「近藤勇と調布の幕末維新」展と、上石原若宮八幡神社
小雨パラつく日曜の午後、ちょっと調布までドライブしてきました。
目的地は調布市郷土博物館。twitterで近藤勇と調布の幕末維新展が開催されていることを知り、覗きに来ました。
新選組局長として名高い近藤勇や、その他の調布周辺の人々に関連する古文書が中心の展示で、いくつか興味を惹かれる史料もありました。これで入館無料とは驚き・・・。
・近藤勇養子縁組状
嘉永2年(1849)10月19日
・原惣兵衛宛小島鹿之助書簡(原家文書)
元治元年(1864)7月30日
近藤勇事も討死いたし候与凶音
所々□申来り寔心配罷在候
勇事も去春攘夷之心得ニ而応
募国内之乱ニ而討死いたし候而者
亡霊之激怒思やられ候
原惣兵衛とは上布田村の名主で、布田宿組合の大惣代を務めた人物です。
元治元年(1864)の元治甲子戦争(禁門の変)で近藤勇が討ち死にしたとの風聞に接した小野路村の小島鹿之助が、原惣兵衛に宛てて近藤の安否を尋ねた書簡。
「勇は去年の春、攘夷の志で浪士組に応募して上京したのに、内乱で死んでしまっては、その無念たるやあまりに浮かばれない」といったところでしょうか。
(勿論、実際には死んでなどいませんでしたが)
・三浦休太郎宛近藤勇書簡(羽生家蔵)
慶応3年(1867)11月18日
陳二郎事潜伏之義
如之御配慮奉多謝候
就而者同人義少々
相用候事件出来候間
無断引取申候
所蔵する羽生家についてはコチラの記事をご参照ください(後半部分)。
三浦休太郎は紀州藩士。この書簡が出される直前の15日に暗殺された坂本龍馬とは、いろは丸沈没事件の賠償交渉での因縁がありました。
その関係で、龍馬暗殺の疑いをかけられて海援隊士らから命を狙われ、京都守護職を通して護衛の要請を受けた新選組は、斎藤一(二郎=山口二郎)ら7名を三浦の滞在する天満屋へ派遣していました。
斎藤はこの直前に伊東甲子太郎が主宰する御陵衛士を脱していましたが、この書簡の文面からすると彼を三浦の下に派遣したのは、新選組との間で隊士の行き来を禁じる取り決めのあった御陵衛士の目から隠す目的もあったのかもしれませんね(二郎事潜伏之義)。
そして近藤は、少々相用候事件出来したために断り無く斉藤を一旦引き取ったことを三浦に詫びているのですが・・・慶応3年の11月18日はまさに、新選組が伊東甲子太郎を暗殺し、伊東の凶報に接して現場に出てきた御陵衛士の襲撃を企てた油小路の変の当日・・・。
少々相用候事件が何を指しているのか・・・もはや言うまでもないところ、ですね。
・布田宿組合宛振武軍軍用金請取状(原家文書)
慶応4年(1868)5月
上野の寛永寺で新政府軍と戦った彰義隊と分裂し、田無~飯能へと展開した振武軍については、コチラの記事をご参照ください。
田無で結成された振武軍は多摩各地から軍用金を徴収していますが、布田宿も例外ではなかったようです。
受付で、10月14日に開催された講演会の資料も無料でいただけました。こちらも追って勉強していきたいと思います。
郷土博物館を辞し、車でちょっとだけ移動して・・・
上石原若宮八幡神社へ。
「若宮」とつく通り、八幡神・応神天皇の皇子である仁徳天皇を祭神としています。
手前の石鳥居は天保14年(1843)の建立(昭和2年修繕)。
拝殿
奥の本殿(覆屋内)は、文化4年(1807)の造営になります。
上石原若宮八幡は、上石原村の鎮守。
同村出身の近藤勇も慶応4年(1868)、甲陽鎮撫隊を率いて甲州道中を甲府へ向かう途中、故郷(西光寺・中村勘六家/参照記事)に立ち寄った際、上石原若宮八幡の方角へ向かって拝礼し、戦勝祈願をしたと伝わります。
帰りがけには土方歳三資料館にも立ち寄り、和泉守兼定の刀身や鎖帷子、加藤福太郎書簡(※)などを拝観して帰宅しました。
※加藤福太郎は多摩出身で、室蘭警察署に勤務していた人物。歳三の幼馴染の息子である平忠次郎から、歳三の遺体の行方についての調査を依頼され、その調査結果を報告する内容の手紙。
目的地は調布市郷土博物館。twitterで近藤勇と調布の幕末維新展が開催されていることを知り、覗きに来ました。
新選組局長として名高い近藤勇や、その他の調布周辺の人々に関連する古文書が中心の展示で、いくつか興味を惹かれる史料もありました。これで入館無料とは驚き・・・。
・近藤勇養子縁組状
嘉永2年(1849)10月19日
・原惣兵衛宛小島鹿之助書簡(原家文書)
元治元年(1864)7月30日
近藤勇事も討死いたし候与凶音
所々□申来り寔心配罷在候
勇事も去春攘夷之心得ニ而応
募国内之乱ニ而討死いたし候而者
亡霊之激怒思やられ候
原惣兵衛とは上布田村の名主で、布田宿組合の大惣代を務めた人物です。
元治元年(1864)の元治甲子戦争(禁門の変)で近藤勇が討ち死にしたとの風聞に接した小野路村の小島鹿之助が、原惣兵衛に宛てて近藤の安否を尋ねた書簡。
「勇は去年の春、攘夷の志で浪士組に応募して上京したのに、内乱で死んでしまっては、その無念たるやあまりに浮かばれない」といったところでしょうか。
(勿論、実際には死んでなどいませんでしたが)
・三浦休太郎宛近藤勇書簡(羽生家蔵)
慶応3年(1867)11月18日
陳二郎事潜伏之義
如之御配慮奉多謝候
就而者同人義少々
相用候事件出来候間
無断引取申候
所蔵する羽生家についてはコチラの記事をご参照ください(後半部分)。
三浦休太郎は紀州藩士。この書簡が出される直前の15日に暗殺された坂本龍馬とは、いろは丸沈没事件の賠償交渉での因縁がありました。
その関係で、龍馬暗殺の疑いをかけられて海援隊士らから命を狙われ、京都守護職を通して護衛の要請を受けた新選組は、斎藤一(二郎=山口二郎)ら7名を三浦の滞在する天満屋へ派遣していました。
斎藤はこの直前に伊東甲子太郎が主宰する御陵衛士を脱していましたが、この書簡の文面からすると彼を三浦の下に派遣したのは、新選組との間で隊士の行き来を禁じる取り決めのあった御陵衛士の目から隠す目的もあったのかもしれませんね(二郎事潜伏之義)。
そして近藤は、少々相用候事件出来したために断り無く斉藤を一旦引き取ったことを三浦に詫びているのですが・・・慶応3年の11月18日はまさに、新選組が伊東甲子太郎を暗殺し、伊東の凶報に接して現場に出てきた御陵衛士の襲撃を企てた油小路の変の当日・・・。
少々相用候事件が何を指しているのか・・・もはや言うまでもないところ、ですね。
・布田宿組合宛振武軍軍用金請取状(原家文書)
慶応4年(1868)5月
上野の寛永寺で新政府軍と戦った彰義隊と分裂し、田無~飯能へと展開した振武軍については、コチラの記事をご参照ください。
田無で結成された振武軍は多摩各地から軍用金を徴収していますが、布田宿も例外ではなかったようです。
受付で、10月14日に開催された講演会の資料も無料でいただけました。こちらも追って勉強していきたいと思います。
郷土博物館を辞し、車でちょっとだけ移動して・・・
上石原若宮八幡神社へ。
「若宮」とつく通り、八幡神・応神天皇の皇子である仁徳天皇を祭神としています。
手前の石鳥居は天保14年(1843)の建立(昭和2年修繕)。
拝殿
奥の本殿(覆屋内)は、文化4年(1807)の造営になります。
上石原若宮八幡は、上石原村の鎮守。
同村出身の近藤勇も慶応4年(1868)、甲陽鎮撫隊を率いて甲州道中を甲府へ向かう途中、故郷(西光寺・中村勘六家/参照記事)に立ち寄った際、上石原若宮八幡の方角へ向かって拝礼し、戦勝祈願をしたと伝わります。
帰りがけには土方歳三資料館にも立ち寄り、和泉守兼定の刀身や鎖帷子、加藤福太郎書簡(※)などを拝観して帰宅しました。
※加藤福太郎は多摩出身で、室蘭警察署に勤務していた人物。歳三の幼馴染の息子である平忠次郎から、歳三の遺体の行方についての調査を依頼され、その調査結果を報告する内容の手紙。
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