« 信長の東美濃攻め Ⅰ(伊木山布陣~猿啄城攻略) | トップページ | 信長の東美濃攻め Ⅲ(加治田城・関城) »

2017年4月 8日 (土)

信長の東美濃攻め Ⅱ(高畑山布陣~堂洞合戦)

前回に引き続き、こちらの図を・・・

東美濃攻め関連地図
20170401b01
鵜沼→猿啄と立て続けに攻略した織田信長は永禄8年9月28日、加治田城の南約2㎞強(「信長公記」では廿五町)に築かれた堂洞城の排除に取り掛かります。

堂洞合戦関係図
20170401b02
猿啄城から北進した信長が布陣した地について、「堂洞軍記」には;
高畑見へし山
とあります。

事前に各資料や地図等で検討した結果、高畑見へし山とは現在の高畑地区(富加町夕田)の北端に位置し、浄光寺というお寺の背後にそびえる恵日山でいいのではないかと考えています。
※次の記事でご紹介する加治田城本丸跡に設置された案内板でも、信長の布陣地を恵日山としていました。

20170401b03
織田信長布陣の地、高畑見へし山・・・恵日山

20170401b04
麓の浄光寺の山号も「恵日山」

この選地は堂洞城攻撃に加え、西方の関城に構える長井隼人と堂洞間の連絡を絶ち、その援軍に備えるためでもあったと思われます。
現に、堂洞城攻めが開始されると長井隼人は手勢を率いて迫ってきますが、堂洞まで廿五町(信長公記)の肥田瀬川(堂洞軍記/津保川か)付近で阻まれ、それ以上先へは兵を出せなかったと云います。
これも、恵日山に信長の軍勢が残っていたためと考えると、堂洞から廿五町という距離感、そして麓を流れる津保川が関と堂洞の間を分かち、その対岸(関側)が肥田瀬という地理的条件からしても、かなり有力な候補地ではないかと思います。
※「堂洞軍記」には「長井勢が肥田瀬川を渡り、信長の軍勢がこれを迎え撃った」とありますが、「信長公記」には「長井勢は堂洞から廿五町のところまで寄せてきたが、足軽さえも出さなかった」とあり、この日は特に長井勢との間で戦闘があったようには思えませんので、実際には津保川を越えられなかったものと思います。

さて、居合わせた浄光寺の檀家の方にもお訊きしたものの登り口がよく分からず、西側にちょっとだけ藪が払われた道らしき痕跡がありましたので、試しにそちらからアタックしてみました。

20170401b06
道に沿って登っていくと、山腹には何やら祠のようなものが・・・どうやらこの道は、祠のためのものだったようです。

20170401b07
祠の先は完全に道なき藪を進むしかありません。

20170401b08
どうにか辿り着いた尾根上には、結構な広さの空間が広がっていました。
ある程度まとまった数の兵数であっても、この広さならば充分なスペースを確保できたように思えます。
なお現在は、鬱蒼と生い茂る樹木で視界は全くききません。

20170401b09
恵日山の三角点
そのまま尾根上を東へ進みましたが、藪で下山ポイントを探すのにも苦労しました・・・。

20170401b10
恵日山東側の山腹にある愛宕古墳
写真がヘタすぎて全く分かりませんが、綺麗な前方後円墳になっていました。
(手前が方形、奥が円形)

次はいよいよ堂洞城を攻めます。

20170401b11
堂洞城南側、土橋状の・・・通路?

20170401b12
その先には広い空間が広がっていました。
この先の一段高い部分が主郭になります。

合戦当日は風が強かったため、信長は松明を投げ入れさせ、二の丸を焼き落とさせたと云います。

20170401b13
堂洞城主郭

午の剋に取り寄り、酉の刻まで攻めさせられ、既に薄暮に及び、河尻与兵衛天主構へ乗り入り、丹羽五郎左衛門つゞいて乗り入るところ、岸勘解由左衛門・多治見一党働の事、大形ならず。暫の戦ひに城中の人数乱れて、敵身方見分かず。大将分の者皆討ち果たし畢。
(信長公記 首巻「堂洞の取出攻めらるゝの事」より抜粋)

猿啄に引き続きここでも、河尻秀隆、そして丹羽長秀の活躍が目立ちますが、彼らが乗り入れた天主構へこそ、この主郭のことでしょう。
堂洞城攻めは昼頃~午後6時頃まで続き、岸勘解由や猿啄から逃れてきた多治見一党らも奮戦しましたが、最後は大将分の者は全て討取られて落城しました。

20170401b14
主郭の一段下、腰曲輪から見る主郭切岸・・・面白い地層ですね。

20170401b15
主郭から加治田城の方角にあたる北の尾根へ進むと、古い城道のような通路が折れる虎口状の遺構や、、、

20170401b16
更に先には、狭いながらも削平された空間がありました。

20170401b17
この削平地は北麓から登ってくる城道を、足元に押さえて監視できる位置取りになっています。

堂洞城は現地で確認する限り、規模も小さくて明らかに急拵えな印象。やはり「信長公記」にあるように、これは佐藤父子の寝返りを受けての、加治田城に対する付城でしょう。
加治田城が佐藤一族の中心的な拠点で、岸勘解由は姓を佐藤から改めていることからも、その庶流だったのかもしれません。

ところで、この堂洞城攻めでは「信長公記」の作者、太田牛一も活躍を見せています。

二の丸の入口おもてに、高き家の上にて、太田又助、只壱人あがり、黙矢もなく射付け侯を、信長御覧じ、きさじに見事を仕り侯と、三度まで御使に預かり、御感ありて、御知行重ねて下され侯ひき。
(同)

現地でも「牛一の指す“二の丸”とは、いったいどこか?」が話題になりましたが、北には加治田城があって佐藤紀伊守・右近右衛門父子が攻め手を受け持ったでしょうから、信長の手勢は北以外の方角から攻め寄せたのではないかと。
そうなると必然的に主郭北側の狭い削平地は消え、それ以外で二の丸に該当しそうな場所といえば、最初にご紹介した南側の広い空間しか見当たらないので、牛一が活躍した二の丸の入口おもて高き家は、南の広い空間や、そこに続く土橋状の通路の周辺に建っていたのではないか、と想像を膨らませています。

そして、この牛一の活躍を信長が目撃していた場所ですが、「信長公記」天理本には「高き塚」とあります。
「塚」と聞いて連想するのは墳墓、古墳。そして堂洞城の近くに、まさにうってつけのような古墳が存在するとのことなので、早速そちらにもまわってみました。

20170401b18
堂洞城(左)のすぐ西隣りに位置する夕田茶臼山古墳(右)

20170401b19
少し木を伐採して整備されているので、下からでも天辺に古墳のあることが分かります。
こうして見ると、まさに「高き塚」そのものです。

20170401b20
夕田茶臼山古墳
3世紀頃の古墳と推定されている前方後円墳です。

残念ながら樹木に遮られ、堂洞城の方向は全く視界がききませんでしたが、この位置なら二の丸入口おもてで奮戦する牛一の活躍を目撃し、それが牛一であると認識することも可能だったのではないか、と思わせるほどの至近距離でした。
堂洞城攻めが開始され、後詰に出てきた関城の長井勢が攻め掛かってこないと見るや、信長は堂洞城近くまで本陣を移していたのでしょう。
いつだって「懸けまはし御覧じ」ちゃう彼の性格からして、ずっと後方の高畑山に待機していたとも思えないし(笑)

20170401b21
夕田茶臼山古墳から高畑山の方角
信長が本陣を移してきたであろう経路。

天理本に見える「高き塚
現時点でこれ以上特定する根拠はないものの、現地に立ってみて思うことは、夕田茶臼山古墳説を否定しうる根拠も何一つ存在していないということ。

20170401b22
堂洞城の北麓、長尾丸山伝承地
岸勘解由の嫡子に嫁していた佐藤紀伊守の姫は、佐藤父子の寝返りが明らかとなって信長の進攻が開始されるに及び、この場所で処刑されたとの伝承が残ります。
その正面には・・・

20170401b23
実家である加治田城が眼前に・・・。

|

« 信長の東美濃攻め Ⅰ(伊木山布陣~猿啄城攻略) | トップページ | 信長の東美濃攻め Ⅲ(加治田城・関城) »

織田信長・信長公記」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 信長の東美濃攻め Ⅰ(伊木山布陣~猿啄城攻略) | トップページ | 信長の東美濃攻め Ⅲ(加治田城・関城) »