実相寺、正法寺、幡頭神社
GW旅、ラストは太田輝夫先生の著書「桶狭間合戦 奇襲の真実」で読んで以来、ずっと気になっていたエピソードを確かめるため、三州吉良の地へ向かいました。

吉良西条の実相寺(西尾市上町下屋敷)
文永8年(1271)、吉良氏の菩提寺として吉良満氏が創建。三河国の初代安国寺として壮大な伽藍を誇りました。
ちなみに満氏の弟・国氏が駿河今川氏の始祖となっています。
やがて吉良西条が今川氏の勢力下に入ると、天文15年(1546…諸説あり)には今川家の軍師として名高い雪斎が住職に就いています。
実はこちらの実相寺、永禄3年(1560)5月5日のまさに桶狭間合戦の直前に、織田信長による焼き討ちに遭っているのです。(「岡崎領主古記」等)
※注:実相寺発行の沿革には「桶狭間の翌年」とある。
この焼き討ちについて、「西尾町史」は;
「一説に当時実相寺には多数の僧兵居りしが信長之を以て今川の残党なりとして攻めたりと」
としています。
(「桶狭間合戦 奇襲の真実」より引用)
タイミングから判断するに、今川義元出陣の報を掴んだ信長は、かつて雪斎(弘治元年=1555年に長慶寺にて死去)が住職を務めていたこともある実相寺を今川氏の前線拠点とみなし、これに先制攻撃を加えたものか・・・。

永禄2年創建の釈迦堂
焼き討ちで荒廃した実相寺再興のため、天正4年(1576)に鳥居元忠が寄進したものです。

方丈
こちらは慶長8年(1603)の再建。

八葉宝鐸型梵鐘
南北朝期の作。竜頭は和様の双頭形で、八稜形の口縁には中国式の形状が見られることから、和漢混淆式梵鐘とも呼ばれています。
ところで吉良にはもう一つ、信長と義元に関連して興味深い逸話が残されています。
実相寺の焼き討ち、そして桶狭間合戦より遡ること2ヶ月の永禄3年3月、今川義元は三河を巡視して乙川(吉良町)の正法寺に滞在しています。
やはり知多にいた信長は、義元の三河滞在を知るや舟を仕立て、乙川の沖合にある梶島まで押し寄せてきました。
正法寺住職の誘いで宮崎海岸での舟遊びに興じ、なまこ取りを見物していた義元は信長勢の接近に驚き、岬の高台にある幡頭神社に逃げ込みますが、信長が強襲を諦めて梶島から引き返したので難を逃れました。
この義元の三河巡視~信長の強襲未遂に関するエピソードは、地元の社家に残る旧記に伝えられるものとして「吉良町誌」に掲載され、「桶狭間合戦 奇襲の真実」の中でも取り上げられています。

義元が滞在していたと云う正法寺
永禄3年の3月という時期からして、やはり同年5月に予定している尾張進攻に向けた準備活動の一環だったのでしょうか。
※門前に建っているのは、明治22年と昭和28年の高潮被害に関する標柱です。

薬師堂拝殿
宝永3年(1706)の建立で、西尾市の文化財に指定されています。
現地にあった説明板によると、正法寺には義元の朱印状(禁制、もしくは安堵状か)も残されているようです。(正法寺文書)
・・・義元と正法寺の繋がりは確認できました。

正法寺(の隣り)には古墳も(正法寺古墳)。
古墳公園に建つ、写真奥にチラッと見えている祠は陣屋稲荷・・・江戸時代、この地を治めた吉良氏(元禄赤穂事件で有名な高家)の陣屋の鎮守だったようです。

こちらは、信長勢の接近を知った義元が逃げ込んだと云う幡頭神社。
大宝2年(702)の創建という古い歴史を誇ります。

本殿は天正8年(1580)の建立で、国の重要文化財。
両サイドはそれぞれ神明社と熊野社の本殿で、やはり天正期の建立と推定されています。いずれも愛知県指定文化財。
幡頭神社の説明板にも「足利尊氏、そして今川義元も参拝したと伝わる」とありました。
義元がこの地まで足を運んだとすると、それはやはり、3月であれ5月(桶狭間への出陣時)であれ、永禄3年のことであった可能性が高いだろうと思います。

幡頭神社境内から見る梶島。

義元強襲を諦めた信長が、舟の舵を切り直して知多へと引き返したことから、「梶島」の名で呼ばれるようになったとも伝えられています。
当時の海岸線はもっと手前側に入り込んでいたでしょうが、舟遊びをしていた義元からすれば、まさに目と鼻の先・・・相当に慌てたことでしょうね。
この乙川~梶島での1件が、2ヶ月後の実相寺焼き討ちに繋がったのかもしれません。
ここで取り上げた一連のエピソードは、1次史料では一切確認できず、事の真偽は定かではありません。
が、実際に訪れた関係各所で着実に義元、或いは信長の痕跡を確かめられた点は大きな収穫で、手応えを得ることができました。
さて、これにて2017年のGW旅も全行程を終了です。最後は名古屋まで送っていただいて解散しました。
お蔭さまで今回も、事前の想定を超える成果の詰まったいい旅になりました。ありがとうございました。

吉良西条の実相寺(西尾市上町下屋敷)
文永8年(1271)、吉良氏の菩提寺として吉良満氏が創建。三河国の初代安国寺として壮大な伽藍を誇りました。
ちなみに満氏の弟・国氏が駿河今川氏の始祖となっています。
やがて吉良西条が今川氏の勢力下に入ると、天文15年(1546…諸説あり)には今川家の軍師として名高い雪斎が住職に就いています。
実はこちらの実相寺、永禄3年(1560)5月5日のまさに桶狭間合戦の直前に、織田信長による焼き討ちに遭っているのです。(「岡崎領主古記」等)
※注:実相寺発行の沿革には「桶狭間の翌年」とある。
この焼き討ちについて、「西尾町史」は;
「一説に当時実相寺には多数の僧兵居りしが信長之を以て今川の残党なりとして攻めたりと」
としています。
(「桶狭間合戦 奇襲の真実」より引用)
タイミングから判断するに、今川義元出陣の報を掴んだ信長は、かつて雪斎(弘治元年=1555年に長慶寺にて死去)が住職を務めていたこともある実相寺を今川氏の前線拠点とみなし、これに先制攻撃を加えたものか・・・。

永禄2年創建の釈迦堂
焼き討ちで荒廃した実相寺再興のため、天正4年(1576)に鳥居元忠が寄進したものです。

方丈
こちらは慶長8年(1603)の再建。

八葉宝鐸型梵鐘
南北朝期の作。竜頭は和様の双頭形で、八稜形の口縁には中国式の形状が見られることから、和漢混淆式梵鐘とも呼ばれています。
ところで吉良にはもう一つ、信長と義元に関連して興味深い逸話が残されています。
実相寺の焼き討ち、そして桶狭間合戦より遡ること2ヶ月の永禄3年3月、今川義元は三河を巡視して乙川(吉良町)の正法寺に滞在しています。
やはり知多にいた信長は、義元の三河滞在を知るや舟を仕立て、乙川の沖合にある梶島まで押し寄せてきました。
正法寺住職の誘いで宮崎海岸での舟遊びに興じ、なまこ取りを見物していた義元は信長勢の接近に驚き、岬の高台にある幡頭神社に逃げ込みますが、信長が強襲を諦めて梶島から引き返したので難を逃れました。
この義元の三河巡視~信長の強襲未遂に関するエピソードは、地元の社家に残る旧記に伝えられるものとして「吉良町誌」に掲載され、「桶狭間合戦 奇襲の真実」の中でも取り上げられています。

義元が滞在していたと云う正法寺
永禄3年の3月という時期からして、やはり同年5月に予定している尾張進攻に向けた準備活動の一環だったのでしょうか。
※門前に建っているのは、明治22年と昭和28年の高潮被害に関する標柱です。

薬師堂拝殿
宝永3年(1706)の建立で、西尾市の文化財に指定されています。
現地にあった説明板によると、正法寺には義元の朱印状(禁制、もしくは安堵状か)も残されているようです。(正法寺文書)
・・・義元と正法寺の繋がりは確認できました。

正法寺(の隣り)には古墳も(正法寺古墳)。
古墳公園に建つ、写真奥にチラッと見えている祠は陣屋稲荷・・・江戸時代、この地を治めた吉良氏(元禄赤穂事件で有名な高家)の陣屋の鎮守だったようです。

こちらは、信長勢の接近を知った義元が逃げ込んだと云う幡頭神社。
大宝2年(702)の創建という古い歴史を誇ります。

本殿は天正8年(1580)の建立で、国の重要文化財。
両サイドはそれぞれ神明社と熊野社の本殿で、やはり天正期の建立と推定されています。いずれも愛知県指定文化財。
幡頭神社の説明板にも「足利尊氏、そして今川義元も参拝したと伝わる」とありました。
義元がこの地まで足を運んだとすると、それはやはり、3月であれ5月(桶狭間への出陣時)であれ、永禄3年のことであった可能性が高いだろうと思います。

幡頭神社境内から見る梶島。

義元強襲を諦めた信長が、舟の舵を切り直して知多へと引き返したことから、「梶島」の名で呼ばれるようになったとも伝えられています。
当時の海岸線はもっと手前側に入り込んでいたでしょうが、舟遊びをしていた義元からすれば、まさに目と鼻の先・・・相当に慌てたことでしょうね。
この乙川~梶島での1件が、2ヶ月後の実相寺焼き討ちに繋がったのかもしれません。
ここで取り上げた一連のエピソードは、1次史料では一切確認できず、事の真偽は定かではありません。
が、実際に訪れた関係各所で着実に義元、或いは信長の痕跡を確かめられた点は大きな収穫で、手応えを得ることができました。
さて、これにて2017年のGW旅も全行程を終了です。最後は名古屋まで送っていただいて解散しました。
お蔭さまで今回も、事前の想定を超える成果の詰まったいい旅になりました。ありがとうございました。
| 固定リンク
「織田信長・信長公記」カテゴリの記事
- 池田近道(姫街道)(2020.12.10)
- 当目の虚空蔵菩薩(2020.11.11)
- 花沢城、花沢の里(2020.11.10)
- 特別展「桃山―天下人の100年」拝観(2020.10.24)
- 泰巖歴史美術館(2020.03.30)
コメント