「山城に行こう!2017」参戦
台風21号の足音がヒタヒタと迫り来る10月21~22日、岐阜県可児市&可児市山城連絡協議会主催のイベント;
山城に行こう!2017 センゴクの城
に参戦してきました。
■10月21日(土) めぐる
初日は可児市の山城をめぐる一日。
今回のイベントで対象の城に指定された美濃金山城や久々利城、大森城、今城をはじめとする幾つかの山城をめぐり、各城で1枚ずつ貰える通行証を2枚以上集めると、翌日のトークショーでの優先指定席に挑戦できる、という趣旨の試み。

我々はまず、大森城から攻めました。

大森城は奥村氏の居城でしたが、天正10年(1582)6月、本能寺の変を受けて信濃(川中島)から撤退してきた森長可に攻められて落城したと伝わります。
城跡に残る横堀や土塁、虎口などの遺構の規模や技巧性から、落城後は森氏の手によって改修が加えられ、美濃金山城の出城(の一つ)として利用されていたとも考えられています。

城山東麓に建つ大森神社
こちらの社殿手前を右へ進み、北側から城跡に入ります。

いくつかの曲輪跡を抜けて・・・

ものの5分も登ると主郭に到達。

我々も登ってきた主郭北側の先には小さな平場があり、馬出のようになっていました。

主郭を取り巻く横堀(東側)

主郭の更に南側にも、かなり良さそうな遺構が覗いていましたが・・・
大雨の影響もあって足元はぬかるみ、大変滑り易くなっていましたので、残念ながらこの日は立入禁止。

最後は主郭東側の横堀に下り、堀底を通って引き揚げます。
通行証はGETしたので、今回の大森城攻めはここまで。
いずれまた、天候の良い時にじっくりと攻めましょう。

2城目は久々利城

久々利城も天正11年(1583)、森長可に攻められて落城していますが、その後はやはり森氏によって改修され、防衛拠点の一つとして利用されていたようです。

上の縄張図で枡形虎口とある辺り。
井戸も確認できます。

三の丸から二の丸 & 本丸を仰ぎ見る。

本丸手前から、東の尾根に展開する曲輪群方向。

本丸からの眺め・・・ある意味、幻想的(笑)

「イチオシ」と言われちゃあ、行くしかないでしょ。

1本目の堀切に架かる土橋

二重堀切の1本目・・・薄い。

そして2本目・・・こちらは深く切り立ち、なかなか見応えのある遺構でした。
さて、久々利城も足場が悪いのでサクッと切り上げて・・・

ランチは唐揚げに定評があるという中華屋さんで。物凄いボリュームでした…(^_^;)

この日のラストは、5月にも訪れている美濃金山城(参照記事)へ。
既に通行証は2枚(大森・久々利)GETしているので、本丸の発掘現場へ直接向かいました。

今回発掘調査が進められたのは、本丸の中で天守台と考えられているポイント(つい最近まで神社が建っていた場所)。
写真は天守台石垣(南面)の内側で発掘された石列。

そして、内向きに面して築かれていた石垣(南東角)も。
この遺構により穴蔵、もしくは半地下構造を有する天守が建っていたのではないか、と考えられるようになっています。

麓を流れる木曽川の下流域から持ち込まれたと思われる、小さな川原石を敷き詰めたような遺構。
内向きの石垣が発掘されたポイントよりも少し西側で、御殿跡とされる礎石群寄りの場所から発掘されています。こちらは今のところ、天守への入口にあたる通路の痕跡ではないかと思われる、とのことでした。
ここまでが、美濃金山城天守の初期段階の遺構と推定されています。

川原石発掘現場近くの地中断面。
真ん中に通る黒い筋は、神社建設の際に埋め立てられた草木の層なのだそうです。
つまり、神社建設に伴う造成前までは、黒い筋のすぐ下が地表面だったということになります。
写真を見てもお分かりの通り、川原石の推定通路跡は神社造成前の段階で、既に埋められていたことが明確になります。

こちらはある時期に、礫や粘土質の土で埋められていたことが判明した内向きの石垣。

天守台北側、不自然に鋭角な角度で伸びる石列(いったいどんな構造の建物が乗っていたのでしょうね?)と、何故か川原石を撒き散らして石列を埋めたかのような痕跡。
石列の角度も不思議ならば、川原石の散在もなかなか説明がつきそうにありません。
2つ前の写真でご紹介した通路跡と思われる川原石より、上の層から発掘されています。
これらの調査結果を元に検討された結果、一度築かれた(初期)天守を取り壊し、その上から新たな天守(第二期)を築き直しているのではないかと考えられています。
山城に行こう!2017 センゴクの城
に参戦してきました。
■10月21日(土) めぐる
初日は可児市の山城をめぐる一日。
今回のイベントで対象の城に指定された美濃金山城や久々利城、大森城、今城をはじめとする幾つかの山城をめぐり、各城で1枚ずつ貰える通行証を2枚以上集めると、翌日のトークショーでの優先指定席に挑戦できる、という趣旨の試み。

我々はまず、大森城から攻めました。

大森城は奥村氏の居城でしたが、天正10年(1582)6月、本能寺の変を受けて信濃(川中島)から撤退してきた森長可に攻められて落城したと伝わります。
城跡に残る横堀や土塁、虎口などの遺構の規模や技巧性から、落城後は森氏の手によって改修が加えられ、美濃金山城の出城(の一つ)として利用されていたとも考えられています。

城山東麓に建つ大森神社
こちらの社殿手前を右へ進み、北側から城跡に入ります。

いくつかの曲輪跡を抜けて・・・

ものの5分も登ると主郭に到達。

我々も登ってきた主郭北側の先には小さな平場があり、馬出のようになっていました。

主郭を取り巻く横堀(東側)

主郭の更に南側にも、かなり良さそうな遺構が覗いていましたが・・・
大雨の影響もあって足元はぬかるみ、大変滑り易くなっていましたので、残念ながらこの日は立入禁止。

最後は主郭東側の横堀に下り、堀底を通って引き揚げます。
通行証はGETしたので、今回の大森城攻めはここまで。
いずれまた、天候の良い時にじっくりと攻めましょう。

2城目は久々利城

久々利城も天正11年(1583)、森長可に攻められて落城していますが、その後はやはり森氏によって改修され、防衛拠点の一つとして利用されていたようです。

上の縄張図で枡形虎口とある辺り。
井戸も確認できます。

三の丸から二の丸 & 本丸を仰ぎ見る。

本丸手前から、東の尾根に展開する曲輪群方向。

本丸からの眺め・・・ある意味、幻想的(笑)

「イチオシ」と言われちゃあ、行くしかないでしょ。

1本目の堀切に架かる土橋

二重堀切の1本目・・・薄い。

そして2本目・・・こちらは深く切り立ち、なかなか見応えのある遺構でした。
さて、久々利城も足場が悪いのでサクッと切り上げて・・・

ランチは唐揚げに定評があるという中華屋さんで。物凄いボリュームでした…(^_^;)

この日のラストは、5月にも訪れている美濃金山城(参照記事)へ。
既に通行証は2枚(大森・久々利)GETしているので、本丸の発掘現場へ直接向かいました。

今回発掘調査が進められたのは、本丸の中で天守台と考えられているポイント(つい最近まで神社が建っていた場所)。
写真は天守台石垣(南面)の内側で発掘された石列。

そして、内向きに面して築かれていた石垣(南東角)も。
この遺構により穴蔵、もしくは半地下構造を有する天守が建っていたのではないか、と考えられるようになっています。

麓を流れる木曽川の下流域から持ち込まれたと思われる、小さな川原石を敷き詰めたような遺構。
内向きの石垣が発掘されたポイントよりも少し西側で、御殿跡とされる礎石群寄りの場所から発掘されています。こちらは今のところ、天守への入口にあたる通路の痕跡ではないかと思われる、とのことでした。
ここまでが、美濃金山城天守の初期段階の遺構と推定されています。

川原石発掘現場近くの地中断面。
真ん中に通る黒い筋は、神社建設の際に埋め立てられた草木の層なのだそうです。
つまり、神社建設に伴う造成前までは、黒い筋のすぐ下が地表面だったということになります。
写真を見てもお分かりの通り、川原石の推定通路跡は神社造成前の段階で、既に埋められていたことが明確になります。

こちらはある時期に、礫や粘土質の土で埋められていたことが判明した内向きの石垣。

天守台北側、不自然に鋭角な角度で伸びる石列(いったいどんな構造の建物が乗っていたのでしょうね?)と、何故か川原石を撒き散らして石列を埋めたかのような痕跡。
石列の角度も不思議ならば、川原石の散在もなかなか説明がつきそうにありません。
2つ前の写真でご紹介した通路跡と思われる川原石より、上の層から発掘されています。
これらの調査結果を元に検討された結果、一度築かれた(初期)天守を取り壊し、その上から新たな天守(第二期)を築き直しているのではないかと考えられています。
但し、今回の調査で発掘された遺構が持つ個々の情報を整理するのが難しく、この翌日に行われたトークショーの第2部でも話題に上り、出演者の方々からも様々な意見が出されていました。
それらを参考に素人なりの印象をまとめると、内向きの石垣や石列をわざわざ埋めたということは、やはりより広くて高い(重い)建造物を建てるための造成だった、ということでいいのではないかと思います。
穴蔵(半地下)構造を埋め、これまでの縄張(石列の配置など)を一旦無にして均し、広くて平らなスペースを確保した、と考えられないでしょうか。
しかし、それでも美濃金山城の天守台には、大きな建造物を建てるのに充分なスペースがあるとは言い難いのですが、そこで注目されるのが・・・

天守台の南東角から伸びる、石垣に覆われたこちらの1本の石塁。
この石塁の存在により、天守台の南側は枡形虎口のようになっているのですが、実はこれ、明らかに後から増築されているのだそうです。

石塁の内側(枡形内)つけ根部分。
石垣を初めから折って築いたのではなく、明らかに天守台石垣(左)の面に垂直に土盛りを取り付け、そこに石垣を積んだ様子が見て取れます。

石塁の外側(東)
左の石垣と自然岩盤の境界が、件の石列と天守台の境目。
石塁の石垣は写真右端に見える天守台石垣とも、積み方に時間差が見受けられるそうです。
何故、わざわざこのような石塁を築いたのか・・・そこには必ず何かしらの意図があるはず。
例えば、虎口や通路を跨ぐようにして築かれた建造物は他にも事例がある訳で、現地にいらした可児市教育委員会の方も仰っていましたが、石塁や枡形の周辺に、美濃金山城天守の建て替えに関するヒントが眠っているような気がします。
近いうちに枡形も調査する予定とのことでしたので、そちらの調査も楽しみに待ちたいと思います。
この後は可児市内のホテルにチェックインし、近くの居酒屋で乾杯☆
楽しく盛り上がりました。
■10月22日(日) あそぶ
台風の影響で、この日も朝から本格的な雨模様。
9時過ぎにホテルを出発し、会場の可児市文化創造センターalaへ。

前日にGETした通行証を手に、10時からの優先指定席(100席)券配付に向けて列に並びます。

早めに並んだ甲斐もあり、特製レジャーシート付の優先指定席券は無事に確保できました。

トークショーは午後1時~なので、それまでは会場内で思い思いに過ごします。
私はグッズ売り場で「センゴク」シリーズの織田信長の手ぬぐいを購入~♪

ブースコーナーでは、美濃金山城天守台で発掘された遺物の展示も。やはりアカニシガイが一際異彩を放つ。
軒丸瓦も立派なもので、それなりの規模・格式を持った建造物が建っていたことを窺わせます。
近いうちに訪れたいと思っている小里城や鶴ヶ城(高野城)の資料も配布されていました。
※アプリ「発見!ニッポン城めぐり」のブースが最も行列を作っていましたが、個人的には興味がないのでスルー(笑)
その他、「センゴク」名場面集のコーナーや、香川元太郎先生の城郭復元イラスト作品集のコーナー等々。
一度、昇太師匠や中井先生、加藤先生、香川先生がグッズ売り場などの様子を見に現れ、宮下先生も「センゴク」名場面集コーナーをスタッフの案内で訪れていました。

お昼は屋台で水攻めカレーをGET。

腹拵えも済んだところで、トークショーの会場へ。

トークショー第1部は「センゴクの城を語る」
出演は「センゴク」シリーズ作者の宮下英樹先生、春風亭昇太師匠、城郭考古学の中井均先生、加藤理文先生、イラストレーターの香川元太郎先生で、可児市教育委員会の方の進行で進められました。
出演者各位がそれぞれ持ち寄った城の写真を見ながら、その魅力などについて語っていく内容でしたが、途中からは客席参加型の城当てクイズ大会の様相を呈してきました(笑)
さすがに最前列に陣取っていた効果もあり、私の仲間たちは3人ほどがちゃっかり景品をGETしておりましたwww

第2部は「発掘!美濃金山城」
出演者は第1部同様で、美濃金山城の天守台発掘調査の成果報告から、推定される天守の姿についてのディスカッション。
美濃金山城訪問時の記事内でも書きましたが、ここでも飛騨高山城や松倉城、越前大野城などの事例を交えつつ、様々な意見が出されていました。
その中でも印象に残っているのは伊予松山城。香川先生が複数の古絵図を提示して伊予松山城初期の天守についてお話しをされていましたが、それらを元に推定復元された築城当初の姿は、これまでは五層の天守があったとさえ言われてきた通説のものとは大きくかけ離れていました。
お城の定説も常にUPDATEされていくということを、ここでも改めて実感。
※トークショーの間中、宮下先生は他の先生方に個人的な質問をガンガンぶつけていました。それはそれで聴いていて楽しかったのですが、よくマイクを取り忘れていらしたので、最前列に座っていた私にはそれでも聴こえたものの、後方の方々には少し可哀想に思えました…(^_^;)

最後は宮下先生に、可児市山城連絡協議会のベスト(蛍光グリーン)が授与されました。
これで来年以降も「センゴク」が可児に帰ってくる!?
あいにくな天候でしたが、ここではとても書き切れないほどの様々な知見も得られ、充実の2日間でした。来年もチャンスがあれば是非、参戦したいと思います。
※翌23日(月)もせめると題して、昇太師匠と苗木城跡を攻める企画が予定されていましたが、そちらは台風の影響で早々に中止が決定していました。
(といっても私自身は仕事があるので、元々予定には入れていませんでしたが)
関係者の皆様、お疲れ様でございました。
P.S. さちこさん、早く良くなってくださいね。
それらを参考に素人なりの印象をまとめると、内向きの石垣や石列をわざわざ埋めたということは、やはりより広くて高い(重い)建造物を建てるための造成だった、ということでいいのではないかと思います。
穴蔵(半地下)構造を埋め、これまでの縄張(石列の配置など)を一旦無にして均し、広くて平らなスペースを確保した、と考えられないでしょうか。
しかし、それでも美濃金山城の天守台には、大きな建造物を建てるのに充分なスペースがあるとは言い難いのですが、そこで注目されるのが・・・

天守台の南東角から伸びる、石垣に覆われたこちらの1本の石塁。
この石塁の存在により、天守台の南側は枡形虎口のようになっているのですが、実はこれ、明らかに後から増築されているのだそうです。

石塁の内側(枡形内)つけ根部分。
石垣を初めから折って築いたのではなく、明らかに天守台石垣(左)の面に垂直に土盛りを取り付け、そこに石垣を積んだ様子が見て取れます。

石塁の外側(東)
左の石垣と自然岩盤の境界が、件の石列と天守台の境目。
石塁の石垣は写真右端に見える天守台石垣とも、積み方に時間差が見受けられるそうです。
何故、わざわざこのような石塁を築いたのか・・・そこには必ず何かしらの意図があるはず。
例えば、虎口や通路を跨ぐようにして築かれた建造物は他にも事例がある訳で、現地にいらした可児市教育委員会の方も仰っていましたが、石塁や枡形の周辺に、美濃金山城天守の建て替えに関するヒントが眠っているような気がします。
近いうちに枡形も調査する予定とのことでしたので、そちらの調査も楽しみに待ちたいと思います。
この後は可児市内のホテルにチェックインし、近くの居酒屋で乾杯☆
楽しく盛り上がりました。
■10月22日(日) あそぶ
台風の影響で、この日も朝から本格的な雨模様。
9時過ぎにホテルを出発し、会場の可児市文化創造センターalaへ。

前日にGETした通行証を手に、10時からの優先指定席(100席)券配付に向けて列に並びます。

早めに並んだ甲斐もあり、特製レジャーシート付の優先指定席券は無事に確保できました。

トークショーは午後1時~なので、それまでは会場内で思い思いに過ごします。
私はグッズ売り場で「センゴク」シリーズの織田信長の手ぬぐいを購入~♪

ブースコーナーでは、美濃金山城天守台で発掘された遺物の展示も。やはりアカニシガイが一際異彩を放つ。
軒丸瓦も立派なもので、それなりの規模・格式を持った建造物が建っていたことを窺わせます。
近いうちに訪れたいと思っている小里城や鶴ヶ城(高野城)の資料も配布されていました。
※アプリ「発見!ニッポン城めぐり」のブースが最も行列を作っていましたが、個人的には興味がないのでスルー(笑)
その他、「センゴク」名場面集のコーナーや、香川元太郎先生の城郭復元イラスト作品集のコーナー等々。
一度、昇太師匠や中井先生、加藤先生、香川先生がグッズ売り場などの様子を見に現れ、宮下先生も「センゴク」名場面集コーナーをスタッフの案内で訪れていました。

お昼は屋台で水攻めカレーをGET。

腹拵えも済んだところで、トークショーの会場へ。

トークショー第1部は「センゴクの城を語る」
出演は「センゴク」シリーズ作者の宮下英樹先生、春風亭昇太師匠、城郭考古学の中井均先生、加藤理文先生、イラストレーターの香川元太郎先生で、可児市教育委員会の方の進行で進められました。
出演者各位がそれぞれ持ち寄った城の写真を見ながら、その魅力などについて語っていく内容でしたが、途中からは客席参加型の城当てクイズ大会の様相を呈してきました(笑)
さすがに最前列に陣取っていた効果もあり、私の仲間たちは3人ほどがちゃっかり景品をGETしておりましたwww

第2部は「発掘!美濃金山城」
出演者は第1部同様で、美濃金山城の天守台発掘調査の成果報告から、推定される天守の姿についてのディスカッション。
美濃金山城訪問時の記事内でも書きましたが、ここでも飛騨高山城や松倉城、越前大野城などの事例を交えつつ、様々な意見が出されていました。
その中でも印象に残っているのは伊予松山城。香川先生が複数の古絵図を提示して伊予松山城初期の天守についてお話しをされていましたが、それらを元に推定復元された築城当初の姿は、これまでは五層の天守があったとさえ言われてきた通説のものとは大きくかけ離れていました。
お城の定説も常にUPDATEされていくということを、ここでも改めて実感。
※トークショーの間中、宮下先生は他の先生方に個人的な質問をガンガンぶつけていました。それはそれで聴いていて楽しかったのですが、よくマイクを取り忘れていらしたので、最前列に座っていた私にはそれでも聴こえたものの、後方の方々には少し可哀想に思えました…(^_^;)

最後は宮下先生に、可児市山城連絡協議会のベスト(蛍光グリーン)が授与されました。
これで来年以降も「センゴク」が可児に帰ってくる!?
あいにくな天候でしたが、ここではとても書き切れないほどの様々な知見も得られ、充実の2日間でした。来年もチャンスがあれば是非、参戦したいと思います。
※翌23日(月)もせめると題して、昇太師匠と苗木城跡を攻める企画が予定されていましたが、そちらは台風の影響で早々に中止が決定していました。
(といっても私自身は仕事があるので、元々予定には入れていませんでしたが)
関係者の皆様、お疲れ様でございました。
P.S. さちこさん、早く良くなってくださいね。
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