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2017年3月13日 (月)

解明されゆく小牧山城

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旅のラストは小牧山城へ。
前の晩のトークイベントで、小牧山城に関する貴重なお話を伺った直後とあっては、訪れない訳にはいかないでしょう(笑)

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城下大手口(南麓)に建てられている市役所庁舎内。
床を1本の線が走っています。

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そのまま庁舎を抜け、小牧山の麓まで続いて大手道に繋がっています。
これは庁舎建設前の発掘調査で明らかとなった、城下町大手筋の道のラインを示しているのです。

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復元された大手口の土塁と横堀

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主郭部手前までは一直線に伸びる大手道

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現在の遊歩道は突き当たりで左へ折れますが、本来の大手道は右(東)へ
ここが山上の主郭部との境界で、この先はクネクネと九十九折れに本丸へと続いていきます。

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この境界線に沿って、徳川家康が小牧長久手合戦時に築かせた横堀が走っています。

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本丸へと続く大手道
大手道はこの先も折れを繰り返してスロープ状に本丸へと至るのですが、2016年度の発掘調査でそのルート上から、自然の岩盤を切り開いて削平した石の壁」(その上には石垣も積まれていた)が発見されています。

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発掘された大手道の石の壁(写真提供:にのさん)
※訪問時には既に埋め戻し作業中につき立入禁止

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イメージ図(写真提供:にのさん)
こうした「折れ」は、枡型の原型とも言えそうです。また、切り落とした岩は当然、石垣の石材として用いたのでしょう。

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本丸を見上げる。
一部残存している石垣も覗いています。
小牧山に於ける石垣は、直線の大手道が九十九折れに変わる主郭部より上からしか発見されていません。山麓から山腹までは土造りのお城、山腹から山頂が石垣造りのお城だったことになります。

ここで小牧山城のエキスパートの方と合流して、コアな小牧山城をご案内いただけることになりました♪

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本丸周辺に転がる石垣の転落石。

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こうして石垣が崩れていても発掘の成果で裏込石が出ているので、その位置から石垣面の位置も確定できるのだそうです。
ただ、石垣推定面積に対して残存+転落石材の数が少な過ぎることから、おそらくは名古屋城築城の際に持ち出されたものと考えられています。が、名古屋城に小牧山のチャート材を多用した石垣が見当たらず、具体的にどの部分に用いられたのかは謎なのだそうです。

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裏込石の崩落石材は、まるで石垣のように積まれています。
最初の頃は適当に積んでいたものの、年々作業員の方々にもこだわりができてきたようで、最近では算木積みなんかも・・・(笑)

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本丸北西面の石垣

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小牧山の石垣石材は先にも書きましたが、殆どがチャート石矢穴は見つかっていないそうです。
手前の丸く飛び出た石は数少ない花崗岩。小牧山周辺で花崗岩が採れるのは岩崎山のみで、同山は小牧長久手合戦時は秀吉方の勢力下にありました。従って家康が用いることは叶わず、必然的にこの石垣がそれ以前の時代、信長による築城時に築かれたことの証明にもなっています。

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同じく北西側に残る、もう一つの石垣面。

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隙間から裏込石も見えています。

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奥に飛び出た石(花崗岩)が見えている部分が、先にご紹介した石垣面。
本来はここに道(階段)は存在せず、表出している石垣面の前後(写真では左右)のズレは、本丸の地表面が突出した部分(櫓台か)に当たります。
つまり、横矢が掛けられていた、とも言える構造になっていました。

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その突出部分
現在は昭和天皇がこの地に立たれたことを記念する御野立聖蹟の碑が建っているため、調査は叶いません。
※本来は復興天守の真裏にあったそうですが、建物の裏は失礼にあたるとのことで現在地に移されたとか。
※なお天守閣風の資料館は、どうやら盛り土をした上に建てられたらしいことが分かってきて、僅かながらも遺構がまだ地中に眠っている可能性も出てきているそうです。

小牧山城は「信長公記」にも書かれている通り、敵対するようになった犬山城、そしてその先の東美濃に対して築かれた城(このことが犬山城の攻略、東美濃の動揺~加治田城の寝返り~堂洞合戦へと繋がっていきます)ですが、この突出部は稲葉山城(後の岐阜城)の方角に向けて築かれています。

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小牧山城本丸から眺める、稲葉山城の方角。
写真中央、紅白の鉄塔左奥にうっすらと金華山が見えていました。

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本丸南虎口に建つ銅像の足元に横たわる岩(花崗岩)は、矢穴の位置が一致することから、本来は銅像横(奥)に見えている岩と一つのものだったことが分かっています。
矢穴の形状により、割られたのは慶長期と推定されることから、名古屋城築城の際、その石垣用の石材として割ったものの、何らかの理由で持ち出しを断念したものと考えられています。
また、岩に残るの刻印は、加賀前田家お抱えの石工集団のものだそうです。

また、この位置から本丸に向かって階段を登った正面に、鏡岩のように大きな石が据えられていますが、調査の結果これは当時からの石垣遺構ではなく、階段整備の際に積み直されていることが判明しているそうです。

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西側曲輪地区の尾根が二股に分かれる分岐点に位置する曲輪。
奥向きの御殿跡かも…とのことでしたが、ある時いきなり桜を無秩序に植樹されてしまい、現状では発掘調査の目処は立っていないようでした。

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石切り場のチャート材岩盤。
地層面に沿って岩が剥ぎ取られている様子がよく分かります。

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また、岩を切り取ることで岩盤は切岸状になり、足元は腰曲輪のようになっていました。石を調達できて、切岸を作れて、腰曲輪を作れて・・・一石三鳥?(笑)
※現在、我々が目にすることのできる近世城郭の石垣は、その殆どが花崗岩で積まれています。小牧山の矢穴のない石垣石材を見ても分かる通り、切り出しも楽なチャート材が姿を消した理由・・・この辺りには徐々に大型化した上物、つまり石垣に乗せる建築物の重量も関係しているように思いました。

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最初に見た横堀の上に位置する曲輪跡。
手前に見える窪みから、以前は井戸跡と紹介されていたこともあるようですが、これは井戸ではなく、横堀をドン突きで直角に折った痕跡とのことでした。
折れた部分が殆ど埋まり、天辺だけが窪みとして残ったために井戸のように見えているのだそうです。

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この土塁は横堀を掘った土で盛られたもの。
調査の結果、中からちょっとした石積みが出てきたそうです。信長時代の築地塀の基台跡ではないかと推測されています。

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土塁上から見下ろす横堀。かなりの高低差です。

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横堀
信長時代に階段状に築かれた曲輪(堀の左右で若干の高低差がある)の一部を潰し、家康が掘ったものと考えられています。

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調査で掘ったみたところ、この付近の体積土は皮一枚で遺構面がすぐに出てきたそうです。即ち、ほぼ家康が掘らせた当時のままの形状ということになります。

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見事な堀底。
左右の曲輪間での高低差も確認できます。

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横堀のドン突き。
今でこそ土塁が削れて通路のようになっていますが、当時は土塁で塞がれ、堀は向かって左に折れて終わっていました
そう、先ほど上から見た井戸のような形状をした部分です。

いやぁ~現地で貴重なことをたくさん教えていただけたし、本当に再訪してよかった!小牧山城!!

何から何まで充実して、大満足な2泊3日の旅。これも偏に誘っていただき、連れて行ってくださる仲間の存在の賜物ですね、感謝です。

次は・・・小牧山築城から続く歴史の舞台へ。
今回はひとまず、これにて筆を置きます。ありがとうございました。

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