知念城、斎場御嶽、浦添ようどれ&浦添城 (沖縄グスクめぐり⑥)
楽しい時は過ぎるのも早いもの・・・沖縄の旅もいよいよ最終日です。
眠い目をこすりながら集合時間の7時にロビーへ下りてみると・・・どうやら別ホテルに宿泊している一人が姿を現さない模様。ま、前の晩に遅くまで遊んだからね(^_^;)
部屋に電話をかけてもらい、無事にお目覚めいただいてから出発(笑)
■知念城(南城市知念知念)
最終日のスタートは、前日後半にも訪れていた南城市にある知念城。

知念城前にあったノロ屋敷跡の石垣
ノロは琉球信仰に於ける女性神官のこと。祭祀を司り、御嶽を管理していました。
按司から屋敷地を与えられ、大切に保護されていたのでしょうか。

知念城の城壁
知念城は主に、ミーグスク(新城)とクーグスク(古城)と呼ばれる2つの郭から成ります。
写真はミーグスクの城壁(クーグスクは写真左にある斜面の上)

正門を通ると、正面には石垣で築かれた蔀状の壁がありました。

こうして見ると正門(右)だけでなく、裏門(左)にも蔀状の壁が設けられ、まるで枡型のようになっていますね。
こうした蔀、少なくともこの旅でめぐった城では他に例を見ませんでした。そういった意味では、かなり新しい時期に造られたのかもしれません・・・新城だけに。

すぐ眼前の久高島(写真には写っていない)への遥拝所があった辺り。

そして近くの山の中腹に、知念按司の墓があるというので向かったみたものの・・・

かなり鬱蒼とした山道を登って行かねばならず、ビビリな私はハブを敬遠してパス・・・(^_^;)
ちなみに麓はウファカルといって、琉球の稲作発祥の地と伝えられているそうです。

今では畑になっていて、水田を思わせるものは・・・これくらい?(^_^;)
■斎場御嶽(せーふぁうたき)
次は、知念城のすぐ近くにある斎場御嶽へ。

斎場御嶽へは、こちらの物産館で券を購入してから参拝します。

物産館から斎場御嶽への道順。

斎場御嶽は琉球王国最高の聖地。
はじめに簡単なVTRで参拝の注意事項を確認してから、参道へ向かいます。

大庫理(ウフグーイ)
「大広間」「一番座」という意味を持つ、御門口から登っていった先の最初の拝所。

参道脇には、沖縄戦で撃ち込まれた砲弾による爪痕も残っていました。

参道にも厳粛な空気が漂います。
心配していましたが、さすがに大陸からの観光客グループも、ここではあまり騒いではいませんでした。

寄満(ユインチ)
意味としては「台所」。豊穣の満ちた所、と解されています。

「聖なる水」を滴らせる2本の鍾乳石と、それを受けるシキヨダユル・アマダユルの壺。

巨大な岩でできた三角形の通り道の先が三庫理(サングーイ)

いざ、三庫理へ・・・

三庫理

三庫理からは、琉球創成の神アマミキヨが天から降臨し、国創りを始めたという神の島・久高島を正面に見据えることができます。
各地に点在する全ての御嶽が拝する久高島・・・その先にあると云うニライカナイ。それが今、眼前に・・・。
この地が何故、琉球最高の聖地と成り得たのか・・・それを明瞭に物語ってくれるような光景でした。

去り際、見送りに来てくれた小鳥。
■浦添ようどれ&浦添城(浦添市当山)
3泊4日の沖縄旅、ラストは浦添へ。

浦添城図

まずは13世紀の中山王・英祖、そして第二尚氏七代・寧の陵墓である浦添ようどれへ。

浦添ようどれの石垣
「ようどれ」とは「夕凪」の意味。それだけだと、なぜ陵墓にそう名付けられたのか分りづらいのですが、他に「極楽」という意味もあるそうです。それなら・・・なんとなく分かるような気もしますね。
背後にある浦添城共々、ようどれは沖縄戦に於いてアメリカ軍の激しい攻撃に晒され、破壊されています。
近年、発掘調査に基づき修復されて戦前の姿を取り戻しました。

現地には戦前の古写真も展示されていましたが、岩肌の形まで随分と変わっていました。
砲撃の激しさを物語っているかのようです。

このアーチ門を抜けた先に・・・

英祖王(手前)、尚寧王(奥)の眠る墓室があります。
続いて浦添城へ。

復元された浦添城の石垣

あちらの石垣も復元のようです。
沖縄戦での破壊により、遺構らしきものは殆ど残っていません。

城跡内にあるディークガマ御嶽
沖縄戦により、市内各地で亡くなった5,000人もの人々を祀る「浦和の塔」もありました。

かすかに痕跡を留めている浦添城の石垣

浦添城の前の碑
1597年、浦添城と首里城とを結ぶ道路を建設した際の、竣工記念碑。尚寧王の命で国民が力を合わせ、道を築いた様子が具に記されています。
こちらも沖縄戦で破壊されたため、1999年に復元されました。

確かに浦添城から、首里城の正殿の屋根も見えていました。
(写真中央、小高い丸い丘の左上)

石碑前の岩は「馬ヌイ石」、馬に乗るための踏み台と考えられています。
とすると、その首里城とを結ぶ道はこの辺りから延びていたのでしょうか。
さて、これにて3泊4日に及ぶ沖縄グスクの旅も終了です。
この後は空港へ向かい、昼食がてらに簡単な打ち上げの後、各自のフライト時間に合わせて追々解散となりました。
初めて訪れた沖縄の地。
今回はグスクめぐりに主眼を置いた旅で、実際に訪れたグスクはどれも刺激的で素晴らしかった。
それと同時に、各地をめぐっているうちに自然と目にし、肌で感じることになる72年前の沖縄戦のこと、沖縄の人々の信仰のこと。。。
沖縄に限ったことではないが、旅をする時はその土地の歴史や風習、風土に敬意を払って臨まなくてはならない・・・改めてそう感じた4日間。
特に沖縄では「信仰」というものに、強烈な印象を刻まれました。
楽しく、有意義な旅を共有できた旅仲間にも感謝です。ありがとうございました(^_^)/
・・・次の機会には、7時に起こして桃色の○○○履かせ、緑の財布を持って波に弄ばれましょ~(^m^)
※全6回に渡って記事を上げてまいりましたが、何分、沖縄の歴史には疎いので、随分と薄っぺらい内容になってしまいました・・・。
より詳しく知りたい方は、旅の同行者がブログにまとめてくれているので、そちらも是非☆
→山城Love☆ (カテゴリ「九州・沖縄地方」)
眠い目をこすりながら集合時間の7時にロビーへ下りてみると・・・どうやら別ホテルに宿泊している一人が姿を現さない模様。ま、前の晩に遅くまで遊んだからね(^_^;)
部屋に電話をかけてもらい、無事にお目覚めいただいてから出発(笑)
■知念城(南城市知念知念)
最終日のスタートは、前日後半にも訪れていた南城市にある知念城。

知念城前にあったノロ屋敷跡の石垣
ノロは琉球信仰に於ける女性神官のこと。祭祀を司り、御嶽を管理していました。
按司から屋敷地を与えられ、大切に保護されていたのでしょうか。

知念城の城壁
知念城は主に、ミーグスク(新城)とクーグスク(古城)と呼ばれる2つの郭から成ります。
写真はミーグスクの城壁(クーグスクは写真左にある斜面の上)

正門を通ると、正面には石垣で築かれた蔀状の壁がありました。

こうして見ると正門(右)だけでなく、裏門(左)にも蔀状の壁が設けられ、まるで枡型のようになっていますね。
こうした蔀、少なくともこの旅でめぐった城では他に例を見ませんでした。そういった意味では、かなり新しい時期に造られたのかもしれません・・・新城だけに。

すぐ眼前の久高島(写真には写っていない)への遥拝所があった辺り。

そして近くの山の中腹に、知念按司の墓があるというので向かったみたものの・・・

かなり鬱蒼とした山道を登って行かねばならず、ビビリな私はハブを敬遠してパス・・・(^_^;)
ちなみに麓はウファカルといって、琉球の稲作発祥の地と伝えられているそうです。

今では畑になっていて、水田を思わせるものは・・・これくらい?(^_^;)
■斎場御嶽(せーふぁうたき)
次は、知念城のすぐ近くにある斎場御嶽へ。

斎場御嶽へは、こちらの物産館で券を購入してから参拝します。

物産館から斎場御嶽への道順。

斎場御嶽は琉球王国最高の聖地。
はじめに簡単なVTRで参拝の注意事項を確認してから、参道へ向かいます。

大庫理(ウフグーイ)
「大広間」「一番座」という意味を持つ、御門口から登っていった先の最初の拝所。

参道脇には、沖縄戦で撃ち込まれた砲弾による爪痕も残っていました。

参道にも厳粛な空気が漂います。
心配していましたが、さすがに大陸からの観光客グループも、ここではあまり騒いではいませんでした。

寄満(ユインチ)
意味としては「台所」。豊穣の満ちた所、と解されています。

「聖なる水」を滴らせる2本の鍾乳石と、それを受けるシキヨダユル・アマダユルの壺。

巨大な岩でできた三角形の通り道の先が三庫理(サングーイ)

いざ、三庫理へ・・・

三庫理

三庫理からは、琉球創成の神アマミキヨが天から降臨し、国創りを始めたという神の島・久高島を正面に見据えることができます。
各地に点在する全ての御嶽が拝する久高島・・・その先にあると云うニライカナイ。それが今、眼前に・・・。
この地が何故、琉球最高の聖地と成り得たのか・・・それを明瞭に物語ってくれるような光景でした。

去り際、見送りに来てくれた小鳥。
■浦添ようどれ&浦添城(浦添市当山)
3泊4日の沖縄旅、ラストは浦添へ。

浦添城図

まずは13世紀の中山王・英祖、そして第二尚氏七代・寧の陵墓である浦添ようどれへ。

浦添ようどれの石垣
「ようどれ」とは「夕凪」の意味。それだけだと、なぜ陵墓にそう名付けられたのか分りづらいのですが、他に「極楽」という意味もあるそうです。それなら・・・なんとなく分かるような気もしますね。
背後にある浦添城共々、ようどれは沖縄戦に於いてアメリカ軍の激しい攻撃に晒され、破壊されています。
近年、発掘調査に基づき修復されて戦前の姿を取り戻しました。

現地には戦前の古写真も展示されていましたが、岩肌の形まで随分と変わっていました。
砲撃の激しさを物語っているかのようです。

このアーチ門を抜けた先に・・・

英祖王(手前)、尚寧王(奥)の眠る墓室があります。
続いて浦添城へ。

復元された浦添城の石垣

あちらの石垣も復元のようです。
沖縄戦での破壊により、遺構らしきものは殆ど残っていません。

城跡内にあるディークガマ御嶽
沖縄戦により、市内各地で亡くなった5,000人もの人々を祀る「浦和の塔」もありました。

かすかに痕跡を留めている浦添城の石垣

浦添城の前の碑
1597年、浦添城と首里城とを結ぶ道路を建設した際の、竣工記念碑。尚寧王の命で国民が力を合わせ、道を築いた様子が具に記されています。
こちらも沖縄戦で破壊されたため、1999年に復元されました。

確かに浦添城から、首里城の正殿の屋根も見えていました。
(写真中央、小高い丸い丘の左上)

石碑前の岩は「馬ヌイ石」、馬に乗るための踏み台と考えられています。
とすると、その首里城とを結ぶ道はこの辺りから延びていたのでしょうか。
さて、これにて3泊4日に及ぶ沖縄グスクの旅も終了です。
この後は空港へ向かい、昼食がてらに簡単な打ち上げの後、各自のフライト時間に合わせて追々解散となりました。
初めて訪れた沖縄の地。
今回はグスクめぐりに主眼を置いた旅で、実際に訪れたグスクはどれも刺激的で素晴らしかった。
それと同時に、各地をめぐっているうちに自然と目にし、肌で感じることになる72年前の沖縄戦のこと、沖縄の人々の信仰のこと。。。
沖縄に限ったことではないが、旅をする時はその土地の歴史や風習、風土に敬意を払って臨まなくてはならない・・・改めてそう感じた4日間。
特に沖縄では「信仰」というものに、強烈な印象を刻まれました。
楽しく、有意義な旅を共有できた旅仲間にも感謝です。ありがとうございました(^_^)/
・・・次の機会には、7時に起こして桃色の○○○履かせ、緑の財布を持って波に弄ばれましょ~(^m^)
※全6回に渡って記事を上げてまいりましたが、何分、沖縄の歴史には疎いので、随分と薄っぺらい内容になってしまいました・・・。
より詳しく知りたい方は、旅の同行者がブログにまとめてくれているので、そちらも是非☆
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