浮野古戦場と岩倉城

浮野の合戦は永禄元年(1558)7月、織田信長と犬山城の織田信清の連合軍が、岩倉城の織田伊勢守信賢の軍勢と争った戦い。
信長の居城・清須から岩倉城へは三十町に過ぎませんでしたが、此の表は節所たるに依つて、信長は岩倉城の背後(北西)、足場の良い浮野へ回り込んで布陣し、辰巳(南東)の方角へ向かって攻め掛かりました。
これには北方の犬山勢と合流するという意図もあったように思います。
※定説による浮野合戦の年次比定(永禄元年説)は「甫庵信長記」に拠っていますが、他に弘治3年(1557)とする史料もあり、信長が永禄2年に上洛していることから、合戦の翌年に岩倉城を包囲していることと考え合わせ、永禄元年説だと岩倉城包囲中に上洛したことになってしまうことから、弘治3年説を採用する見解があることも書き添えておきます。
まぁ確かに、岩倉城を制圧して尾張を(ほぼ)掌握した後に上洛して、足利義輝から尾張領有のお墨付きを貰った、とする方が流れとしては自然かもしれませんね。

信長軍が討ち取った首級を埋葬したと伝わる、浮野の鶯塚。

鶯塚に建つ石碑
この碑では定説通り、永禄元年説を採っていました。

鶯塚から岩倉城の方向・・・織田信長の軍勢が攻め掛かった方角。

鶯塚すぐ近く、「浮野」交差点。
ところで、「信長公記」にはこの時、浅野村で信長の鉄砲の師でもあった橋本一巴が、敵方の弓の名手・林弥七郎と戦うシーンも描写されています。
相討ちとなったところへ佐脇藤八(信長の小姓、前田利家弟)が駆け寄り、左手を負傷しながら林の頸を獲るのですが、この浅野という地名、今も浮野の南西方向に存在しています。
戦線がかなり横に広がっていたことが窺われます。
折角だから浅野にも行ってみよう、ということで何処かいい場所はないかと地図で確認していたら、何やら気になる形をした公園が目に付いたので、早速向かってみると・・・

なんと浅野長政の宅址とあるではないですか!?
なるほど、その「浅野」でしたか!

浅野長政顕彰碑

祢々(おね)の水

公園の周囲には、何やら思わせぶりな水路が・・・
そう、明らかにお堀っぽくなっているのが地図でも見て取れたので、来てみたのです。

何もない場所にわざわざ生活用水でもない水路を引くこともないでしょうから、或いはうっすらとでも堀の痕跡が残っていたのかな?

公園前には「寛永八年辛未九月廿一日」の日付も刻まれた、キリシタン殉教の碑も建っていました。
浮野の合戦は信長方の勝利に終わり、岩倉勢は城に逼塞することになります。

浮野と岩倉の間を流れる青木川。
勿論当時とは流路も多少違うでのしょうが、この川が開戦時の境界線、防衛ラインになったのかもしれません。

岩倉城跡碑

右端の織田伊勢守城址碑は、安政7年(1860)に建てられたものです。

岩倉城跡図
浮野合戦に敗れた伊勢守織田家の岩倉城は信長によって包囲され、合戦の翌年3月、遂に落城します。
現在、城跡の周辺は完全に宅地化されていますが、上の図を元に道路などの区画に僅かながらに残った往時の名残を辿ることができます。

a地点から南の方角を見た旧五条川の名残。

同じ地点から北側の旧五条川跡。
よく見ると道は暗渠になっており、今でもかすかに水の流れが残っているようです。

こちらの道路は、aから西側を見た横堀跡。

そのまま旧五条川の跡を北へ辿って、神明生田神社へ。

神明生田神社境内に建つ、山内一豊生誕地の碑。
※一豊の生誕地については諸説あります。

神社前を通る岩倉街道の旧道。

b地点の横堀の痕跡と思われる段差。

cの「おしろ道」
今回、同行者が旧五条川の名残などに気づいてくれたお陰で、思わぬ収穫がありました。
立派な土塁や堀などの遺構もいいですが、こういったお城散策もまた楽しいですね。
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