高山の町並み、松倉城 城友会2017…②
飛騨高山で迎える旅の2日目、まずは宮川の朝市からスタートします。
いつもの旅ではなかなか土産物を物色する時間が取れないのですが、お陰で今回はいつも以上にお財布に優しくない旅になりそうです(笑)
そのまま古い町並みを散策♪
風情があっていいですね。
高山といえば日本三大美祭の一つ、春秋の高山祭。
こちらは、曳行される祭屋台の屋台蔵です。
宮川に架かる中橋
高山陣屋
さすがに時間が早過ぎて開館していないので、今回はパスします。
さ、それでは松倉城へ向かいますか。
松倉城(高山市松倉町)へは、高山市街地から車で20分ほどです。
林道をグイグイと登って駐車場に車を停めたら、そこから城域までは比高で2~30mほど。西側からのアプローチになります。
熊除けのためのドラム缶が・・・ボコボコ(^_^;)
切岸手前、赤い服の人が立っている辺りは土橋で、とっても薄いですが堀切が走っています。
そして切岸を登った先には・・・
見事な石垣が眼前に迫っていました。
手前が三の丸(本丸の南西~南)、奥が本丸の石垣になります。
※「本丸」「二の丸」「三の丸」の呼称は、一般的に用いられているものに倣いました。
三の丸から見る本丸石垣(南西角)
これほどの石垣、相当な財力を要したでしょうが、いったい誰が築いたのでしょうか・・・?
松倉城は天正7年(1579)、姉小路頼綱が築城して居城とした後、天正13年(1585)に秀吉の命を受けた金森長近の侵攻を受けて落城し、長近の管理下で改修されたと伝わりますが、高山城の築城(天正16年)に伴ってすぐに廃城となっています。
これほどの石垣ですから、築かれたのは長近の飛騨制圧後のことと思われますが、廃城までの間は僅かに3年・・・しかも長近はその間、居城を鍋山城に置いていたと云いますので、どうでしょうか・・・。
二の丸(本丸の東)から見る本丸石垣
本丸には西~南面にかけて腰曲輪状のスペースが設けられており、石垣も二段構成になっています。
この本丸石垣全体を「天守台」とする説もあるようで、確かに綺麗な方形に積まれた姿だけを見れば、首肯したくもなりそうです。
しかしそれだと、周辺の曲輪と比較して天守だけがアンバランスに大きくなり過ぎてしまうように思えます。あたかも、大きな天守と石垣を見せつけるためだけに築いた(改修した)城のように・・・。
まぁ、廃城前の最終的な改修が金森長近ら秀吉方の手によるものであるならば、飛騨を拝領した長近も居城としては利用していないようだし、それもあり得るのかもしれませんが・・・。
本丸
本丸からの絶景。。。
二の丸の先端付近に残る井戸跡
二の丸下に残る二段の石垣。
斜面下方の土が流れたような痕跡や転がっている石材の様子から、或いは(部分的かもしれませんが)三段になっていたのかもしれません。
二の丸下から尾根を東へ進むと、麓の侍屋敷跡へと続く道があり、L字の土塁で枡形のように仕切られていました。
その更に先には、石垣で築かれた虎口跡。
石垣の先、尾根を下った箇所には堀切も。
ここの土橋、結構エッジが効いていて格好良かった(笑)
再び主郭部へと戻り、南の出枡状の張出から見る三の丸南側の石垣。
・・・途中から熊笹がびっしりと生えていることからもわかる通り、石垣の下半分には土がはりついて、その上部が細い通路状になっていたそうですが・・・本当に歩くかね?(;^_^A
本当に素晴らしい石垣でした、松倉城。
さ、次は・・・広瀬城へ向かいます。
(つづく)
本丸からの絶景。。。
二の丸の先端付近に残る井戸跡
二の丸下に残る二段の石垣。
斜面下方の土が流れたような痕跡や転がっている石材の様子から、或いは(部分的かもしれませんが)三段になっていたのかもしれません。
二の丸下から尾根を東へ進むと、麓の侍屋敷跡へと続く道があり、L字の土塁で枡形のように仕切られていました。
その更に先には、石垣で築かれた虎口跡。
石垣の先、尾根を下った箇所には堀切も。
ここの土橋、結構エッジが効いていて格好良かった(笑)
再び主郭部へと戻り、南の出枡状の張出から見る三の丸南側の石垣。
・・・途中から熊笹がびっしりと生えていることからもわかる通り、石垣の下半分には土がはりついて、その上部が細い通路状になっていたそうですが・・・本当に歩くかね?(;^_^A
本当に素晴らしい石垣でした、松倉城。
さ、次は・・・広瀬城へ向かいます。
(つづく)
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