会津西街道 上三依~田島宿
先日、久しぶりに家族で温泉旅行に出かけました。
今回の宿泊先は芦ノ牧温泉。折角なのでその道すがら、慶応4年(1868)の戊辰戦争時、宇都宮で負傷した土方歳三が会津まで運ばれ、新政府軍と戦い続けた大鳥圭介らが往来した会津西街道を北上してみることにしました・・・完全に私の趣味→運転手特権(笑)
会津西街道
街道は古来、向かう先の地名にちなんで呼ばれることが多く、会津側からは「日光街道」、或いは「南通り」「南山通り」「下野街道」などとも呼ばれてきました。
江戸後期にもなると、会津藩では「下野街道」を公称としていたようですが、煩雑になるので当記事では「会津西街道」で統一します。
西那須野塩原ICから国道400号を経由し、上三依でほぼ旧会津西街道に沿って通る国道121号に合流。
121号を北上し始めてすぐ、この日最初の立ち寄りポイントは・・・
鶴が渕城址
ナラ入沢渓流釣りキャンプ場入口への分岐を過ぎてすぐ、左手に見える男鹿川に架かる小さな橋を渡った南側です。
鶴が渕城は永禄年間に、田島地頭職の流れを汲む長沼氏によって築かれました。
男鹿川左岸、国道121号の東にそびえる姥捨山の山上に築かれた曲輪群と、男鹿川右岸の山麓に築かれた角馬出・長塁とが残ります。
山麓の角馬出や長塁は、その規模や形状から長沼氏時代のものではなく、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直前、徳川家康の北進に備え、当時会津を領していた上杉氏が築いたものと考えられています。実際に直江兼続が実弟の大国実頼(田島鴫山城主)に対し、「鶴渕山」の防備を固めさせるように指示したことを窺わせる書状も残されています。
今回は山麓の角馬出と長塁のみ、サクッと観てまわります。
上写真の案内板を過ぎ、正面の角馬出への土橋上から右に目を向けると・・・
西へ向かって一直線に伸びる、見事な長塁が飛び込んできます。
笹藪が結構キツイですが、堀も土塁も非常に良好な状態で残っていました。
正面奥に見えるのは会津鬼怒川線の線路。更にその先にも長塁は続いているそうなのですが、さすがに独りで突き進む勇気がなく、今回はパス…(^_^;)
反対に左側(東)は、男鹿川の渓谷に向かって落とされているようです。
男鹿川の断崖縁に築かれた角馬出。
周囲を囲む土塁も残っています。
角馬出の南東隅だけ、土塁が切れていました。
この防塁を築いた段階に於いては、構造からしても角馬出(の付近)に街道を通していたことになるのでしょうか。
角馬出北西方向。
土塁が、眼前を横切る長塁の堀まで続いている様子がお分かりいただけるでしょうか。
角馬出のすぐ脇を流れる男鹿川。
とにかく水が綺麗で、美しい眺めでした。
鶴が渕城(防塁)址図面(しみず作)
今まで縄張図など描いたこともないので、稚拙な出来栄えですが・・・ざっくりとイメージをお伝えしたく、帰宅後に記憶を頼りにトライしてみました。描いたのはあくまで、自ら実際に観てまわった範囲のみです。
実尺と異なり、サイズなどはデフォルメされていることをお断りしておきます。
歴史は家康を小山で反転させて関ヶ原へと向かわせることになるので、実際にこの防塁が利用されることはありませんでしたが・・・実際にこうした山中で、400年以上も前の痕跡を目にすることができる喜びは、やはり無上のものです。
再び121号を北上します。
横川村の少し手前に残る、横川一里塚。
背後の山の斜面に「よばわり岩」と呼ばれる大岩があることから、「よばわりの岩の一里塚」とも呼ばれていました。
その大岩は生い茂る樹木に遮られ、辛うじて認識できる程度にしか見えませんでした。
会津藩横川関所跡と如意輪観音堂(江戸時代後期)
横川村は会津西街道の下野国最北の集落。会津藩の預かり地でもあり、会津藩が領内へ出入りする街道沿いに築いた関所の一つです。
清水伝左衛門の墓
文化10年(1813)、横川村で盆踊りが催された際、盆踊りに興じる人垣が関所の敷地内に立ち入ってしまいました。
「関所内で盆踊りとは不届き」との責めを負い、関守であった清水伝左衛門は切腹して果てたと云います。
横川宝篋印塔
推定戦国時代末期の作。
村の伝承から「三依」地名の起源にもなったと伝わる三依姫の供養塔とされています。
三依姫の詳細は分かっていませんが、下野国矢板の塩谷氏から、会津田島の地頭・長沼氏に嫁いだ姫のようです。
長沼氏は後に足利義満によって任を解かれ、その知行を没収されたため、姫も流浪の身となり、最期は横川で寂しく生涯を終えたと伝えられているそうです。
横川の町並
(慶応4年閏4月)四日、五十里を出立横川村に至り、松井、工藤、小笠原ならびに鈴木藩之助等と同宿す。
(大鳥圭介「南柯紀行」…以下引用同)
日光・今市を明け渡し、一旦田島へ向かうことにした大鳥圭介の旧幕府脱走陸軍は、ここ横川でも一泊しています。
この時に大鳥自身が泊まった家も、この写真の中にあるのでしょうか。
トンネルで下野と陸奥(会津)国境の山王峠を越え、少し下った先の旧会津西街道名残の砂利道と、山王茶屋跡地。
江戸期の茶屋は旧道左側の草むらや国道に掛かる辺りに位置し、戊辰戦争で焼かれた後、明治2年に旧道右側の写真奥(民家の建つ付近)に再建されました。
五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。
横川を出立した大鳥圭介は山王峠を越え、この地に建つ茶屋で会津藩の若年寄であった山川大蔵と出会っています。
大鳥、山川を評して曰く「性質怜悧」「余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。」
二人は田島まで同行して軍容を整えた後、今市奪還を期して共に新政府軍と戦うことになります。
奥会津博物館に移築保存されている、明治2年再建の山王茶屋。
茶屋とはいえ「乗り込み玄関」を備えた本陣形式の立派な建築です。
現在はお食事処として営業しており、我々もこちらでお昼をいただきました。
奥会津博物館には他にも、様々な歴史的日本家屋が保存されています。
写真は旧猪俣家住宅。奥会津地方に現存する最古の住宅遺構でもあります。
木地小屋
山に入った木地師たちの作業場兼住居です。
更に北上を続け、田島宿へ。
田島に置かれていた旧南会津郡役所。
「郡区町村編制法」の施行により、明治12年に会津郡から南会津郡が分割されて設置されました。明治18年落成~昭和45年移築保存。
田島宿の町並と、昭和9年創業の和泉屋旅館。
和泉屋旅館は一時、進駐軍の指定旅館になっていたこともあり、国の登録有形文化財に指定されています。
本日(五日)、糸沢、中食、夕方、田島に着き本陣に宿す。
大鳥らは田島に10日間ほど滞在して軍容を整えた後、今市奪還を期して再度、会津西街道を南下していくことになります。
※今市での攻防戦はコチラ。
※その後の小原沢の戦いはコチラ。
※足を負傷し、会津まで運ばれる土方歳三も、その道中に田島に宿陣しています。(島田魁「日記」)
鴫山城跡(愛宕山)登山口
家族連れなので、さすがに山城は行けませんが…(^_^;)
旧南会津郡役所も建つ福島県南会津合同庁舎の駐車場一角には、鴫山城の外郭土塁も。
さて、今回の会津西街道めぐりはここまで。
※この先の大内宿~会津に関しては、コチラを参照願います。
最後に塔のへつりにも立ち寄って・・・
芦ノ牧温泉の宿にチェックイン。
喜多方から祖母も合流し、久しぶりにのんびりと共に過ごしました。
今回の宿泊先は芦ノ牧温泉。折角なのでその道すがら、慶応4年(1868)の戊辰戦争時、宇都宮で負傷した土方歳三が会津まで運ばれ、新政府軍と戦い続けた大鳥圭介らが往来した会津西街道を北上してみることにしました・・・完全に私の趣味→運転手特権(笑)
会津西街道
街道は古来、向かう先の地名にちなんで呼ばれることが多く、会津側からは「日光街道」、或いは「南通り」「南山通り」「下野街道」などとも呼ばれてきました。
江戸後期にもなると、会津藩では「下野街道」を公称としていたようですが、煩雑になるので当記事では「会津西街道」で統一します。
西那須野塩原ICから国道400号を経由し、上三依でほぼ旧会津西街道に沿って通る国道121号に合流。
121号を北上し始めてすぐ、この日最初の立ち寄りポイントは・・・
鶴が渕城址
ナラ入沢渓流釣りキャンプ場入口への分岐を過ぎてすぐ、左手に見える男鹿川に架かる小さな橋を渡った南側です。
鶴が渕城は永禄年間に、田島地頭職の流れを汲む長沼氏によって築かれました。
男鹿川左岸、国道121号の東にそびえる姥捨山の山上に築かれた曲輪群と、男鹿川右岸の山麓に築かれた角馬出・長塁とが残ります。
山麓の角馬出や長塁は、その規模や形状から長沼氏時代のものではなく、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直前、徳川家康の北進に備え、当時会津を領していた上杉氏が築いたものと考えられています。実際に直江兼続が実弟の大国実頼(田島鴫山城主)に対し、「鶴渕山」の防備を固めさせるように指示したことを窺わせる書状も残されています。
今回は山麓の角馬出と長塁のみ、サクッと観てまわります。
上写真の案内板を過ぎ、正面の角馬出への土橋上から右に目を向けると・・・
西へ向かって一直線に伸びる、見事な長塁が飛び込んできます。
笹藪が結構キツイですが、堀も土塁も非常に良好な状態で残っていました。
正面奥に見えるのは会津鬼怒川線の線路。更にその先にも長塁は続いているそうなのですが、さすがに独りで突き進む勇気がなく、今回はパス…(^_^;)
反対に左側(東)は、男鹿川の渓谷に向かって落とされているようです。
男鹿川の断崖縁に築かれた角馬出。
周囲を囲む土塁も残っています。
角馬出の南東隅だけ、土塁が切れていました。
この防塁を築いた段階に於いては、構造からしても角馬出(の付近)に街道を通していたことになるのでしょうか。
角馬出北西方向。
土塁が、眼前を横切る長塁の堀まで続いている様子がお分かりいただけるでしょうか。
角馬出のすぐ脇を流れる男鹿川。
とにかく水が綺麗で、美しい眺めでした。
鶴が渕城(防塁)址図面(しみず作)
今まで縄張図など描いたこともないので、稚拙な出来栄えですが・・・ざっくりとイメージをお伝えしたく、帰宅後に記憶を頼りにトライしてみました。描いたのはあくまで、自ら実際に観てまわった範囲のみです。
実尺と異なり、サイズなどはデフォルメされていることをお断りしておきます。
歴史は家康を小山で反転させて関ヶ原へと向かわせることになるので、実際にこの防塁が利用されることはありませんでしたが・・・実際にこうした山中で、400年以上も前の痕跡を目にすることができる喜びは、やはり無上のものです。
再び121号を北上します。
横川村の少し手前に残る、横川一里塚。
背後の山の斜面に「よばわり岩」と呼ばれる大岩があることから、「よばわりの岩の一里塚」とも呼ばれていました。
その大岩は生い茂る樹木に遮られ、辛うじて認識できる程度にしか見えませんでした。
会津藩横川関所跡と如意輪観音堂(江戸時代後期)
横川村は会津西街道の下野国最北の集落。会津藩の預かり地でもあり、会津藩が領内へ出入りする街道沿いに築いた関所の一つです。
清水伝左衛門の墓
文化10年(1813)、横川村で盆踊りが催された際、盆踊りに興じる人垣が関所の敷地内に立ち入ってしまいました。
「関所内で盆踊りとは不届き」との責めを負い、関守であった清水伝左衛門は切腹して果てたと云います。
横川宝篋印塔
推定戦国時代末期の作。
村の伝承から「三依」地名の起源にもなったと伝わる三依姫の供養塔とされています。
三依姫の詳細は分かっていませんが、下野国矢板の塩谷氏から、会津田島の地頭・長沼氏に嫁いだ姫のようです。
長沼氏は後に足利義満によって任を解かれ、その知行を没収されたため、姫も流浪の身となり、最期は横川で寂しく生涯を終えたと伝えられているそうです。
横川の町並
(慶応4年閏4月)四日、五十里を出立横川村に至り、松井、工藤、小笠原ならびに鈴木藩之助等と同宿す。
(大鳥圭介「南柯紀行」…以下引用同)
日光・今市を明け渡し、一旦田島へ向かうことにした大鳥圭介の旧幕府脱走陸軍は、ここ横川でも一泊しています。
この時に大鳥自身が泊まった家も、この写真の中にあるのでしょうか。
トンネルで下野と陸奥(会津)国境の山王峠を越え、少し下った先の旧会津西街道名残の砂利道と、山王茶屋跡地。
江戸期の茶屋は旧道左側の草むらや国道に掛かる辺りに位置し、戊辰戦争で焼かれた後、明治2年に旧道右側の写真奥(民家の建つ付近)に再建されました。
五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。
横川を出立した大鳥圭介は山王峠を越え、この地に建つ茶屋で会津藩の若年寄であった山川大蔵と出会っています。
大鳥、山川を評して曰く「性質怜悧」「余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。」
二人は田島まで同行して軍容を整えた後、今市奪還を期して共に新政府軍と戦うことになります。
奥会津博物館に移築保存されている、明治2年再建の山王茶屋。
茶屋とはいえ「乗り込み玄関」を備えた本陣形式の立派な建築です。
現在はお食事処として営業しており、我々もこちらでお昼をいただきました。
奥会津博物館には他にも、様々な歴史的日本家屋が保存されています。
写真は旧猪俣家住宅。奥会津地方に現存する最古の住宅遺構でもあります。
木地小屋
山に入った木地師たちの作業場兼住居です。
更に北上を続け、田島宿へ。
田島に置かれていた旧南会津郡役所。
「郡区町村編制法」の施行により、明治12年に会津郡から南会津郡が分割されて設置されました。明治18年落成~昭和45年移築保存。
田島宿の町並と、昭和9年創業の和泉屋旅館。
和泉屋旅館は一時、進駐軍の指定旅館になっていたこともあり、国の登録有形文化財に指定されています。
本日(五日)、糸沢、中食、夕方、田島に着き本陣に宿す。
大鳥らは田島に10日間ほど滞在して軍容を整えた後、今市奪還を期して再度、会津西街道を南下していくことになります。
※今市での攻防戦はコチラ。
※その後の小原沢の戦いはコチラ。
※足を負傷し、会津まで運ばれる土方歳三も、その道中に田島に宿陣しています。(島田魁「日記」)
鴫山城跡(愛宕山)登山口
家族連れなので、さすがに山城は行けませんが…(^_^;)
旧南会津郡役所も建つ福島県南会津合同庁舎の駐車場一角には、鴫山城の外郭土塁も。
さて、今回の会津西街道めぐりはここまで。
※この先の大内宿~会津に関しては、コチラを参照願います。
最後に塔のへつりにも立ち寄って・・・
芦ノ牧温泉の宿にチェックイン。
喜多方から祖母も合流し、久しぶりにのんびりと共に過ごしました。
| 固定リンク
« 愛犬ボンの旅立ち。 | トップページ | 白河の関 »
「新選組・戊辰戦争」カテゴリの記事
- 土方歳三の遺髪(2024.04.01)
- 石田散薬 製造体験(2022.04.29)
- 扇町屋から飯能へ ~飯能戦争を辿る~(2022.01.06)
- 振武軍が宿営した箱根ヶ崎(2021.12.19)
- 近藤芳助が所持していた近藤・土方肖像写真(2021.11.23)
コメント