「おんな城主 直虎」の里をめぐる
静岡旅2日目、4月16日は大河ドラマ「おんな城主 直虎」で話題の井伊谷をめぐります。
浜松駅前で集合~車で三方原古戦場を通過し、まず最初に向かったのは・・・

三岳城です。
南北朝の時代から井伊氏の拠点となっていましたが、永正年間には今川氏との争いに敗れて落城しています。

中腹の三岳神社までは車で登り、そこから登山道を15~20分ほどで尾根に出ます。
※登り始めてすぐ、山道上で大きな蛇に遭遇しました…(・・;)

箒松の石碑
三岳城は、この石碑のある尾根の鞍部より西に本城、東に二の城(出城?)とがあります。

まずは本城へ向かいます。
本城への登り口が枡形虎口のようになっています。

本城東端、腰曲輪のような2段の曲輪跡。

かなり大きな岩が思わせぶりに並んでいました。

主郭への虎口

三岳城主郭

三岳城主郭から、井伊谷の里を望む。
奥には浜名湖。井伊家の菩提寺である龍潭寺も見えています。

三方原台地の地形も確認できます。
横へグリーンベルトのように樹木が連なっている部分が台地の縁で、写真中央付近に祝田坂の旧道があります。写真には写っていませんが、更に右へ行った先には、武田信玄が三方原の合戦後に入って越年したと伝わる刑部城もあります。

主郭西側の斜面を下ると、塹壕のように土塁が盛られた帯曲輪がありました。
一部、岩を積み上げて石塁になっている箇所もあります。

土塁の先を覗き込むと、更に下段にも・・・かなりの高低差があり、巨大な横堀のようにも見えます。

その下段に下りてみると、石塁による間仕切りのような遺構が数本見受けられました。

全く想定もしていなかった規模の見事な遺構です。

堀底を進むと・・・

保存状態の良い石積みもありました。

石積み

この石積み部分にも仕切りの石塁があり、堀底が四角い空間のようになっていました。
写真は、仕切りの石塁上から石積み方向。

その仕切りの石塁・・・まるで登り石垣。
これら、主郭の西方下段に築かれた腰曲輪と横堀状遺構のスケールや石塁には正直驚きました。
城郭史には全く疎い身ですが、直感としてこれはもう、戦国後期の遺構。永禄~元亀年間にかけて、この地域は徳川vs武田争奪の舞台となっており、現地案内板にも
“武田か徳川の改修による遺構とみられる”
とありましたが、然もありなんといった印象です。
※そういえばどことなく諏訪原城本曲輪の、東面下段で見受けられる遺構に構造が近いような気もします。
一旦箒松の碑まで戻り、今度は二の城へ。

二の城で最初に現れた、南側だけを落とした片堀切

二の城は削平も甘く、藪っていたこともありますが、見るべき遺構は東端の堀切(写真)くらいか。
さ、それでは井伊谷の里へ。
※ご紹介する各ポイントの詳細な位置については、井伊谷の観光案内等を参照ください。

井殿の塚
小野和泉守政直の讒言により、今川義元に誅された井伊直満(23代直親の父)・直義兄弟の墓。
塚の石垣(玉垣)は幕末、井伊直弼が寄進したものと伝わります。

井伊氏居館跡推定地(引佐町第四区公民館付近)から、井伊谷城全景。

井伊谷城に登ります。

井伊谷城図

虎口と土塁

井伊谷城は山上に築かれた単郭の城で、周囲の土塁も一部、薄っすらとですが残っていました。

井伊谷城から望む井伊谷の里。

同じく井伊谷城から、この日最初に登った三岳城(右奥の頂部)。

二宮神社
南北朝時代、井伊谷を拠点として戦った南朝方の宗良親王を合祀しています。

元亀3年の戦乱で、武田軍の兵火によって焼失したと伝わる足切観音堂。

永禄12年、その前年に井伊谷へ進攻してきた徳川家康によって井伊谷城を追われ、潜伏していたところを捕らわれ処刑された小野但馬守政次終焉の地。
※井伊谷城北東麓。国道257号を北へ進み、二宮神社の参道入口を過ぎて2本目の路地を左へ入ってすぐ。
辺り一帯は当時「蟹淵」と呼ばれ、すぐ近くを井伊谷川が流れていますが、その右岸(この供養塔が建っている側)の河原(現在は造成で消失)が処刑場であったと云います。享年34。

少し移動して都田川の河畔、井伊直親の墓所へ。

永禄5年、小野但馬守の讒言に遭った直親は、その申し開きに駿府へ向かう途中、掛川城主・朝比奈備中守泰朝によって殺害されました。享年27。
彼の遺骸はこの地まで運ばれ、都田川の河畔で荼毘に付されたと云います。
(墓前の石灯籠は井伊直弼の寄進)

永禄五壬戌年十二月十四日
なお、塚は本来200mほど東にありましたが、堤防移築により現在地に移されています。

お次は井伊氏初代・共保出生の井戸へ

井伊家の替紋「井桁」のモチーフにもなった井戸。
この傍らに生えていたと云うのが、定紋になる「橘」です。

井伊谷宮にも参拝
井伊谷宮から宗良親王の御墓の前を通り、龍潭寺へ向かいます。

井伊氏歴代墓所
右の大きな墓石が直盛(直虎父)、左列奥より直盛夫人、直虎、直親、直親夫人
(直政は石灯籠の陰・・・)

新野左馬助の墓
その奥に井伊谷三人衆の一人、鈴木重時。

中野氏一族、その奥に小野玄蕃や桶狭間合戦戦死者16将の墓。

奥山氏三代

井伊谷三人衆、近藤康用(左)と菅沼忠久(右)
こうして武将たちの墓にお参りしていると、各々の俳優さんの顔を思い浮かべてしまうのは・・・大河ドラマ放映中なので致し方ないところ(笑)

龍潭寺開山堂

本堂

十一面観音菩薩像
江戸時代、琵琶湖の湖底より投網で引き上げられた、との逸話を持つ一体です。
一説には織田信長による延暦寺焼き討ち(元亀2年)の際、近隣の寺々では御本尊などを兵火から守るため、琵琶湖に沈めて避難させたのだとか・・・。
こちらはそのうちの一体が、江戸期まで引き上げられることなく湖底に残されていたものと考えられています。

井伊家の籠

開山堂に安置される(右から)初代・共保、22代・直盛、24代・直政の木像。

歴代の御位牌

小堀遠州作の庭園

軒丸瓦の井桁に橘の新緑・・・井伊ね♪
書院の寺宝展では、織田信長所用と伝わるけん(山へんに見)山天目茶碗や黄西湖茶碗(共に織田信雄を経由して寄進?)も拝観できました。

小野但馬守に井伊谷城を押さえられた虎松(直政)は、母と共に龍潭寺松岳院に身を寄せます。
虎松の母は松岳院に地蔵を祀り、その傍らには梛の木を植えて我が子の安泰と成長を願ったとか。
その梛の木と・・・

虎松の無事成長祈願仏

所変わって、こちらは井伊直虎の菩提寺、妙雲寺。
2015年に発見されたばかりの井伊直虎、そして南渓和尚の御位牌を拝観できました。

ラストは地域遺産センターで開催中の特別展「戦国の井伊谷」
2日目は観光気分とはいえ、今話題の地をじっくりとめぐれて楽しかった。
今回の静岡旅も充実の2日間・・・体はボロボロだけど(笑)
浜松駅前で集合~車で三方原古戦場を通過し、まず最初に向かったのは・・・

三岳城です。
南北朝の時代から井伊氏の拠点となっていましたが、永正年間には今川氏との争いに敗れて落城しています。

中腹の三岳神社までは車で登り、そこから登山道を15~20分ほどで尾根に出ます。
※登り始めてすぐ、山道上で大きな蛇に遭遇しました…(・・;)

箒松の石碑
三岳城は、この石碑のある尾根の鞍部より西に本城、東に二の城(出城?)とがあります。

まずは本城へ向かいます。
本城への登り口が枡形虎口のようになっています。

本城東端、腰曲輪のような2段の曲輪跡。

かなり大きな岩が思わせぶりに並んでいました。

主郭への虎口

三岳城主郭

三岳城主郭から、井伊谷の里を望む。
奥には浜名湖。井伊家の菩提寺である龍潭寺も見えています。

三方原台地の地形も確認できます。
横へグリーンベルトのように樹木が連なっている部分が台地の縁で、写真中央付近に祝田坂の旧道があります。写真には写っていませんが、更に右へ行った先には、武田信玄が三方原の合戦後に入って越年したと伝わる刑部城もあります。

主郭西側の斜面を下ると、塹壕のように土塁が盛られた帯曲輪がありました。
一部、岩を積み上げて石塁になっている箇所もあります。

土塁の先を覗き込むと、更に下段にも・・・かなりの高低差があり、巨大な横堀のようにも見えます。

その下段に下りてみると、石塁による間仕切りのような遺構が数本見受けられました。

全く想定もしていなかった規模の見事な遺構です。

堀底を進むと・・・

保存状態の良い石積みもありました。

石積み

この石積み部分にも仕切りの石塁があり、堀底が四角い空間のようになっていました。
写真は、仕切りの石塁上から石積み方向。

その仕切りの石塁・・・まるで登り石垣。
これら、主郭の西方下段に築かれた腰曲輪と横堀状遺構のスケールや石塁には正直驚きました。
城郭史には全く疎い身ですが、直感としてこれはもう、戦国後期の遺構。永禄~元亀年間にかけて、この地域は徳川vs武田争奪の舞台となっており、現地案内板にも
“武田か徳川の改修による遺構とみられる”
とありましたが、然もありなんといった印象です。
※そういえばどことなく諏訪原城本曲輪の、東面下段で見受けられる遺構に構造が近いような気もします。
一旦箒松の碑まで戻り、今度は二の城へ。

二の城で最初に現れた、南側だけを落とした片堀切

二の城は削平も甘く、藪っていたこともありますが、見るべき遺構は東端の堀切(写真)くらいか。
さ、それでは井伊谷の里へ。
※ご紹介する各ポイントの詳細な位置については、井伊谷の観光案内等を参照ください。

井殿の塚
小野和泉守政直の讒言により、今川義元に誅された井伊直満(23代直親の父)・直義兄弟の墓。
塚の石垣(玉垣)は幕末、井伊直弼が寄進したものと伝わります。

井伊氏居館跡推定地(引佐町第四区公民館付近)から、井伊谷城全景。

井伊谷城に登ります。

井伊谷城図

虎口と土塁

井伊谷城は山上に築かれた単郭の城で、周囲の土塁も一部、薄っすらとですが残っていました。

井伊谷城から望む井伊谷の里。

同じく井伊谷城から、この日最初に登った三岳城(右奥の頂部)。

二宮神社
南北朝時代、井伊谷を拠点として戦った南朝方の宗良親王を合祀しています。

元亀3年の戦乱で、武田軍の兵火によって焼失したと伝わる足切観音堂。

永禄12年、その前年に井伊谷へ進攻してきた徳川家康によって井伊谷城を追われ、潜伏していたところを捕らわれ処刑された小野但馬守政次終焉の地。
※井伊谷城北東麓。国道257号を北へ進み、二宮神社の参道入口を過ぎて2本目の路地を左へ入ってすぐ。
辺り一帯は当時「蟹淵」と呼ばれ、すぐ近くを井伊谷川が流れていますが、その右岸(この供養塔が建っている側)の河原(現在は造成で消失)が処刑場であったと云います。享年34。

少し移動して都田川の河畔、井伊直親の墓所へ。

永禄5年、小野但馬守の讒言に遭った直親は、その申し開きに駿府へ向かう途中、掛川城主・朝比奈備中守泰朝によって殺害されました。享年27。
彼の遺骸はこの地まで運ばれ、都田川の河畔で荼毘に付されたと云います。
(墓前の石灯籠は井伊直弼の寄進)

永禄五壬戌年十二月十四日
なお、塚は本来200mほど東にありましたが、堤防移築により現在地に移されています。

お次は井伊氏初代・共保出生の井戸へ

井伊家の替紋「井桁」のモチーフにもなった井戸。
この傍らに生えていたと云うのが、定紋になる「橘」です。

井伊谷宮にも参拝
井伊谷宮から宗良親王の御墓の前を通り、龍潭寺へ向かいます。

井伊氏歴代墓所
右の大きな墓石が直盛(直虎父)、左列奥より直盛夫人、直虎、直親、直親夫人
(直政は石灯籠の陰・・・)

新野左馬助の墓
その奥に井伊谷三人衆の一人、鈴木重時。

中野氏一族、その奥に小野玄蕃や桶狭間合戦戦死者16将の墓。

奥山氏三代

井伊谷三人衆、近藤康用(左)と菅沼忠久(右)
こうして武将たちの墓にお参りしていると、各々の俳優さんの顔を思い浮かべてしまうのは・・・大河ドラマ放映中なので致し方ないところ(笑)

龍潭寺開山堂

本堂

十一面観音菩薩像
江戸時代、琵琶湖の湖底より投網で引き上げられた、との逸話を持つ一体です。
一説には織田信長による延暦寺焼き討ち(元亀2年)の際、近隣の寺々では御本尊などを兵火から守るため、琵琶湖に沈めて避難させたのだとか・・・。
こちらはそのうちの一体が、江戸期まで引き上げられることなく湖底に残されていたものと考えられています。

井伊家の籠

開山堂に安置される(右から)初代・共保、22代・直盛、24代・直政の木像。

歴代の御位牌

小堀遠州作の庭園

軒丸瓦の井桁に橘の新緑・・・井伊ね♪
書院の寺宝展では、織田信長所用と伝わるけん(山へんに見)山天目茶碗や黄西湖茶碗(共に織田信雄を経由して寄進?)も拝観できました。

小野但馬守に井伊谷城を押さえられた虎松(直政)は、母と共に龍潭寺松岳院に身を寄せます。
虎松の母は松岳院に地蔵を祀り、その傍らには梛の木を植えて我が子の安泰と成長を願ったとか。
その梛の木と・・・

虎松の無事成長祈願仏

所変わって、こちらは井伊直虎の菩提寺、妙雲寺。
2015年に発見されたばかりの井伊直虎、そして南渓和尚の御位牌を拝観できました。

ラストは地域遺産センターで開催中の特別展「戦国の井伊谷」
2日目は観光気分とはいえ、今話題の地をじっくりとめぐれて楽しかった。
今回の静岡旅も充実の2日間・・・体はボロボロだけど(笑)