薩た山陣場と横山城 (第2次薩た峠の戦い)
2017年4月15~16日は静岡への旅。
15日は薩た(土へんに垂)山に築かれた陣場跡をめぐるオフに参加させていただきました。
図1(第1次薩た峠の戦い)
永禄11年(1568)12月6日、甲斐の武田信玄は甲相駿三国同盟を破り、駿河へ向けて甲府を出陣します。
12月12日、武田軍が内房(富士宮市)に現れた、との報せに接した今川氏真は薩た峠に兵を送り、自らも興津の清見寺に本陣を据えました。
この一連の流れを見る限り、甲府を出た信玄は富士川沿いを南下して、東海道を西へ進んだようにも思えます。しかし、そうであるならば、富士宮市の大宮城や富士川西岸の蒲原城といった拠点が、少なくともこの時点では攻められることも、逆に防戦することもなく素通りされていることになる点が解せませんでした。
しかも、難所の薩た峠を中心に備える15,000もの今川の戦線が、翌13日にはあっさりと突破され、氏真は駿府の賤機山城に籠る暇すらなく、掛川へと逃れているのです。
この点について、今回の案内役であるサイガさんの説では、武田軍は東海道とは別ルートから侵攻し、今川軍の背後を衝いたのではないか、とのこと。
実は、薩た峠の背後(西麓側)の興津川沿いには、甲斐の国へ通じる身延路が通っています。内房には別働隊でも回し、信玄本隊は或いはこの身延路を使って今川軍の背後を衝くように一気に駿河へと侵攻したか・・・。
それであれば、僅か一日で薩た峠の防衛線を突破された(というより裏を取られた?)理由も、氏真が一目散に掛川まで逃げ去った(この時、氏真室の早川殿は輿にも乗れず、徒歩で駿府を脱したと云います。これを知った父・北条氏康は激怒し、上杉謙信に「この恥辱そそぎがたく候」との書状を書き送っています)理由にも説明がつくように思えます。
※甲斐⇔駿河の国境で、身延路にも通じる樽峠には、信玄が駿河侵攻の際に利用したとの伝承も残っているようです。
図2(第2次薩た峠の戦い)
信玄の駿河侵攻に怒った北条家は対抗策として、氏政を総大将とする45,000もの兵を出し、蒲原城を拠点として薩た山に陣場を築いて布陣します(永禄12年1月)。
対する信玄は、18,000の兵で薩た山から興津川を挟んだ対岸の横山城に入り、両軍の睨み合いが続きました。
・・・さて、前置きが長くなりましたが、今回はこの第2次薩た峠の戦いの舞台、薩た山の陣場と横山城を中心に見てまわります。
興津駅で集合し、まずは薩た峠を目指して出発。今回は全行程、歩きです…(^_^;)
しばらくすると薩た山の全景が見えてきました。
北を向くと右に薩た山、左には横山城が見えています(写真左寄り、低くて丸い稜線先端付近)。
この間には興津川が流れ、まさに北条×武田両軍が対陣した舞台です。
我々は中道で薩た峠を目指します。
細い農道の急坂を越え、最後にこちらの切通し道を抜けると・・・
薩た峠に出ます。
歌川広重も東海道五十三次に描いた風景・・・富士山が見えない(>_<)
遠くに見える山の稜線の、右端付近に蒲原城があります。
峠を越える旧東海道
峠の駐車場の先で旧東海道を離れ、山側の道を更に登り、この写真のポイントでいよいよ本格的な登山に入ります。
※ここから東堀切までのルートは1年前にも歩いており、コチラの記事でご紹介しているので今回は省略します。
急勾配の登りをなんとか乗り越え、写真の土橋を抜けて最後の登りをクリアすると・・・
巨大な東堀切が姿を現します。
東堀切の堀底から・・・杉が多すぎて分かりづらいですよね(--〆)
圧倒的な幅や深さを、雰囲気だけでも味わっていただければ・・・。
こちらは少し浅いけど分かりやすいかな。
南に向かって、竪堀のように落とされている部分です。
東堀切を越え、しばらく細い尾根を進むと虎口のような場所が出てきました(図2 a地点)。
この辺りから、鯵ノ平と呼ばれる陣場に連なる遺構が点在していきます。
その虎口を内側から。
しっかりとルートを折って、一段上に上げています。
虎口の先もしばらくは細い尾根道が続きますが、その脇にはしっかり土塁の跡がありました。
鯵ノ平陣場下段。
削平された平場に、虎口?横堀?のような屈折した幅広の溝があったのですが・・・写真だと何のこっちゃですね(T_T)
鯵ノ平陣場上段へ向かう途中。
通路なのか、竪堀のような溝が上段へ向かって伸びていました。
鯵ノ平陣場上段。
きちんと削平された平場というよりは、なだらかな緩斜面が続いていました。
しかし広さは結構なもので、それなりの兵数を駐屯させることができたのではないかと思います。
薩た山には陣場跡とされる遺構が何箇所も点在していますが、この鯵ノ平陣場周辺が北条軍主力部隊の拠点ではないかと推定されています。
鯵ノ平で昼休憩をとった後は、承元寺方面へ向けて徐々に下っていきます。
一旦、林道の終点のような場所に出ますが林道は下らず、ご覧の藪を掻き分けて進むと・・・
急坂を迂回しながら下る林道とは別に、坂をダイレクトに下る九十九折れの堀底道が存在していました。(図2 b地点)
この古道、西へ向いた方角から後に薩た山の突破に成功する武田軍による「仕寄道」では?という意見も出ました。
深さも結構なものです。
しばらく下った先で迂回していた林道に戻りました。
図2 c地点の堀切
北条方の薩た山中腹から、武田方の横山城を見下ろす。
これが第2次薩た峠の戦いに於ける、両軍の距離感(北条目線)。
南方に駿河湾を望むこの地で、東国の二大戦国大名が対峙していた・・・そう思うだけで興奮を抑えきれなくなる光景です。
下山した先には承元寺。
更に南方の山麓には霊泉寺というお寺がありますが、そちらは後に江尻城へ入る穴山梅雪が開基したお寺で、彼の墓所もあります。
そのまま興津川を越え、続いては武田方の拠点・横山城へ。
鳥瞰図にも描かれた、麓の居館土塁の痕跡。
城跡碑
ここから登ります(鳥瞰図a)。
横堀
左奥にうっすらと、横堀外縁の土塁も見えています。
今でこそかなり埋まって浅いですが、幅からしても結構な規模を誇っていたものと思われます。
鳥瞰図に「小曲輪」と書かれた曲輪跡に出ました・・・藪!(笑)
西曲輪⇔本曲輪間の堀切の底から、本曲輪の切岸を見上げる。(堀切は激藪のため、写真割愛…)
この切岸を駆け上がります。
登った先から堀切を撮影してみましたが・・・深さが伝わりますかね?
本曲輪外縁の土塁
そして・・・横山城本曲輪から望む薩た山。
両軍対峙の距離感…武田目線。完全に見下ろされています。
対陣が続く中、兵站の確保も滞って戦況に窮した信玄は永禄12年(1569)3月、横山城に穴山梅雪を残して甲斐への撤退を開始します。
(同月、織田信長に使者を立て、北方の脅威となっている上杉謙信との和睦斡旋について、足利義昭へのとりなしを懇願しています。その使者として遣わした市川十郎右衛門尉に宛てた信玄書状写には「この時いささかも信長御粗略においては、信玄滅亡疑いなく候」とあり、追い詰められた信玄の心情が吐露されています)
横山城の麓には、鳥瞰図にも「旧甲州往還道」と書かれている身延路が通っています。
城山南麓で左に折れ、北へと回り込む身延路。
その先には、旧街道の必須アイテム?…馬頭観音。
横山城から一旦、甲斐へと撤退する武田信玄。
間違いなく、この身延路を通っていったことでしょう。
旧身延路はこの先、山中かなり険しいルートを辿ることになるそうです。
一旦甲斐へと戻った信玄は6月に大宮城を陥落させた後、同年9月、北条家牽制のために関東へ進攻します。
上州から進んで鉢形城、滝山城などを攻撃しつつ南下し、10月には小田原城を包囲。北条方が籠城したため大きな戦闘はなく、数日で包囲を解いて甲斐へと帰陣しますが、この甲斐への行軍途中で勃発した戦いが三増合戦です(関連記事)。
三増合戦の帰趨などについてはここでは省きますが、いずれにせよ、この信玄の関東侵攻により、北条側は否応なしに駿河から兵を戻さざるを得なくなりました。
その間隙を縫うように12月、武田勝頼らが蒲原城を落とし、先の大宮城と合せて駿東地区を制圧して、駿河国の掌握に成功します。
15日は薩た(土へんに垂)山に築かれた陣場跡をめぐるオフに参加させていただきました。
図1(第1次薩た峠の戦い)
永禄11年(1568)12月6日、甲斐の武田信玄は甲相駿三国同盟を破り、駿河へ向けて甲府を出陣します。
12月12日、武田軍が内房(富士宮市)に現れた、との報せに接した今川氏真は薩た峠に兵を送り、自らも興津の清見寺に本陣を据えました。
この一連の流れを見る限り、甲府を出た信玄は富士川沿いを南下して、東海道を西へ進んだようにも思えます。しかし、そうであるならば、富士宮市の大宮城や富士川西岸の蒲原城といった拠点が、少なくともこの時点では攻められることも、逆に防戦することもなく素通りされていることになる点が解せませんでした。
しかも、難所の薩た峠を中心に備える15,000もの今川の戦線が、翌13日にはあっさりと突破され、氏真は駿府の賤機山城に籠る暇すらなく、掛川へと逃れているのです。
この点について、今回の案内役であるサイガさんの説では、武田軍は東海道とは別ルートから侵攻し、今川軍の背後を衝いたのではないか、とのこと。
実は、薩た峠の背後(西麓側)の興津川沿いには、甲斐の国へ通じる身延路が通っています。内房には別働隊でも回し、信玄本隊は或いはこの身延路を使って今川軍の背後を衝くように一気に駿河へと侵攻したか・・・。
それであれば、僅か一日で薩た峠の防衛線を突破された(というより裏を取られた?)理由も、氏真が一目散に掛川まで逃げ去った(この時、氏真室の早川殿は輿にも乗れず、徒歩で駿府を脱したと云います。これを知った父・北条氏康は激怒し、上杉謙信に「この恥辱そそぎがたく候」との書状を書き送っています)理由にも説明がつくように思えます。
※甲斐⇔駿河の国境で、身延路にも通じる樽峠には、信玄が駿河侵攻の際に利用したとの伝承も残っているようです。
図2(第2次薩た峠の戦い)
信玄の駿河侵攻に怒った北条家は対抗策として、氏政を総大将とする45,000もの兵を出し、蒲原城を拠点として薩た山に陣場を築いて布陣します(永禄12年1月)。
対する信玄は、18,000の兵で薩た山から興津川を挟んだ対岸の横山城に入り、両軍の睨み合いが続きました。
・・・さて、前置きが長くなりましたが、今回はこの第2次薩た峠の戦いの舞台、薩た山の陣場と横山城を中心に見てまわります。
興津駅で集合し、まずは薩た峠を目指して出発。今回は全行程、歩きです…(^_^;)
しばらくすると薩た山の全景が見えてきました。
北を向くと右に薩た山、左には横山城が見えています(写真左寄り、低くて丸い稜線先端付近)。
この間には興津川が流れ、まさに北条×武田両軍が対陣した舞台です。
我々は中道で薩た峠を目指します。
細い農道の急坂を越え、最後にこちらの切通し道を抜けると・・・
薩た峠に出ます。
歌川広重も東海道五十三次に描いた風景・・・富士山が見えない(>_<)
遠くに見える山の稜線の、右端付近に蒲原城があります。
峠を越える旧東海道
峠の駐車場の先で旧東海道を離れ、山側の道を更に登り、この写真のポイントでいよいよ本格的な登山に入ります。
※ここから東堀切までのルートは1年前にも歩いており、コチラの記事でご紹介しているので今回は省略します。
急勾配の登りをなんとか乗り越え、写真の土橋を抜けて最後の登りをクリアすると・・・
巨大な東堀切が姿を現します。
東堀切の堀底から・・・杉が多すぎて分かりづらいですよね(--〆)
圧倒的な幅や深さを、雰囲気だけでも味わっていただければ・・・。
こちらは少し浅いけど分かりやすいかな。
南に向かって、竪堀のように落とされている部分です。
東堀切を越え、しばらく細い尾根を進むと虎口のような場所が出てきました(図2 a地点)。
この辺りから、鯵ノ平と呼ばれる陣場に連なる遺構が点在していきます。
その虎口を内側から。
しっかりとルートを折って、一段上に上げています。
虎口の先もしばらくは細い尾根道が続きますが、その脇にはしっかり土塁の跡がありました。
鯵ノ平陣場下段。
削平された平場に、虎口?横堀?のような屈折した幅広の溝があったのですが・・・写真だと何のこっちゃですね(T_T)
鯵ノ平陣場上段へ向かう途中。
通路なのか、竪堀のような溝が上段へ向かって伸びていました。
鯵ノ平陣場上段。
きちんと削平された平場というよりは、なだらかな緩斜面が続いていました。
しかし広さは結構なもので、それなりの兵数を駐屯させることができたのではないかと思います。
薩た山には陣場跡とされる遺構が何箇所も点在していますが、この鯵ノ平陣場周辺が北条軍主力部隊の拠点ではないかと推定されています。
鯵ノ平で昼休憩をとった後は、承元寺方面へ向けて徐々に下っていきます。
一旦、林道の終点のような場所に出ますが林道は下らず、ご覧の藪を掻き分けて進むと・・・
急坂を迂回しながら下る林道とは別に、坂をダイレクトに下る九十九折れの堀底道が存在していました。(図2 b地点)
この古道、西へ向いた方角から後に薩た山の突破に成功する武田軍による「仕寄道」では?という意見も出ました。
深さも結構なものです。
しばらく下った先で迂回していた林道に戻りました。
図2 c地点の堀切
北条方の薩た山中腹から、武田方の横山城を見下ろす。
これが第2次薩た峠の戦いに於ける、両軍の距離感(北条目線)。
南方に駿河湾を望むこの地で、東国の二大戦国大名が対峙していた・・・そう思うだけで興奮を抑えきれなくなる光景です。
下山した先には承元寺。
更に南方の山麓には霊泉寺というお寺がありますが、そちらは後に江尻城へ入る穴山梅雪が開基したお寺で、彼の墓所もあります。
そのまま興津川を越え、続いては武田方の拠点・横山城へ。
鳥瞰図にも描かれた、麓の居館土塁の痕跡。
城跡碑
ここから登ります(鳥瞰図a)。
横堀
左奥にうっすらと、横堀外縁の土塁も見えています。
今でこそかなり埋まって浅いですが、幅からしても結構な規模を誇っていたものと思われます。
鳥瞰図に「小曲輪」と書かれた曲輪跡に出ました・・・藪!(笑)
西曲輪⇔本曲輪間の堀切の底から、本曲輪の切岸を見上げる。(堀切は激藪のため、写真割愛…)
この切岸を駆け上がります。
登った先から堀切を撮影してみましたが・・・深さが伝わりますかね?
本曲輪外縁の土塁
そして・・・横山城本曲輪から望む薩た山。
両軍対峙の距離感…武田目線。完全に見下ろされています。
対陣が続く中、兵站の確保も滞って戦況に窮した信玄は永禄12年(1569)3月、横山城に穴山梅雪を残して甲斐への撤退を開始します。
(同月、織田信長に使者を立て、北方の脅威となっている上杉謙信との和睦斡旋について、足利義昭へのとりなしを懇願しています。その使者として遣わした市川十郎右衛門尉に宛てた信玄書状写には「この時いささかも信長御粗略においては、信玄滅亡疑いなく候」とあり、追い詰められた信玄の心情が吐露されています)
横山城の麓には、鳥瞰図にも「旧甲州往還道」と書かれている身延路が通っています。
城山南麓で左に折れ、北へと回り込む身延路。
その先には、旧街道の必須アイテム?…馬頭観音。
横山城から一旦、甲斐へと撤退する武田信玄。
間違いなく、この身延路を通っていったことでしょう。
旧身延路はこの先、山中かなり険しいルートを辿ることになるそうです。
一旦甲斐へと戻った信玄は6月に大宮城を陥落させた後、同年9月、北条家牽制のために関東へ進攻します。
上州から進んで鉢形城、滝山城などを攻撃しつつ南下し、10月には小田原城を包囲。北条方が籠城したため大きな戦闘はなく、数日で包囲を解いて甲斐へと帰陣しますが、この甲斐への行軍途中で勃発した戦いが三増合戦です(関連記事)。
三増合戦の帰趨などについてはここでは省きますが、いずれにせよ、この信玄の関東侵攻により、北条側は否応なしに駿河から兵を戻さざるを得なくなりました。
その間隙を縫うように12月、武田勝頼らが蒲原城を落とし、先の大宮城と合せて駿東地区を制圧して、駿河国の掌握に成功します。
関東侵攻も決断を一つ誤れば、関東勢に包囲殲滅されかねない危険な軍事行動でした。
そういった意味では、駿河侵攻に始まる信玄の一連の軍事行動は、最後に大博打に勝って成功した、と言えるでしょう。
少なくとも、彼一代の限りに於いては。
この後は地図で目に留まった見性寺などへ立ち寄りつつ、興津駅まで戻りました。
朝10時のスタートから約6時間、本当によく歩きました。とても疲れましたが、ツワモノたちは清水駅に移動しての懇親会前に、更に歩くのです(笑)
そういった意味では、駿河侵攻に始まる信玄の一連の軍事行動は、最後に大博打に勝って成功した、と言えるでしょう。
少なくとも、彼一代の限りに於いては。
この後は地図で目に留まった見性寺などへ立ち寄りつつ、興津駅まで戻りました。
朝10時のスタートから約6時間、本当によく歩きました。とても疲れましたが、ツワモノたちは清水駅に移動しての懇親会前に、更に歩くのです(笑)
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