島津の退き口 (関ヶ原~多良)
夏の岐阜旅2017、2日め(7月17日)は島津の退き口です。
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦い。
合戦に敗れた西軍に属す島津義弘の軍勢は、東軍総大将・徳川家康本陣の鼻先を掠めるようにして敵中を突破、追撃する東軍諸隊と壮絶な退却戦を繰り広げつつ、伊勢街道を南下して戦場を離脱します。これがいわゆる島津の退き口。

という訳で、この日のスタートは関ヶ原古戦場、島津義弘陣跡から。

島津義弘陣跡から見る開戦地、小西行長陣跡、そして松尾山(小早川秀秋陣跡)。
まさに西軍の最前線ライン上ともいえる位置取りなのですが・・・島津隊は二番備えだったとも云われており、案内板によると実際にはもう少し後方に布陣していたようです。

島津隊の戦場離脱ルート。
家康本陣の脇を掠めるようにして伊勢街道へ向かっています。

なんとか家康本陣近くを通り抜け、伊勢街道へ出た先・・・烏頭坂。

烏頭坂に建つ島津豊久顕彰碑
義弘の甥(弟・家久息)である豊久は、大将の義弘を逃がすためにこの地に踏みとどまり、殿(しんがり)を務めて奮戦します。
これまで一般的に豊久は、烏頭坂での殿戦で義弘の身代わりとなって討死を遂げたとも伝えられてきましたが、一説には重傷を負いつつも家臣に守られ、多良(大垣市上石津町)の辺りまで逃れたという伝承も残っているようです。
今回は我々も、この伝承を追って更に南へ進んでみることにします。

移動中に見かけて立ち寄った木曽神社。
源頼朝の追討軍に敗れて戦死した源(木曽)義仲。
旧臣に守られ、この地に隠棲した息女・糸姫は義仲寺(後に宝聚院。義仲墓所あり)を建立して父の菩提を弔ったと云います。

近くには地蔵群の脇に、義仲を詠んだ松尾芭蕉の歌碑も建っていました。

大垣市上石津町牧田の琳光寺。

琳光寺境内に建つ阿多長寿院盛淳の墓所。
島津家の家老だった阿多長寿院盛淳は、本領蒲生の兵70を引き連れて義弘の元へ馳せ参じ、関ヶ原に参陣していました。
西軍の敗色が濃厚となって島津隊が戦場に孤立すると、主君・義弘は切腹しようとしますが、盛淳は豊久と共にこれを諫め、退却戦に移りました。
豊久の烏頭坂に続き、盛淳はここ牧田に踏みとどまって殿を務め、義弘の退却を見届けると拝領した陣羽織をまとって追いすがる東軍の中へ斬り込み、壮絶な討死を遂げました。

琳光寺近くには、盛淳の顕彰碑も建っていました。

ちょっとまた寄り道をして・・・西高木家陣屋の長屋門。

西高木家陣屋図

結構な規模を誇る石垣と、上屋敷跡へと続く坂(石段?)

埋門

井戸跡

私有地で立ち入れない箇所にも、石垣が覗いていました。

西高木家は2300石を領する旗本。
その家格に見合う規模なのかどうかは分かりませんが、それにしても立派な石垣に少々驚かされました。

西高木家陣屋跡には現在、上石津郷土資料館が建っています。

ちょうど島津豊久を主人公に描いたマンガの原画展が開催されていましたが、個人的には;
・織田信長の朱印状
・羽柴秀吉の書状(賤ヶ岳合戦直後、戦陣からのもの)
・徳川家康の書状
などの方に興味を惹かれました。

上石津町上多良の瑠璃光寺

瑠璃光寺は、重傷を負って多良まで逃れてきたと云う豊久の菩提寺になっています。
許可を得て、本堂にて豊久の御位牌にもお参りさせていただきました。
慶長五年庚子
嶋光院殿忠道源津大居士神儀
九月十五日
文字もかすれ、煤けたような黒漆地がまた、400年以上もの時の移ろいを醸しだしているようで感動いたしました。

瑠璃光寺近くの島津塚・・・豊久の墓所と伝わります。
烏頭坂での殿戦で重傷を負いながらも勝地峠を越え、多良まで辿り着いた豊久でしたが、受けた疵重く、これ以上は付き従う家臣らの足手まといになると考え、遂には近くの白拍子谷にて自害したと云います。

島津の退き口めぐり、ラストはその白拍子谷へ。

白拍子谷・・・島津豊久最期の地。
島津豊久や阿多盛淳らの奮戦もあり、無事に薩摩へと帰り着くことのできた島津義弘。
島津家では義弘帰還後も、豊久戦死の確報を掴めていなかったらしく、義弘はその後、3年もの長きに渡って家臣に豊久の消息を探らせたのだそうです。
※但し、そうなると豊久に付き従っていた家臣は誰一人、本国へ帰還できなかった(報告できなかった)ということにもなる訳で、であればそもそも豊久が烏頭坂から重傷を負いながらも、多良(白拍子谷)まで辿り着いたという伝承の信憑性は…?と疑問も湧いてきますが、この辺りはよくわからないので、あまり深く追及しないことにします。
この後は、解散前に海津市にある高須松平家の菩提寺・行基寺にも立ち寄りましたが、そちらは再訪の為、過去記事のリンクを貼っておきます。
→美濃高須
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦い。
合戦に敗れた西軍に属す島津義弘の軍勢は、東軍総大将・徳川家康本陣の鼻先を掠めるようにして敵中を突破、追撃する東軍諸隊と壮絶な退却戦を繰り広げつつ、伊勢街道を南下して戦場を離脱します。これがいわゆる島津の退き口。

という訳で、この日のスタートは関ヶ原古戦場、島津義弘陣跡から。

島津義弘陣跡から見る開戦地、小西行長陣跡、そして松尾山(小早川秀秋陣跡)。
まさに西軍の最前線ライン上ともいえる位置取りなのですが・・・島津隊は二番備えだったとも云われており、案内板によると実際にはもう少し後方に布陣していたようです。

島津隊の戦場離脱ルート。
家康本陣の脇を掠めるようにして伊勢街道へ向かっています。

なんとか家康本陣近くを通り抜け、伊勢街道へ出た先・・・烏頭坂。

烏頭坂に建つ島津豊久顕彰碑
義弘の甥(弟・家久息)である豊久は、大将の義弘を逃がすためにこの地に踏みとどまり、殿(しんがり)を務めて奮戦します。
これまで一般的に豊久は、烏頭坂での殿戦で義弘の身代わりとなって討死を遂げたとも伝えられてきましたが、一説には重傷を負いつつも家臣に守られ、多良(大垣市上石津町)の辺りまで逃れたという伝承も残っているようです。
今回は我々も、この伝承を追って更に南へ進んでみることにします。

移動中に見かけて立ち寄った木曽神社。
源頼朝の追討軍に敗れて戦死した源(木曽)義仲。
旧臣に守られ、この地に隠棲した息女・糸姫は義仲寺(後に宝聚院。義仲墓所あり)を建立して父の菩提を弔ったと云います。

近くには地蔵群の脇に、義仲を詠んだ松尾芭蕉の歌碑も建っていました。

大垣市上石津町牧田の琳光寺。

琳光寺境内に建つ阿多長寿院盛淳の墓所。
島津家の家老だった阿多長寿院盛淳は、本領蒲生の兵70を引き連れて義弘の元へ馳せ参じ、関ヶ原に参陣していました。
西軍の敗色が濃厚となって島津隊が戦場に孤立すると、主君・義弘は切腹しようとしますが、盛淳は豊久と共にこれを諫め、退却戦に移りました。
豊久の烏頭坂に続き、盛淳はここ牧田に踏みとどまって殿を務め、義弘の退却を見届けると拝領した陣羽織をまとって追いすがる東軍の中へ斬り込み、壮絶な討死を遂げました。

琳光寺近くには、盛淳の顕彰碑も建っていました。

ちょっとまた寄り道をして・・・西高木家陣屋の長屋門。

西高木家陣屋図

結構な規模を誇る石垣と、上屋敷跡へと続く坂(石段?)

埋門

井戸跡

私有地で立ち入れない箇所にも、石垣が覗いていました。

西高木家は2300石を領する旗本。
その家格に見合う規模なのかどうかは分かりませんが、それにしても立派な石垣に少々驚かされました。

西高木家陣屋跡には現在、上石津郷土資料館が建っています。

ちょうど島津豊久を主人公に描いたマンガの原画展が開催されていましたが、個人的には;
・織田信長の朱印状
・羽柴秀吉の書状(賤ヶ岳合戦直後、戦陣からのもの)
・徳川家康の書状
などの方に興味を惹かれました。

上石津町上多良の瑠璃光寺

瑠璃光寺は、重傷を負って多良まで逃れてきたと云う豊久の菩提寺になっています。
許可を得て、本堂にて豊久の御位牌にもお参りさせていただきました。
慶長五年庚子
嶋光院殿忠道源津大居士神儀
九月十五日
文字もかすれ、煤けたような黒漆地がまた、400年以上もの時の移ろいを醸しだしているようで感動いたしました。

瑠璃光寺近くの島津塚・・・豊久の墓所と伝わります。
烏頭坂での殿戦で重傷を負いながらも勝地峠を越え、多良まで辿り着いた豊久でしたが、受けた疵重く、これ以上は付き従う家臣らの足手まといになると考え、遂には近くの白拍子谷にて自害したと云います。

島津の退き口めぐり、ラストはその白拍子谷へ。

白拍子谷・・・島津豊久最期の地。
島津豊久や阿多盛淳らの奮戦もあり、無事に薩摩へと帰り着くことのできた島津義弘。
島津家では義弘帰還後も、豊久戦死の確報を掴めていなかったらしく、義弘はその後、3年もの長きに渡って家臣に豊久の消息を探らせたのだそうです。
※但し、そうなると豊久に付き従っていた家臣は誰一人、本国へ帰還できなかった(報告できなかった)ということにもなる訳で、であればそもそも豊久が烏頭坂から重傷を負いながらも、多良(白拍子谷)まで辿り着いたという伝承の信憑性は…?と疑問も湧いてきますが、この辺りはよくわからないので、あまり深く追及しないことにします。
この後は、解散前に海津市にある高須松平家の菩提寺・行基寺にも立ち寄りましたが、そちらは再訪の為、過去記事のリンクを貼っておきます。
→美濃高須
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