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2017年5月13日 (土)

本證寺、安祥城、小豆坂古戦場

GW旅3日目…最終日。
この日は愛知県東部、三河地方をめぐります。

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まずは三河一向一揆の拠点にもなった、安城市野寺の本證寺から。
鎌倉時代後期の創建で、室町期に真宗本願寺派に転じています。

三河一向一揆
永禄6年(1563)、「守護不入」の特権(寺内の治外法権と租税免除)を主張する一向宗寺院は、本證寺10世・空誓(蓮如孫)が中心となって蜂起し、特権を排除して三河の支配強化を図る徳川家康と争いました。
翌永禄7年、一揆勢は小豆坂・馬頭原での戦いに敗れて家康と和議を結びますが、家康からの改宗命令を拒否したために追放され、伽藍は破却、一向宗の信仰も禁じられました。
三河に於いて一向宗が赦免されるのは、約20年後のこと(天正11年に信仰が再び認められ、同13年には家康の黒印状で道場屋敷の保証と寺内の租税免除が認められている)。
以降、江戸期には東本願寺(大谷)派に属して三河の触頭として栄え、幕末には末寺200以上を有するまでになっています。

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本堂は寛文3年(1663)の再建。

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本證寺には往時、内外二重の堀が厳重に廻らされていました。
濃い緑色の部分が、現在もその姿を留めている箇所になります。

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本證寺に現存する堀と土塁(内堀)
通常は公開されていませんが、ご住職にお伺いすると許可していただいたばかりか、ご案内までしてくださいました。

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それにしても見事な土塁。

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続いて外堀の探索へ。
こちらは東面の外堀の一部。

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外堀から山門(奥に本堂)までの距離感。
この内側がいわゆる「寺内」「寺内町」となります。

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北面にごく一部だけ現存する外堀。

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先にご案内いただいた内堀の土塁は、境内外側からも見ることができます。

一度拝見してみたかった本證寺の遺構・・・念願叶って感謝。

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続いて安祥城へ。
安祥城は安祥松平氏(徳川家康の家系)の拠点だった城。
安祥松平氏は4代・清康の時に、本拠を岡崎へ移しました。
城跡一帯は現在、「安祥文化のさと」として整備され、歴史博物館を初めとする様々な施設が併設されています。

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その歴史博物館では常設展の他、こちらの企画展も見学しました。
今川義元の感状や、この直前に訪れていた本證寺の御本尊なども展示されていました。

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館内に設置されていた松平清康像。

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続いて安祥城本丸跡へ。
現在は大乗寺の境内となっています。

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天正12年の小牧長久手合戦時にも利用され、改修の手が加えられているようです。

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安祥城本丸

清康の死後(天文4年「守山崩れ」)、同族間の争いで混乱する三河を狙って東からは今川が、そして西からは織田信秀が触手を伸ばしてきます。
天文9年(1540)には信秀が安祥城を攻略し、長子の信広を据えています。(※天文16年など諸説あり)
小豆坂での戦いを経た同18年(1549)、今度は今川方の雪斎が安祥城を奪還し、松平広忠死後の岡崎にも城代を派遣して今川家による三河の支配体制を確立しました。
今川家による三河の実効支配はその後、桶狭間での義元討死(1560)~松平元康(徳川家康)の独立まで続くことになります。

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安祥城本丸脇に建つ、本多忠高(徳川四天王・本多忠勝父)の墓碑。
天文18年の安祥城攻めで今川方として奮戦し、本丸付近で戦死しています。
墓碑は寛政9年(1797)、250回忌で岡崎城主の本多忠顯が忠高戦死の地に建立しました。

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お次は小豆坂古戦場へ。

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小豆坂古戦場碑

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血洗池跡の碑
これらの石碑はいずれも、付近の関連地から一ヶ所に集められたものです。

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天文11年(1542)にあったとされる第1次小豆坂合戦で奮戦した織田方の七将が、槍を立てて休憩したと伝わる鎗立松の碑。

天文9年に安祥城を手に入れ、三河進出を目論む織田信秀と、それを阻止せんと正田原(信長公記)に押し寄せた今川勢との間で、天文11年8月に勃発したと云われる第1次小豆坂合戦
しかし、この合戦は1次史料では「信長公記」にしか見られず、しかも「公記」には年次が示されていません。天文11年としているのも「甫庵信長記」など、後世の創作物のみです。
近年では、今川の勢力が天文11年の段階では未だ西三河に及んでいるとは思われず信秀の安祥城奪取を天文16年と匂わす文書(織田信秀宛北条氏康書状)が存在することもあって、戦いそのものの存在を疑問視する見方が強まっています。
なお、天文17年(1548)3月第2次合戦は、今川義元の感状も残っているので間違いのないところでしょう。

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先ほどの石碑群とは少し離れた場所にある、小豆坂戦没者英霊記念碑。
そして・・・

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江戸時代の古絵図を元にアタリをつけた、正田原(付近の県道48号沿いに「正田城跡」あり)を駆け下る小豆坂の旧道
今となってはなだらかになっていますが、坂下には「陣場」(岡崎市羽根町陣場)という地名も残っており、この付近で合戦が行われたことを暗に示しているかのようでもあります。
また、その更に西方には天文17年の合戦(第2次)で、織田方が布陣したと云う「上和田」の地名もあります。

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小豆坂の旧道は県道26号線との角に建つ、こちらのモニュメントが目印です。
(「不吹町北」交差点)

天文17年の合戦は今川の勝利に帰し、敗れた織田勢は安祥城へ撤退します。
翌天文18年、岡崎の松平広忠が家臣に刺殺され、更に安祥城を今川に奪われて西三河での拠点を失った織田信秀は、安祥城で生捕られた信広と、広忠の遺児・竹千代との人質交換に応じざるを得なくなり、三河は完全に今川の勢力下に布かれるようになりました。

なお永禄7年(1564)には、前年から三河一向一揆との戦いを強いられていた徳川家康が、この小豆坂、及び馬頭原での一揆勢との決戦に勝利して和議に持ち込み、最終的に一揆の解体に成功しています。

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