信長の東美濃攻め Ⅲ(加治田城・関城)
東美濃攻めシリーズ(Ⅰ~Ⅱ)でも度々その名が登場してきた加治田城。
その城跡へは城山の南麓、清水寺の奥に伸びる山道を伝って向かっていきます。
ルート図
よく整備された登山道をひたすら進み、Aのポイントで二股に分かれますが、ここは左が城跡への近道になります・・・直登ですけど(^_^;)
近道ルートの直登をクリアした先の尾根。
自然地形の鞍部でしょうが、加治田城の西の守りを固める堀切代わりになっていたのではないかと思われます。
ここまで来たら、あと少し・・・向かって左の坂を登ります。
いくつかの段曲輪を越えると、写真の虎口が出迎えてくれます。
ここから東に向かい、尾根上に城域が続きます。
加治田城から堂洞城を見下ろす。
加治田城本丸跡
本丸から更に東へ進むと、通路に沿って石積みも残っていました。
本丸東側の斜面下には、いくつかの腰曲輪が点在します。
これらと連動するように・・・
竪堀も数本落とされていました。
曲輪(右)の脇を固めるように駆け下る竪堀(左)
下山後は清水寺の境内にも少しお邪魔しました。
なかなか年季の入った、趣のあるお寺です。
加治田城…規模こそ大きくはないものの、曲輪や竪堀の配置など、しっかりと作り込まれた印象のお城でした。
堂洞城とは明らかに作り込みが違うかな。
現在は富加町の東公民館が建つ加治田小学校跡は、佐藤紀伊守屋敷跡の伝承地でもあります。
其の夜は、信長、佐藤紀伊守、佐藤右近右衛門両所へ御出で侯て、御覧じ、則ち右近右衛門所に御泊り。父子感涙をながし、忝しと申す事、中々詞に述べがたき次第なり。
(信長公記 首巻「堂洞の取出攻めらるゝの事」より抜粋)
堂洞城を攻略した織田信長はその日(永禄8年9月28日)、佐藤紀伊守・右近右衛門両者の屋敷へ出向いて確認した上で、右近右衛門の屋敷に泊っています。
泊った場所こそ違えど信長も一度は紀伊守屋敷に足を運んでいますし、実際に泊った右近右衛門屋敷も、きっと近くにあったのでしょう。
翌29日になると、堂洞を落とされた斉藤勢が反撃に出ます。
関城の長井隼人に加え、稲葉山から龍興自身の軍勢も攻めてきたとありますので、かなりの陣容だったことでしょう。
手負いも抱えた信長は一部の兵(斎藤利治=道三息とも)を加治田城の守備に残し、尾張へと撤退します。
この時の撤退戦の手際も見事で、信長を取り逃がした斉藤勢は、絶好の機会をみすみす逃して悔しがった(御敵ほいなき仕合せと申したるの由に侯)と云います。
加治田城も辛うじて斎藤・長井勢の攻撃を退けますが、この戦いで佐藤紀伊守の嫡子・右近右衛門は討死を遂げてしまいます。
これにより、後に前出の斎藤利治が紀伊守の養子となって佐藤家を継承し、隠居した紀伊守は加治田城の麓に龍福寺を開いて佐藤家の菩提寺としました。
龍福寺
堂洞城で処刑された紀伊守の姫も、こちらに葬られています。
また、池田恒興の槍・鞍・轡・鐙が寺宝として保存されているのだそうです。
残念ながら佐藤家の墓所は判別できませんでいたが、墓地には美濃岩村藩主となった丹羽氏(丹羽長秀とは血縁関係なし)の後裔の方々の墓所がありました。
さて、無事に撤退した信長は、同年10月、再び美濃へ進攻して長井隼人の関城を攻めます。
関城跡、安桜山公園への登り口。
ここから10分ほどの登りになります。
西の曲輪には南北に腰曲輪があり、その北側の腰曲輪には不思議な穴が・・・
しかも対になっていました。
井戸というよりは溜池?…それとも水路になっていたのでしょうか・・・?
反対の南側の腰曲輪。
こちらの曲輪の外縁には・・・
ごく一部ですが、2ヶ所ほど小さな石積みが残っています。
本丸の切岸
関城本丸跡
本丸の周囲で1本だけ見つけた竪堀
関城から見る、堂洞・加治田方面の眺め。
こちらは猿啄城の方角。
ところで、天正10年の本能寺の変を受けての混乱期、川中島から旧領の金山(兼山)に復した森長可は、混乱に乗じて離反した国衆を討つため、関城の眼前(南)に見えるこれらの小丘に兵を配し、同城を包囲したと伝わります。
関城を落として東美濃を制圧した織田信長。
彼が稲葉山城を落とし、斎藤龍興を追って美濃を掌握するのは、この僅か2年足らず後のこと。
東美濃の攻略がその画期となったことは、やはり間違いのないところでしょうね。
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