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2017年3月12日 (日)

蒲生氏郷の故郷・・・日野

岐阜で迎えた旅の2日目。
前夜の打ち合わせにより、この日は近江湖東、蒲生氏郷の故郷である日野へ向かいました。

日野城跡図
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まずは蒲生氏の居城、日野(中野)城から。
※日野城には2015年にも訪れていますので、その時の記事も合わせてご参照ください。

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映画「るろうに剣心」のロケ現場にもなった堀底道。

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何気なく、さり気なく、、、立派な堀です(笑)
奥に見えている小さな社は凉橋神社。江戸時代、日野城跡に藩庁を置いた西大路(仁正寺)藩主・市橋氏の氏神です。
なお、詳細は不明ですがこの市橋氏、織田信長に従って佐和山城包囲戦などで活躍した「市橋九郎右衛門」(信長公記)に連なる一族と思われます。

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aの土橋

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更にもう1本、同じ横堀続きに土橋がありましたが・・・江戸時代に描かれた城跡図には全く存在していませんので、或いは利便性のため、後世になって築かれたものかもしれません。(bの位置)

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西大路藩庁跡

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藩庁跡は公園のような広場になっており、堀のような痕跡も一部に残っていました。

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蒲生氏郷産湯の井戸

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住宅街の合間にしっかりと痕跡を留めるcの堀跡。

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こちらは市橋氏の菩提寺となった清源寺
元は蒲生定秀(氏郷祖父)の別邸(桂林亭)だったと伝わります。定秀の没後に蒲生賢秀(同父)が桂林庵と改称して定秀の菩提を弔い、西大路藩が置かれると初代藩主・市橋長政が菩提寺としました。

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清源寺、西大路藩歴代藩主3人の墓所。

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続いて興敬寺
石山本願寺合戦に関する書状など(興敬寺文書)が残ります。

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興敬寺境内には、日野城外郭の東端部と思われる土塁や・・・

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堀跡が見事に残っていました。

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堀跡の近くには「落葉の清水」
日野三名水の泉、とのことですが・・・確かに「落葉」の泉だわ(笑)

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法雲寺
蒲生氏郷の父・賢秀の菩提寺です。

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宝篋印塔の笠石を用いた手水鉢。
笠石だけでこの大きさ・・・押して測るべし。

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蒲生賢秀墓所
右は西大路藩世嗣だった市橋利政のお墓。病弱を理由に廃嫡されたそうですが、59歳まで生きられたようです。

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法雲寺本堂の破風は、西大路藩庁の部材を転用したものと伝わります。

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信楽院
蒲生家の菩提寺

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信楽院本堂
元文4年(1739)の建立。

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信楽院墓地に建つ、蒲生氏郷の遺髪塔
同寺には他に、氏郷の納骨地蔵尊も祀られているそうです。

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雲雀野公園に建つ蒲生氏郷像。

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お次は日野のお隣、東近江市の井元城へ。
愛知川の河岸段丘上に位置し、麓に建つ春日神社(写真)が目印です。

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段丘上に上がると早速、素敵な横堀がお出迎え。

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横堀越しに主郭を見る。

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主郭東側に残る二続きの馬出状の小曲輪。

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主郭から向かって右側の馬出に・・・

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左側の馬出。

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2つの馬出を縦方向に重ねて見る。

この井元城、文献上に該当しそうな城が見受けられず、謎の城とされています。
鯰江城(同じ段丘上、西側に位置する)に対する付城、との説もあるそうですが、それにしては2つの馬出の方角(主郭東側)がおかしい
主郭の東側には実は、2つの馬出をもスッポリと包み込む堀で囲われた不思議な、大きな長方形の区画があり、こちらを主郭とすると最前の主郭が馬出のようにもなり、そうなると向きも反対になって鯰江城に向いていると言えなくもないのですが・・・。

しかしこの大きな区画は、個人的な印象としては神社の旧境内地の境界線。それに、この空間を主郭とした場合、ならばスッポリ取り込まれてしまった2つの馬出状の曲輪の意味は何?となってきます。
神社を築く際にわざわざ邪魔な馬出を取り込む必要はないので・・・神社が先にあって砦を築く際、神社をどかしたか?

あれこれ考えていくと深みにハマって益々分からなくなってきますが、今の段階では鯰江城に対する付城などではなく、千草・八風峠を越えてくる東からの敵を警戒する鯰江城の出城、としておくのが無難なのかもしれません。
※構造上の年代比定から、例えば関ヶ原(或いは大坂の役か?)時に築かれた西軍の砦かも、とする見解もあるようですが、それにしては現存する遺構の規模が小さ過ぎる印象です。

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最後に鯰江城の跡地にも。

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城の遺構は何も残っていませんが、愛知川の段丘上に築かれた城であったことは、周辺の地形からも一目瞭然です。
※鯰江城落城の顛末については、コチラの記事も参照ください。

さて、この後は一気に名古屋まで移動し、前日の賤ヶ岳でもご一緒したクリス・グレンさん主催のトークイベント&懇親会
「信長の城・小牧山城のヒミツ」
に参加させていただきました。

本来であれば、このイベントだけで1本の記事にすべきところですが、顔出しオンパレードで使えそうな写真もないので・・・あしからず(笑)
貴重なお話を聴けて多くの方ともお会いすることができ、とても有意義な機会になりました。

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