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2017年10月 7日 (土)

長谷川家住宅、墨染、藤森神社

2017年9月30日~10月1日、久しぶり?に京都へ出かけてきました。
京都行きを決めた一番の目的は、特別公開中の大徳寺本坊で初公開されている狩野永徳筆「織田信長公像」(9/16~10/1)を拝観すること。
そちらは公開最終日にあたる2日目に充て、初日はまず、京都駅から地下鉄へ乗り換えて十条駅で下車、旧東九条村の長谷川家住宅へ向かいます。

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長谷川家住宅
寛保2年(1742)築。開館は9月2日~12月10日の土・日・祝のみ。
最近発見された長谷川家当主(長谷川軍記/1822-71)の日記により、元治甲子戦争(禁門の変)に於いて鴨川の九条河原や銭取橋(勧進橋)に布陣した会津藩が、当家などを宿所として利用していたことが判明しています。
また、新選組(壬生浪士組)も同村の又右衛門・吉兵衛・九右衛門方に宿営していました。

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現在のご当主は100歳を超えるご高齢で施設に入られているとのことで、年齢の離れた妹ご夫妻が管理・運営されているようです。
私以外の来館者はほんの2~3組で、しかもわざわざ東京から来たということで大変喜んでいただき、貴重な古文書の数々や古地図なども交えながら、時間をかけてじっくりと丁寧にご案内いただきました。

長谷川軍記日記(前出)
会津藩らの着陣の様子や宿所割当の記録などの他、長州勢が迫って銭取橋の陣所から法螺貝が吹かれ、宿所で休息中だった非番の兵士らが俄かに甲冑に身を固めて飛び出していく様や、頻りに聞えてくる大砲の音など、元治甲子戦争の様子が生々しく記録されている。

浄土宗門人別改帳
浄土宗の改帳とあるが、東九条村一帯が相国寺領だったために報告先も相国寺宛になっている。

歳中諸事覚帳
年貢の納め先や、用水・水運のために開かれた高瀬川(現在は暗渠)の水利をめぐる争いの記録など。江戸中期頃から藍の栽培を始め、大正期まで染工場が多かった村の歴史を知ることもできる。

村誌

職員録(明治2年)
官員録(明治9年)
上記2点共、三条実美や岩倉具視、大久保利通らを筆頭に、当時のいわゆる国家公務員全員の名が記されている。中には後に陸軍大将を務める乃木希典の名もあり、そこに記された当時の階級は「少佐」。

会津藩軍勢図
etc...

2階の隠し書庫には、江戸期の書物が膨大に所蔵されていました。

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長谷川家住宅はご夫妻が修築・管理するようになってから、まだ5年くらいとのこと。
この先、この貴重な建物や史料をどう次代に引き継いでいくか、切実な問題として頭を悩ませていると仰せでした。
微々たるものですが、我々のような歴史好きが訪れ、注目されることで少しでも助けになれることを願います。

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会津藩が布陣した銭取橋(勧進橋)から鴨川の流れ。
長谷川軍記日記によれば、新選組(壬生浪士組)は「加茂川向」に陣取っていたようです。

さて、再び電車で少し移動し、近鉄京都線伏見駅から少し北上すると・・・

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料亭「清和荘」の前に、近藤勇遭難の地碑が建っています。
慶応3年12月、二条城での軍議を終え、当時新選組の宿営地となっていた伏見奉行所への帰路に就いた近藤勇は道中、御陵衛士残党の襲撃に遭いました。
しかし、この碑の建つ場所は江戸期の伏見街道と竹田街道のちょうど中間にあたり、主要な街道からは外れていますので、実際の現場ではないと思われます。

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清和荘から東へ5~600mほど進むと、墨染交差点へ出ます。
こちらも近藤勇襲撃現場の候補地の一つとされています。上の写真は北から南の方角を向いており、北(手前)から続く伏見街道(大和街道とも)が右へ曲がって鉤型に折れるポイントです。
御陵衛士の残党は、交差点を直進した少し先から近藤を待ち受けていたと云いますので、街道が鉤型に折れて速度を緩める瞬間を狙っていたのでしょうか。

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今度は南側から、待ち受ける御陵衛士残党の視点。
あくまでも候補地の一つとして訪れてみました。実際のところは何か決定的な証拠(記録)でも出てこない限り、場所の特定は難しいでしょうね。

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墨染交差点から伏見街道を少し北上して、この日最後は藤森神社へ。

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額のない石鳥居
本来は後水尾天皇御宸筆の額が架けられていて、参勤交代で大名行列が伏見街道を通行する際は、藤森神社の前では大名も籠から降り、槍などを伏せて通っていたのだそうです。
ところが幕末の動乱期を迎え、そんな悠長なことをしてい場合ではないと考えた近藤勇が、額を外してしまったと云われているのだとか。
いくら動乱期とはいえ、天皇の御宸筆の額ですからね・・・俄かには信じ難い気もしますが。

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藤森神社は菖蒲の節句の発祥として知られ、菖蒲=勝負に通じ、毎年5月5日には駆馬神事が催行されることから、勝運と馬の神社として特に信仰を集めてきました。また、祭神の一人として舎人親王を祀ることから、学問の神としても信仰されています。

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御旗塚
神功皇后が大旗を立てた場所で、藤森神社発祥の地とされています。(そういえば長谷川家住宅の床の間にも、神功皇后を中心に据えた五月人形が飾られていました)
このいちいの木に参拝すると腰痛が治るとされ、近藤勇も参拝したとか・・・腰痛持ちだったんですかね?

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御神水の不二の水
“二つとないおいしい水”ということで「不二」の名がつけられています。

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大将軍社
桓武天皇が平安遷都された折、都の東西南北四方に祀った大将軍社のうちの一つ(南)。
現在の社殿は永享10年(1438)、足利義教による造営

この他、宝物館では;
・戊辰役で有栖川宮熾仁親王が着用した鎧兜(徳川家綱奉納)
・八連発式火縄銃
・戊辰役で薩摩軍が使用した先込式大筒(砲身が50cmもない小さなもの)
・宝剣の三条小鍛治宗近
などを拝観しました。

さて、これにて旅の初日は終了です。
2日目も大徳寺を皮切りに、京都をのんびり楽しみます。

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