堂木山砦・神明山砦・茂山砦 (賤ヶ岳合戦城砦群)
図1

2017年3月4日、賤ヶ岳の戦いに於いて、湖北の山々に築かれた砦群をめぐるオフに参加させていただきました。
図2

今回はまず、余呉湖の北方を遮るように北東へ延びる尾根上に、北国街道西側の押さえとして築かれた羽柴秀吉方の最前線防衛ラインの一翼、堂木山砦・神明山砦を目指します。

総勢16名で登山開始。
中井均先生をはじめ、加藤理文先生、城メグリストこと萩原さちこさん、名古屋でラジオDJとしても活躍されているクリス・グレンさん他、錚々たるメンバーに囲まれてちょっと緊張のスタートになりました(笑)
それにしても、この時期の近江湖北地方の山々はまだ残雪厳しく、予想外の雪中行軍・・・(^_^;)

尾根に辿り着くと堀切のような切通があり、ここが堂木山と神明山の分岐点。
まずは右、尾根先端付近に位置する堂木山砦へ。

しばらく尾根上を進み、ご覧のような土橋状の細尾根が出てくると、いよいよ堂木山砦になります。

堂木山砦縄張図
この図でいうと、左側からアプローチしていることになります。

a部分
雪が残っている箇所が削平されていて、周囲には土塁が残り、左側は切岸状に落とされています。

3曲輪の土塁

3曲輪から1曲輪(主郭)の土塁を見る。
土塁手前には横堀も通っています。

その横堀

1曲輪の周囲を固める土塁

1曲輪の土塁には1ヶ所、東側に虎口もありました。(b)

1曲輪から見る2曲輪

cの竪堀と竪土塁

2曲輪への進路は土塁を喰い違いに盛り、右→左と見事に屈折させてありました。

2曲輪
遺構の残存状態も良好で、その構造を明瞭に把握できます。

堂木山砦、北東端の堀切。
この先、尾根は徐々に下りになり、北国街道の通る麓へと出ることになります。

我々は元来たルートを引き返し、今度は神明山砦を目指します。

樹間の開けた場所から北方を眺めると、羽柴軍が当初、最前線と想定して築いた天神山砦・茶臼山砦のある稜線が見えていました。
(柴田軍が至近の別所山に砦を築いたため、羽柴軍は堂木山・神明山のラインまで前線を後退させている。図1参照)

反対の南には・・・余呉湖を挟んで高山右近の岩崎山砦、中川清秀の大岩山砦が置かれた稜線も。
写真右方向へ更に進むと、賤ヶ岳砦も見えていました。
柴田軍の佐久間盛政隊は行市山砦を出て南下し、そのまま尾根上を堂木山・神明山の西側を素通りして余呉湖畔に出て、湖畔を反時計回りに迂回、賤ヶ岳砦の足元を通過して大岩山砦、続いて岩崎山砦へ攻めかかったことになります。(位置関係は図2参照)
佐久間玄蕃・・・恐るべし。
ダイナミックな景観を堪能し、スケールの大きな山岳戦に思いを馳せつつ尾根をゆっくりと登っていくと、程なく神明山砦に到達します。

神明山砦縄張図
右側からのアプローチになります。

aの土塁

土塁の先には、階段状の曲輪がいくつか続いていました。

3曲輪越しに●曲輪(主郭)を見る。
主郭の脇には通路?が、まるで横堀のように通されていました。

主郭
一段と残雪が激しい・・・(^_^;)

先ほどとは反対側にも、武者走りのような通路。

2曲輪
突き当たりには立派な土塁も。

その土塁の先には堀切(b)
少し先にもう1本見えています。(c)

b堀切から続く南側の竪堀。
少し角度をつけて、堀切を渡る通路が設けられていました。
静岡・丸子城の長大竪堀にも見受けられる構造です。

cの竪堀

cの堀切を越えて尾根を進むと、少し先にdの出曲輪(物見台?)があります。
さて、本当ならこの後は一旦下山し、北国街道を挟んだ東側の東野山砦へ行きたかったのですが、思わぬ雪中行軍に時間を取られ、且つ東野山の残雪状況も心配だったので予定を変更し、このまま尾根上を南西方向に登り、茂山砦を目指すことになりました。

神明山砦から茂山砦へは、かなりハードな登り勾配を経由します。

ここでもまた景色を楽しむ・・・賤ヶ岳砦。
(中央ピーク部分)

岩崎山砦・大岩山砦方向

茂山砦へのルート上にも、かなり厳しい残雪が・・・

この坂を登り、合流した尾根を左に折れた先が・・・

茂山砦になります。oO(雪で全く分からんww)
合戦当初、北方の別所山砦に布陣した前田利家は、佐久間盛政の進軍に合わせて南下し、この茂山砦を押さえたと伝わります。
神明山砦や堂木山砦からは尾根続きで、しかもここまでの道のりを見ても分かる通り、両砦よりもかなり高所に位置します。このことからしても前田隊の進軍~茂山砦布陣は、羽柴軍の前線を押さえ込み、且つ佐久間隊の背後を確保する意図が明確ですね。ところが・・・
秀吉が大垣から大返しで戦場に姿を現し、佐久間隊が退却に移ると、あろうことか前田隊も茂山砦を放棄して戦場を離脱してしまいました。
これにより、前田隊の援護を受けられなかった佐久間隊は羽柴軍の激しい追撃を受け、総崩れとなって合戦の趨勢をも決してしまいます。
利家の戦場離脱については、予め秀吉との間に密約があったとか諸説ありますが・・・本当のところはよく分からないので詳しくは触れません。
戦況を見極め、ドライに自家存続を図ったということではなかったかと。
さて、この日の行程はこれにて終了。
あとは下山するだけ、の筈でしたが・・・

その下山が最も難敵でした・・・(^_^;)
進むにつれ、雪はどんどん深くなり・・・
(この付近で鹿も出現したそうです…私の背後を通ったため、私は気づきませんでしたが)

一旦林道に出ても、ご覧の有様・・・。

再び林道を離れ、最後は権現坂を下ります。
行市山砦を出て南下してきた佐久間盛政隊が、余呉湖畔に出る際に下ったと思われる坂でもあります。

とても雰囲気のある古道で、雪さえなければもっと楽しめたのですが・・・何度足を取られたことか。
写真は、仰のけにズッコケる直前のクリスさん(笑)

ようやく下山・・・

余呉湖の畔から見渡す、賤ヶ岳古戦場。
右奥に賤ヶ岳砦。そこから左へ目を転じていくと・・・

大岩山砦に岩崎山砦・・・

そして北へと延びる北国街道。
写真左端(手前)に写っているのが、堂木山砦や神明山砦のある尾根の先端です。
羽柴軍はそこから、北国街道を跨いで反対側の東野山砦にかけて、街道を封鎖する二重の堀切(惣構の堀)を築いて街道を封鎖していました。
以前もその痕跡を探しに行って玉砕しました(→記事)が、中井先生から少なくとも昭和の終わり頃までは、その一部が残っていたというポイントを教えていただいたので、今度また探しに行ってみよう♪
はい、これにて今回の賤ヶ岳古戦場歩きは怪我もなく、無事に終了です。
解散後は北陸方面へ帰る参加者を敦賀駅まで送り、そのまま大返しで岐阜へ。
(なんだか地理感覚がおかしくなる大移動w)
時間は少し遅くなりましたが、ギフナイト☆で楽しく盛り上がりました♪
※私の旅は、まだまだ続きます。

2017年3月4日、賤ヶ岳の戦いに於いて、湖北の山々に築かれた砦群をめぐるオフに参加させていただきました。
図2

今回はまず、余呉湖の北方を遮るように北東へ延びる尾根上に、北国街道西側の押さえとして築かれた羽柴秀吉方の最前線防衛ラインの一翼、堂木山砦・神明山砦を目指します。

総勢16名で登山開始。
中井均先生をはじめ、加藤理文先生、城メグリストこと萩原さちこさん、名古屋でラジオDJとしても活躍されているクリス・グレンさん他、錚々たるメンバーに囲まれてちょっと緊張のスタートになりました(笑)
それにしても、この時期の近江湖北地方の山々はまだ残雪厳しく、予想外の雪中行軍・・・(^_^;)

尾根に辿り着くと堀切のような切通があり、ここが堂木山と神明山の分岐点。
まずは右、尾根先端付近に位置する堂木山砦へ。

しばらく尾根上を進み、ご覧のような土橋状の細尾根が出てくると、いよいよ堂木山砦になります。

堂木山砦縄張図
この図でいうと、左側からアプローチしていることになります。

a部分
雪が残っている箇所が削平されていて、周囲には土塁が残り、左側は切岸状に落とされています。

3曲輪の土塁

3曲輪から1曲輪(主郭)の土塁を見る。
土塁手前には横堀も通っています。

その横堀

1曲輪の周囲を固める土塁

1曲輪の土塁には1ヶ所、東側に虎口もありました。(b)

1曲輪から見る2曲輪

cの竪堀と竪土塁

2曲輪への進路は土塁を喰い違いに盛り、右→左と見事に屈折させてありました。

2曲輪
遺構の残存状態も良好で、その構造を明瞭に把握できます。

堂木山砦、北東端の堀切。
この先、尾根は徐々に下りになり、北国街道の通る麓へと出ることになります。

我々は元来たルートを引き返し、今度は神明山砦を目指します。

樹間の開けた場所から北方を眺めると、羽柴軍が当初、最前線と想定して築いた天神山砦・茶臼山砦のある稜線が見えていました。
(柴田軍が至近の別所山に砦を築いたため、羽柴軍は堂木山・神明山のラインまで前線を後退させている。図1参照)

反対の南には・・・余呉湖を挟んで高山右近の岩崎山砦、中川清秀の大岩山砦が置かれた稜線も。
写真右方向へ更に進むと、賤ヶ岳砦も見えていました。
柴田軍の佐久間盛政隊は行市山砦を出て南下し、そのまま尾根上を堂木山・神明山の西側を素通りして余呉湖畔に出て、湖畔を反時計回りに迂回、賤ヶ岳砦の足元を通過して大岩山砦、続いて岩崎山砦へ攻めかかったことになります。(位置関係は図2参照)
佐久間玄蕃・・・恐るべし。
ダイナミックな景観を堪能し、スケールの大きな山岳戦に思いを馳せつつ尾根をゆっくりと登っていくと、程なく神明山砦に到達します。

神明山砦縄張図
右側からのアプローチになります。

aの土塁

土塁の先には、階段状の曲輪がいくつか続いていました。

3曲輪越しに●曲輪(主郭)を見る。
主郭の脇には通路?が、まるで横堀のように通されていました。

主郭
一段と残雪が激しい・・・(^_^;)

先ほどとは反対側にも、武者走りのような通路。

2曲輪
突き当たりには立派な土塁も。

その土塁の先には堀切(b)
少し先にもう1本見えています。(c)

b堀切から続く南側の竪堀。
少し角度をつけて、堀切を渡る通路が設けられていました。
静岡・丸子城の長大竪堀にも見受けられる構造です。

cの竪堀

cの堀切を越えて尾根を進むと、少し先にdの出曲輪(物見台?)があります。
さて、本当ならこの後は一旦下山し、北国街道を挟んだ東側の東野山砦へ行きたかったのですが、思わぬ雪中行軍に時間を取られ、且つ東野山の残雪状況も心配だったので予定を変更し、このまま尾根上を南西方向に登り、茂山砦を目指すことになりました。

神明山砦から茂山砦へは、かなりハードな登り勾配を経由します。

ここでもまた景色を楽しむ・・・賤ヶ岳砦。
(中央ピーク部分)

岩崎山砦・大岩山砦方向

茂山砦へのルート上にも、かなり厳しい残雪が・・・

この坂を登り、合流した尾根を左に折れた先が・・・

茂山砦になります。oO(雪で全く分からんww)
合戦当初、北方の別所山砦に布陣した前田利家は、佐久間盛政の進軍に合わせて南下し、この茂山砦を押さえたと伝わります。
神明山砦や堂木山砦からは尾根続きで、しかもここまでの道のりを見ても分かる通り、両砦よりもかなり高所に位置します。このことからしても前田隊の進軍~茂山砦布陣は、羽柴軍の前線を押さえ込み、且つ佐久間隊の背後を確保する意図が明確ですね。ところが・・・
秀吉が大垣から大返しで戦場に姿を現し、佐久間隊が退却に移ると、あろうことか前田隊も茂山砦を放棄して戦場を離脱してしまいました。
これにより、前田隊の援護を受けられなかった佐久間隊は羽柴軍の激しい追撃を受け、総崩れとなって合戦の趨勢をも決してしまいます。
利家の戦場離脱については、予め秀吉との間に密約があったとか諸説ありますが・・・本当のところはよく分からないので詳しくは触れません。
戦況を見極め、ドライに自家存続を図ったということではなかったかと。
さて、この日の行程はこれにて終了。
あとは下山するだけ、の筈でしたが・・・

その下山が最も難敵でした・・・(^_^;)
進むにつれ、雪はどんどん深くなり・・・
(この付近で鹿も出現したそうです…私の背後を通ったため、私は気づきませんでしたが)

一旦林道に出ても、ご覧の有様・・・。

再び林道を離れ、最後は権現坂を下ります。
行市山砦を出て南下してきた佐久間盛政隊が、余呉湖畔に出る際に下ったと思われる坂でもあります。

とても雰囲気のある古道で、雪さえなければもっと楽しめたのですが・・・何度足を取られたことか。
写真は、仰のけにズッコケる直前のクリスさん(笑)

ようやく下山・・・

余呉湖の畔から見渡す、賤ヶ岳古戦場。
右奥に賤ヶ岳砦。そこから左へ目を転じていくと・・・

大岩山砦に岩崎山砦・・・

そして北へと延びる北国街道。
写真左端(手前)に写っているのが、堂木山砦や神明山砦のある尾根の先端です。
羽柴軍はそこから、北国街道を跨いで反対側の東野山砦にかけて、街道を封鎖する二重の堀切(惣構の堀)を築いて街道を封鎖していました。
以前もその痕跡を探しに行って玉砕しました(→記事)が、中井先生から少なくとも昭和の終わり頃までは、その一部が残っていたというポイントを教えていただいたので、今度また探しに行ってみよう♪
はい、これにて今回の賤ヶ岳古戦場歩きは怪我もなく、無事に終了です。
解散後は北陸方面へ帰る参加者を敦賀駅まで送り、そのまま大返しで岐阜へ。
(なんだか地理感覚がおかしくなる大移動w)
時間は少し遅くなりましたが、ギフナイト☆で楽しく盛り上がりました♪
※私の旅は、まだまだ続きます。
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