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2017年5月11日 (木)

呂久の渡し(中山道)

美濃金山城や可成寺を訪問した後は、一気に瑞穂市と大垣市の境界付近まで移動。
中山道が揖斐川を越える呂久の渡しを目指します。

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小簾紅園

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小簾紅園に建つ和宮の歌碑

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幕末の公武合体政策により、徳川14代将軍・家茂に嫁すことになった皇女和宮。
和宮降嫁の行列は中山道を進み、呂久の渡しを御座船で越えた際、彼女は綺麗に紅葉した楓を目にし、
おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
と詠みました。
小簾紅園は、この折の渡河を記念して築かれたものです。

江戸期に入って五街道の一つとして整備された中山道ですが、この付近では岐阜や安土を本拠とした織田信長により、赤坂-呂久-美江寺-河渡-加納というルートが整備されていました。
そのため、呂久の渡しも「信長公記」に登場します。

三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。其の日、江州の内、柏原上菩提院に御泊り。翌日、仁科五郎が頸もたせ参り侯を、ろくの渡りにて御覧じ、岐阜へ持たせられ、長良の河原に懸け置かれ、上下見物仕り侯。
(信長公記 巻十五「信長公御乱入の事」より抜粋)

天正10年(1582)3月5日、甲州征伐に向かう織田信長は、呂久の渡しで届けられた仁科盛信の首を実検しています。
また、甲州からの帰路にはやはり呂久の渡しを、稲葉一鉄が用意した御座船で渡りました。
・・・つまり、私が呂久の渡しを訪れた動機もこれ(笑)

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小簾紅園の隅、旧中山道沿いに佇む地蔵堂。

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旧中山道

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明治天皇御小休所跡の石碑が建つ建物。

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小簾紅園から中山道を伝い、東の方角へ進むと揖斐川が姿を現します。
私も初めは、この辺りが呂久の渡し跡だと思っていました。
ところが、小簾紅園に設置されている説明板をよく見てみると・・・

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揖斐川は大正14年の新川付替工事により、付近の流路が大幅に変えられていました
当時の揖斐川は、小簾紅園の西側を流れていたようです。

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小簾紅園から旧中山道を西へ向かい、その先から振り返った様子。
遠くの窪んだ地形が、揖斐川の名残を伝えてくれるかのようです。

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更に西へ進み、小簾紅園にあった地図で旧揖斐川の対岸付近に該当すると思われる地点まで来ると、平野井川という用水の川に当たり、ここが瑞穂市と大垣市との市境になっていました。

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平野井川の畔にはお地蔵さんも。
まるで小簾紅園にあった地蔵堂と対になっているかのようです。
この両地蔵の間が、旧揖斐川流域とその河川敷だったのではないかと思います。現在の揖斐川ではなく、この付近が市境になっていることも、それを暗示しているような気がします。

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平野井川脇の土手には、中山道の古い道標も。

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その道標から旧揖斐川、即ち呂久の渡し跡を眺め渡す。
織田信長が仁科盛信の首を実検し、帰路には稲葉一鉄の用意した御座船で渡河した地。

手元に資料が乏しく、旧揖斐川の流路などの位置関係については多分に推量を多く含む内容となっていることはご容赦ください。

すっかり日も暮れてきたところで、初日の行程はおしまい。
夜は勿論、岐阜駅前で盛り上がりましたとさ☆

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