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2017年4月 7日 (金)

信長の東美濃攻め Ⅰ(伊木山布陣~猿啄城攻略)

2017年4月1~2日、堂洞合戦を中心とした織田信長の東美濃攻め関連地をめぐってきました。
※現在の中濃地区。当初の攻略目標であった「西美濃三人衆」が蟠踞した地域より東方、の意味での「東美濃」

東美濃攻め関連地図
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当記事では「信長公記」の記述を中心に「堂洞軍記」等の史料も適宜参照しつつ、実際の訪問順とは異なりますが時系列に沿ってご紹介していきます。
なお「信長公記」に関しては基本的に陽明本に則りますが、天理本(天理大学附属天理図書館蔵の写本)には陽明本にはない、重要と思われる記述がいくつか指摘されているため、それらも参考に進めます。
※記事中の引用に関しては、特に断りのない限りは陽明本に拠る。


永禄6年(1563)、織田信長小牧山に新たな城を築き、居城を清須から移転させます。
(小牧山城についてはコチラ
目と鼻の先に着々と城が築かれていく様子を見た犬山城(城主:織田信清=信長従弟)は動揺し、ほどなく和田・中島の両家老が信長方に寝返るに及び、信長の命を受けた丹羽長秀の軍勢に包囲され、降服開城に追い込まれました。
これにて、信長の尾張統一戦も完全に達せられたといえます。

犬山城の陥落は、木曽川を挟んだ対岸に位置する東美濃の諸城に少なからぬ動揺を招きました。
そしてほどなく、情勢を読んだ加治田城佐藤紀伊守右近右衛門父子が崖良沢(岸良沢、梅村良沢とも)を使者に立て、丹羽長秀の取次で信長に接触してくるのです。
美濃攻略の足掛かりを得た信長は佐藤父子の寝返りを喜び、使者の良沢に当座の兵糧代として黄金50枚を遣わしました。

ところが、佐藤父子の寝返りを察知した斎藤家の重臣・長井隼人は、佐藤の同族である岸勘解由(蜂屋佐藤氏)に命じて加治田城の南に堂洞城を築かせ、自らも西方の関城に入って加治田城に対する包囲を強めていきます。
包囲された佐藤父子からの救援要請(天理本)を受けた信長は早速兵を催し、木曽川を越えて美濃国へ進攻しました。

美濃に入った信長はまず、木曽川の河畔、犬山城の対岸に位置する伊木山に陣を布きます。

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伊木山の登山道
我々は北麓の「いこいの広場・伊木の森」から、「心ぞう破りの道」と呼ばれる直登のコースを選択しました。

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「心ぞう破りの道」は、その名の通り結構な急勾配ですが、直接山頂に到達できます。

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山頂が即ち、伊木山城の主郭となります。

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主郭東側の曲輪。
曲輪を囲むように土塁らしきものもありますが、これは第2次大戦中に設置された航空監視哨の跡、とのことで遺構ではないようです。

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同じく西側。

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主郭周囲には一部、石積みらしき痕跡も・・・

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遺構なのか否か、是としていつの時代のものか・・・判断はつきませんでした。

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また、伊木山城跡から尾根を西へ進むと、熊野神社の旧跡があります。

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反対に東の尾根を進むと「キューピーの鼻」と呼ばれる展望所があり、ここからの眺めが素晴らしかった・・・

御敵城宇留摩の城主大沢次郎左衛門、ならびに、猿ぱみの城主多治見とて、両城は飛騨川へ付きて、犬山の川向ひ押し並べて持ち続けこれあり。十町十五町隔て、伊木山とて高山あり。此の山へ取り上り、御要害丈夫にこしらへ、両城を見下し、信長御居陣侯ひしなり。
(信長公記 首巻「濃州伊木山へ御上りの事」より抜粋)

まさにこの時、伊木山に陣取った信長が両城を見下した光景ですね。
宇留摩=鵜沼

犬山城から更に南へ目を転じると・・・

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小牧山の姿も・・・これは確かに近い。

伊木山に布陣する信長の軍勢を目にした鵜沼城の大沢次郎左衛門は、とても支えきれないと観念して城を明け渡しました。
鵜沼城を攻略した信長、次のターゲットは猿啄城へシフトしていきます。

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対岸の犬山城を眺めつつ・・・

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大沢次郎左衛門が明け渡した鵜沼城を通過し・・・

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我々も猿啄城
※写真は坂祝駅前より撮影(2016年7月)

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かなりの急勾配を延々と登り、その途中に出てきた2段の曲輪。
ここまで来れば、もう一息です。。。

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麓から登り始めて30分ほどでしょうか・・・遂に猿啄城跡の展望台に到達です。

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猿啄城跡

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展望台からの眺め~南西方向。
右に伊木山、中央奥には小さく小牧山も見えています。
ここから反時計回りに・・・

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坂祝の町並み

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そしてこの後、戦局が移っていくことになる堂洞~加治田方面。

一、猿ばみの城、飛騨川へ付きて、高山なり。大ぽて山とて、猿ばみの上には、生茂りたる「かさ」(山かんむりに則)あり。或る時、大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、御人数を上げられ、水の手を御取り侯て、上下より攻められ、即時につまり、降参、退散なり。
(同)

猿啄城を攻める信長は、猿啄城のにあるという大ぼて山に丹羽長秀を差し向けています。
この大ぼて山に関してはまだ、具体的な場所は特定できていないらしいのですが・・・

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猿啄城跡からこの光景を目にした時、瞬時に「これでしょ!」と直感しました。
明らかに猿啄城跡よりも高所()になりますし・・・長秀の手勢が姿を現した時の緊迫感が目に浮かぶようなロケーションでした。
猿啄城跡とは尾根続きで道も付いていましたので早速、(推定/以下略)大ぼて山に向かってみます。

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猿啄城の切岸で見かけた石積み

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そして大ぼて山へと続く尾根を断ち切る堀切、土橋。
ここでも間違いなく、戦闘が行われたことでしょう。

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大ぼて山のピークから見下ろす猿啄城
高所側から見ると、これほどの高低差があります。猿啄城へ攻め掛かるには絶好の位置です。

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大ぼて山から見る堂洞~加治田方面。
左の方には猿啄攻略後、信長が堂洞攻めの陣を布く高畑山も見えています。

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ところで、大ぼて山は樹木こそ生茂りたる山でしたが、地表面はご覧のようなチャートの岩肌がそこかしこに剥き出しになった岩盤層で、それだけに「信長公記」に書かれている水の手が果たしてどこにあったのか?が謎でした。
・・・が、同行者たちと話し合った結果、「大ぼて山を押さえる」ことと「水の手を切る」ことはイコールではなく、別個の部隊による別々の作戦行動だったのではないか、という結論に至りました。
もう一度「信長公記」の該当箇所を引用しますが;

大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、御人数を上げられ水の手を御取り侯て、上下より攻められ、

大ぼて山に攻めのぼったのは間違いなく、丹羽長秀。
但し、その後に続く御人数を上げられ水の手を御取り侯ての二つの主語は長秀ではなく織田信長・・・彼の命令・作戦を表しているのではないでしょうか。
つまり、丹羽長秀を先懸に軍勢を大ぼて山に上げて攻め下らせ、且つ、別の部隊には麓側の水の手を切らせて山の下から攻め上らせたのではないか・・・。
(天理本には、信長自らも大ぼて山に登ったと明記されており、御人数を上げられ、は丹羽の先陣に続く信長自らの手勢を指しているのかもしれません)
それに続く上下より攻められ、の一節がそれを物語っているように思えますし、現に文化13年成立の「美濃雑事記」では城山の南麓を「水ノ手」とし、「山七合目ニ古井戸アリ」の文字も見えます。

一般には、丹羽長秀が大ぼて山に上がって水の手を押さえた、と解釈されがちですが、ここはあえて別の解釈を提示しておきたいと思います。
(但し、天理本には「上下より攻められ、」の一節が見られず、信長軍がさも山の上からのみ攻めたような表現になっているのが気にかかりますが・・・)

また、信長は戦後、猿啄城を勝山と改めて功のあった河尻秀隆(鎮吉)に与えていますが、或いはこの時、大ぼて山の「上」から攻めたのが丹羽長秀ならば、水の手を切って「下」から攻め上った先陣が河尻だったのかもしれません。

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そういえば猿啄城跡登山口に、「河尻碑肥前守」の碑が建っていました。

猿啄城を攻略した織田信長は、同城を守備していた多治見一党を堂洞城へと追い落としつつ、いよいよその堂洞城攻めに移っていきます。

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