座喜味城、安慶名城、勝連城、他 (沖縄グスクめぐり③)
崇元寺跡の三連アーチ型石門です。

崇元寺は臨済宗寺院で第二尚氏の廟所でしたが、残念ながら第二次大戦の沖縄戦で焼失してしまいました。
■座喜味城(読谷村座喜味)
さて、この日の1城目は座喜味城です。

座喜味城碑

座喜味城は、尚巴志の北山攻略にも参戦した護佐丸の築城と伝わります。

アーチ門
このアーチ門、最頂部に楔が打たれているのが特徴で、他に類例がないことから、沖縄で現存する最古のアーチ門とも推定されています。

二の郭

二の郭と一の郭の城壁に挟まれた通路状の空間。
ここを進むと・・・

不思議と行き止まりに・・・どんな意図で設計されたのでしょうか?

城壁からの景色
城のすぐ横は谷のように落ち込む地形・・・前日の今帰仁城で見た光景とよく似ています。
琉球で城を築く際の、一つの特徴的な選地条件なのかもしれません。

城壁
曲線を伴う屈折がなんとも美しいです。

第二次大戦時に、日本軍が砲台を置いたと思われる場所。
明らかに城の縄張に含まれそうな位置・地表面形状ですが、石垣のようなものは一切見受けられません。
城壁などは砲台構築の際、もしくは敗戦後に破壊されたものでしょうか。

城壁上から見る二の郭
2つのアーチ門を同時に視界に捉えます。

こちらは一の郭

アーチ門越しの・・・アーチ門(笑)
朝一番からいい城を観れました。
次は安慶名城へ向かいます。
■安慶名城(うるま市安慶名)

安慶名城登城口
周囲はゲートボール場などがある広い公園ですが、ここからは鬱蒼とした樹木の中の山道となります。
念の為、ハブに警戒しながら慎重に進みます。

しばらく登ると側面の岩肌に、石が積まれた壁のような場所が現れます。
こちらは、安慶名按司の墓と考えられているそうです。
「按司」とは主に、地方豪族の首長の称号として用いられていました。
その後、尚氏の時代になると王や王子に次ぐ王族の称号へと変化していきます。

自然の岩を利用した城門
片面のみ、石垣を用いています。この城門を抜けた先に・・・

素晴らしい光景が待っていました。
切り立った断崖に積まれた石垣、そして周囲を横堀(帯曲輪?)のように取り囲む城壁・・・古めかしさがまた武骨で、とても格好いいです。

ちょっとアングルを変えて・・・思わず溜息が漏れそうです。

眼下には闘牛場が。
沖縄では闘牛を「ウシオーラセー」といい、古くから親しまれてきたそうです。
近年、近くに新しい闘牛場ができたようですが、こちらでもまだ、今でも年に1~2回開催されているとのこと。

背後(西側)の城壁

郭内にあったこちらは・・・やはり御嶽か?

一段低い位置で、主郭周囲を取り囲む城壁

その城壁伝いに闘牛場の方へ下ります。

安慶名城、期待に違わぬ素晴らしいグスクでした。
■勝連城(うるま市勝連)

次は勝連城にやってきました。

勝連城イラスト図
勝連城は阿麻和利の城として知られます。

阿麻和利は、元の勝連按司を倒して城主の座に収まった人物。
勝連を拠点に勢力を増す阿麻和利を警戒した首里の尚泰久(第一尚氏六代)は、娘を嫁がせてその懐柔を図ります。

正史によると、密かに王統簒奪を目論む阿麻和利は、やはり勢力と名声に富み、目触りとなる護佐丸(中城城/王の室の父)の排除を図り、泰久王に護佐丸謀反の嫌疑を讒言、討伐の軍勢を差し向けました。
王旗を掲げて攻め寄せてくる阿麻和利の軍勢に対し、護佐丸に抵抗の意思はなく自刃して果てたと云います。
後に阿麻和利の真意を知った王により、阿麻和利自身もここ勝連で討伐されるのですが・・・
この辺りの歴史は、護佐丸・阿麻和利のどちらが善悪ということではなく、結局のところは配下の勢力拡大を恐れた泰久王が、両者の排除を図ったというのが真実に近いのではないかと、個人的には思えてきます。

鍛冶屋の仲間家が使用した泉(井戸)との伝承から、「仲間ヌウガー」「カンジャー(鍛冶屋)ガー」と呼ばれる井戸跡。
(ガーとは井戸や泉を指す言葉)

三の郭へ向かいます。

三の郭の城門跡
ここには四脚門が建っていました。

三の郭から、二の郭・一の郭を見上げる。

二の郭

二の郭、火の神を祀るウミチムン

同じく二の郭、「身を隠して凌ぐ洞穴」との意味である「ウシヌジガマ」と呼ばれる洞穴。
すぐ頭上の一の郭の洞穴と繋がっており、このことから阿麻和利はここから脱して、読谷村まで逃げ延びたとの伝説もあるとか。

一の郭への階段
上に行くに従い、幅が細くなっていきます。

一の郭

勝連を守護する霊石を御神体とする「玉ノミウヂ御嶽」と、ウシヌジガマに繋がる洞穴。

一の郭から見下ろす二の郭、及び三の郭
やはりここでも、築城地形の共通性が見受けられます。対岸は東の郭。

最後に四の郭の城壁へ

城壁が道路に寸断されている付近にはかつて、西原御門がありました。

模型で言うと、写真中央部分になります(手前)。
勝連城・・・整備も行き届いて全体構造を把握しやすく、グスクのスケール感を肌で感じることができました。
※3日目はまだまだつづきます・・・

崇元寺は臨済宗寺院で第二尚氏の廟所でしたが、残念ながら第二次大戦の沖縄戦で焼失してしまいました。
■座喜味城(読谷村座喜味)
さて、この日の1城目は座喜味城です。

座喜味城碑

座喜味城は、尚巴志の北山攻略にも参戦した護佐丸の築城と伝わります。

アーチ門
このアーチ門、最頂部に楔が打たれているのが特徴で、他に類例がないことから、沖縄で現存する最古のアーチ門とも推定されています。

二の郭

二の郭と一の郭の城壁に挟まれた通路状の空間。
ここを進むと・・・

不思議と行き止まりに・・・どんな意図で設計されたのでしょうか?

城壁からの景色
城のすぐ横は谷のように落ち込む地形・・・前日の今帰仁城で見た光景とよく似ています。
琉球で城を築く際の、一つの特徴的な選地条件なのかもしれません。

城壁
曲線を伴う屈折がなんとも美しいです。

第二次大戦時に、日本軍が砲台を置いたと思われる場所。
明らかに城の縄張に含まれそうな位置・地表面形状ですが、石垣のようなものは一切見受けられません。
城壁などは砲台構築の際、もしくは敗戦後に破壊されたものでしょうか。

城壁上から見る二の郭
2つのアーチ門を同時に視界に捉えます。

こちらは一の郭

アーチ門越しの・・・アーチ門(笑)
朝一番からいい城を観れました。
次は安慶名城へ向かいます。
■安慶名城(うるま市安慶名)

安慶名城登城口
周囲はゲートボール場などがある広い公園ですが、ここからは鬱蒼とした樹木の中の山道となります。
念の為、ハブに警戒しながら慎重に進みます。

しばらく登ると側面の岩肌に、石が積まれた壁のような場所が現れます。
こちらは、安慶名按司の墓と考えられているそうです。
「按司」とは主に、地方豪族の首長の称号として用いられていました。
その後、尚氏の時代になると王や王子に次ぐ王族の称号へと変化していきます。

自然の岩を利用した城門
片面のみ、石垣を用いています。この城門を抜けた先に・・・

素晴らしい光景が待っていました。
切り立った断崖に積まれた石垣、そして周囲を横堀(帯曲輪?)のように取り囲む城壁・・・古めかしさがまた武骨で、とても格好いいです。

ちょっとアングルを変えて・・・思わず溜息が漏れそうです。

眼下には闘牛場が。
沖縄では闘牛を「ウシオーラセー」といい、古くから親しまれてきたそうです。
近年、近くに新しい闘牛場ができたようですが、こちらでもまだ、今でも年に1~2回開催されているとのこと。

背後(西側)の城壁

郭内にあったこちらは・・・やはり御嶽か?

一段低い位置で、主郭周囲を取り囲む城壁

その城壁伝いに闘牛場の方へ下ります。

安慶名城、期待に違わぬ素晴らしいグスクでした。
■勝連城(うるま市勝連)

次は勝連城にやってきました。

勝連城イラスト図
勝連城は阿麻和利の城として知られます。

阿麻和利は、元の勝連按司を倒して城主の座に収まった人物。
勝連を拠点に勢力を増す阿麻和利を警戒した首里の尚泰久(第一尚氏六代)は、娘を嫁がせてその懐柔を図ります。

正史によると、密かに王統簒奪を目論む阿麻和利は、やはり勢力と名声に富み、目触りとなる護佐丸(中城城/王の室の父)の排除を図り、泰久王に護佐丸謀反の嫌疑を讒言、討伐の軍勢を差し向けました。
王旗を掲げて攻め寄せてくる阿麻和利の軍勢に対し、護佐丸に抵抗の意思はなく自刃して果てたと云います。
後に阿麻和利の真意を知った王により、阿麻和利自身もここ勝連で討伐されるのですが・・・
この辺りの歴史は、護佐丸・阿麻和利のどちらが善悪ということではなく、結局のところは配下の勢力拡大を恐れた泰久王が、両者の排除を図ったというのが真実に近いのではないかと、個人的には思えてきます。

鍛冶屋の仲間家が使用した泉(井戸)との伝承から、「仲間ヌウガー」「カンジャー(鍛冶屋)ガー」と呼ばれる井戸跡。
(ガーとは井戸や泉を指す言葉)

三の郭へ向かいます。

三の郭の城門跡
ここには四脚門が建っていました。

三の郭から、二の郭・一の郭を見上げる。

二の郭

二の郭、火の神を祀るウミチムン

同じく二の郭、「身を隠して凌ぐ洞穴」との意味である「ウシヌジガマ」と呼ばれる洞穴。
すぐ頭上の一の郭の洞穴と繋がっており、このことから阿麻和利はここから脱して、読谷村まで逃げ延びたとの伝説もあるとか。

一の郭への階段
上に行くに従い、幅が細くなっていきます。

一の郭

勝連を守護する霊石を御神体とする「玉ノミウヂ御嶽」と、ウシヌジガマに繋がる洞穴。

一の郭から見下ろす二の郭、及び三の郭
やはりここでも、築城地形の共通性が見受けられます。対岸は東の郭。

最後に四の郭の城壁へ

城壁が道路に寸断されている付近にはかつて、西原御門がありました。

模型で言うと、写真中央部分になります(手前)。
勝連城・・・整備も行き届いて全体構造を把握しやすく、グスクのスケール感を肌で感じることができました。
※3日目はまだまだつづきます・・・
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