小宮曲輪(群)の北枡形虎口、他
滝山城全体図(現地案内板より)
今回は□部分、小宮曲輪の北側周辺を中心に見ていきます。
こちらは小宮曲輪の南虎口
遊歩道を、小宮曲輪の東側面に沿って北へ進みます。
下草が刈られ、曲輪の土塁が割と良好に視認できました。
遊歩道の東側、私有地で立ち入れない部分にも削平の跡を確認できます。
(上図1)
小宮曲輪の外周(南~西)を取り巻く横堀は遊歩道に当たって一旦途切れますが、道を挟んだ反対側へ続いています。(2)
この堀のすぐ脇(写真右)には・・・
遊歩道から分岐する細い道が付けられ、その先には・・・
見事な枡形虎口(仮に小宮曲輪の「北枡形虎口」とする)が待ち受けています。
この虎口を抜けると・・・
広い曲輪跡(3)がありました。一部、土塁らしき痕跡も残っています。
※この土塁、写真奥方向へ竪土塁のように下って続き、下段には腰曲輪状の削平地もあります。更に下ると弁天池へと続く沢に出ました。
3曲輪から通ってきた北枡形虎口を振り返る。
現地案内板では、先ほどの遊歩道から分岐した細い道を本来の城道とし、そのルートはこの枡形を経由して3曲輪に入り、上段の切岸を回り込んで南側へと抜けていた、としています。
※先の全体図とは南北が逆転しています。
※赤線は現在の遊歩道のルート
北枡形虎口の上段から見た3曲輪。
現地案内板の説に従えば、正規のルートは写真左手前の枡形を抜けて切岸沿いに一段下を右へ進み、更に手前方向へと折れて南へ続いていたということになります。
・・・が、実際にはこの右手に、それらしき道・通路の痕跡は見受けられませんでした。
他に、北桝形虎口から堀を挟んだ対岸の土塁まで、真っすぐに木橋が架けられていたのでは?と推定している説もあり、実際のところ如何なるルートが設定されてていたのかは、まだまだ謎と言わざるを得ません。
小宮曲輪北枡形虎口や3曲輪周辺はこれまで、結構ススキが生い茂っていて地表面が分かりづらかったように記憶しているのですが、整備のお陰でしっかり確認することができました。
さて、折角来たのでもう少し散策・・・
二の丸、南側虎口の枡形。
その南側虎口の先、正面に見える小馬出を挟んで三方向に伸びる土橋。
二の丸南面の横堀(と帯曲輪)
二の丸の周辺には、主郭部(中の丸~本丸)へと続く複数のルートが集約されており、滝山城でも最も重要な、主郭部防衛の要だったと考えています。
※ちなみに滝山城に於ける「大手」は、小宮曲輪と三の丸の間を抜けて千畳敷の前を通るルートとされていますが、この道は中の丸に国民宿舎を建設する際に付けられたもの。
構造からして本来は、小宮曲輪と三の丸の横堀は屈折しながら1本に繋がっていたものと思われますので、少なくともこの部分は道の敷設による改変です。
本来の大手は、城下の少林寺から鎌倉道の古道で加住丘陵の尾根に上がり、そのまま尾根伝いに東からカゾノ・刑部・信濃屋敷と呼ばれる曲輪群を抜けてくるルートであったと、私は考えます。
三の丸東曲輪4の切岸。
屈折させて横矢を掛けています。
こちらは中の丸と二の丸間の横堀に見られる、中の丸切岸の横矢。
滝山城は広大な城域を誇り、一つ一つの遺構のスケールも見事ですが、こうした細部まで本当によく作り込まれています。
今回は□部分、小宮曲輪の北側周辺を中心に見ていきます。
こちらは小宮曲輪の南虎口
遊歩道を、小宮曲輪の東側面に沿って北へ進みます。
下草が刈られ、曲輪の土塁が割と良好に視認できました。
遊歩道の東側、私有地で立ち入れない部分にも削平の跡を確認できます。
(上図1)
小宮曲輪の外周(南~西)を取り巻く横堀は遊歩道に当たって一旦途切れますが、道を挟んだ反対側へ続いています。(2)
この堀のすぐ脇(写真右)には・・・
遊歩道から分岐する細い道が付けられ、その先には・・・
見事な枡形虎口(仮に小宮曲輪の「北枡形虎口」とする)が待ち受けています。
この虎口を抜けると・・・
広い曲輪跡(3)がありました。一部、土塁らしき痕跡も残っています。
※この土塁、写真奥方向へ竪土塁のように下って続き、下段には腰曲輪状の削平地もあります。更に下ると弁天池へと続く沢に出ました。
3曲輪から通ってきた北枡形虎口を振り返る。
現地案内板では、先ほどの遊歩道から分岐した細い道を本来の城道とし、そのルートはこの枡形を経由して3曲輪に入り、上段の切岸を回り込んで南側へと抜けていた、としています。
※先の全体図とは南北が逆転しています。
※赤線は現在の遊歩道のルート
北枡形虎口の上段から見た3曲輪。
現地案内板の説に従えば、正規のルートは写真左手前の枡形を抜けて切岸沿いに一段下を右へ進み、更に手前方向へと折れて南へ続いていたということになります。
・・・が、実際にはこの右手に、それらしき道・通路の痕跡は見受けられませんでした。
他に、北桝形虎口から堀を挟んだ対岸の土塁まで、真っすぐに木橋が架けられていたのでは?と推定している説もあり、実際のところ如何なるルートが設定されてていたのかは、まだまだ謎と言わざるを得ません。
小宮曲輪北枡形虎口や3曲輪周辺はこれまで、結構ススキが生い茂っていて地表面が分かりづらかったように記憶しているのですが、整備のお陰でしっかり確認することができました。
さて、折角来たのでもう少し散策・・・
二の丸、南側虎口の枡形。
その南側虎口の先、正面に見える小馬出を挟んで三方向に伸びる土橋。
二の丸南面の横堀(と帯曲輪)
二の丸の周辺には、主郭部(中の丸~本丸)へと続く複数のルートが集約されており、滝山城でも最も重要な、主郭部防衛の要だったと考えています。
※ちなみに滝山城に於ける「大手」は、小宮曲輪と三の丸の間を抜けて千畳敷の前を通るルートとされていますが、この道は中の丸に国民宿舎を建設する際に付けられたもの。
構造からして本来は、小宮曲輪と三の丸の横堀は屈折しながら1本に繋がっていたものと思われますので、少なくともこの部分は道の敷設による改変です。
本来の大手は、城下の少林寺から鎌倉道の古道で加住丘陵の尾根に上がり、そのまま尾根伝いに東からカゾノ・刑部・信濃屋敷と呼ばれる曲輪群を抜けてくるルートであったと、私は考えます。
三の丸東曲輪4の切岸。
屈折させて横矢を掛けています。
こちらは中の丸と二の丸間の横堀に見られる、中の丸切岸の横矢。
滝山城は広大な城域を誇り、一つ一つの遺構のスケールも見事ですが、こうした細部まで本当によく作り込まれています。