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2017年5月13日 (土)

末森城、桃巌寺

小牧城下町の惣堀探しの後は、名古屋市内へ移動。

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桃巌寺
信長の父・織田信秀の菩提寺(の一つ)で、信秀晩年の居城・末森城を継承した次男・信勝が創建しました。
寺名は信秀の戒名「桃巌道見大禅定門」から採られています。

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現在の境内地は正徳4年(1714)に移転されたものです。
創建当初は城山(末森城)南麓の、穂波町付近にあったようです。

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織田信秀廟所
こちらの五輪塔は、当地へ移転後に建立されたようです。

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こちらが移転前に祀られていた旧墓石。
寺の移転後も墓石は旧地に残されていましたが、昭和になって移設されています。
正面に「前備州太守桃巌道見大禅定門
左側面には「柴田修理勝家」の文字が見えました。
他に3基の小さな五輪塔もありました。

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桃巌寺といえば名古屋大仏・・・なのだそうです。

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続いて末森城跡へ。
織田信秀晩年の居城で、その没後は次男の信勝が継承しました。

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現在、末森城跡には城山八幡宮が鎮座していますが、当社は築城当時から城山の麓に祀られていたようです。
昭和11年に現在地へ遷座されました。

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神域前のこの付近が本丸跡で、拝殿や本殿が並ぶ神域は二の丸跡。
江戸期の古絵図によると、二の丸には丸馬出まであったとのことですが・・・。

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実際に訪れてみて、とにかく驚いたのは横堀の規模
本丸、及び二の丸をグルッと取り巻くように深く、幅広な堀が穿たれています。

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前方に写る同行者との対比からも、その規模を推し量れようというもの。

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名古屋市内にこれほどの遺構が残っていたのか・・・とにかく驚きです。

それと同時に、ふと疑問も持ち上がりました。
織田信長は小牧山にも岐阜にも、そして安土にも山腹には横堀を一切用いていません
末森城は信長の城ではなかったとはいえ、当然その縄張や構造は見知っていたはずです。知った上で、このような横堀は無用と考えたのでしょうか・・・?

末森城に残る横堀遺構の規模や雰囲気には、後に徳川家康が小牧山に築かせたものと通じるものがあるようにも思えます。
末森城の二の丸にあったとされる丸馬出にも、年代的・地域的な観点から違和感を覚えるし、そう考えていくと、この横堀は(丸馬出も)信秀・信勝時代の遺構ではなく、後の、例えば小牧長久手合戦などでの改修によるものと考えた方がいいように思えてきました。
※但し文献上では、末森城跡の小牧長久手時の再利用は確認されていないそうです。

いずれにしても想定外に素晴らしい遺構でした。

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末森城をあとにして、道三・信長の会見で有名な聖徳寺跡や・・・

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加賀野井城跡・・・

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「名人久太郎」こと、堀秀政生誕の地と伝わる上茜部城跡などに立ち寄りつつ、岐阜駅へ。
夜は同行者たちとの恒例、ギフナイト☆

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実はこの日は私の誕生日。
サプライズにプレゼントまでいただき、嬉しい1日になりました♪
・・・その分、翌朝がちょっと大変だったけど(笑)←

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