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2017年11月

2017年11月30日 (木)

高山の町並み、松倉城 城友会2017…②

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飛騨高山で迎える旅の2日目、まずは宮川の朝市からスタートします。
いつもの旅ではなかなか土産物を物色する時間が取れないのですが、お陰で今回はいつも以上にお財布に優しくない旅になりそうです(笑)

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そのまま古い町並みを散策♪

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風情があっていいですね。

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高山といえば日本三大美祭の一つ、春秋の高山祭
こちらは、曳行される祭屋台の屋台蔵です。

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宮川に架かる中橋

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高山陣屋
さすがに時間が早過ぎて開館していないので、今回はパスします。

さ、それでは松倉城へ向かいますか。

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松倉城(高山市松倉町)へは、高山市街地から車で20分ほどです。
林道をグイグイと登って駐車場に車を停めたら、そこから城域までは比高で2~30mほど。西側からのアプローチになります。
熊除けのためのドラム缶が・・・ボコボコ(^_^;)

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切岸手前、赤い服の人が立っている辺りは土橋で、とっても薄いですが堀切が走っています。
そして切岸を登った先には・・・

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見事な石垣が眼前に迫っていました。
手前が三の丸(本丸の南西~南)、奥が本丸の石垣になります。
※「本丸」「二の丸」「三の丸」の呼称は、一般的に用いられているものに倣いました。

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三の丸から見る本丸石垣(南西角)
これほどの石垣、相当な財力を要したでしょうが、いったい誰が築いたのでしょうか・・・?

松倉城は天正7年(1579)、姉小路頼綱が築城して居城とした後、天正13年(1585)に秀吉の命を受けた金森長近の侵攻を受けて落城し、長近の管理下で改修されたと伝わりますが、高山城の築城(天正16年)に伴ってすぐに廃城となっています。
これほどの石垣ですから、築かれたのは長近の飛騨制圧後のことと思われますが、廃城までの間は僅かに3年・・・しかも長近はその間、居城を鍋山城に置いていたと云いますので、どうでしょうか・・・。

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二の丸(本丸の東)から見る本丸石垣
本丸には西~南面にかけて腰曲輪状のスペースが設けられており、石垣も二段構成になっています。
この本丸石垣全体を「天守台」とする説もあるようで、確かに綺麗な方形に積まれた姿だけを見れば、首肯したくもなりそうです。
しかしそれだと、周辺の曲輪と比較して天守だけがアンバランスに大きくなり過ぎてしまうように思えます。あたかも、大きな天守と石垣を見せつけるためだけに築いた(改修した)城のように・・・。
まぁ、廃城前の最終的な改修が金森長近ら秀吉方の手によるものであるならば、飛騨を拝領した長近も居城としては利用していないようだし、それもあり得るのかもしれませんが・・・。

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本丸

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本丸からの絶景。。。

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二の丸の先端付近に残る井戸跡

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二の丸下に残る二段の石垣。
斜面下方の土が流れたような痕跡や転がっている石材の様子から、或いは(部分的かもしれませんが)三段になっていたのかもしれません。

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二の丸下から尾根を東へ進むと、麓の侍屋敷跡へと続く道があり、L字の土塁で枡形のように仕切られていました。

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その更に先には、石垣で築かれた虎口跡。

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石垣の先、尾根を下った箇所には堀切も。
ここの土橋、結構エッジが効いていて格好良かった(笑)

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再び主郭部へと戻り、南の出枡状の張出から見る三の丸南側の石垣。
・・・途中から熊笹がびっしりと生えていることからもわかる通り、石垣の下半分には土がはりついて、その上部が細い通路状になっていたそうですが・・・本当に歩くかね?(;^_^A

本当に素晴らしい石垣でした、松倉城。
さ、次は・・・広瀬城へ向かいます。

(つづく)

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2017年11月29日 (水)

篠脇城、郡上八幡城 城友会2017…①

年一回の恒例となった城友会、なんだかんだで私も6年連続での参加となりました。
今年(2017年)は奥美濃~飛騨のお城をめぐります。

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初日(11/25)はまず、岐阜県郡上市大和町の篠脇城へ。

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篠脇城図
篠脇城は1300年代の前半に東氏が築城し、後に郡上八幡の赤谷山に移るまでの200年以上、東氏の居城とされてきました。
東氏は、古今和歌集の解釈を相伝する古今伝授を成立させた東常縁を輩出したことでも知られます。
※個人的には4年ぶりの再訪で、コチラの記事でもご紹介していますので今回は簡単に済ませます。

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山麓にある東氏居館跡前の登り口から、九十九折れの登山道を延々と登り続けること15~20分、ようやく大きな竪堀が現れます。

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本丸と、その一段下に二の丸。

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篠脇城の代名詞ともいえる畝状竪堀群
時期的なものもあるのでしょうが、前回訪問時よりも綺麗に見ることができ、改めて感動しました。

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下山後は昼食・・・ご当地グルメの奥美濃ガーリックライスカレー。
隠し味?には味噌が使われているそうです。

昼食後は同じ郡上市の白鳥町まで移動し、二日町城を目指しましたが・・・
篠脇城からは少し北上するだけなのですが、白鳥町が近付くにつれて徐々に沿道の雪景色は深まっていき・・・

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城山の麓に至ってはご覧の積雪。。。(写真提供:こばたかさん)
林道が完全に埋没しており、少しだけトライしてみたものの、危険と判断して撤退しました。
あくまでも安全第一であってこその、楽しい城攻めですからね。

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という訳で若干の予定変更はありましたが、この日の2城目は郡上八幡城(郡上市八幡町柳町)へ。こちらも4年ぶりの再訪。
※郡上八幡到着後、まずは麓の安養寺に立ち寄りましたが、そちらはまた別の記事にして後日UPします。

安養寺の駐車場に車を停め、そこから徒歩で城山を登りました。

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紅葉も盛りを過ぎた郡上八幡城天守。
郡上八幡城は永禄2年(1559)に、赤谷山城の東氏を攻め滅ぼした遠藤氏(東氏庶流)によって築城されました。
その後、天正16年(1588)には稲葉貞通が城主となり、貞通の手によって大改修が施されて、近世城郭としての礎が築かれています。

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魚の形をした城下町。

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現在は山上の駐車場になっている大堀切?にあった首洗い井戸跡。

次は駐車場を挟んで天守とは反対側の遊歩道へ進み、搦手(北)にあるという2本の堀切を確認しに行きます。

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堀切1本目・・・熊笹に覆われて見えづらいというのもあるけど、切岸も緩やかでちょっと薄い印象かなぁ・・・。
しかし・・・

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1本目の少し先、尾根が低く落ち込む鞍部に素晴らしいものがありました。
・・・もう見えていますね。

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2本目の堀切。
土橋の分だけを削り残し、後は見事にザックリと切り落とされています。
幅もかなりなもの。

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反対の城外側から。
深い堀切に狭い土橋、そこへ横矢を掛ける高い切岸・・・城側の防衛意図が明瞭に伝わってくるような遺構でした。

郡上八幡城は慶長5年(1600)9月1日、関ヶ原の前哨戦で家康方の軍勢(豊臣政権下で没収された郡上への返り咲きを目論む遠藤氏など)に攻められていますが、その際、この搦手を攻めた金森可重の手勢はこれらの堀切の堅い守りに阻まれ、力攻めでの攻略は成らなかったと云います。

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夕暮れ迫る郡上の町並み。
日没時間もすっかりと早まった11月下旬、初日の城攻めはこれで切り上げ、宿を取っている飛騨高山へ移動します。

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移動途中、休憩で立ち寄ったひるがの高原SA・・・雪(;・∀・)

高山到着後は飲み会~城友会恒例のカラオケへ。
そして当然のように、カラオケが終わる頃には日付が変わっているという・・・ね(^_^;)

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〆には飛騨中華そば・・・頭(笑)

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体も温まったところで・・・おやすみなさい(-_-)zzz

(2日目へつづく)

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2017年11月 5日 (日)

「佐野の城館跡」展

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佐野市郷土博物館(栃木県)へ行ってきました。

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佐野市は、足尾銅山鉱毒事件を明治天皇に直訴したことで知られる田中正造の出身地とあって、玄関前には銅像が建ち、彼に関する品々専用の展示室も設けられていましたが・・・

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私のお目当てはこちら。
佐野市で第24回 全国山城サミット in 佐野唐沢山城跡/2017年11月25~26日)が開催されることを記念して開かれている企画展佐野の城館跡です。
同展で展示されている中でもとりわけ;

波に巻子形兜号 龍綺/唐沢山神社蔵)
上の写真、「佐野の城館跡」展の看板にも載せられている兜です。

信長公ヨリ拝領之
天正三乙亥九月
秀吉公筑前○○為祝
天徳寺賜之者也

※○部分は失念してしまいました…m(_ _)m

天正3年(1575)、秀吉が筑前守に任官した御祝いとして(?)織田信長から拝領し、後に秀吉から天徳寺宝衍佐野房綱)に与えられ、更にその家臣の福地氏へと渡りました。
※この福地氏、今回の企画展に展示されていた佐野氏の書状や判物などにも、その宛所として数多く見受けられました(福地出羽守、福地帯刀、etc...)。

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山城サミットのロゴのさのまるくんも被っていますね。

甲冑金具 号 避来矢(唐沢山神社蔵)
佐野氏の祖とされる藤原秀郷(俵藤太)が、三上山の百足退治のお礼として琵琶湖の龍神から贈られた宝物の一つ(他に「米の尽きることのない俵」など)とされる甲冑の金具。実際には秀郷の時代よりも少し新しい時期のもの、とする説もあるようですが。
百足退治のお話も伝説に過ぎませんが、秀郷は平将門追討(天慶3年/940)の功で下野守・武蔵守・鎮守府将軍に任ぜられています。
今回は鉄十五枚厳星兜鉢小札壺板(脇楯の上部にある右の脇壺にあてる鉄板)の部分が展示されていました。

以上の2つを特に拝観したく、愛車で駆けつけたのでした。

企画展のタイトルにもなっている城館跡については、詳細に触れているのは唐沢山城や佐野城くらいで、その他は簡単なパネル展示が中心の構成になっています。
もう少しそれぞれの城館の位置関係やその意義、遺構の見所などについてわかり易く解説してあるといいのかなぁ、とも思いました。
※あくまでも個人の感想です。

私は別の遠征が入っていて参加できませんが、山城サミットの成功をお祈りしております。

最後に佐野厄除け大師にも立ち寄り、大師おみくじ(大吉!)を引いてから帰路につきました。
最近は電車旅が続いてあまり乗れていなかったので、愛車にもいい運動になったかな。

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2017年11月 3日 (金)

青木家屋敷 (町田市相原)

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11月3日の文化の日は、町田市相原の青木家屋敷へ。
目の前の通りは町田街道の旧道です。

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普段は医院を開業されていて非公開ですが、東京文化財ウィークの一環でこの日だけは敷地内が開放され、主屋などの外観を見学できます。
敷地内は撮影禁止と聞いていましたので、写真はここまで。

青木家屋敷は幕末頃の建立(文久2年/1862の祈祷札あり)と推定されています。多くの間取りを有し、幕末当時としては最上層の大型民家なのだそうです。
外観のみでは詳細までは把握できないものの、玄関の規模などは「然もありなん」と思わせるものがありました。
また、主屋の西南(上写真左隅)と東南の2ヶ所に土蔵が対で建っているのも印象的でした(西南のを上蔵、東南を下蔵と呼びます)。

裏山には自然の傾斜を活かした庭園もあったようで、これら屋敷や庭園は、水戸の弘道館と下屋敷を模して造られたとも伝えられているそうです。

青木家には、天然理心流二代目の近藤三助も出稽古に訪れていたと云われ、実際に彼はここ相原で客死しています。
そのためか・・・

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青木家の近くにある清水寺の観音堂脇には、近藤先生碑と刻まれた三助の供養碑が建っています。

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その基台には発起願主の人々の名前が並びますが、その中には嶋崎周平の名も・・・言わずと知れた天然理心流三代目、後に近藤勇を養子とする近藤周助(周斎)です。
※近藤勇も周助の跡を継ぐにあたり、まず嶋崎家の養子に入って「嶋崎(勝太~)勇」を名乗っています(日野八坂神社の奉納額など)。
何名か「青木」姓も見えますね。

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青木家屋敷、さすがに今も住居兼医院として活用されているだけあって手入れも行き届き、茅葺屋根がとても素敵なお屋敷でした。


■11月24日追記
2017年11月23~28日まで開催されている写真展「写真が語る 八王子の平安時代から未来まで」に於いて、近藤勇が青木家の吉太郎という人物に発行した免許(の写真)が展示されるとの情報を得て確認してきました。
一番気になっていた日付は「慶応二丙寅年六月日」・・・この時期、近藤は京にいて江戸へ戻ったという記録はありません。或いは、江戸の留守を預かる師範や先代の周斎などが「合格」と判断すると、連絡を受けた当代の勇が免許を書いて江戸へ送る、といったようなシステムが機能していたのでしょうか。

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