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2017年4月

2017年4月21日 (金)

「おんな城主 直虎」の里をめぐる

静岡旅2日目、4月16日は大河ドラマ「おんな城主 直虎」で話題の井伊谷をめぐります。
浜松駅前で集合~車で三方原古戦場を通過し、まず最初に向かったのは・・・

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三岳城です。
南北朝の時代から井伊氏の拠点となっていましたが、永正年間には今川氏との争いに敗れて落城しています。

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中腹の三岳神社までは車で登り、そこから登山道を15~20分ほどで尾根に出ます。
※登り始めてすぐ、山道上で大きなに遭遇しました…(・・;)

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箒松の石碑
三岳城は、この石碑のある尾根の鞍部より西に本城、東に二の城(出城?)とがあります。

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まずは本城へ向かいます。
本城への登り口が枡形虎口のようになっています。

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本城東端、腰曲輪のような2段の曲輪跡。

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かなり大きな岩が思わせぶりに並んでいました。

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主郭への虎口

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三岳城主郭

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三岳城主郭から、井伊谷の里を望む。
奥には浜名湖。井伊家の菩提寺である龍潭寺も見えています。

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三方原台地の地形も確認できます。
横へグリーンベルトのように樹木が連なっている部分が台地の縁で、写真中央付近に祝田坂の旧道があります。写真には写っていませんが、更に右へ行った先には、武田信玄が三方原の合戦後に入って越年したと伝わる刑部城もあります。

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主郭西側の斜面を下ると、塹壕のように土塁が盛られた帯曲輪がありました。
一部、岩を積み上げて石塁になっている箇所もあります。

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土塁の先を覗き込むと、更に下段にも・・・かなりの高低差があり、巨大な横堀のようにも見えます。

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その下段に下りてみると、石塁による間仕切りのような遺構が数本見受けられました。

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全く想定もしていなかった規模の見事な遺構です。

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堀底を進むと・・・

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保存状態の良い石積みもありました。

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石積み

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この石積み部分にも仕切りの石塁があり、堀底が四角い空間のようになっていました。
写真は、仕切りの石塁上から石積み方向。

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その仕切りの石塁・・・まるで登り石垣。

これら、主郭の西方下段に築かれた腰曲輪と横堀状遺構のスケールや石塁には正直驚きました。
城郭史には全く疎い身ですが、直感としてこれはもう、戦国後期の遺構。永禄~元亀年間にかけて、この地域は徳川vs武田争奪の舞台となっており、現地案内板にも
“武田か徳川の改修による遺構とみられる”
とありましたが、然もありなんといった印象です。
※そういえばどことなく諏訪原城本曲輪の、東面下段で見受けられる遺構に構造が近いような気もします。

一旦箒松の碑まで戻り、今度は二の城へ。

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二の城で最初に現れた、南側だけを落とした片堀切

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二の城は削平も甘く、藪っていたこともありますが、見るべき遺構は東端の堀切(写真)くらいか。

さ、それでは井伊谷の里へ。
※ご紹介する各ポイントの詳細な位置については、井伊谷の観光案内等を参照ください。

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井殿の塚
小野和泉守政直の讒言により、今川義元に誅された井伊直満(23代直親の父)・直義兄弟の墓。
塚の石垣(玉垣)は幕末、井伊直弼が寄進したものと伝わります。

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井伊氏居館跡推定地(引佐町第四区公民館付近)から、井伊谷城全景。

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井伊谷城に登ります。

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井伊谷城図

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虎口と土塁

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井伊谷城は山上に築かれた単郭の城で、周囲の土塁も一部、薄っすらとですが残っていました。

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井伊谷城から望む井伊谷の里。

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同じく井伊谷城から、この日最初に登った三岳城(右奥の頂部)。

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二宮神社
南北朝時代、井伊谷を拠点として戦った南朝方の宗良親王を合祀しています。

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元亀3年の戦乱で、武田軍の兵火によって焼失したと伝わる足切観音堂。

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永禄12年、その前年に井伊谷へ進攻してきた徳川家康によって井伊谷城を追われ、潜伏していたところを捕らわれ処刑された小野但馬守政次終焉の地
※井伊谷城北東麓。国道257号を北へ進み、二宮神社の参道入口を過ぎて2本目の路地を左へ入ってすぐ。

辺り一帯は当時「蟹淵」と呼ばれ、すぐ近くを井伊谷川が流れていますが、その右岸(この供養塔が建っている側)の河原(現在は造成で消失)が処刑場であったと云います。享年34。

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少し移動して都田川の河畔、井伊直親の墓所へ。

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永禄5年、小野但馬守の讒言に遭った直親は、その申し開きに駿府へ向かう途中、掛川城主・朝比奈備中守泰朝によって殺害されました。享年27。
彼の遺骸はこの地まで運ばれ、都田川の河畔で荼毘に付されたと云います。
(墓前の石灯籠は井伊直弼の寄進)

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永禄五壬戌年十二月十四日
なお、塚は本来200mほど東にありましたが、堤防移築により現在地に移されています。

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お次は井伊氏初代・共保出生の井戸

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井伊家の替紋「井桁」のモチーフにもなった井戸。
この傍らに生えていたと云うのが、定紋になる「橘」です。

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井伊谷宮にも参拝

井伊谷宮から宗良親王の御墓の前を通り、龍潭寺へ向かいます。

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井伊氏歴代墓所
右の大きな墓石が直盛(直虎父)、左列奥より直盛夫人、直虎、直親、直親夫人
(直政は石灯籠の陰・・・)

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新野左馬助の墓
その奥に井伊谷三人衆の一人、鈴木重時。

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中野氏一族、その奥に小野玄蕃や桶狭間合戦戦死者16将の墓。

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奥山氏三代

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井伊谷三人衆、近藤康用(左)と菅沼忠久(右)

こうして武将たちの墓にお参りしていると、各々の俳優さんの顔を思い浮かべてしまうのは・・・大河ドラマ放映中なので致し方ないところ(笑)

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龍潭寺開山堂

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本堂

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十一面観音菩薩像
江戸時代、琵琶湖の湖底より投網で引き上げられた、との逸話を持つ一体です。
一説には織田信長による延暦寺焼き討ち(元亀2年)の際、近隣の寺々では御本尊などを兵火から守るため、琵琶湖に沈めて避難させたのだとか・・・。
こちらはそのうちの一体が、江戸期まで引き上げられることなく湖底に残されていたものと考えられています。

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井伊家の籠

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開山堂に安置される(右から)初代・共保、22代・直盛、24代・直政の木像。

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歴代の御位牌

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小堀遠州作の庭園

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軒丸瓦の井桁の新緑・・・井伊ね♪
書院の寺宝展では、織田信長所用と伝わるけん(山へんに見)山天目茶碗黄西湖茶碗(共に織田信雄を経由して寄進?)も拝観できました。

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小野但馬守に井伊谷城を押さえられた虎松(直政)は、母と共に龍潭寺松岳院に身を寄せます。
虎松の母は松岳院に地蔵を祀り、その傍らには梛の木を植えて我が子の安泰と成長を願ったとか。
その梛の木と・・・

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虎松の無事成長祈願仏

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所変わって、こちらは井伊直虎の菩提寺、妙雲寺
2015年に発見されたばかり井伊直虎、そして南渓和尚御位牌を拝観できました。

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ラストは地域遺産センターで開催中の特別展「戦国の井伊谷」

2日目は観光気分とはいえ、今話題の地をじっくりとめぐれて楽しかった。
今回の静岡旅も充実の2日間・・・体はボロボロだけど(笑)

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2017年4月20日 (木)

江尻城

薩た山~横山城をめぐった後は、オフ会参加者による懇親会のため清水駅へ移動。
懇親会の開始までは少し時間があったので、江尻城跡を歩いてみることになりました。

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駅から江尻城へ向かう途中、徳川家康の長男・信康の墓所がある江浄寺の前を通過。
残念ながら、17時を過ぎていたので参拝は叶いませんでした。

江尻城図
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これを現在の地図にあてはめると・・・

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おおよそ、このようになります。
ヘタクソな手書きのため、多少のズレなどはご容赦ください…(^人^;)
現在は直線に改められた巴川の流路も、当時はかなり蛇行していました

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地図をご覧いただいても分かる通り、本丸の大部分は江尻小学校の敷地になっています。
校門の名前も・・・(笑)

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地図 a地点から南西方向。
先の方で地形が下っているのは、蛇行していた当時の巴川の痕跡です。
この通りの左側が本丸跡になります。

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b地点
高低差がお分かりでしょうか。手前の低い部分が巴側の跡で、高い部分が本丸跡。
つまり、ここが本丸の南東側の縁ということになります。

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江尻城本丸跡
天正10年(1582)4月には、甲州征伐を終えて安土へ凱旋する途中の織田信長も、江尻城に一夜の宿を取っています。

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最後に、三の丸跡地に建つ小芝八幡宮。
西暦811年の創建と伝わる古社で、永禄12年の江尻城築城の際、城の鎮守として城内に移されました。
但し、現在地に移されたのは廃城後とのことなので、江尻城時代には更に別の場所に祀られていたようです。

この後は駅前で懇親会☆
短い時間でしたが、疲れた体に沁み渡る生ビールと、楽しい城・歴史・街道話でおおいに盛り上がりました♪

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2017年4月19日 (水)

薩た山陣場と横山城 (第2次薩た峠の戦い)

2017年4月15~16日は静岡への旅。
15日は薩た(土へんに垂)山に築かれた陣場跡をめぐるオフに参加させていただきました。

図1(第1次薩た峠の戦い)
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永禄11年(1568)12月6日、甲斐の武田信玄は甲相駿三国同盟を破り、駿河へ向けて甲府を出陣します。
12月12日、武田軍が内房(富士宮市)に現れた、との報せに接した今川氏真薩た峠に兵を送り、自らも興津の清見寺に本陣を据えました。
この一連の流れを見る限り、甲府を出た信玄は富士川沿いを南下して、東海道を西へ進んだようにも思えます。しかし、そうであるならば、富士宮市の大宮城や富士川西岸の蒲原城といった拠点が、少なくともこの時点では攻められることも、逆に防戦することもなく素通りされていることになる点が解せませんでした。
しかも、難所の薩た峠を中心に備える15,000もの今川の戦線が、翌13日にはあっさりと突破され、氏真は駿府の賤機山城に籠る暇すらなく、掛川へと逃れているのです。

この点について、今回の案内役であるサイガさんの説では、武田軍は東海道とは別ルートから侵攻し、今川軍の背後を衝いたのではないか、とのこと。
実は、薩た峠の背後(西麓側)の興津川沿いには、甲斐の国へ通じる身延路が通っています。内房には別働隊でも回し、信玄本隊は或いはこの身延路を使って今川軍の背後を衝くように一気に駿河へと侵攻したか・・・。
それであれば、僅か一日で薩た峠の防衛線を突破された(というより裏を取られた?)理由も、氏真が一目散に掛川まで逃げ去った(この時、氏真室の早川殿は輿にも乗れず、徒歩で駿府を脱したと云います。これを知った父・北条氏康は激怒し、上杉謙信に「この恥辱そそぎがたく候」との書状を書き送っています)理由にも説明がつくように思えます。
※甲斐⇔駿河の国境で、身延路にも通じる樽峠には、信玄が駿河侵攻の際に利用したとの伝承も残っているようです。

図2(第2次薩た峠の戦い)
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信玄の駿河侵攻に怒った北条家は対抗策として、氏政を総大将とする45,000もの兵を出し、蒲原城を拠点として薩た山に陣場を築いて布陣します(永禄12年1月)。
対する信玄は、18,000の兵で薩た山から興津川を挟んだ対岸の横山城に入り、両軍の睨み合いが続きました。

・・・さて、前置きが長くなりましたが、今回はこの第2次薩た峠の戦いの舞台、薩た山の陣場横山城を中心に見てまわります。

興津駅で集合し、まずは薩た峠を目指して出発。今回は全行程、歩きです…(^_^;)

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しばらくすると薩た山の全景が見えてきました。

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北を向くと右に薩た山、左には横山城が見えています(写真左寄り、低くて丸い稜線先端付近)。
この間には興津川が流れ、まさに北条×武田両軍が対陣した舞台です。

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我々は中道で薩た峠を目指します。

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細い農道の急坂を越え、最後にこちらの切通し道を抜けると・・・

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薩た峠に出ます。

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歌川広重も東海道五十三次に描いた風景・・・富士山が見えない(>_<)
遠くに見える山の稜線の、右端付近に蒲原城があります。

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峠を越える旧東海道

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峠の駐車場の先で旧東海道を離れ、山側の道を更に登り、この写真のポイントでいよいよ本格的な登山に入ります。
※ここから東堀切までのルートは1年前にも歩いており、コチラの記事でご紹介しているので今回は省略します。

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急勾配の登りをなんとか乗り越え、写真の土橋を抜けて最後の登りをクリアすると・・・

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巨大な東堀切が姿を現します。

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東堀切の堀底から・・・杉が多すぎて分かりづらいですよね(--〆)
圧倒的な幅や深さを、雰囲気だけでも味わっていただければ・・・。

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こちらは少し浅いけど分かりやすいかな。
南に向かって、竪堀のように落とされている部分です。

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東堀切を越え、しばらく細い尾根を進むと虎口のような場所が出てきました(図2 a地点)。
この辺りから、鯵ノ平と呼ばれる陣場に連なる遺構が点在していきます。

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その虎口を内側から。
しっかりとルートを折って、一段上に上げています。

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虎口の先もしばらくは細い尾根道が続きますが、その脇にはしっかり土塁の跡がありました。

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鯵ノ平陣場下段。
削平された平場に、虎口?横堀?のような屈折した幅広の溝があったのですが・・・写真だと何のこっちゃですね(T_T)

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鯵ノ平陣場上段へ向かう途中。
通路なのか、竪堀のような溝が上段へ向かって伸びていました。

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鯵ノ平陣場上段。
きちんと削平された平場というよりは、なだらかな緩斜面が続いていました。
しかし広さは結構なもので、それなりの兵数を駐屯させることができたのではないかと思います。

薩た山には陣場跡とされる遺構が何箇所も点在していますが、この鯵ノ平陣場周辺が北条軍主力部隊の拠点ではないかと推定されています。

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鯵ノ平で昼休憩をとった後は、承元寺方面へ向けて徐々に下っていきます。

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一旦、林道の終点のような場所に出ますが林道は下らず、ご覧の藪を掻き分けて進むと・・・

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急坂を迂回しながら下る林道とは別に、坂をダイレクトに下る九十九折れの堀底道が存在していました。(図2 b地点)

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この古道、西へ向いた方角から後に薩た山の突破に成功する武田軍による「仕寄道」では?という意見も出ました。

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深さも結構なものです。
しばらく下った先で迂回していた林道に戻りました。

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図2 c地点の堀切

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北条方の薩た山中腹から、武田方の横山城を見下ろす。
これが第2次薩た峠の戦いに於ける、両軍の距離感(北条目線)。

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南方に駿河湾を望むこの地で、東国の二大戦国大名が対峙していた・・・そう思うだけで興奮を抑えきれなくなる光景です。

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下山した先には承元寺。
更に南方の山麓には霊泉寺というお寺がありますが、そちらは後に江尻城へ入る穴山梅雪が開基したお寺で、彼の墓所もあります。

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そのまま興津川を越え、続いては武田方の拠点・横山城へ。

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鳥瞰図にも描かれた、麓の居館土塁の痕跡。

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城跡碑
ここから登ります(鳥瞰図a)。

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横堀
左奥にうっすらと、横堀外縁の土塁も見えています。

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今でこそかなり埋まって浅いですが、幅からしても結構な規模を誇っていたものと思われます。

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鳥瞰図に「小曲輪」と書かれた曲輪跡に出ました・・・藪!(笑)

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西曲輪⇔本曲輪間の堀切の底から、本曲輪の切岸を見上げる。(堀切は激藪のため、写真割愛…)
この切岸を駆け上がります。

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登った先から堀切を撮影してみましたが・・・深さが伝わりますかね?

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本曲輪外縁の土塁

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そして・・・横山城本曲輪から望む薩た山。
両軍対峙の距離感…武田目線。完全に見下ろされています。

対陣が続く中、兵站の確保も滞って戦況に窮した信玄は永禄12年(1569)3月、横山城に穴山梅雪を残して甲斐への撤退を開始します。
(同月、織田信長に使者を立て、北方の脅威となっている上杉謙信との和睦斡旋について、足利義昭へのとりなしを懇願しています。その使者として遣わした市川十郎右衛門尉に宛てた信玄書状写には「この時いささかも信長御粗略においては、信玄滅亡疑いなく候」とあり、追い詰められた信玄の心情が吐露されています)

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横山城の麓には、鳥瞰図にも「旧甲州往還道」と書かれている身延路が通っています。

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城山南麓で左に折れ、北へと回り込む身延路。

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その先には、旧街道の必須アイテム?…馬頭観音。

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横山城から一旦、甲斐へと撤退する武田信玄。
間違いなく、この身延路を通っていったことでしょう。

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旧身延路はこの先、山中かなり険しいルートを辿ることになるそうです。

一旦甲斐へと戻った信玄は6月に大宮城を陥落させた後、同年9月、北条家牽制のために関東へ進攻します。
上州から進んで鉢形城、滝山城などを攻撃しつつ南下し、10月には小田原城を包囲。北条方が籠城したため大きな戦闘はなく、数日で包囲を解いて甲斐へと帰陣しますが、この甲斐への行軍途中で勃発した戦いが三増合戦です(関連記事)。

三増合戦の帰趨などについてはここでは省きますが、いずれにせよ、この信玄の関東侵攻により、北条側は否応なしに駿河から兵を戻さざるを得なくなりました
その間隙を縫うように12月、武田勝頼らが蒲原城を落とし、先の大宮城と合せて駿東地区を制圧して、駿河国の掌握に成功します。

 

関東侵攻も決断を一つ誤れば、関東勢に包囲殲滅されかねない危険な軍事行動でした。
そういった意味では、駿河侵攻に始まる信玄の一連の軍事行動は、最後に大博打に勝って成功した、と言えるでしょう。
少なくとも、彼一代の限りに於いては。

この後は地図で目に留まった見性寺などへ立ち寄りつつ、興津駅まで戻りました。
朝10時のスタートから約6時間、本当によく歩きました。とても疲れましたが、ツワモノたちは清水駅に移動しての懇親会前に、更に歩くのです(笑)

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2017年4月 9日 (日)

大良の戦い

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信長も道三聟にて侯間、手合のため木曾川・飛騨川舟渡し、大河打ち越し、大良戸島、東蔵坊構へに至りて御在陣。
(信長公記 首巻「山城道三討死の事」より抜粋)

美濃の斎藤道三が嫡子・義龍と争った弘治2年(1556)4月の長良川の戦い
道三の婿()でもある織田信長は、道三への援軍として木曽川・長良川(飛騨川)を越えて大良(岐阜県羽島市正木町大浦新田)まで進軍します。
※木曽・長良両河川と大良の位置関係を考えると、「信長公記」のこの記述には疑問を禁じ得ないのですが、当時、付近一帯には両河川の支流なども複雑に入り組んでいたようなので、細かくは追及しません。(;^_^A

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木曽川に濃尾大橋が架かる辺りが、江戸時代の起渡船場
周辺には他にも、いくつかの渡し場が設けられていたようです。
そこから堤防を越えて西へ・・・

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美濃路の旧道が伸びています。
(上地図赤ライン

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大浦(三ツ屋)の道標

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右 いせみち
左 おこし舟渡


現在、道標は民家の玄関先に建っていますが、この場所には元々、木曽川の堤が南北に走っていたのだそうです。
美濃路はその堤防上を右へ折れ、北に続いていました。

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少し北へ進むと、しだれ桜の足元だけが取り残されるようにして高くなっている場所がありました。
先ほどの道標の位置と南北のラインで繋がりそうですし、これはしだれ桜のお陰で僅かに残された、江戸期の堤防の痕跡かもしれないなと思いました。
更に北へ進むと・・・

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大浦城大浦の寺砦)跡とされる金矮鶏神社があります。
寺砦とは「戦の際に砦として利用される寺院」といったところでしょうか。
この大浦城こそ、信長が布陣した戸島、東蔵坊の構へではないかと推定されています。
東蔵坊という響きもなんとなく、「寺」を連想させますよね。

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石柱に見える「金矮鶏」の文字。

長良川の戦いで勝利した斎藤義龍は、その勢いを駆って大良に陣取る信長の軍勢にも兵を差し向けます。
信長も出撃してこれを迎え撃って激戦となりますが、山口取手介や土方喜三郎といった将が戦死、森可成も負傷を負う苦戦に陥りました。
「信長公記」にはこの時、信長は三十町計り(約3.3㎞)縣け出だし、河原で合戦に及んだ、とあります。大浦城から3㎞ほど北には現在、堺川が流れていますが、これがこの当時の木曽川の本流(美濃と尾張の国境だから「境川」)。
義龍軍との合戦は、この境川の河原の何処かで争われたのではないでしょうか。

戦いの最中、道三の敗死を知った信長は大浦城に一旦兵を退き、尾張への撤退を決断します。

爰にて大河隔つる事に侯間、雑人・牛馬、悉く退けさせられ、殿は信長させらるべき由にて、惣人数こさせられ上総介殿めし侯御舟一艘残し置き、おのゝゝ打ち越し侯ところ、馬武者少々川ばたまで懸け来たり侯。其の時、信長鉄炮をうたせられ、是れより近ゞとは参らず。さて、御舟にめされ、御こしなり。
(信長公記 首巻「信長大良より御帰陣の事」より抜粋)

勝ちに乗じて勢いに乗る敵の軍勢が迫る中、まずは雑人や牛馬を退かせた後、信長は
殿(しんがり)は俺がやる
と言って自らの舟一艘だけを残し、あろうことか全軍を先に渡河させてしまうのです・・・なんとも凄まじいエピソードですね。
そこへ義龍方の騎馬武者が追ってきますが、信長が鉄砲で迎撃すると敵の武者は警戒して距離をとったため、信長も舟で無事に渡河することができました。

現在、大浦城のすぐ東に木曽川が流れています。しかし先にも少し触れた通り、木曽川(とその支流群)は長い歴史の中で流路を複雑に変えており、本流がほぼ現在の位置に定まったのは天正14年(1586)の洪水以降のことでした。
大良河原(現境川か)での戦闘の後、信長は兵を一旦大浦城に収めているので、この時の信長が殿を務めて渡河したポイントは或いは、聖徳寺での会見の後、信長と道三が別れた場所とも伝えられる木曽川支流の一つ、日光川の天神(萩原)の渡し付近だったのかもしれません。

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この大良の合戦では、(信長の撤退後と思われますが)大浦城も義龍軍の攻撃に晒されています。
いよいよ落城迫った時、大浦城の姫(戸島東蔵坊の娘?)は家宝の金矮鶏を抱えて城内の井戸に身を投げたと云います。これが金矮鶏神社の由来なのだとか・・・。
(大浦の金矮鶏伝説)

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信長の東美濃攻め Ⅲ(加治田城・関城)

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東美濃攻めシリーズ(Ⅰ~Ⅱ)でも度々その名が登場してきた加治田城
その城跡へは城山の南麓、清水寺の奥に伸びる山道を伝って向かっていきます。

ルート図
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よく整備された登山道をひたすら進み、Aのポイントで二股に分かれますが、ここは左が城跡への近道になります・・・直登ですけど(^_^;)

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近道ルートの直登をクリアした先の尾根。
自然地形の鞍部でしょうが、加治田城の西の守りを固める堀切代わりになっていたのではないかと思われます。
ここまで来たら、あと少し・・・向かって左の坂を登ります。

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いくつかの段曲輪を越えると、写真の虎口が出迎えてくれます。
ここから東に向かい、尾根上に城域が続きます。

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加治田城から堂洞城を見下ろす。

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加治田城本丸跡

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本丸から更に東へ進むと、通路に沿って石積みも残っていました。

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本丸東側の斜面下には、いくつかの腰曲輪が点在します。
これらと連動するように・・・

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竪堀も数本落とされていました。

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曲輪(右)の脇を固めるように駆け下る竪堀(左)

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下山後は清水寺の境内にも少しお邪魔しました。

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なかなか年季の入った、趣のあるお寺です。

加治田城…規模こそ大きくはないものの、曲輪や竪堀の配置など、しっかりと作り込まれた印象のお城でした。
堂洞城とは明らかに作り込みが違うかな。

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現在は富加町の東公民館が建つ加治田小学校跡は、佐藤紀伊守屋敷跡の伝承地でもあります。

其の夜は、信長、佐藤紀伊守、佐藤右近右衛門両所へ御出で侯て、御覧じ、則ち右近右衛門所に御泊り。父子感涙をながし、忝しと申す事、中々詞に述べがたき次第なり。
(信長公記 首巻「堂洞の取出攻めらるゝの事」より抜粋)

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堂洞城を攻略した織田信長はその日(永禄8年9月28日)、佐藤紀伊守右近右衛門両者の屋敷へ出向いて確認した上で、右近右衛門の屋敷に泊っています。
泊った場所こそ違えど信長も一度は紀伊守屋敷に足を運んでいますし、実際に泊った右近右衛門屋敷も、きっと近くにあったのでしょう。

翌29日になると、堂洞を落とされた斉藤勢が反撃に出ます。
関城長井隼人に加え、稲葉山から龍興自身の軍勢も攻めてきたとありますので、かなりの陣容だったことでしょう。

手負いも抱えた信長は一部の兵(斎藤利治=道三息とも)を加治田城の守備に残し、尾張へと撤退します。
この時の撤退戦の手際も見事で、信長を取り逃がした斉藤勢は、絶好の機会をみすみす逃して悔しがった(御敵ほいなき仕合せと申したるの由に侯)と云います。

加治田城も辛うじて斎藤・長井勢の攻撃を退けますが、この戦いで佐藤紀伊守の嫡子・右近右衛門は討死を遂げてしまいます。
これにより、後に前出の斎藤利治が紀伊守の養子となって佐藤家を継承し、隠居した紀伊守は加治田城の麓に龍福寺を開いて佐藤家の菩提寺としました。

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龍福寺
堂洞城で処刑された紀伊守の姫も、こちらに葬られています。
また、池田恒興の槍・鞍・轡・鐙が寺宝として保存されているのだそうです。

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残念ながら佐藤家の墓所は判別できませんでいたが、墓地には美濃岩村藩主となった丹羽氏(丹羽長秀とは血縁関係なし)の後裔の方々の墓所がありました。


さて、無事に撤退した信長は、同年10月、再び美濃へ進攻して長井隼人の関城を攻めます。

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関城跡、安桜山公園への登り口。
ここから10分ほどの登りになります。

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西の曲輪には南北に腰曲輪があり、その北側の腰曲輪には不思議な穴が・・・

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しかも対になっていました。
井戸というよりは溜池?…それとも水路になっていたのでしょうか・・・?

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反対の南側の腰曲輪。
こちらの曲輪の外縁には・・・

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ごく一部ですが、2ヶ所ほど小さな石積みが残っています。

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本丸の切岸

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関城本丸跡

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本丸の周囲で1本だけ見つけた竪堀

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関城から見る、堂洞・加治田方面の眺め。

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こちらは猿啄城の方角。

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ところで、天正10年の本能寺の変を受けての混乱期、川中島から旧領の金山(兼山)に復した森長可は、混乱に乗じて離反した国衆を討つため、関城の眼前(南)に見えるこれらの小丘に兵を配し、同城を包囲したと伝わります。

関城を落として東美濃を制圧した織田信長。
彼が稲葉山城を落とし、斎藤龍興を追って美濃を掌握するのは、この僅か2年足らず後のこと。
東美濃の攻略がその画期となったことは、やはり間違いのないところでしょうね。

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2017年4月 8日 (土)

信長の東美濃攻め Ⅱ(高畑山布陣~堂洞合戦)

前回に引き続き、こちらの図を・・・

東美濃攻め関連地図
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鵜沼→猿啄と立て続けに攻略した織田信長は永禄8年9月28日、加治田城の南約2㎞強(「信長公記」では廿五町)に築かれた堂洞城の排除に取り掛かります。

堂洞合戦関係図
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猿啄城から北進した信長が布陣した地について、「堂洞軍記」には;
高畑見へし山
とあります。

事前に各資料や地図等で検討した結果、高畑見へし山とは現在の高畑地区(富加町夕田)の北端に位置し、浄光寺というお寺の背後にそびえる恵日山でいいのではないかと考えています。
※次の記事でご紹介する加治田城本丸跡に設置された案内板でも、信長の布陣地を恵日山としていました。

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織田信長布陣の地、高畑見へし山・・・恵日山

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麓の浄光寺の山号も「恵日山」

この選地は堂洞城攻撃に加え、西方の関城に構える長井隼人と堂洞間の連絡を絶ち、その援軍に備えるためでもあったと思われます。
現に、堂洞城攻めが開始されると長井隼人は手勢を率いて迫ってきますが、堂洞まで廿五町(信長公記)の肥田瀬川(堂洞軍記/津保川か)付近で阻まれ、それ以上先へは兵を出せなかったと云います。
これも、恵日山に信長の軍勢が残っていたためと考えると、堂洞から廿五町という距離感、そして麓を流れる津保川が関と堂洞の間を分かち、その対岸(関側)が肥田瀬という地理的条件からしても、かなり有力な候補地ではないかと思います。
※「堂洞軍記」には「長井勢が肥田瀬川を渡り、信長の軍勢がこれを迎え撃った」とありますが、「信長公記」には「長井勢は堂洞から廿五町のところまで寄せてきたが、足軽さえも出さなかった」とあり、この日は特に長井勢との間で戦闘があったようには思えませんので、実際には津保川を越えられなかったものと思います。

さて、居合わせた浄光寺の檀家の方にもお訊きしたものの登り口がよく分からず、西側にちょっとだけ藪が払われた道らしき痕跡がありましたので、試しにそちらからアタックしてみました。

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道に沿って登っていくと、山腹には何やら祠のようなものが・・・どうやらこの道は、祠のためのものだったようです。

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祠の先は完全に道なき藪を進むしかありません。

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どうにか辿り着いた尾根上には、結構な広さの空間が広がっていました。
ある程度まとまった数の兵数であっても、この広さならば充分なスペースを確保できたように思えます。
なお現在は、鬱蒼と生い茂る樹木で視界は全くききません。

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恵日山の三角点
そのまま尾根上を東へ進みましたが、藪で下山ポイントを探すのにも苦労しました・・・。

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恵日山東側の山腹にある愛宕古墳
写真がヘタすぎて全く分かりませんが、綺麗な前方後円墳になっていました。
(手前が方形、奥が円形)

次はいよいよ堂洞城を攻めます。

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堂洞城南側、土橋状の・・・通路?

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その先には広い空間が広がっていました。
この先の一段高い部分が主郭になります。

合戦当日は風が強かったため、信長は松明を投げ入れさせ、二の丸を焼き落とさせたと云います。

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堂洞城主郭

午の剋に取り寄り、酉の刻まで攻めさせられ、既に薄暮に及び、河尻与兵衛天主構へ乗り入り、丹羽五郎左衛門つゞいて乗り入るところ、岸勘解由左衛門・多治見一党働の事、大形ならず。暫の戦ひに城中の人数乱れて、敵身方見分かず。大将分の者皆討ち果たし畢。
(信長公記 首巻「堂洞の取出攻めらるゝの事」より抜粋)

猿啄に引き続きここでも、河尻秀隆、そして丹羽長秀の活躍が目立ちますが、彼らが乗り入れた天主構へこそ、この主郭のことでしょう。
堂洞城攻めは昼頃~午後6時頃まで続き、岸勘解由や猿啄から逃れてきた多治見一党らも奮戦しましたが、最後は大将分の者は全て討取られて落城しました。

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主郭の一段下、腰曲輪から見る主郭切岸・・・面白い地層ですね。

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主郭から加治田城の方角にあたる北の尾根へ進むと、古い城道のような通路が折れる虎口状の遺構や、、、

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更に先には、狭いながらも削平された空間がありました。

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この削平地は北麓から登ってくる城道を、足元に押さえて監視できる位置取りになっています。

堂洞城は現地で確認する限り、規模も小さくて明らかに急拵えな印象。やはり「信長公記」にあるように、これは佐藤父子の寝返りを受けての、加治田城に対する付城でしょう。
加治田城が佐藤一族の中心的な拠点で、岸勘解由は姓を佐藤から改めていることからも、その庶流だったのかもしれません。

ところで、この堂洞城攻めでは「信長公記」の作者、太田牛一も活躍を見せています。

二の丸の入口おもてに、高き家の上にて、太田又助、只壱人あがり、黙矢もなく射付け侯を、信長御覧じ、きさじに見事を仕り侯と、三度まで御使に預かり、御感ありて、御知行重ねて下され侯ひき。
(同)

現地でも「牛一の指す“二の丸”とは、いったいどこか?」が話題になりましたが、北には加治田城があって佐藤紀伊守・右近右衛門父子が攻め手を受け持ったでしょうから、信長の手勢は北以外の方角から攻め寄せたのではないかと。
そうなると必然的に主郭北側の狭い削平地は消え、それ以外で二の丸に該当しそうな場所といえば、最初にご紹介した南側の広い空間しか見当たらないので、牛一が活躍した二の丸の入口おもて高き家は、南の広い空間や、そこに続く土橋状の通路の周辺に建っていたのではないか、と想像を膨らませています。

そして、この牛一の活躍を信長が目撃していた場所ですが、「信長公記」天理本には「高き塚」とあります。
「塚」と聞いて連想するのは墳墓、古墳。そして堂洞城の近くに、まさにうってつけのような古墳が存在するとのことなので、早速そちらにもまわってみました。

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堂洞城(左)のすぐ西隣りに位置する夕田茶臼山古墳(右)

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少し木を伐採して整備されているので、下からでも天辺に古墳のあることが分かります。
こうして見ると、まさに「高き塚」そのものです。

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夕田茶臼山古墳
3世紀頃の古墳と推定されている前方後円墳です。

残念ながら樹木に遮られ、堂洞城の方向は全く視界がききませんでしたが、この位置なら二の丸入口おもてで奮戦する牛一の活躍を目撃し、それが牛一であると認識することも可能だったのではないか、と思わせるほどの至近距離でした。
堂洞城攻めが開始され、後詰に出てきた関城の長井勢が攻め掛かってこないと見るや、信長は堂洞城近くまで本陣を移していたのでしょう。
いつだって「懸けまはし御覧じ」ちゃう彼の性格からして、ずっと後方の高畑山に待機していたとも思えないし(笑)

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夕田茶臼山古墳から高畑山の方角
信長が本陣を移してきたであろう経路。

天理本に見える「高き塚
現時点でこれ以上特定する根拠はないものの、現地に立ってみて思うことは、夕田茶臼山古墳説を否定しうる根拠も何一つ存在していないということ。

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堂洞城の北麓、長尾丸山伝承地
岸勘解由の嫡子に嫁していた佐藤紀伊守の姫は、佐藤父子の寝返りが明らかとなって信長の進攻が開始されるに及び、この場所で処刑されたとの伝承が残ります。
その正面には・・・

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実家である加治田城が眼前に・・・。

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2017年4月 7日 (金)

信長の東美濃攻め Ⅰ(伊木山布陣~猿啄城攻略)

2017年4月1~2日、堂洞合戦を中心とした織田信長の東美濃攻め関連地をめぐってきました。
※現在の中濃地区。当初の攻略目標であった「西美濃三人衆」が蟠踞した地域より東方、の意味での「東美濃」

東美濃攻め関連地図
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当記事では「信長公記」の記述を中心に「堂洞軍記」等の史料も適宜参照しつつ、実際の訪問順とは異なりますが時系列に沿ってご紹介していきます。
なお「信長公記」に関しては基本的に陽明本に則りますが、天理本(天理大学附属天理図書館蔵の写本)には陽明本にはない、重要と思われる記述がいくつか指摘されているため、それらも参考に進めます。
※記事中の引用に関しては、特に断りのない限りは陽明本に拠る。


永禄6年(1563)、織田信長小牧山に新たな城を築き、居城を清須から移転させます。
(小牧山城についてはコチラ
目と鼻の先に着々と城が築かれていく様子を見た犬山城(城主:織田信清=信長従弟)は動揺し、ほどなく和田・中島の両家老が信長方に寝返るに及び、信長の命を受けた丹羽長秀の軍勢に包囲され、降服開城に追い込まれました。
これにて、信長の尾張統一戦も完全に達せられたといえます。

犬山城の陥落は、木曽川を挟んだ対岸に位置する東美濃の諸城に少なからぬ動揺を招きました。
そしてほどなく、情勢を読んだ加治田城佐藤紀伊守右近右衛門父子が崖良沢(岸良沢、梅村良沢とも)を使者に立て、丹羽長秀の取次で信長に接触してくるのです。
美濃攻略の足掛かりを得た信長は佐藤父子の寝返りを喜び、使者の良沢に当座の兵糧代として黄金50枚を遣わしました。

ところが、佐藤父子の寝返りを察知した斎藤家の重臣・長井隼人は、佐藤の同族である岸勘解由(蜂屋佐藤氏)に命じて加治田城の南に堂洞城を築かせ、自らも西方の関城に入って加治田城に対する包囲を強めていきます。
包囲された佐藤父子からの救援要請(天理本)を受けた信長は早速兵を催し、木曽川を越えて美濃国へ進攻しました。

美濃に入った信長はまず、木曽川の河畔、犬山城の対岸に位置する伊木山に陣を布きます。

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伊木山の登山道
我々は北麓の「いこいの広場・伊木の森」から、「心ぞう破りの道」と呼ばれる直登のコースを選択しました。

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「心ぞう破りの道」は、その名の通り結構な急勾配ですが、直接山頂に到達できます。

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山頂が即ち、伊木山城の主郭となります。

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主郭東側の曲輪。
曲輪を囲むように土塁らしきものもありますが、これは第2次大戦中に設置された航空監視哨の跡、とのことで遺構ではないようです。

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同じく西側。

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主郭周囲には一部、石積みらしき痕跡も・・・

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遺構なのか否か、是としていつの時代のものか・・・判断はつきませんでした。

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また、伊木山城跡から尾根を西へ進むと、熊野神社の旧跡があります。

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反対に東の尾根を進むと「キューピーの鼻」と呼ばれる展望所があり、ここからの眺めが素晴らしかった・・・

御敵城宇留摩の城主大沢次郎左衛門、ならびに、猿ぱみの城主多治見とて、両城は飛騨川へ付きて、犬山の川向ひ押し並べて持ち続けこれあり。十町十五町隔て、伊木山とて高山あり。此の山へ取り上り、御要害丈夫にこしらへ、両城を見下し、信長御居陣侯ひしなり。
(信長公記 首巻「濃州伊木山へ御上りの事」より抜粋)

まさにこの時、伊木山に陣取った信長が両城を見下した光景ですね。
宇留摩=鵜沼

犬山城から更に南へ目を転じると・・・

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小牧山の姿も・・・これは確かに近い。

伊木山に布陣する信長の軍勢を目にした鵜沼城の大沢次郎左衛門は、とても支えきれないと観念して城を明け渡しました。
鵜沼城を攻略した信長、次のターゲットは猿啄城へシフトしていきます。

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対岸の犬山城を眺めつつ・・・

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大沢次郎左衛門が明け渡した鵜沼城を通過し・・・

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我々も猿啄城
※写真は坂祝駅前より撮影(2016年7月)

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かなりの急勾配を延々と登り、その途中に出てきた2段の曲輪。
ここまで来れば、もう一息です。。。

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麓から登り始めて30分ほどでしょうか・・・遂に猿啄城跡の展望台に到達です。

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猿啄城跡

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展望台からの眺め~南西方向。
右に伊木山、中央奥には小さく小牧山も見えています。
ここから反時計回りに・・・

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坂祝の町並み

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そしてこの後、戦局が移っていくことになる堂洞~加治田方面。

一、猿ばみの城、飛騨川へ付きて、高山なり。大ぽて山とて、猿ばみの上には、生茂りたる「かさ」(山かんむりに則)あり。或る時、大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、御人数を上げられ、水の手を御取り侯て、上下より攻められ、即時につまり、降参、退散なり。
(同)

猿啄城を攻める信長は、猿啄城のにあるという大ぼて山に丹羽長秀を差し向けています。
この大ぼて山に関してはまだ、具体的な場所は特定できていないらしいのですが・・・

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猿啄城跡からこの光景を目にした時、瞬時に「これでしょ!」と直感しました。
明らかに猿啄城跡よりも高所()になりますし・・・長秀の手勢が姿を現した時の緊迫感が目に浮かぶようなロケーションでした。
猿啄城跡とは尾根続きで道も付いていましたので早速、(推定/以下略)大ぼて山に向かってみます。

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猿啄城の切岸で見かけた石積み

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そして大ぼて山へと続く尾根を断ち切る堀切、土橋。
ここでも間違いなく、戦闘が行われたことでしょう。

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大ぼて山のピークから見下ろす猿啄城
高所側から見ると、これほどの高低差があります。猿啄城へ攻め掛かるには絶好の位置です。

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大ぼて山から見る堂洞~加治田方面。
左の方には猿啄攻略後、信長が堂洞攻めの陣を布く高畑山も見えています。

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ところで、大ぼて山は樹木こそ生茂りたる山でしたが、地表面はご覧のようなチャートの岩肌がそこかしこに剥き出しになった岩盤層で、それだけに「信長公記」に書かれている水の手が果たしてどこにあったのか?が謎でした。
・・・が、同行者たちと話し合った結果、「大ぼて山を押さえる」ことと「水の手を切る」ことはイコールではなく、別個の部隊による別々の作戦行動だったのではないか、という結論に至りました。
もう一度「信長公記」の該当箇所を引用しますが;

大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、御人数を上げられ水の手を御取り侯て上下より攻められ

大ぼて山に上がったのは間違いなく、丹羽長秀。
(天理本には、信長自らも大ぼて山に登ったと明記されており、御人数を上げられ、は丹羽の先陣に続く信長自らの手勢を指しているのかもしれません)
但し、その後に続く水の手を御取り侯ては大ぼて山に上がった部隊によるものではなく、(水の手があったと想定される)麓側から攻め上がった別の部隊による作戦行動を表しているのではないでしょうか。

つまり、丹羽長秀を先懸に軍勢を大ぼて山に上げて攻め下らせ、且つ、別の部隊には麓寄りの水の手を切らせて山の下から攻め上らせたのではないか・・・。

それに続く上下より攻められ、の一節がそれを物語っているように思えますし、現に文化13年成立の「美濃雑事記」では城山の南麓を「水ノ手」とし、「山七合目ニ古井戸アリ」の文字も見えます。
一般には、丹羽長秀が大ぼて山に上がって水の手を押さえた、と解釈されがちですが、ここはあえて別の解釈を提示しておきたいと思います。
(但し、天理本には「上下より攻められ、」の一節が見られず、信長軍がさも山の上からのみ攻めたような表現になっているのが気にかかりますが・・・)

また、信長は戦後、猿啄城を勝山と改めて功のあった河尻秀隆(鎮吉)に与えていますが、或いはこの時、大ぼて山の「上」から攻めたのが丹羽長秀ならば、水の手を切って「下」から攻め上った先陣が河尻だったのかもしれません。

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そういえば猿啄城跡登山口に、「河尻碑肥前守」の碑が建っていました。

猿啄城を攻略した織田信長は、同城を守備していた多治見一党を堂洞城へと追い落としつつ、いよいよその堂洞城攻めに移っていきます。

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