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2017年5月

2017年5月27日 (土)

愛犬ボンの旅立ち。

2017年5月24日(水)の午後6時30分頃、我が家の愛犬ボンが永眠いたしました。
満14歳と4ヶ月、食欲と家族への愛情に満ちた人生を全うしてくれました。

実は、3月下旬頃だったか4月に入ってからだったか・・・体調を崩していました。
かかりつけの病院でいろいろと調べて貰いましたが、どうやら貧血だったようです。それも再生不能性の疑いのある・・・しばらく造血剤を飲ませても、一向に改善は見られませんでした。

それからというもの、暑くもないのに呼吸が乱れることが多くなり、あれだけ毎日飽きることもなく、同じご飯を歓喜の雄叫びと共にガツガツと食べていた彼が食べたがらなくなり、栄養をつけないといけないからと、根気よく手で食べさせていました。
(それでも、大好物のチキンとかは喜んで食べていました)

亡くなる3日ほど前くらいからは息切れが特に苦しそうで、今までは(固いままだと喉に詰まらせるので)ご飯に水をたっぷり含ませて柔らかくしてから食べさせていたので水を殆ど飲まなかった彼が、頻繁に飲みに行くようになっていました。
時折、あまりの息切れに辛そうな表情も見せていました。それでもチキンとかは欲しがるから、貰うまではなかなかおとなしく寝ない→息切れで余計に苦しそうにする、のジレンマが続いていました。
毎晩、母や弟たちが風呂からあがってくるタイミングを待って、私がおやつのチキンをあげるのが日課になっていましたが、亡くなる前夜も呼吸が乱れて苦しいくせに、早く欲しいものだから落ち着かず、風呂場の様子を見に行ったりしながらソワソワ・・・。
その様子を見るに耐えられず、少しでも早く落ち着いて寝て欲しかったこともあって、いつもより早くあげたんだけど・・・本来であればお互いにとって楽しいはずの時間も、ただただ不安を募らせていた私はその日課をさっさと済ませ、早く寝て呼吸を落ち着かせてもらうことにしか意識が向かず、半ば投げやりな感じになってしまっていました・・・これが最後になっちゃったのに。
このことは今でも悔いている。

今から思えばフラつくこともあったし、体はもう限界に近かったのだと思います。でも、彼の目には未だ悲観も諦観の色もなく、その光には確実に生命力が宿っていたので、今日明日の切迫した状況だとの認識は抱いていなかった・・・。

そして当日。
前夜も遅くまで息が乱れていたそうで、この日は朝からグッタリとしていました・・・動くのも億劫な様子で。
なんとなく胸騒ぎを覚えていたのだと思います・・・仕事を遅出の予定にしていたこともあり、母が弟を職場へ送りに行った時、その帰りまで一緒にいてやることにしました。
今から思えば、私にとってこれがせめてもの救いだったかな・・・私の近くまで寄って来た彼は、そのまま横になり、お留守番の間ずーっと私の方に顔を向けて、私の存在を確認するようにして寝ていました。その間は呼吸も安定していました。
母も戻り、私が出かける際は「ごめん、行ってくるな。頑張ってな」と声をかけました。結果的にこれが、ボンとの最後の別れになりました。

夜、帰宅途中の電車内で受けた家からの着信・・・その日はずーっと嫌な予感がしていたので、瞬時に察しはつきました。

帰宅後に対面したボンは目こそ開けたままでしたが、まるで眠っているかのようでした。本当にただ、呼吸をしていないだけ。
最期の様子を聞くと、例によって残したご飯を少しずつ、手ずから与えている最中に突然、スーッと全身の力が抜けたかのように崩れ落ち、すぐに呼吸も停まったそうです。
・・・きっと心臓がもう、限界だったんだね。命を燃やし尽くした。
一番大好きだった母ちゃんと触れ合っている最中で、本当に良かったと思います。そばにいた母や弟は驚いただろうけど。

翌25日、かかりつけの先生から紹介していただいたお寺さんで火葬し、見送ってきました。
お花や、元気だった頃は大好きだったご飯、チキン、たまごボ―ロ、チーズ、、、そして母・弟・私の3人が笑顔で見送る写真と共に。
火葬場の担当の女性は優しい方で、仕事振りも真心のこもった素敵な方でした。熱気が立ち込める中、どんなに小さな骨のかけらまでをも灰の中から探し出し、全身のパーツを復元して説明してくださいました。
最後は自らの手で骨壷に納め、一緒に帰宅しました。
本当にいいところで見送ってやれたと思います。

20170525
この日はどんよりとした曇り空でしたが涼しく、暑いのが苦手だった彼には良かったのかな。
それに火葬している最中、一瞬ですが火葬場の上空に晴れ間がのぞきました。きっとあの瞬間、無事に天国へ行けたんだね。

出会ってからの14年1ヶ月、たくさんの笑顔と幸せと愛をくれました。きっと君も幸せだったよね?
共に過ごした日々、寸分の空白もなく、とことん愛し抜いた。そこには一点の曇りも疑いも悔いもないよ・・・すがすがしいほどに。

20170521
最後に、彼の生前最後に撮った写真を添えて、愛犬ボンの記事も締めくくりたいと思います。
この記事は特に、SNS上での更新告知は流しません。きっと普段から私のblogをご覧いただいている方は、ボンのことも気にとめてくださっていたと思うから。
長い間、当blogやtwitterを介してボンを可愛がり、応援してくださった方々には感謝の言葉もありません。叶うことならば、これからも私と会ったり、絡んでいただいた際にちょっとだけ、彼のことを思い出してやってください。
本当にありがとうございました。

ボン、今まで本当にありがとね!
君と出会えてからというもの、信じられないくらいに毎日が刺激的で感動的で、幸せに満ちた日々だったよ。
心から愛してる、大好きだよ、ボン!
しばらくは直接触れてやることはできないけど、みんな君のハートとともにいるよ。僕らの胸にも君はずーっといる。
もう息切れもしないし、4年前に痛めた“あんよ”も痛くない。好きなものを好きなだけ食べてもいいんだよ。自由気儘に、好き勝手過ごしながら待っててね。
いつかまた、そっちで抱っこしてやれる日まで♪

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2017年5月24日 (水)

碓氷峠…新発見の陣城と旧中山道

5月20日(土)
愛車を駆って一路、軽井沢へ。

2017052001
旧軽井沢駅舎
特に渋滞もなく、自宅から2時間ちょっとで到着しました。

今回の目的地は信越国境の碓氷峠
この一週間ほど前に、「碓氷峠付近の旧中山道沿いで、新たな山城(陣城)跡が発見された」とのニュースが流れてきました。
少ない情報を元にtwitter上で城仲間と場所の推定をしているうち、「実際に行ってみよう」ということになっての今回の遠征。
プランとしては峠の新発見陣城跡から、そのまま旧中山道を群馬県側へ碓氷湖(坂本ダム)まで下り、道々の旧街道の名残を楽しみつつ、他に砦などの痕跡がないか確認する、というもの。
同行者と軽井沢駅で合流し、総勢4名で碓氷峠へ向かいます。

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旧中山道碓氷峠、その頂上に鎮座する熊野皇大神宮(以下、熊野神社)。
参道の石段から手前へ、真っ直ぐ赤いラインが引かれていますが、これが長野(左)と群馬(右)の県境
また、熊野神社は安政2年(1855)、安中藩主の板倉勝明が、藩士らを安中城から碓氷峠まで走らせた「安政遠足」の決勝点でもあります。

今回発見されたという陣城跡は、この熊野神社から東へ250mほどとのことなので、旧中山道を群馬県側へ下ります。
旧中山道は群馬県側へ下り始めるとすぐに舗装路が切れ、未舗装の林道に入っていきます。

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そのまま林道を少し進むと、上写真の分岐点に至ります。右へ少し下るのが旧中山道ですので、ここは右へ。
ちなみに左は幕末、皇女和宮降嫁の際に開かれた道(和宮道)のようです。

2017052004
和宮道との分岐点付近には、熊野神社神宮寺の仁王門跡の碑が建っていました。

2017052005
一つ目の分岐点のすぐ先に、もう一つ林道との分岐点が出てきます。
ここは左が旧中山道。今回発見された陣城跡は、この分岐した道の間に位置しています。

さて、私には絵心というものが全くございませんので、図面を載せることは叶いません。
苦肉の策として、言葉で縄張の概略を示しておきたいと思います。

まず、城跡は上写真の分岐の先、旧中山道側に沿って楕円状に展開しています。
■手前(峠側)に竪堀(堀切?)、その先に曲輪が3つ、旧中山道に沿って群馬県側へ縦に並ぶ。
(仮に峠側の北西から南東へ向かって曲輪A→同B→同Cとする)
■曲輪Cからは曲輪Bの北東へ回り込むように腰曲輪状の削平地が開けており、その下段にも腰曲輪あり。
■上段腰曲輪の先端(北)、竪堀の手前に下段腰曲輪~旧中山道へと続く枡形虎口あり。

大雑把に言葉で説明すると、こんな感じになるでしょうか…(^_^;)

2017052006
我々は先ほどの分岐を旧中山道ではなく、右の林道側へ少し進み、城跡の南側からアプローチしました。
写真は、その林道(南)から城跡を見た様子・・・窪地の先に曲輪A(左手前)、B(右奥)の土塁が見えています。

2017052006b
また、曲輪BCにかけての手前(南)側には横堀(竪堀?)も残っていました。

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曲輪A(左)とB(右)間の堀跡

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曲輪BからAの方角
墓地を囲うように南面から西面にかけて、土塁がL字型に残っていました。
また、やはり曲輪Aにも土塁が南面から西面にかけてL字型に残っています。
AB両曲輪で同じような残り方をしているのは、他の面には土塁が存在しなかったというよりは、後世の何らかの意図(墓地整備など)による改変かもしれません。

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曲輪BよりCを見る。

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反対に、曲輪CからB
曲輪Cは土塁がごく一部しか残存していないため不明瞭ですが、曲輪Bとの間もやはり横堀のようになっていたのかもしれません。

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曲輪CからBの北東側を回り込む腰曲輪。右下にもう一段見えています。
この上段の腰曲輪を北西方向へ進んだ先に・・・

2017052012
枡形虎口があります。
写真は斜め上から俯瞰気味に撮影したものです。

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上段腰曲輪から見る枡形。
正面突当りで右に折れて、下段腰曲輪に出ます。

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下段腰曲輪から枡形を振り返る。

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ルートとしては下段腰曲輪に下りて更に右に折れ、その先で左に曲げて(日影と日向の境目付近)旧中山道に通していたようです。

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枡形の西側に切られている竪堀

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この竪堀はそのまま、旧中山道まで落とされています。

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竪堀と旧中山道の合流点。
こうして見ると旧中山道が、まるで横堀のようでもあります。

新発見の陣城跡・・・これは全くの個人的な感想ですが、ロケーションや旧中山道からの導線、枡形の受け方などから察するに、なんとなく東の方角へ意識が向いていたように感じます。
そういった意味では新聞報道にもあったように、天正18年(1590)の小田原攻めに於いて、松井田城を攻める豊臣方(北国軍)の後方拠点という見方でも無理はないのかなと思えます。
※但し、碓氷峠は上信国境の要衝であり、それがために時代を問わず、こうした軍事施設が築かれていた可能性もありそうなので・・・難しいですね(^_^;)
いずれにしても、なんらかの軍事施設、陣城・砦であったことは確かだと感じました。

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城跡脇を通る旧中山道
この付近から東へ向かって結構な下り坂が続いており、その名も「長坂道」と呼ばれていたようです。
引き続き、この旧中山道を群馬県側へ下っていきます。

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新発見陣城から少し下った先にも面白いものがありました。
写真右側の斜面は旧中山道に沿って切岸状に削り落とされた絶壁になっており、その上部を仰ぎ見ると、、、

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数段の小曲輪が階段状に並んでいるように見えました。
(実際に登った同行者によると、やはり削平されたような痕跡があった、とのこと)

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また、その絶壁の先端部には裏へ回り込めるように細い道が付けられており、実際に絶壁の裏側へ回り込んでみると、綺麗に削平された平場がありました・・・まるで街道(を通る敵)から、絶壁に守られるかのように。

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平場の奥には谷が入り込み、その先には古い道の痕跡が続いていました(写真右上部分)。
後方に控える新発見陣城の物見的な出城か、或いは江戸期の番所のようなものがあったのかもしれない・・・などと想像を膨らませました。

引き続き旧中山道歩きへ・・・

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また旧道沿いに不思議な痕跡が出てきました。

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古道らしき痕跡が複雑に入り組んでいるため、幾つものコブのような小山ができていますが、旧中山道とは高低差もあり、いずれの古道も旧中山道には繋がっていませんでした。

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小さな沢に出ました。
旧中山道はこの沢を渡っていたようです。

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沢の畔に人馬施行所跡
施行所とは何ぞや?と思いましたが、どうやら呉服商が文政11年(1828)に建てた、人馬のための休憩所があったようです。

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沢を渡ってしばらくすると、峠で分岐していた和宮道との合流ポイントに出ました。
写真左がここまで歩いてきた旧中山道で、右が和宮道。
看板を見るに現在、毎年5月に開催されている「安政遠足 侍マラソン」では、どうやら和宮道のコースが採用されているようですが、和宮降嫁は文久元年(1860)。安政遠足催行よりも後のことになりますので、実際の安政遠足では旧中山道を通ったものと思われます。
※峠からここまでの旧中山道は道幅も狭く、現代人を走らせるには危険な箇所も随所にありましたので無理もないですね…(^_^;)

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そしてこの和宮道との合流地点には、ご覧のような案内板も設置されていました・・・そう来たら、確認しない訳にはいかないでしょ(笑)

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陣場が原の旧道沿いには、子持山がそびえています。
この付近が度々戦場になっていたのであれば、子持山にも何かしらの痕跡があるのではないかと思い、登ってみたのですが・・・写真のような岩場が点在する細尾根で、遺構と思しきものは一切見受けられませんでした。

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引き続き、和宮道と合流した旧中山道を歩きます。

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・・・いろいろとツッコミどころ満載一つ家跡の案内板(^_^;)

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その足元には別の、朽ちた古い案内板も転がっていたのですが・・・書いてあることが大分違うんですけど?(笑)

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山中坂

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山中茶屋跡

碓氷峠から群馬県側の麓までの、ちょうど中間に位置しています。
坂本宿(群馬県側)から登ってきた旅人は、この先に山中坂の急坂を控えていますので、必ずこちらの山中茶屋で休憩を入れたそうです。それが茶屋の発展にも繋がりました。
明治期には小学校も建設され、明治天皇御巡幸(明治11年)の際には、当時の生徒数が25人だったことから25円(現代の50万円相当か)の奨学金が下賜されたそうです。

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山中茶屋の外れにあった馬頭観音。

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二重の痕跡を留める旧中山道。
我々が歩いてきた道は左ですが、右の上段部分も明らかに古道ですね。

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旧中山道からの眺め。
遠くに見えるは・・・妙義山かな?

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それにしても碓氷峠の古道遺構はスケールが大きい・・・このクラスの堀割遺構が延々と続いています。

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明治6年に設置され、「交番」のはじまりとされている見回り方屯所があった栗が原

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栗が原の近くには、旧中山道から分岐する明治天皇御巡幸道路もありますが、現在は崩落により立入禁止。

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座頭ころがしの急坂。

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座頭ころがしの堀割も・・・ご覧の規模。

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座頭ころがしの坂を下った先には、旧中山道と平行する尾根上に中世東山道の痕跡も残っています。
近くには、小山を切り開いて築かれた東山道の一里塚があるとのことでしたが・・・これかな?

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北向馬頭観音
文化十五年四月吉日

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南向馬頭観音
寛政三年十二月十九日

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さて・・・いよいよ土橋が見えてきました。

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天正18年、豊臣秀吉小田原攻めに備え、松井田城主・大道寺政繁が築いたと云う堀切(大道寺堀切)。
写真左側は確かに掘り切られていましたが、右側は・・・崩れて薄くなったのか、あまり人工的な堀切感はありませんでした。

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堀切を少し過ぎて振り返った様子。
防衛線として堀切を築いたということは、他にも防御のための施設が周辺にあったとしてもいいのではないか?と思い、旧中山道の左に写る斜面上にも登ってみたのですが・・・

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そこにあったのは、これまた古道跡と思しき痕跡。
もしかするとこれも、先ほど触れた東山道の名残かもしれません・・・。
仮に東山道とすると、大道寺政繁が堀切を築いた当時、碓氷峠越えの主要道として用いられていたのはこちら。
旧中山道よりも高所を通り、堀切の手前で一気に下る・・・その高低差も含めた防御施設(意図)だったのでしょうか。

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碓氷坂の関所跡
設置されたのは・・・昌泰2年(899)!?

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刎石茶屋跡の石垣
四軒の茶屋が並んでいたことから、別名「四軒茶屋」とも。

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弘法大師の「ここを掘れば水が出る」との指示で掘られたと云う、弘法の井戸

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弘法の井戸付近にも、旧中山道を取り巻くように古道の痕跡が散見されました。
写真は弘法の井戸から少し下った先、旧中山道脇を見上げた様子・・・まるで横堀のようにも見えます。

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刎石溶岩にできた風穴。
湿った風が吹き出すということでしたが・・・?

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また古い馬頭観音が出てきました。

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」と呼ばれるビューポイントから、山麓の坂本宿を・・・覗く(笑)
小林一茶も;
坂本や 袂の下の 夕ひばり
と詠んでいます。

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十返舎一九が;
たび人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとうげなりとて
と書き記した難所(なんじょ)、刎石坂(上り地蔵下り地蔵)に差し掛かりました。

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石の・・・」と表現されるだけあって、土止めの石垣は壮観でした。

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刎石坂にもあった馬頭観音

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大日尊に南無阿弥陀仏碑

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柱状節理の岩盤
※こちらの岩盤脇には、竪堀状の深い溝が切られていましたが・・・詳細は不明です。

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刎石坂では、他にも不思議な岩盤層が多く見受けられます。

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ゴロゴロと転がる石には足首を取られ、かなり難儀しましたけど・・・まさに難所道。

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念佛百萬遍

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旧中山道はこの先、堂峰番所跡を経てすぐに国道18号へ出ますが、その前にちょっと寄り道。
写真中央部分で旧中山道を左へ逸れ、愛宕山城へ向かいます。

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愛宕山城の土塁と横堀(北西面)・・・ド藪(^_^;)

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とりあえず時計回りに横堀を1周してみます。

愛宕山城は、土塁と横堀をグルッと廻らせた単郭方形型の城で、東の角は出隅状に突き出させ、南西角には馬出を備えていたようです。

2017052068
東角の出隅部分の土塁
左側が曲輪内になるのですが、とにかく藪が酷かった・・・。
それでも出隅部分は他に比べて幾分マシで、辛うじて形状を確認することができました。

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南東面の横堀

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馬出も藪々・・・馬出にも横堀が残っていましたが、この藪では写真はどうにもなりません。

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馬出の先に建っていた梵字に「石壇(安永七年)」の石碑。

愛宕山城…もう少し藪が枯れてくれれば、規模の割には見応えのあるお城なのではないでしょうか。
旧中山道に戻ります。

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堂峰番所跡の案内板付近にあった石積。

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谷を挟んだ対岸にも、二段の立派な石垣が残っていました。

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さて、ついに国道18号まで下ってきました。
「熊野神社」から「現在地」まで、ほぼ赤い点線に沿って歩いてきたことになります。

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国道を碓氷湖(坂本ダム)目指して歩いていると、左手には竜駒山狼煙台が見えます。

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碓氷湖の畔、旧信越本線トンネルと架線跡

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旧信越本線はここから更に峠を登り、軽井沢へと向かっていたのですね。

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碓氷湖
対岸に見える山は坂本城(城の峯城)の城山です。

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さて、ラストは旧信越本線の碓氷第三アーチ、通称「めがね橋」。

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煉瓦造りのレトロ感が堪りません。

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第三アーチから続くトンネル。

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トンネル内はとても涼しく、暑い日の散策にはもってこいでした♪←

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アーチ橋上からの眺め。

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アーチ橋の上、アプトの道。
碓氷峠の急勾配を登るために採用されたアプト式・・・タモさんの例の番組でもやってましたね(笑)

煉瓦造りのめがね橋・・・前々から気にはなっていたので、訪問叶ってラッキーでした。

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最後は軽井沢駅で解散、私は愛車で帰宅の途に就きました。
帰りも渋滞に巻き込まれることなく、順調なドライブ。良き休日になりました♪

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2017年5月18日 (木)

渡邊家の蔵(日野宿)

毎年5月、土方歳三の命日(旧暦5月11日)前後の週末に開催されるひの新選組まつり
その週末に合わせ、甲州街道沿いに建つ渡邊家の蔵も公開されていましたので、祭りの合間にちょっと見学させていただきました。

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こちらが渡邊家の蔵
江戸末期~明治初期頃の建築です。

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渡邊家の屋号は「中村屋」
蔵は味噌・醤油・酒などを扱うお店(万屋)の店蔵として利用されていたそうです。
当初は木造だったものの、関東大震災(大正12年)の影響で土壁にひびが生じたため、昭和5年になって大谷石による石造りに改修されています。
また、昭和7年には甲州街道の拡幅により、位置を少し移されているようです。

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蔵の二階には調度品などの展示も。
一階には天然理心流の目録?免許??(きちんと確認しなかったので詳細不明です…スミマセン)も展示されていました。
※撮影禁止

そういえば八坂神社の天然理心流奉納額に、佐藤彦五郎や井上松五郎らと並び;
渡邊庄三郎藤原盛正
という人物の名前が見えます。
或いはこちらの渡邊家の関係者でしょうか・・・来年また機会があったら確認します(;・∀・)

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梁の木材がとても立派でした。

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二階の窓から覗く甲州道中・・・
普段は無粋な都道も、この時は祭りの開催で車両通行止め。徒歩で行き交う人の流れが、なんとなく往時の街道宿場町の雰囲気を味わわせてくれました。

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昭和33年、アジア大会自転車競技開催時の渡邊家の蔵。
この時は病院として使われていたようです。

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2017年5月14日 (日)

実相寺、正法寺、幡頭神社

GW旅、ラストは太田輝夫先生の著書「桶狭間合戦 奇襲の真実」で読んで以来、ずっと気になっていたエピソードを確かめるため、三州吉良の地へ向かいました。

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吉良西条の実相寺(西尾市上町下屋敷)
文永8年(1271)、吉良氏の菩提寺として吉良満氏が創建。三河国の初代安国寺として壮大な伽藍を誇りました。
ちなみに満氏の弟・国氏が駿河今川氏の始祖となっています。
やがて吉良西条が今川氏の勢力下に入ると、天文15年(1546…諸説あり)には今川家の軍師として名高い雪斎が住職に就いています。

実はこちらの実相寺、永禄3年(1560)5月5日のまさに桶狭間合戦の直前に、織田信長による焼き討ちに遭っているのです。(「岡崎領主古記」等)
※注:実相寺発行の沿革には「桶狭間の翌年」とある。

この焼き討ちについて、「西尾町史」は;
「一説に当時実相寺には多数の僧兵居りしが信長之を以て今川の残党なりとして攻めたりと」
としています。
(「桶狭間合戦 奇襲の真実」より引用)

タイミングから判断するに、今川義元出陣の報を掴んだ信長は、かつて雪斎(弘治元年=1555年に長慶寺にて死去)が住職を務めていたこともある実相寺を今川氏の前線拠点とみなし、これに先制攻撃を加えたものか・・・。

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永禄2年創建の釈迦堂
焼き討ちで荒廃した実相寺再興のため、天正4年(1576)に鳥居元忠が寄進したものです。

20170506c03
方丈
こちらは慶長8年(1603)の再建。

20170506c04
八葉宝鐸型梵鐘
南北朝期の作。竜頭は和様の双頭形で、八稜形の口縁には中国式の形状が見られることから、和漢混淆式梵鐘とも呼ばれています。

ところで吉良にはもう一つ、信長と義元に関連して興味深い逸話が残されています。

実相寺の焼き討ち、そして桶狭間合戦より遡ること2ヶ月の永禄3年3月、今川義元は三河を巡視して乙川(吉良町)の正法寺に滞在しています。
やはり知多にいた信長は、義元の三河滞在を知るや舟を仕立て、乙川の沖合にある梶島まで押し寄せてきました。
正法寺住職の誘いで宮崎海岸での舟遊びに興じ、なまこ取りを見物していた義元は信長勢の接近に驚き、岬の高台にある幡頭神社に逃げ込みますが、信長が強襲を諦めて梶島から引き返したので難を逃れました。

この義元の三河巡視~信長の強襲未遂に関するエピソードは、地元の社家に残る旧記に伝えられるものとして「吉良町誌」に掲載され、「桶狭間合戦 奇襲の真実」の中でも取り上げられています。

20170506c05
義元が滞在していたと云う正法寺
永禄3年の3月という時期からして、やはり同年5月に予定している尾張進攻に向けた準備活動の一環だったのでしょうか。
※門前に建っているのは、明治22年と昭和28年の高潮被害に関する標柱です。

20170506c06
薬師堂拝殿
宝永3年(1706)の建立で、西尾市の文化財に指定されています。

現地にあった説明板によると、正法寺には義元の朱印状(禁制、もしくは安堵状か)も残されているようです。(正法寺文書)
・・・義元と正法寺の繋がりは確認できました。

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正法寺(の隣り)には古墳も(正法寺古墳)。
古墳公園に建つ、写真奥にチラッと見えている祠は陣屋稲荷・・・江戸時代、この地を治めた吉良氏(元禄赤穂事件で有名な高家)の陣屋の鎮守だったようです。

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こちらは、信長勢の接近を知った義元が逃げ込んだと云う幡頭神社
大宝2年(702)の創建という古い歴史を誇ります。

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本殿は天正8年(1580)の建立で、国の重要文化財。
両サイドはそれぞれ神明社と熊野社の本殿で、やはり天正期の建立と推定されています。いずれも愛知県指定文化財。

幡頭神社の説明板にも「足利尊氏、そして今川義元も参拝したと伝わる」とありました。
義元がこの地まで足を運んだとすると、それはやはり、3月であれ5月(桶狭間への出陣時)であれ、永禄3年のことであった可能性が高いだろうと思います。

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幡頭神社境内から見る梶島

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義元強襲を諦めた信長が、舟の舵を切り直して知多へと引き返したことから、「梶島」の名で呼ばれるようになったとも伝えられています。
当時の海岸線はもっと手前側に入り込んでいたでしょうが、舟遊びをしていた義元からすれば、まさに目と鼻の先・・・相当に慌てたことでしょうね。

この乙川~梶島での1件が、2ヶ月後の実相寺焼き討ちに繋がったのかもしれません。

ここで取り上げた一連のエピソードは、1次史料では一切確認できず、事の真偽は定かではありません
が、実際に訪れた関係各所で着実に義元、或いは信長の痕跡を確かめられた点は大きな収穫で、手応えを得ることができました。

さて、これにて2017年のGW旅も全行程を終了です。最後は名古屋まで送っていただいて解散しました。
お蔭さまで今回も、事前の想定を超える成果の詰まったいい旅になりました。ありがとうございました。

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2017年5月13日 (土)

本證寺、安祥城、小豆坂古戦場

GW旅3日目…最終日。
この日は愛知県東部、三河地方をめぐります。

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まずは三河一向一揆の拠点にもなった、安城市野寺の本證寺から。
鎌倉時代後期の創建で、室町期に真宗本願寺派に転じています。

三河一向一揆

 

永禄6年(1563)、「守護不入」の特権(寺内の治外法権と租税免除)を主張する一向宗寺院は、本證寺10世・空誓(蓮如孫)が中心となって蜂起し、特権を排除して三河の支配強化を図る徳川家康と争いました。
翌永禄7年、一揆勢は小豆坂・馬頭原での戦いに敗れて家康と和議を結びますが、家康からの改宗命令を拒否したために追放され、伽藍は破却、一向宗の信仰も禁じられました。
三河に於いて一向宗が赦免されるのは、約20年後のこと(天正11年に信仰が再び認められ、同13年には家康の黒印状で道場屋敷の保証と寺内の租税免除が認められている)。
以降、江戸期には東本願寺(大谷)派に属して三河の触頭として栄え、幕末には末寺200以上を有するまでになっています。

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本堂は寛文3年(1663)の再建。

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本證寺には往時、内外二重の堀が厳重に廻らされていました。
濃い緑色の部分が、現在もその姿を留めている箇所になります。

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本證寺に現存する堀と土塁(内堀)
通常は公開されていませんが、ご住職にお伺いすると許可していただいたばかりか、ご案内までしてくださいました。

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それにしても見事な土塁。

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続いて外堀の探索へ。
こちらは東面の外堀の一部。

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外堀から山門(奥に本堂)までの距離感。
この内側がいわゆる「寺内」「寺内町」となります。

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北面にごく一部だけ現存する外堀。

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先にご案内いただいた内堀の土塁は、境内外側からも見ることができます。

一度拝見してみたかった本證寺の遺構・・・念願叶って感謝。

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続いて安祥城へ。
安祥城は安祥松平氏(徳川家康の家系)の拠点だった城。
安祥松平氏は4代・清康の時に、本拠を岡崎へ移しました。
城跡一帯は現在、「安祥文化のさと」として整備され、歴史博物館を初めとする様々な施設が併設されています。

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その歴史博物館では常設展の他、こちらの企画展も見学しました。
今川義元の感状や、この直前に訪れていた本證寺の御本尊なども展示されていました。

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館内に設置されていた松平清康像。

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続いて安祥城本丸跡へ。
現在は大乗寺の境内となっています。

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天正12年の小牧長久手合戦時にも利用され、改修の手が加えられているようです。

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安祥城本丸

清康の死後(天文4年「守山崩れ」)、同族間の争いで混乱する三河を狙って東からは今川が、そして西からは織田信秀が触手を伸ばしてきます。
天文9年(1540)には信秀が安祥城を攻略し、長子の信広を据えています。(※天文16年など諸説あり)
小豆坂での戦いを経た同18年(1549)、今度は今川方の雪斎が安祥城を奪還し、松平広忠死後の岡崎にも城代を派遣して今川家による三河の支配体制を確立しました。
今川家による三河の実効支配はその後、桶狭間での義元討死(1560)~松平元康(徳川家康)の独立まで続くことになります。

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安祥城本丸脇に建つ、本多忠高(徳川四天王・本多忠勝父)の墓碑。
天文18年の安祥城攻めで今川方として奮戦し、本丸付近で戦死しています。
墓碑は寛政9年(1797)、250回忌で岡崎城主の本多忠顯が忠高戦死の地に建立しました。

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お次は小豆坂古戦場へ。

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小豆坂古戦場碑

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血洗池跡の碑
これらの石碑はいずれも、付近の関連地から一ヶ所に集められたものです。

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天文11年(1542)にあったとされる第1次小豆坂合戦で奮戦した織田方の七将が、槍を立てて休憩したと伝わる鎗立松の碑。

天文9年に安祥城を手に入れ、三河進出を目論む織田信秀と、それを阻止せんと正田原(信長公記)に押し寄せた今川勢との間で、天文11年8月に勃発したと云われる第1次小豆坂合戦

 

しかし、この合戦は信頼のおける史料では「信長公記」にしか見られず、しかも「公記」には年次が示されていません。天文11年としているのも「甫庵信長記」など、後世の創作物のみです。
近年では、今川の勢力が天文11年の段階では未だ西三河に及んでいるとは思われず信秀の安祥城奪取を天文16年と匂わす文書(織田信秀宛北条氏康書状)が存在することもあって、戦いそのものの存在を疑問視する見方も出てきています。
但し、勝敗の行方や合戦があったとされる時季にも隔たりがあるため、一概には言い切れないかと思います。
なお、天文17年(1548)3月第2次合戦は、今川義元の感状も残っているので間違いのないところでしょう。

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先ほどの石碑群とは少し離れた場所にある、小豆坂戦没者英霊記念碑。
そして・・・

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江戸時代の古絵図を元にアタリをつけた、正田原(付近の県道48号沿いに「正田城跡」あり)を駆け下る小豆坂の旧道
今となってはなだらかになっていますが、坂下には「陣場」(岡崎市羽根町陣場)という地名も残っており、この付近で合戦が行われたことを暗に示しているかのようでもあります。
また、その更に西方には天文17年の合戦(第2次)で、織田方が布陣したと云う「上和田」の地名もあります。

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小豆坂の旧道は県道26号線との角に建つ、こちらのモニュメントが目印です。
(「不吹町北」交差点)

天文17年の合戦は今川の勝利に帰し、敗れた織田勢は安祥城へ撤退します。
翌天文18年、岡崎の松平広忠が家臣に刺殺され、更に安祥城を今川に奪われて西三河での拠点を失った織田信秀は、安祥城で生捕られた信広と、広忠の遺児・竹千代との人質交換に応じざるを得なくなり、三河は完全に今川の勢力下に布かれるようになりました。

なお永禄7年(1564)には、前年から三河一向一揆との戦いを強いられていた徳川家康が、この小豆坂、及び馬頭原での一揆勢との決戦に勝利して和議に持ち込み、最終的に一揆の解体に成功しています。

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末森城、桃巌寺

小牧城下町の惣堀探しの後は、名古屋市内へ移動。

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桃巌寺
信長の父・織田信秀の菩提寺(の一つ)で、信秀晩年の居城・末森城を継承した次男・信勝が創建しました。
寺名は信秀の戒名「桃巌道見大禅定門」から採られています。

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現在の境内地は正徳4年(1714)に移転されたものです。
創建当初は城山(末森城)南麓の、穂波町付近にあったようです。

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織田信秀廟所
こちらの五輪塔は、当地へ移転後に建立されたようです。

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こちらが移転前に祀られていた旧墓石。
寺の移転後も墓石は旧地に残されていましたが、昭和になって移設されています。
正面に「前備州太守桃巌道見大禅定門
左側面には「柴田修理勝家」の文字が見えました。
他に3基の小さな五輪塔もありました。

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桃巌寺といえば名古屋大仏・・・なのだそうです。

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続いて末森城跡へ。
織田信秀晩年の居城で、その没後は次男の信勝が継承しました。

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現在、末森城跡には城山八幡宮が鎮座していますが、当社は築城当時から城山の麓に祀られていたようです。
昭和11年に現在地へ遷座されました。

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神域前のこの付近が本丸跡で、拝殿や本殿が並ぶ神域は二の丸跡。
江戸期の古絵図によると、二の丸には丸馬出まであったとのことですが・・・。

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実際に訪れてみて、とにかく驚いたのは横堀の規模
本丸、及び二の丸をグルッと取り巻くように深く、幅広な堀が穿たれています。

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前方に写る同行者との対比からも、その規模を推し量れようというもの。

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名古屋市内にこれほどの遺構が残っていたのか・・・とにかく驚きです。

それと同時に、ふと疑問も持ち上がりました。
織田信長は小牧山にも岐阜にも、そして安土にも山腹には横堀を一切用いていません
末森城は信長の城ではなかったとはいえ、当然その縄張や構造は見知っていたはずです。知った上で、このような横堀は無用と考えたのでしょうか・・・?

末森城に残る横堀遺構の規模や雰囲気には、後に徳川家康が小牧山に築かせたものと通じるものがあるようにも思えます。
末森城の二の丸にあったとされる丸馬出にも、年代的・地域的な観点から違和感を覚えるし、そう考えていくと、この横堀は(丸馬出も)信秀・信勝時代の遺構ではなく、後の、例えば小牧長久手合戦などでの改修によるものと考えた方がいいように思えてきました。
※但し文献上では、末森城跡の小牧長久手時の再利用は確認されていないそうです。

いずれにしても想定外に素晴らしい遺構でした。

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末森城をあとにして、道三・信長の会見で有名な聖徳寺跡や・・・

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加賀野井城跡・・・

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「名人久太郎」こと、堀秀政生誕の地と伝わる上茜部城跡などに立ち寄りつつ、岐阜駅へ。
夜は同行者たちとの恒例、ギフナイト☆

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実はこの日は私の誕生日。
サプライズにプレゼントまでいただき、嬉しい1日になりました♪
・・・その分、翌朝がちょっと大変だったけど(笑)←

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2017年5月12日 (金)

小牧山城(城下町)の惣堀

GW旅2日目。
この日のスタートは、3月にも訪れている小牧山城です。

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3月には発掘調査後の埋め戻し作業で通れなかった、本丸手前の大手道。
スロープ状の大手道に沿って現れた石の壁も、すっかり埋め戻されています。
参照記事

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小牧山城本丸から、信長が清須から居城を移す際、最初に候補地として挙げた二宮山を見る。
・・・いずれあちらにも登ろう(・ω・)

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しかし、今回の一番の目的は城山ではなく、信長が城山の南麓に整備した城下町を覆う惣堀
まずは城下町の南東端外れに位置する神明社から。

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小牧市外堀地区にあることから、外堀神社とも呼ばれています。
境内にちょっと気になる高まり(土盛り)はあったものの・・・まぁ、考え過ぎですね(^_^;)

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次は同行者が地図で見つけ、名前が気になった織田井戸公園。

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付近で縄文時代の遺跡が発掘されたようですが・・・「織田井戸」の名の由来は分からず仕舞い。

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最後に、予め地図でアタリを付けておいたポイントへ。
現在は単なる用水路になっていますが、こちらは小牧城下町の南面にあたる惣堀の名残です…その名も「惣堀用水」。
用水を境に北が小牧市元町、南が同小木と町域も分かれています。

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近くに惣堀に関する説明板も設置されていました。
この付近には、城下町への虎口も設置されていたようです。
説明板の奥に見える道路は・・・

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信長が整備した城下町の道筋の一つ、紺屋町筋。

時間があればもう少し詳しく、広範に城下町や惣堀の痕跡を訪ね歩いてみたいものです。

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2017年5月11日 (木)

呂久の渡し(中山道)

美濃金山城や可成寺を訪問した後は、一気に瑞穂市と大垣市の境界付近まで移動。
中山道が揖斐川を越える呂久の渡しを目指します。

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小簾紅園

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小簾紅園に建つ和宮の歌碑

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幕末の公武合体政策により、徳川14代将軍・家茂に嫁すことになった皇女和宮。
和宮降嫁の行列は中山道を進み、呂久の渡しを御座船で越えた際、彼女は綺麗に紅葉した楓を目にし、
おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
と詠みました。
小簾紅園は、この折の渡河を記念して築かれたものです。

江戸期に入って五街道の一つとして整備された中山道ですが、この付近では岐阜や安土を本拠とした織田信長により、赤坂-呂久-美江寺-河渡-加納というルートが整備されていました。
そのため、呂久の渡しも「信長公記」に登場します。

三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。其の日、江州の内、柏原上菩提院に御泊り。翌日、仁科五郎が頸もたせ参り侯を、ろくの渡りにて御覧じ、岐阜へ持たせられ、長良の河原に懸け置かれ、上下見物仕り侯。
(信長公記 巻十五「信長公御乱入の事」より抜粋)

天正10年(1582)3月5日、甲州征伐に向かう織田信長は、呂久の渡しで届けられた仁科盛信の首を実検しています。
また、甲州からの帰路にはやはり呂久の渡しを、稲葉一鉄が用意した御座船で渡りました。
・・・つまり、私が呂久の渡しを訪れた動機もこれ(笑)

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小簾紅園の隅、旧中山道沿いに佇む地蔵堂。

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旧中山道

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明治天皇御小休所跡の石碑が建つ建物。

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小簾紅園から中山道を伝い、東の方角へ進むと揖斐川が姿を現します。
私も初めは、この辺りが呂久の渡し跡だと思っていました。
ところが、小簾紅園に設置されている説明板をよく見てみると・・・

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揖斐川は大正14年の新川付替工事により、付近の流路が大幅に変えられていました
当時の揖斐川は、小簾紅園の西側を流れていたようです。

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小簾紅園から旧中山道を西へ向かい、その先から振り返った様子。
遠くの窪んだ地形が、揖斐川の名残を伝えてくれるかのようです。

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更に西へ進み、小簾紅園にあった地図で旧揖斐川の対岸付近に該当すると思われる地点まで来ると、平野井川という用水の川に当たり、ここが瑞穂市と大垣市との市境になっていました。

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平野井川の畔にはお地蔵さんも。
まるで小簾紅園にあった地蔵堂と対になっているかのようです。
この両地蔵の間が、旧揖斐川流域とその河川敷だったのではないかと思います。現在の揖斐川ではなく、この付近が市境になっていることも、それを暗示しているような気がします。

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平野井川脇の土手には、中山道の古い道標も。

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その道標から旧揖斐川、即ち呂久の渡し跡を眺め渡す。
織田信長が仁科盛信の首を実検し、帰路には稲葉一鉄の用意した御座船で渡河した地。

手元に資料が乏しく、旧揖斐川の流路などの位置関係については多分に推量を多く含む内容となっていることはご容赦ください。

すっかり日も暮れてきたところで、初日の行程はおしまい。
夜は勿論、岐阜駅前で盛り上がりましたとさ☆

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2017年5月10日 (水)

美濃金山城(信長の休石)

2017年のGW旅は、岐阜~愛知方面にお邪魔して参りました(5/4~6)。

初日。
岐阜駅から車を飛ばし、まず最初に連れて行って貰ったのは、可児市の金山(兼山)です。

永禄8年(1565)、東美濃へ侵攻して鵜沼・猿啄・堂洞・関の各城を攻略した織田信長は、斎藤家の東美濃に於ける旗頭的存在だった長井隼人の拠点の一つ、烏峰城を森可成に与えました。この時、城の名も金山城に改められています。
※信長の東美濃攻め参照記事→Part

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出丸跡の駐車場に車を停め、こちらから城攻めをスタート。

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三の丸から見る、二の丸西面の石垣。
のっけから味わいのある、いい石垣です。

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看板には「水の手」とありますが、パンフレットによると麓にあった米蔵跡から続く三の丸の虎口。
岩盤を切り出して成形した枡形のようになっています。

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二の丸

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二の丸の南面に残っていた石積

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二の丸から、本丸を取り巻く腰曲輪群へと続く虎口を見上げる。

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この虎口がまた素晴らしかった・・・石垣造りの見事な枡形形状を残しています。
こちらの虎口より左が西腰曲輪、右が南腰曲輪となります。

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枡形虎口を俯瞰で。

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本丸櫓台の石垣

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櫓台の奥に残る、本丸への石段跡

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金山城本丸
地表面には多くの礎石が並んでいました。

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金山城址碑

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本丸から木曽川を眼下に収める眺め。

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本丸北面の石積
こうして低く積まれた石垣に武者走り状の平面が付き、セットバックさせている構造が多く見受けられました。

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本丸搦手口、東腰曲輪への枡形。

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こちらの枡形も見事でした。

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東腰曲輪から、本丸東面の石垣。
足元に長方形に区画された石列がありました。穴倉、或いは貯水池の跡とも考えられているようです。

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少し斜面を下って回り込んだ先から見上げる、東腰曲輪北面の石垣。

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東腰曲輪の更に東、尾根を下った先にある左近屋敷跡へは、ご覧のような切岸を下ることになります。
※訪城後に気がついたのですが、左近屋敷跡方面は現地案内パンフに「危険につき立入禁止」とありました。ご注意ください。

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左近屋敷跡の石積
こちらも2段のセットバックになっています。

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左近屋敷はその名の通り、森家の家老だった細野左近という人物の屋敷跡と考えられています。

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一旦、元来た駐車場近くの林道まで引き返し、左近屋敷跡の先にある大堀切へ。
写真左手の斜面を上がった先が左近屋敷になります。

ところでこちらの金山城、天正10年(1582)3月9日には甲州征伐へ向かう織田信長も、その軍旅の途中に一泊しています。
上写真の大堀切の、右手の斜面を上がっていった先にはこの時、信長が腰を掛けて休んだと云われる「信長の休石」があるというので、私も向かってみることにしました。
・・・というより、金山城に来た一番の動機がコレだったりします(笑)

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大堀切からの道中は山道が付いて案内板もありますが、現地までの距離感が分からず、結構不安になります。

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最初に現れた大岩。
現地には何の説明もありませんでしたが・・・座禅石かな?

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大堀切から10分ほども歩くと、可成寺跡の削平地に出ます。
可成寺はその名が示す通り、元亀元年(1570)の近江宇佐山での合戦(対浅井・朝倉連合軍)で命を落とした森可成の菩提を弔うため、跡を継いだ次男・長可が創建したお寺です。
現在は麓に移されているため、山上の当地には何も残りません。

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可成寺跡の案内板も朽ち果て、地面に転がっていますので見落としにはご注意…(^_^;)

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可成寺跡まで来たら進行方向左側に注意していると、こちらの案内板が目に入ってきます。
ここから少し下った先に・・・

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織田信長の休石

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休石や可成寺跡は金山城の東の稜線(寺が峰)に位置し、休石の先からは勾配もきつくなって、ずっと下っていました
休石の伝承が真実だとすると、信長は金山城に入る前に可成寺での可成の墓参を決め、寺が峰の急坂を登りきったところで一旦休憩した、といったことになるでしょうか。
翌日は高野(信長公記/旧神箆こうの村)の鶴ヶ城へ向かっていますが、まさか金山城を出発してすぐの地点で休憩するとも思えませんし…(笑)

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この岩に腰掛けた信長・・・その時、彼の目にはどのような光景が映っていたのでしょうか。

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さて、下山後は麓に建つ現在の可成寺へ。
慶長5年(1600)、森忠政(可成6男)が川中島の海津城へ移封されると金山城は廃城となり、可成寺も寺が峰からこちらへ移されました。
長可愛用の脛当を収蔵しているようです。

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森家墓所

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左から長可、可成、可行(可成父)、可隆(可成長男。元亀元年の手筒山攻めで戦死)

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こちらは本能寺の変で信長に殉じた乱(中央/可成3男)、坊(左/同4男)、力(右/同5男)

森家では次男の長可も、天正12年(1584)の小牧長久手合戦で討死を遂げています。

・・・群生するシャガの花が墓所を囲むように咲き誇り、とても綺麗でした。

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