本田家住宅 (主屋・薬医門)
東京文化財ウィーク2017、今年は国立市にある本田家住宅(主屋・薬医門)の講演・見学会に参加させていただきました。
本田家住宅には4年前、やはり東京文化財ウィークの公開期間に訪れています(記事)が、どうしても主屋の内部も見学したくて、今回の参加を決めました。
まずは講演会から。
会場は本田家住宅のすぐ近くにある下谷保防災センター。
防災センター前にあった本田道庚申塔。寛政5年(1793)の造立。
細くて古い路地ですが、通りにも「本田」の名がついていたのですね。
講演は多摩近郷に残る古民家建築などの事例から、近世(江戸期)に於ける農家の住宅形式の変遷を、本百姓/名主/総名主(惣代?)の階層別に見ていき、その中での本田家住宅(の形式)の位置づけを確認し、その歴史や具体的な建築形式について解説していただく、といった内容。
しかし、時間が不足して後半は端折り気味となり、本田家住宅の詳細については現地で見学しながらご説明いただく、ということになりました。
本田家住宅薬医門
幕末期の建立と推定されています。
一般的に「豪農」と呼ばれる階層の住宅には長屋門が多いのですが、それだけに本田家の高い格式を物語るかのようです。
本田家住宅主屋
平成21年までは実際に住居として利用されていました。
平成29年、薬医門と共に本田家より国立市へ寄贈されています。
参加者が60名弱と多かったので、3班に分かれての見学となりました。
私のC班はまず、お庭で待機して外観の見学から(つまりは…お預けw)。
本田家は遠祖を畠山重忠の郎党とし、江戸時代に下谷保村(国立市谷保)に定着して代々名主を務めるようになりました。
10代・定价は市河米庵に書を習い、本田家の書家としての礎を築きます。
幕末には日野宿の佐藤家や、土方歳三の土方家とも姻戚関係を結んでいます。歳三も生家から多摩川を越えて、本田家11代・覚庵(定済)の元へ書や学問を習いに通ったと伝えられています。
また、覚庵の日記には歳三や近藤勇が文久3年に上洛するまで度々訪れ、時には泊まったりした様子が書き残されているそうです。
玄関
棟札がないので正確な創建年代は不明ですが、中の間の柱から;
享保十六辛亥歳 八月吉祥日
と記された祈祷札が見つかったことから、主屋は少なくとも享保16年=1731年には建てられていたことが判っています。
その後、嘉永2年(1849)には茶室などを増築したようです。
屋根は赤いトタンに覆われていますが、その内側にはまだ藁葺が残っていました。
主屋東面
一見しただけですぐ、建物が斜めに傾いているのがわかります。
築300年近い年月の老朽化に加え、平成23年の東日本大震災によるダメージが大きかったようです。
20分ほどもブラブラしていると声が掛かり、土間へ誘導されました。
土間に陳列されている米庵流の篆刻作品。
土間から前室越しに見える書斎、そこに架かっている「大観書屋」と大書された額は市河米庵の筆。
土間では、本多家住宅を管理する国立市職員の方から、主屋に残されていた資料についてのご説明を受けました。
主屋には判明しているだけでも、約7万点もの資料が保存されていたのだそうです。
新選組に関連する部分でいうと、前述の覚庵の日記に近藤や土方らとの交流が綴られていますが、佐藤彦五郎や小島鹿之助などとは違い、直接的に新選組を支援した記録はないそうです。
しかし元治元年(1864)、近藤が江戸に下って隊士を募集した折の名簿の写しが残っていて、そこには実際には上京前に入隊を取り止めた面々の名前もあることから、しばらく日時が経過した後に知らされた情報ではなく、近藤が隊士を募っている最中のリアルタイムな情報を入手できていたのではないか、とのことでした。
即ち、それだけ近藤や新選組に近いネットワークを持っていた、ということを窺わせます。
資料に関するお話が終わると、いよいよ主屋内部の見学に移ります。
写真は、土間から直接上がれる広間と呼ばれる一間。右に見えるのが3本ある大黒柱のうちの1本。
※この後見ていく各部屋の配置を簡単にご説明すると、主屋ほぼ中央南に位置する「土間」から東へ「広間」→「玄関」→「中の間」と続き、中の間の南に「茶室」、北に「奥の間」があります。
これが今回、見学させて頂いた範囲。
本田家住宅主屋の形式は、江戸後期の名主層の代表的な住宅形式である整形六間型(各部屋の間口が揃って縦横真っすぐに配置されている)よりも時代が先行する食違形六間型(間取りに食い違い=ズレを持たせている箇所がある)という形式になるのだそうです。六間型としては東京都最古の住宅なのだとか。
写真は広間(手前)と、その先の玄関との間の食い違い。広間の方が奥行きが深い分、間取りに段差ができています。
玄関
中の間から見る玄関(右)と茶室(左)
茶室
中の間の柱。
白くなっている部分に、享保16年の祈祷札が貼ってありました。
中の間から奥の間を見る。
本田家住宅には4年前、やはり東京文化財ウィークの公開期間に訪れています(記事)が、どうしても主屋の内部も見学したくて、今回の参加を決めました。
まずは講演会から。
会場は本田家住宅のすぐ近くにある下谷保防災センター。
防災センター前にあった本田道庚申塔。寛政5年(1793)の造立。
細くて古い路地ですが、通りにも「本田」の名がついていたのですね。
講演は多摩近郷に残る古民家建築などの事例から、近世(江戸期)に於ける農家の住宅形式の変遷を、本百姓/名主/総名主(惣代?)の階層別に見ていき、その中での本田家住宅(の形式)の位置づけを確認し、その歴史や具体的な建築形式について解説していただく、といった内容。
しかし、時間が不足して後半は端折り気味となり、本田家住宅の詳細については現地で見学しながらご説明いただく、ということになりました。
本田家住宅薬医門
幕末期の建立と推定されています。
一般的に「豪農」と呼ばれる階層の住宅には長屋門が多いのですが、それだけに本田家の高い格式を物語るかのようです。
本田家住宅主屋
平成21年までは実際に住居として利用されていました。
平成29年、薬医門と共に本田家より国立市へ寄贈されています。
参加者が60名弱と多かったので、3班に分かれての見学となりました。
私のC班はまず、お庭で待機して外観の見学から(つまりは…お預けw)。
本田家は遠祖を畠山重忠の郎党とし、江戸時代に下谷保村(国立市谷保)に定着して代々名主を務めるようになりました。
10代・定价は市河米庵に書を習い、本田家の書家としての礎を築きます。
幕末には日野宿の佐藤家や、土方歳三の土方家とも姻戚関係を結んでいます。歳三も生家から多摩川を越えて、本田家11代・覚庵(定済)の元へ書や学問を習いに通ったと伝えられています。
また、覚庵の日記には歳三や近藤勇が文久3年に上洛するまで度々訪れ、時には泊まったりした様子が書き残されているそうです。
玄関
棟札がないので正確な創建年代は不明ですが、中の間の柱から;
享保十六辛亥歳 八月吉祥日
と記された祈祷札が見つかったことから、主屋は少なくとも享保16年=1731年には建てられていたことが判っています。
その後、嘉永2年(1849)には茶室などを増築したようです。
屋根は赤いトタンに覆われていますが、その内側にはまだ藁葺が残っていました。
主屋東面
一見しただけですぐ、建物が斜めに傾いているのがわかります。
築300年近い年月の老朽化に加え、平成23年の東日本大震災によるダメージが大きかったようです。
20分ほどもブラブラしていると声が掛かり、土間へ誘導されました。
土間に陳列されている米庵流の篆刻作品。
土間から前室越しに見える書斎、そこに架かっている「大観書屋」と大書された額は市河米庵の筆。
土間では、本多家住宅を管理する国立市職員の方から、主屋に残されていた資料についてのご説明を受けました。
主屋には判明しているだけでも、約7万点もの資料が保存されていたのだそうです。
新選組に関連する部分でいうと、前述の覚庵の日記に近藤や土方らとの交流が綴られていますが、佐藤彦五郎や小島鹿之助などとは違い、直接的に新選組を支援した記録はないそうです。
しかし元治元年(1864)、近藤が江戸に下って隊士を募集した折の名簿の写しが残っていて、そこには実際には上京前に入隊を取り止めた面々の名前もあることから、しばらく日時が経過した後に知らされた情報ではなく、近藤が隊士を募っている最中のリアルタイムな情報を入手できていたのではないか、とのことでした。
即ち、それだけ近藤や新選組に近いネットワークを持っていた、ということを窺わせます。
資料に関するお話が終わると、いよいよ主屋内部の見学に移ります。
写真は、土間から直接上がれる広間と呼ばれる一間。右に見えるのが3本ある大黒柱のうちの1本。
※この後見ていく各部屋の配置を簡単にご説明すると、主屋ほぼ中央南に位置する「土間」から東へ「広間」→「玄関」→「中の間」と続き、中の間の南に「茶室」、北に「奥の間」があります。
これが今回、見学させて頂いた範囲。
本田家住宅主屋の形式は、江戸後期の名主層の代表的な住宅形式である整形六間型(各部屋の間口が揃って縦横真っすぐに配置されている)よりも時代が先行する食違形六間型(間取りに食い違い=ズレを持たせている箇所がある)という形式になるのだそうです。六間型としては東京都最古の住宅なのだとか。
写真は広間(手前)と、その先の玄関との間の食い違い。広間の方が奥行きが深い分、間取りに段差ができています。
玄関
中の間から見る玄関(右)と茶室(左)
茶室
中の間の柱。
白くなっている部分に、享保16年の祈祷札が貼ってありました。
中の間から奥の間を見る。
土方歳三や近藤勇が実際に泊った部屋、かもしれませんね。
奥の間には佐藤彦五郎の母・マサの姉で、本田家10代・定价に嫁いだチカ(共に土方家出身)のお顔を描いた額が飾られていました。
定价とチカの間に生まれた娘に婿養子として分家から迎えたのが覚庵であり、よって覚庵・彦五郎・歳三は従兄同士ということになります。
(彦五郎と歳三は義兄弟でもある)
近藤や土方も間違いなく訪れ、泊った本田家住宅。
その貴重な空間を少しの間だけでも共有でき、とても幸せな気分でした。
奥の間には佐藤彦五郎の母・マサの姉で、本田家10代・定价に嫁いだチカ(共に土方家出身)のお顔を描いた額が飾られていました。
定价とチカの間に生まれた娘に婿養子として分家から迎えたのが覚庵であり、よって覚庵・彦五郎・歳三は従兄同士ということになります。
(彦五郎と歳三は義兄弟でもある)
近藤や土方も間違いなく訪れ、泊った本田家住宅。
その貴重な空間を少しの間だけでも共有でき、とても幸せな気分でした。
願わくば今後、この貴重な文化財が適切に保護され、長くその歴史を語り継いでいくことを祈らずにはおられません。
※参加者の中に慶応4年(1868)、新政府軍に追われた佐藤彦五郎一家を匿った「羽生家」(参考記事)の関係の方がいらしたので不躾ながらお声掛けし、少しお話を聞かせていただけました。
近藤勇の三浦休太郎宛書状を羽生家が所蔵する理由については、逃れてきた彦五郎が持ってきたのではないか、とお考えのようでした。
だが、そもそも彦五郎と羽生家の繋がりが確認できていないらしく、やはり伝承通り二宮村の茂平のような仲介者がいたのかもしれません。
また、羽生家の家屋は明治15年に火事で焼失しており、彦五郎らを匿った当時から現存するのは土蔵だけなのだそうです。
※参加者の中に慶応4年(1868)、新政府軍に追われた佐藤彦五郎一家を匿った「羽生家」(参考記事)の関係の方がいらしたので不躾ながらお声掛けし、少しお話を聞かせていただけました。
近藤勇の三浦休太郎宛書状を羽生家が所蔵する理由については、逃れてきた彦五郎が持ってきたのではないか、とお考えのようでした。
だが、そもそも彦五郎と羽生家の繋がりが確認できていないらしく、やはり伝承通り二宮村の茂平のような仲介者がいたのかもしれません。
また、羽生家の家屋は明治15年に火事で焼失しており、彦五郎らを匿った当時から現存するのは土蔵だけなのだそうです。
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