。
足元の岩が窪んだ場所はカンジャーガマ。鍛冶を行っていたところで、阿麻和利に備える護佐丸が武具を用意させていたとも伝わります。

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中城城跡の近くには、その護佐丸の墓所もあります。
藪を警戒していましたが、参道は綺麗に整備されていました。

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護佐丸の墓所
最古の亀甲式墓と推定されています。

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ここに眠りながら抱く思いは無念か、それとも・・・


具志川城(糸満市喜屋武)

さてお次は沖縄本島最南端の城、具志川城です。
到着後、まずはロープを頼りに急坂を海岸へ下りてみます。

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海岸から見上げる具志川城
断崖絶壁の上部に石垣が見えています。
写真右手、絶壁には不思議な洞穴もありました。

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その洞穴
中へ入ってみると・・・

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頭上の郭と繋がっていました。
周囲は船着き場のようにもなっていたので、荷物の上げ下ろし有事の際の脱出口だったのかもしれません。

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久米島での覇権争いに敗れた久米島具志川城の真金声按司がこの地に逃れて城を築き、郷里と同じ名前を付けたと伝わります。

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自然の断崖が海岸にせり出した部分。側面をやはり石垣で固めています。

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具志川城跡から望む喜屋武岬
言わずと知れた沖縄戦の激戦地で、米軍に追い詰められた住民や日本兵が身を投げて自決を図った地です。
グスクとは時代こそ違え、決して忘れてはならない沖縄の歴史。

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断崖上に屹立する石垣の城壁

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郭内
柵の中に、海岸の洞穴と直結する穴(ヒーフチミー)があります。

周囲の景観といい、見栄えのする城でした。


米須城(糸満市米須)

米須城には、とある仇討ちの伝説が残っています。
米須按司の美しい妻に横恋慕した家来が密かに按司を殺害し、その妻に自らの妻となるよう迫ります。
それで夫を殺した犯人を悟った妻がその家来を討ち、仇をとったというもの。

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これまで訪れた城と違い、殆ど整備はされていません。
郭へ向かう通路の脇にも石積みが見えます。

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これが郭の虎口かな?

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郭を囲む石垣

結構藪っており、正直ちょっと分りづらい城でした…(^_^;)


南山城(糸満市大里)

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南山城の跡地とされる地に建つ南山神社

南山城は、尚巴志によって琉球の三山が統一される過程で、最後に攻略されたと伝わる城です。
現在は神社や小学校の敷地になっています。

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神社の石垣に残る、或いは現存?と思われる石垣。
この面だけ明らかに古く、石の成形なども周囲とは異なっていました。

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緑のネットが張られている辺りが、城の本来の門跡と思われます。
土塁っぽく見えているのは・・・城壁の名残かな?

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こちらもおそらく御嶽でしょう。

さ、次は・・・楽しみにしていた糸数城へ向かいます。

※つづく

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座喜味城、安慶名城、勝連城、他 (沖縄グスクめぐり③)

沖縄旅3日目。
前日にあまり回れなかった分、この日は朝からガッツリ城を攻めます。
まずは那覇市内、初日にゆいレールの車窓からも見かけて気になっていた場所へ・・・

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崇元寺跡の三連アーチ型石門です。

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崇元寺は臨済宗寺院で第二尚氏の廟所でしたが、残念ながら第二次大戦の沖縄戦で焼失してしまいました。


座喜味城(読谷村座喜味)

さて、この日の1城目は座喜味城です。

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座喜味城碑

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座喜味城は、尚巴志の北山攻略にも参戦した護佐丸の築城と伝わります。

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アーチ門
このアーチ門、最頂部に楔が打たれているのが特徴で、他に類例がないことから、沖縄で現存する最古のアーチ門とも推定されています。

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二の郭

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二の郭と一の郭の城壁に挟まれた通路状の空間。
ここを進むと・・・

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不思議と行き止まりに・・・どんな意図で設計されたのでしょうか?

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城壁からの景色
城のすぐ横は谷のように落ち込む地形・・・前日の今帰仁城で見た光景とよく似ています。
琉球で城を築く際の、一つの特徴的な選地条件なのかもしれません。

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城壁
曲線を伴う屈折がなんとも美しいです。

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第二次大戦時に、日本軍が砲台を置いたと思われる場所。
明らかに城の縄張に含まれそうな位置・地表面形状ですが、石垣のようなものは一切見受けられません。
城壁などは砲台構築の際、もしくは敗戦後に破壊されたものでしょうか。

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城壁上から見る二の郭
2つのアーチ門を同時に視界に捉えます。

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こちらは一の郭

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アーチ門越しの・・・アーチ門(笑)

朝一番からいい城を観れました。
次は安慶名城へ向かいます。


安慶名城(うるま市安慶名)

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安慶名城登城口
周囲はゲートボール場などがある広い公園ですが、ここからは鬱蒼とした樹木の中の山道となります。
念の為、ハブに警戒しながら慎重に進みます。

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しばらく登ると側面の岩肌に、石が積まれた壁のような場所が現れます。
こちらは、安慶名按司の墓と考えられているそうです。

按司」とは主に、地方豪族の首長の称号として用いられていました。
その後、尚氏の時代になると王や王子に次ぐ王族の称号へと変化していきます。

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自然の岩を利用した城門
片面のみ、石垣を用いています。この城門を抜けた先に・・・

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素晴らしい光景が待っていました。
切り立った断崖に積まれた石垣、そして周囲を横堀(帯曲輪?)のように取り囲む城壁・・・古めかしさがまた武骨で、とても格好いいです。

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ちょっとアングルを変えて・・・思わず溜息が漏れそうです。

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眼下には闘牛場が。
沖縄では闘牛を「ウシオーラセー」といい、古くから親しまれてきたそうです。
近年、近くに新しい闘牛場ができたようですが、こちらでもまだ、今でも年に1~2回開催されているとのこと。

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背後(西側)の城壁

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郭内にあったこちらは・・・やはり御嶽か?

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一段低い位置で、主郭周囲を取り囲む城壁

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その城壁伝いに闘牛場の方へ下ります。

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安慶名城、期待に違わぬ素晴らしいグスクでした。


勝連城(うるま市勝連)

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次は勝連城にやってきました。

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勝連城イラスト図
勝連城は阿麻和利の城として知られます。

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阿麻和利は、元の勝連按司を倒して城主の座に収まった人物。
勝連を拠点に勢力を増す阿麻和利を警戒した首里の尚泰久(第一尚氏六代)は、娘を嫁がせてその懐柔を図ります。

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正史によると、密かに王統簒奪を目論む阿麻和利は、やはり勢力と名声に富み、目触りとなる護佐丸(中城城/王の室の父)の排除を図り、泰久王に護佐丸謀反の嫌疑を讒言、討伐の軍勢を差し向けました。
王旗を掲げて攻め寄せてくる阿麻和利の軍勢に対し、護佐丸に抵抗の意思はなく自刃して果てたと云います。
後に阿麻和利の真意を知った王により、阿麻和利自身もここ勝連で討伐されるのですが・・・
この辺りの歴史は、護佐丸・阿麻和利のどちらが善悪ということではなく、結局のところは配下の勢力拡大を恐れた泰久王が、両者の排除を図ったというのが真実に近いのではないかと、個人的には思えてきます。

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鍛冶屋の仲間家が使用した泉(井戸)との伝承から、「仲間ヌウガー」「カンジャー(鍛冶屋)ガー」と呼ばれる井戸跡。
(ガーとは井戸や泉を指す言葉)

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三の郭へ向かいます。

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三の郭の城門跡
ここには四脚門が建っていました。

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三の郭から、二の郭・一の郭を見上げる。

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二の郭

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二の郭、火の神を祀るウミチムン

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同じく二の郭、「身を隠して凌ぐ洞穴」との意味である「ウシヌジガマ」と呼ばれる洞穴。
すぐ頭上の一の郭の洞穴と繋がっており、このことから阿麻和利はここから脱して、読谷村まで逃げ延びたとの伝説もあるとか。

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一の郭への階段
上に行くに従い、幅が細くなっていきます。

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一の郭

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勝連を守護する霊石を御神体とする「玉ノミウヂ御嶽」と、ウシヌジガマに繋がる洞穴。

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一の郭から見下ろす二の郭、及び三の郭
やはりここでも、築城地形の共通性が見受けられます。対岸は東の郭。

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最後に四の郭の城壁へ

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城壁が道路に寸断されている付近にはかつて、西原御門がありました。

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模型で言うと、写真中央部分になります(手前)。

勝連城・・・整備も行き届いて全体構造を把握しやすく、グスクのスケール感を肌で感じることができました。

※3日目はまだまだつづきます・・・

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