美濃金山城(信長の休石)
2017年のGW旅は、岐阜~愛知方面にお邪魔して参りました(5/4~6)。
初日。
岐阜駅から車を飛ばし、まず最初に連れて行って貰ったのは、可児市の金山(兼山)城です。
永禄8年(1565)、東美濃へ侵攻して鵜沼・猿啄・堂洞・関の各城を攻略した織田信長は、斎藤家の東美濃に於ける旗頭的存在だった長井隼人の拠点の一つ、烏峰城を森可成に与えました。この時、城の名も金山城に改められています。
※信長の東美濃攻め参照記事→PartⅠ、Ⅱ、Ⅲ
出丸跡の駐車場に車を停め、こちらから城攻めをスタート。
三の丸から見る、二の丸西面の石垣。
のっけから味わいのある、いい石垣です。
看板には「水の手」とありますが、パンフレットによると麓にあった米蔵跡から続く三の丸の虎口。
岩盤を切り出して成形した枡形のようになっています。
二の丸
二の丸の南面に残っていた石積
二の丸から、本丸を取り巻く腰曲輪群へと続く虎口を見上げる。
この虎口がまた素晴らしかった・・・石垣造りの見事な枡形形状を残しています。
こちらの虎口より左が西腰曲輪、右が南腰曲輪となります。
枡形虎口を俯瞰で。
本丸櫓台の石垣
櫓台の奥に残る、本丸への石段跡
金山城本丸
地表面には多くの礎石が並んでいました。
金山城址碑
本丸から木曽川を眼下に収める眺め。
本丸北面の石積
こうして低く積まれた石垣に武者走り状の平面が付き、セットバックさせている構造が多く見受けられました。
本丸搦手口、東腰曲輪への枡形。
こちらの枡形も見事でした。
東腰曲輪から、本丸東面の石垣。
足元に長方形に区画された石列がありました。穴倉、或いは貯水池の跡とも考えられているようです。
少し斜面を下って回り込んだ先から見上げる、東腰曲輪北面の石垣。
東腰曲輪の更に東、尾根を下った先にある左近屋敷跡へは、ご覧のような切岸を下ることになります。
※訪城後に気がついたのですが、左近屋敷跡方面は現地案内パンフに「危険につき立入禁止」とありました。ご注意ください。
左近屋敷跡の石積
こちらも2段のセットバックになっています。
左近屋敷はその名の通り、森家の家老だった細野左近という人物の屋敷跡と考えられています。
一旦、元来た駐車場近くの林道まで引き返し、左近屋敷跡の先にある大堀切へ。
写真左手の斜面を上がった先が左近屋敷になります。
ところでこちらの金山城、天正10年(1582)3月9日には甲州征伐へ向かう織田信長も、その軍旅の途中に一泊しています。
上写真の大堀切の、右手の斜面を上がっていった先にはこの時、信長が腰を掛けて休んだと云われる「信長の休石」があるというので、私も向かってみることにしました。
・・・というより、金山城に来た一番の動機がコレだったりします(笑)
大堀切からの道中は山道が付いて案内板もありますが、現地までの距離感が分からず、結構不安になります。
最初に現れた大岩。
現地には何の説明もありませんでしたが・・・座禅石かな?
大堀切から10分ほども歩くと、可成寺跡の削平地に出ます。
可成寺はその名が示す通り、元亀元年(1570)の近江宇佐山での合戦(対浅井・朝倉連合軍)で命を落とした森可成の菩提を弔うため、跡を継いだ次男・長可が創建したお寺です。
現在は麓に移されているため、山上の当地には何も残りません。
可成寺跡の案内板も朽ち果て、地面に転がっていますので見落としにはご注意…(^_^;)
可成寺跡まで来たら進行方向左側に注意していると、こちらの案内板が目に入ってきます。
ここから少し下った先に・・・
織田信長の休石
休石や可成寺跡は金山城の東の稜線(寺が峰)に位置し、休石の先からは勾配もきつくなって、ずっと下っていました。
休石の伝承が真実だとすると、信長は金山城に入る前に可成寺での可成の墓参を決め、寺が峰の急坂を登りきったところで一旦休憩した、といったことになるでしょうか。
翌日は高野(信長公記/旧神箆こうの村)の鶴ヶ城へ向かっていますが、まさか金山城を出発してすぐの地点で休憩するとも思えませんし…(笑)
この岩に腰掛けた信長・・・その時、彼の目にはどのような光景が映っていたのでしょうか。
さて、下山後は麓に建つ現在の可成寺へ。
慶長5年(1600)、森忠政(可成6男)が川中島の海津城へ移封されると金山城は廃城となり、可成寺も寺が峰からこちらへ移されました。
長可愛用の脛当を収蔵しているようです。
森家墓所
左から長可、可成、可行(可成父)、可隆(可成長男。元亀元年の手筒山攻めで戦死)
こちらは本能寺の変で信長に殉じた乱(中央/可成3男)、坊(左/同4男)、力(右/同5男)
森家では次男の長可も、天正12年(1584)の小牧長久手合戦で討死を遂げています。
・・・群生するシャガの花が墓所を囲むように咲き誇り、とても綺麗でした。
初日。
岐阜駅から車を飛ばし、まず最初に連れて行って貰ったのは、可児市の金山(兼山)城です。
永禄8年(1565)、東美濃へ侵攻して鵜沼・猿啄・堂洞・関の各城を攻略した織田信長は、斎藤家の東美濃に於ける旗頭的存在だった長井隼人の拠点の一つ、烏峰城を森可成に与えました。この時、城の名も金山城に改められています。
※信長の東美濃攻め参照記事→PartⅠ、Ⅱ、Ⅲ
出丸跡の駐車場に車を停め、こちらから城攻めをスタート。
三の丸から見る、二の丸西面の石垣。
のっけから味わいのある、いい石垣です。
看板には「水の手」とありますが、パンフレットによると麓にあった米蔵跡から続く三の丸の虎口。
岩盤を切り出して成形した枡形のようになっています。
二の丸
二の丸の南面に残っていた石積
二の丸から、本丸を取り巻く腰曲輪群へと続く虎口を見上げる。
この虎口がまた素晴らしかった・・・石垣造りの見事な枡形形状を残しています。
こちらの虎口より左が西腰曲輪、右が南腰曲輪となります。
枡形虎口を俯瞰で。
本丸櫓台の石垣
櫓台の奥に残る、本丸への石段跡
金山城本丸
地表面には多くの礎石が並んでいました。
金山城址碑
本丸から木曽川を眼下に収める眺め。
本丸北面の石積
こうして低く積まれた石垣に武者走り状の平面が付き、セットバックさせている構造が多く見受けられました。
本丸搦手口、東腰曲輪への枡形。
こちらの枡形も見事でした。
東腰曲輪から、本丸東面の石垣。
足元に長方形に区画された石列がありました。穴倉、或いは貯水池の跡とも考えられているようです。
少し斜面を下って回り込んだ先から見上げる、東腰曲輪北面の石垣。
東腰曲輪の更に東、尾根を下った先にある左近屋敷跡へは、ご覧のような切岸を下ることになります。
※訪城後に気がついたのですが、左近屋敷跡方面は現地案内パンフに「危険につき立入禁止」とありました。ご注意ください。
左近屋敷跡の石積
こちらも2段のセットバックになっています。
左近屋敷はその名の通り、森家の家老だった細野左近という人物の屋敷跡と考えられています。
一旦、元来た駐車場近くの林道まで引き返し、左近屋敷跡の先にある大堀切へ。
写真左手の斜面を上がった先が左近屋敷になります。
ところでこちらの金山城、天正10年(1582)3月9日には甲州征伐へ向かう織田信長も、その軍旅の途中に一泊しています。
上写真の大堀切の、右手の斜面を上がっていった先にはこの時、信長が腰を掛けて休んだと云われる「信長の休石」があるというので、私も向かってみることにしました。
・・・というより、金山城に来た一番の動機がコレだったりします(笑)
大堀切からの道中は山道が付いて案内板もありますが、現地までの距離感が分からず、結構不安になります。
最初に現れた大岩。
現地には何の説明もありませんでしたが・・・座禅石かな?
大堀切から10分ほども歩くと、可成寺跡の削平地に出ます。
可成寺はその名が示す通り、元亀元年(1570)の近江宇佐山での合戦(対浅井・朝倉連合軍)で命を落とした森可成の菩提を弔うため、跡を継いだ次男・長可が創建したお寺です。
現在は麓に移されているため、山上の当地には何も残りません。
可成寺跡の案内板も朽ち果て、地面に転がっていますので見落としにはご注意…(^_^;)
可成寺跡まで来たら進行方向左側に注意していると、こちらの案内板が目に入ってきます。
ここから少し下った先に・・・
織田信長の休石
休石や可成寺跡は金山城の東の稜線(寺が峰)に位置し、休石の先からは勾配もきつくなって、ずっと下っていました。
休石の伝承が真実だとすると、信長は金山城に入る前に可成寺での可成の墓参を決め、寺が峰の急坂を登りきったところで一旦休憩した、といったことになるでしょうか。
翌日は高野(信長公記/旧神箆こうの村)の鶴ヶ城へ向かっていますが、まさか金山城を出発してすぐの地点で休憩するとも思えませんし…(笑)
この岩に腰掛けた信長・・・その時、彼の目にはどのような光景が映っていたのでしょうか。
さて、下山後は麓に建つ現在の可成寺へ。
慶長5年(1600)、森忠政(可成6男)が川中島の海津城へ移封されると金山城は廃城となり、可成寺も寺が峰からこちらへ移されました。
長可愛用の脛当を収蔵しているようです。
森家墓所
左から長可、可成、可行(可成父)、可隆(可成長男。元亀元年の手筒山攻めで戦死)
こちらは本能寺の変で信長に殉じた乱(中央/可成3男)、坊(左/同4男)、力(右/同5男)
森家では次男の長可も、天正12年(1584)の小牧長久手合戦で討死を遂げています。
・・・群生するシャガの花が墓所を囲むように咲き誇り、とても綺麗でした。
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