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2017年4月 9日 (日)

大良の戦い

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信長も道三聟にて侯間、手合のため木曾川・飛騨川舟渡し、大河打ち越し、大良戸島、東蔵坊構へに至りて御在陣。
(信長公記 首巻「山城道三討死の事」より抜粋)

美濃の斎藤道三が嫡子・義龍と争った弘治2年(1556)4月の長良川の戦い
道三の婿()でもある織田信長は、道三への援軍として木曽川・長良川(飛騨川)を越えて大良(岐阜県羽島市正木町大浦新田)まで進軍します。
※現在の地図で確認する限りに於いては長良川を越えるはずはないのですが、或いは川の流路が大幅に変わっているのかもしれません。

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木曽川に濃尾大橋が架かる辺りが、江戸時代の起渡船場
周辺には他にも、いくつかの渡し場が設けられていたようです。
そこから堤防を越えて西へ・・・

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美濃路の旧道が伸びています。
(上地図赤ライン

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大浦(三ツ屋)の道標

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右 いせみち
左 おこし舟渡


現在、道標は民家の玄関先に建っていますが、この場所には元々、木曽川の堤が南北に走っていたのだそうです。
美濃路はその堤防上を右へ折れ、北に続いていました。

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少し北へ進むと、しだれ桜の足元だけが取り残されるようにして高くなっている場所がありました。
先ほどの道標の位置と南北のラインで繋がりそうですし、これはしだれ桜のお陰で僅かに残された、江戸期の堤防の痕跡かもしれないなと思いました。
更に北へ進むと・・・

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大浦城大浦の寺砦)跡とされる金矮鶏神社があります。
寺砦とは「戦の際に砦として利用される寺院」といったところでしょうか。
この大浦城こそ、信長が布陣した戸島、東蔵坊の構へではないかと推定されています。
東蔵坊という響きもなんとなく、「寺」を連想させますよね。

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石柱に見える「金矮鶏」の文字。

長良川の戦いで勝利した斎藤義龍は、その勢いを駆って大良に陣取る信長の軍勢にも兵を差し向けます。
信長も出撃してこれを迎え撃ち、河原で激戦となりますが、山口取手介や土方喜三郎といった将が戦死、森可成も負傷を負う苦戦に陥りました。
戦いの最中、道三の敗死を知った信長は大浦城に一旦兵を退き、尾張への撤退を決断します。

爰にて大河隔つる事に侯間、雑人・牛馬、悉く退けさせられ、殿は信長させらるべき由にて、惣人数こさせられ上総介殿めし侯御舟一艘残し置き、おのゝゝ打ち越し侯ところ、馬武者少々川ばたまで懸け来たり侯。其の時、信長鉄炮をうたせられ、是れより近ゞとは参らず。さて、御舟にめされ、御こしなり。
(信長公記 首巻「信長大良より御帰陣の事」より抜粋)

勝ちに乗じて勢いに乗る敵の軍勢が迫る中、まずは雑人や牛馬を退かせた後、信長は
殿(しんがり)は俺がやる
と言って自らの舟一艘だけを残し、あろうことか全軍を先に渡河させてしまうのです・・・なんとも凄まじいエピソードですね。
そこへ義龍方の騎馬武者が追ってきますが、信長が鉄砲で迎撃すると敵の武者は警戒して距離をとったため、信長も舟で無事に渡河することができました。

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この時に信長が木曽川を渡河したポイントですが、やはり江戸時代になって美濃路の渡し場がいくつか設置されることになる、濃尾大橋周辺だったのではないかと考えています。

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この大良の合戦では、(信長の撤退後と思われますが)大浦城も義龍軍の攻撃に晒されています。
いよいよ落城迫った時、大浦城の姫(戸島東蔵坊の娘?)は家宝の金矮鶏を抱えて城内の井戸に身を投げたと云います。これが金矮鶏神社の由来なのだとか・・・。
(大浦の金矮鶏伝説)

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