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2017年8月

2017年8月29日 (火)

凌雲寺、稲葉地城跡

旅のラストは名古屋へ移動、地下鉄「中村公園」駅から歩くこと20分ほどで・・・

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凌雲寺に到着。

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名古屋市教育委員会設置の案内板によると、凌雲寺は永正年間(1504~1521)に、稲葉地城主で織田信長の伯父でもある(津田)信光によって創建された、とありましたが・・・
信光の生年は永正13年(1516)と伝えられています。仮に凌雲寺の創建が永正年間の最終年にあたる永正18年だったとしても、信光は満年齢で5歳・・・ちょっと無理がないでしょうか?

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凌雲寺境内
凌雲寺には織田信長も幼少の頃、手習いに通ったと伝えられています。

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本堂の前には、信長が手習いの墨で真っ黒になった草紙を枝に掛けたと云う草紙掛けの松があります。
(一番背の高い木がそれかと・・・)

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その松の根元にあった石碑。
織田信長公掛草紙松…etc.

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また、墓地には凌雲寺開基「信光」の墓と伝わる宝篋印塔も。

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當寺開基津田豊後守法名
凌雲寺殿前豊州太守泰翁凌公大居士

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その裏には・・・
天文五年十一月廿八日没
津田玄蕃建之

・・・通説による信光の死没年は、信長と共に清須城を落とし、下四郡守護代・織田大和守家を滅ぼした直後の弘治元年11月26日(10月に天文24年より改元)。
天文5年はその19年も前に当たり、この宝篋印塔が本当に凌雲寺開基のお墓で、創建時期が伝承通り永正年間なのであれば、織田信長の伯父である信光と凌雲寺の開基を同一人物とするには、やはり無理があるように思えます。
年代からしても信光より少なくとも一世代は前の、誰か別の「津田」姓を名乗っていた人物、という可能性はないのでしょうか。
・・・お墓に関しては、単に建碑時点(江戸時代?)での歴史認識・年次比定の誤り、という可能性も拭えませんが。
(ちなみに「凌雲寺殿前豊州太守泰翁凌公大居士」を信光の戒名としているのは、江戸時代編纂の「尾張國誌」が元になっているようです)

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さて、凌雲寺の近くには神明社があり、織田信光の築城と伝えられる稲葉地城址の石碑が建っています。

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神明社境内

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本殿の脇にひっそりと建っていた石碑。
漢文調の碑文に「織田」や「津田」の文字も見えたのですが・・・後で解読しようと撮影した写真が見事に手ブレ・・・(´;ω;`)ウッ

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神明社のすぐ裏には、庄内川の堤防が眼前に迫っていました。
信長は幼い頃より、庄内川(当時は於多井川)で遊んでいたと云います。凌雲寺に手習いで通っていたのであれば、この付近でも遊んでいたかもしれないと思い、試しに登ってみましたが・・・堤防の上には大きな道路が走っており、庄内川の川面は見えませんでした。

また「信長公記」によると、天文21年(1552)の松葉・深田両城の攻防をめぐる萱津の戦いで信長は、那古野城を出て稲葉地の川端に着陣し、ここで件の信光と合流して合戦に臨んだ、とあります。
稲葉地の川端・・・まさに「信長公記」の記述にピッタリ一致する場所ですね。

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稲葉地城・・・お城としての痕跡はもはや皆無といったところですが、「城屋敷」という地名に僅かにその名残を留めている、と言えるでしょうか。

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2017年8月28日 (月)

「天下人の城」展

岐阜市歴史博物館を辞した後は岐阜タンメンを食しつつ南下し、名古屋市の徳川美術館へ。

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話題の天下人の城展を拝観してきました。
既に訪問された方も多く、応援ブログ等でもたくさん取り上げられているので詳細は省きますが、こちらで私が個人的に魅かれたのは;

脇差 銘吉光・亀王丸 号 蜘蛛切丸(熱田神宮)
刀 名物 義元左文字(建勲神社)
織田信長永禄3年に熱田社へ奉納した(「張州雑志」)と伝わり、桶狭間合戦の戦勝祈願に奉納したとも云われる蜘蛛切丸。それが、その桶狭間の勝利で手にした義元左文字と並べて展示されている姿には、やはり特別な感慨が湧いてきました。
※ちなみに義元左文字は3度目の拝観になるのですが、今回も茎の金象嵌は「義元討取刻・・・」の側を向けて展示されており、「織田尾張守信長」を観ることは叶いませんでした。

唐物茶壺 銘松花
唐物茶壺 銘金花
信長・秀吉・家康の歴代天下人が所持した大名物。
「信長公記」にも;

せうくわの壷・きんくわの壺とて、隠れなき名物参り、御機嫌斜ならず。
(信長公記 巻九「安土の御普請首尾仕るの事」)

とその名が登場します。
過去にもそれぞれを個別に拝観したことはありましたが、今回はその2つが同時に並べて展示されており、とても感動的でした。

脇差 無銘あざ丸
千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後にさゝれたり。此の刀、陰山掃部助求めさし候て、
~中略~
陰山掃部助左のまなこにあたる。其の矢を抜き侯へば、又、二の矢に右の眼を射つぶす。其の後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来たり、五郎左衛門眼病頻に相煩ふ此の刀所持の人は必ず日を煩ふの由風聞侯。熱田へまいらせられ然るべしと、皆、人毎に異見侯。これにより、熱田大明神へ進納侯てより、即時に日もよく罷り成り侯なり
(信長公記 首巻「景清あざ丸刀の事」)

これまた、「信長公記」に登場する脇差。熱田神宮に奉納された経緯もはっきりしており、曰くありげなエピソードが更に特別な魅力を加えているかのようです。

織田信長書状 おね宛
こちらも3度目くらいの拝観になりますが、最も好きな信長文書の一つでもあります。
参照記事

真田信繁自筆書状 小山田壱岐守(茂誠)宛 (慶長20年)二月八日
「歯も抜け、髭にも黒いところはなく、白い髭ばかりになった」と、老いへの嘆き?を綴った有名な書状ですね。
平成28年に再発見されたばかりの自筆文書です。


■以下、自らの拝観記録のために列挙。

・小豆坂合戦ノ図
・斎藤道三書状 織田玄蕃允宛 天文22年頃
・今川義元木像 正徳4年 長福寺(名古屋市)
・松井宗信木像 嘉永2年 長福寺(名古屋市)
・今川義元旧位牌 長福寺(名古屋市)
・桶狭間合戦戦死者位牌 二基 長福寺(名古屋市)
・桶狭間合戦討死者書上 長福寺(名古屋市)
※信長勢の戦死者の中に「近江国佐々木方」が含まれており、近江六角氏からの援兵があったことを匂わせる史料。
公開されるのは初めてかもしれませんが、その存在については既に数年前には指摘されており、私も桶狭間を訪問した折などに耳にしておりました。

・尾州知多郡大高内鷲津丸根古城図
・織田信長書状 沢源三郎宛 天正弐十一月廿四日
※平成29年新発見の鷹匠宛。
・脇差 銘吉光 名物 鯰尾藤四郎
・純金天目 伝豊臣秀吉所用
※単純な全面純金製ではなく、金の釉を垂らして景色を作っているところに興味を惹かれました。
・真珠付純金団扇 伝豊臣秀吉所用
・金箔押木瓜紋飾り瓦 清州城下町遺跡出土金箔瓦の内

さすがに話題になっているだけあって、充実の展示構成・内容でした。

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2017年8月27日 (日)

「Gifu信長」展(後期)

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7月にも訪れた岐阜市歴史博物館のGifu信長展

再訪の一番の目的は、8月11~20日の期間限定で公開された、
織田信長像(狩野元秀筆/天正11年) 長興寺蔵
を拝観すること。歴史の教科書などにも必ず掲載されている、信長といえば誰もが真っ先にイメージする有名な肖像画ですね。
割と最近になって修復されたようで、色彩はとても鮮やかでした。
日曜日とはいえさほどの混雑もなく、お蔭で白い小袖の薄っすらとした文様や刀に差し込まれた金の笄まで、具にゆっくりと観察することができました。

それ以外で興味を惹かれたものといえば、何といっても;
織田信長制札 楽市場宛 永禄10年10月日 円徳寺
織田信長制札 加納宛 永禄11年9月日 円徳寺
の二つの制札(木札)ですね。
永禄10年の楽市場宛のものは全体的に日焼けによる傷みが目立ち、裏には立て札として掲げられていた際の木の棒の痕がクッキリと残り、それに沿って縦に釘穴も2ヶ所ありました。
それに対して永禄11年の加納宛の方は、文字がクッキリと見て取れるほどに保存状態も良く、裏にも棒の痕はなく、真ん中の上寄りに横並びで2つ、小さな穴が開いていました。
永禄11年版は町の往来ではなく、どこか屋内に紐で吊るしていたのかもしれないな、などと考えました。

信長が美濃を制圧したばかりの永禄10年段階では、戦火によって荒廃した市場(町)の復興を企図して楽市楽座を打ち出し、往来に掲げて人々を呼び寄せ、1年を経た永禄11年にはある程度の復興も成って町が形成され、制札をあえて往来に掲げておく必要性も薄れてきたために屋内で保管したのではないか、との説もあるようです。
この辺りに、制札の宛名が「楽市場」→「加納」に変化した理由も潜んでいそうですね。


■以下は私自身の拝観記録のための羅列です。
冗長になってしまうので、詳細は省きます。

・織田信長像 總見寺(名古屋市)
・足利義昭御内書 上杉輝虎宛 (永禄11年)7月12日
・武田信玄(晴信)像 高野山持明院
・織田信長書状 直江景綱宛 (永禄12年)2月10日
・織田信長書状 直江景綱宛 (永禄12年)4月7日
※以上2点、駿河へ侵攻したものの北条家との対立に至って窮した武田信玄が、足利義昭・織田信長へ斡旋を依頼した「甲越和与」へ向けた、信長と上杉方の交渉経過。
・織田信長書状 上杉謙信宛 (元亀2年)9月25日
・太刀 銘長光 名物 津田遠江長光

全体的に、7月に訪問した前期よりも後期の方がより楽しめました。

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2017年8月26日 (土)

旧中山道 加納~関ケ原(加納城、赤坂御茶屋屋敷、他)

8月19~21日にかけ、またまた岐阜にお邪魔してきました。まだ8月だというのに、今年に入って早くも5度目(笑)
今回の一番の目的は、岐阜市歴史博物館で期間限定(8/11~20)で公開された織田信長の肖像画(長興寺蔵)を拝観すること。
19日は仕事の都合で岐阜入りが遅れたので実質移動日として、20日の朝、いつもお世話になっているゆっきーと合流し、岐阜市歴史博物館の前にまずは関ケ原にある不破関資料館へ行ってみることになりました。
その道すがら、まだ未訪だったので加納城跡にも立ち寄ってもらいました。

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加納城は慶長6年(1601)、その前年に起きた関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城が落城した後、この地に封じられた奥平信昌によって築かれました。
現在では本丸、及び二の丸のごく一部が僅かにその痕跡を留めています。

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加納城本丸、その南側の石垣。

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同じく本丸南側の堀跡。

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本丸の曲輪内はかなり広い空間になっていました。
写真中央、北西角には天守台があったようです。

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本丸北側の石垣。
時期が時期だけに、雑草で見えづらいけど…(^_^;)

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本丸東面には、出枡状に突き出た枡形虎口も。
従来はこの突当りで左へ折れ、二の丸へのルートが続いていました。

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枡形の先、本丸と二の丸間の堀跡(空地部分)
発掘調査の結果、この堀は障子堀になっていたことが判明しているそうです。
テニスコートの辺りからが二の丸跡と思われます・・・若干高くなって高低差も残っていますね。

さて、それでは関ヶ原へ向けて再出発します。
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加納城跡のすぐ北側には旧中山道が通っています。
中山道は当然関ヶ原へ続いていますので、我々もそれを車でなぞるように進むことにしました。

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河渡の渡しで長良川を越えて・・・

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美江寺宿

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美江寺宿跡付近には、旧中山道の宿場名を刻んだ石柱が立ち並ぶ広場がありました。
加納、美江寺、垂井に、、、

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遊歩道を挟んだ対面には河渡、赤坂、関ヶ原、、、
左右の石柱を交互に読んでいくと、旧中山道の宿場町の並びになるようです。

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舩場ヲ径テ太田町と刻まれた道標。
平成27年、とある民家の敷地から発見されたそうです。
その家主によると、家主の父親が50年ほど前、可茂地域の道路工事現場から運んできた土砂に紛れ込んでいたようですが、その工事現場の位置については、残念ながら今となっては不明なのだそうです。

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引き続き旧中山道を進みます。
先日訪れた呂久の渡し(参照記事)で揖斐川を越え、写真の場所では道路を農道側へ渡ってすぐに右折します。すると・・・

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こんな路地に入りますが、これも旧中山道。

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しばらく進んで杭瀬川を越えると・・・

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赤坂宿へ至ります。
ここでもう一ヶ所、立ち寄りポイントへ。

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赤坂御茶屋屋敷跡
江戸~京往還のために設置された徳川将軍専用の宿泊・休憩施設で、慶長10年(1605)の完成。徳川家康や秀忠らが利用しました。

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一歩足を踏み入れると・・・いきなり趣のある土塁が出迎えてくれました。
奥には井戸跡も。

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この土塁を越えた先には・・・

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横堀がハッキリと残っていました。
こちらもいい感じです。

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なお、御茶屋屋敷跡の敷地は現在、「赤坂ボタン園」として開放されています・・・時期じゃないけど。
駐車場も完備。

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赤坂宿御使者場跡
右奥は、関ヶ原の戦い前日に起きた杭瀬川の戦いで戦死した野一色頼母を葬ったと云う兜塚

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兜塚の碑
野一色頼母(助義)は東軍・中村一氏の家老でした。

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赤坂宿を過ぎると、程なくして関ヶ原に至ります。
写真は関ヶ原の戦いで、徳川家康が最初に陣を布いたと伝わる桃配山の麓を通る旧中山道の松並木

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ゴールの不破関資料館。
不破関や壬申の乱について簡単に勉強させていただきましたが、いずれちゃんと調べた上で、関跡や壬申の乱関係地も歩いてみたいと思います。

それでは岐阜市までUターンして、歴史博物館を目指します。

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2017年8月16日 (水)

高麗神社と高麗家住宅

冴えない天候が続いた2017年の盆休み。
(私にとっての)最終日となる8月15日もあいにくの雨模様でしたが、退屈しのぎにぶら~っとドライブしてきました・・・道中、豪雨に見舞われて大層難儀しましたけど(・・;)

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向かった先は埼玉県日高市にある高麗神社
数年前、すぐ近くの聖天院を訪れた際に高麗郡の歴史にも少し興味を持ち、機会があればお参りしてみようと思いつつ、今に至りました。
祭神は高麗王若光。明治中期まで現在の日高市や鶴ヶ島市などに跨って存在していた高麗郡の、初代郡長となった人物でもあります。

唐からの圧力を受けて情勢が逼迫する中、高句麗は666年、大和朝廷へ5月と10月の2度に渡って使節を派遣しています。その折の使節として、日本側の記録である「日本書紀」に「若光」の名が見えます
高句麗は結局、唐・新羅連合軍に攻められて667年に滅亡したため、使節として日本を訪れていた若光の帰国は叶わず、二度と再び故国の地を踏むことはありませんでした。
高句麗滅亡と前後し、多くの高句麗人も渡来しています。

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そんな高句麗からの渡来人ゆかりの神社とあって、境内には朝鮮半島に多く見られるという将軍標(道祖神/村落の境界標)も建っています。

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御神門を通って御本殿参拝へ。

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御本殿(御社殿)

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高麗郡建郡千三百年高麗王若光の記念碑

乙未 従五位下高麗
若光賜王姓

「続日本記」大宝三年(703)四月の条

訳)乙未、従五位下高麗若光に王の姓を賜ふ。
※「王」(こにきし)の賜姓は、若光が高句麗の王族一員だったためと考えられています。

辛卯 以駿河 甲斐
相模 上総 下総
常陸 下野七國高麗
人千七百九十九人
遷于武蔵國 始置
高麗郡焉

「続日本記」霊亀二年(716)五月の条

訳)辛卯、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、高麗郡を置く

ここにある通り、大和朝廷は若光に「王」姓を与え、716年には東国各地に散住していた高句麗からの渡来人1,799人を武蔵国に集めて高麗郡を設置しました。
昨年(2016)がちょうど建郡1300年の節目にあたり、こちらはその記念に設置された石碑のようです。

若光の没後、高麗郡の人々は若光を日本の神式でも祀ることにし、これが高麗神社の始まりとされています。
以来、若光の子孫とされる高麗氏が代々宮司を務め、1300年近くを経た現在は第60代を数えます。

また、すぐ近くの聖天院(旧勝楽寺/若光の菩提寺)にも、若光を祀る高麗王廟があります。
(⇒参照記事

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御本殿裏に保存されている高麗氏の旧宅。
慶長年間(1596~1615)の築と伝わります。
※内部見学には事前申請が必要。

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祖国を追われた人々が、遠く離れた日本の東国で紡いできた1300年もの長き歴史。
聖天院と合わせて訪れることで、そのほんの一端には触れられたような気がしてきます。

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