男鬼入谷城 …山城踏査会&忘年会2017
年の瀬の足音も少しずつ聴こえてくる12月9日、毎年恒例の山城踏査会&忘年会に参加させていただきました。
今年の踏査地は彦根市の山中、標高685mに眠る男鬼入谷城(おおりにゅうだにじょう/別名「近江高取城」とも)。
参加者は総勢18名。朝の交通機関の乱れに若干翻弄された方もいたものの、無事に鳥居本公園で全員集合し、城跡の麓までは車3台に分乗し、林道をひたすら進みます。

なかなかハードな林道を40分ほども走ったでしょうか・・・山深い地にひっそりと佇む男鬼の集落に到着しました。
実はここ、既に廃村となって久しいのだとか。その割に荒れていないのは、今でも定期的に手入れされているからなのだそうです。
「男鬼」という地名にも何か、歴史・云われがありそうですが・・・そこまで追及していると深みにハマりそうなので、今回はスルーで。←

集落の外れに建つ、比婆神社の鳥居。
まずはここから九十九折れの参道を伝い、集落の背後にそびえる山の頂きを目指します。

鳥居からひたすら登り続けること3~40分、ようやく比婆神社に到着。

比婆神社
伊邪那美大神を祀ります。
男鬼入谷城跡へは、この社殿裏の尾根上を更に進み、ピークまで達したら尾根に沿って左へ折れ、そこからは少し下ります。

下った先、尾根の鞍部にあった堀切と土橋のような痕跡。
この先、再びしばらく登ると・・・

ようやく城跡に到達します。いきなり凄い切岸がお出迎え。
なお、城域には西側からのアプローチとなります。当記事での各曲輪の呼称は、彦根市教育委員会のものに準拠することとします。

最西端のⅢ郭から、尾根に沿って東へ連なる曲輪群を見る。
切岸による段差が明瞭に確認できます。

城跡付近からの風景。
男鬼入谷城はご覧のような山深い地に眠り、主要な街道や耕作地を得るための平地からも離れています。
確かな文献史料でも一切、その名を確認することができないため、現在に至るまで築城者や来歴などを確定できない謎の城とされています。

Ⅲ郭から南へ伸びる急勾配の尾根を覗いた様子。
一段下には腰曲輪、その先にも何か見えていますね。まずはこの尾根を下ってみます。

尾根の斜面に残っていた、石積みを思わせる痕跡。

更に急斜面を慎重に下ると、その先には堀切が2本切られています。
こちらが1本目で・・・

そして2本目。
あまりに細い上に、これほどの急斜面に果たして堀切が必要だったのか?との疑問も禁じ得ず・・・
個人的な印象としては、堀切というよりは塹壕、といったところかな。

再び曲輪群に戻り、東へ進みます。
切岸によって曲輪が幾段にも築かれています。写真手前には堀切、奥の一番高い部分がⅡ郭になります。

先ほどの堀切から北側へ落とされている竪堀。
この付近で一旦、昼食休憩をとりました。

Ⅱ郭
2段に削平されています。

Ⅱ郭からも南へ、細くて急勾配な尾根が伸びています。
その先にやはり、二重の堀切があるらしいので目指しますが・・・それにしても、いきなり凄い切岸。

Ⅱ郭南尾根の堀切、その1本目に・・・

2本目。
堀切先の地形を見ても、いかに勾配のきつい尾根かがおわかりいただけるかと思います。

Ⅰ郭(主郭か)
Ⅱ郭から更に東へ、削平地を数段上がった先にあり、直列に配置された曲輪群の東端にあたります。
その東端部に、この城跡では珍しい土塁(他にはⅢ郭や、この後にご紹介するⅠ郭南尾根の曲輪で見たのみ)があり、その先には・・・

切岸の直下に三重堀切が!
ちょうど各堀底付近に、同行者たちが立っています。

三重堀切越しに、Ⅰ郭の切岸を見る。
こちらから見上げると、Ⅰ郭の切岸はまさに絶壁。Ⅰ郭の背後をこの切岸と三重堀切で、がっちりと固める意図を感じ取れます。

さて、Ⅰ郭からもやはり南へ尾根が伸び、その先にも遺構が残っています。
写真は逆さコの字型の土塁に囲まれた曲輪。
今回用いた図面によると、その先の急斜面を下ると・・・

畝状竪堀状の遺構があるらしかったのですが・・・これか?

堀切はどれも、規模が小さかったようですね。
このように男鬼入谷城は、南側へ向けて(堀切の規模はともかくとして)防御をしっかりと固めているのに対し、踏査はしていませんが図面で見る限り、北側にはこれほどの対策を講じていなかった模様。
地形図や地図で確認すると、城山の南麓には多賀町の平野部へと連なる谷筋のルート(現在の県道17号)があったようです。城山の周辺に、やけに寺社が集中していることも気にかかります。
また、城跡は北の男鬼町と南の多賀町との、ちょうど境界線上にあたる尾根に築かれた山城でもあります。これらの諸条件の中に、或いは男鬼入谷城の謎に迫るヒントがあるのかも・・・と思いましたが、私にはこれ以上迫れそうにもありません。
男鬼入谷城、その遺構も充分に堪能させていただきましたが、何より、これほどの城跡が確かな文献上では全く確認できないという不思議にも魅かれる・・・そんな存在でした。
(一部、江戸期の記録に「川原豊後守」なる人物が、城主として伝えられているそうですが)
さて、なんとか冬の早い日没前に無事下山し、彦根駅前へ戻った後は、これまた恒例の忘年会。
踏査会にはお仕事の都合で来れなかったN井先生も合流し、楽しくマジメに?盛り上がりました。
来年も皆さんと楽しい城攻め、史跡めぐりをご一緒できることを祈念しつつ・・・今回はこれにてお開き、ありがとうございました。
※旅の記事は2日目へつづきます。
今年の踏査地は彦根市の山中、標高685mに眠る男鬼入谷城(おおりにゅうだにじょう/別名「近江高取城」とも)。
参加者は総勢18名。朝の交通機関の乱れに若干翻弄された方もいたものの、無事に鳥居本公園で全員集合し、城跡の麓までは車3台に分乗し、林道をひたすら進みます。

なかなかハードな林道を40分ほども走ったでしょうか・・・山深い地にひっそりと佇む男鬼の集落に到着しました。
実はここ、既に廃村となって久しいのだとか。その割に荒れていないのは、今でも定期的に手入れされているからなのだそうです。
「男鬼」という地名にも何か、歴史・云われがありそうですが・・・そこまで追及していると深みにハマりそうなので、今回はスルーで。←

集落の外れに建つ、比婆神社の鳥居。
まずはここから九十九折れの参道を伝い、集落の背後にそびえる山の頂きを目指します。

鳥居からひたすら登り続けること3~40分、ようやく比婆神社に到着。

比婆神社
伊邪那美大神を祀ります。
男鬼入谷城跡へは、この社殿裏の尾根上を更に進み、ピークまで達したら尾根に沿って左へ折れ、そこからは少し下ります。

下った先、尾根の鞍部にあった堀切と土橋のような痕跡。
この先、再びしばらく登ると・・・

ようやく城跡に到達します。いきなり凄い切岸がお出迎え。
なお、城域には西側からのアプローチとなります。当記事での各曲輪の呼称は、彦根市教育委員会のものに準拠することとします。

最西端のⅢ郭から、尾根に沿って東へ連なる曲輪群を見る。
切岸による段差が明瞭に確認できます。

城跡付近からの風景。
男鬼入谷城はご覧のような山深い地に眠り、主要な街道や耕作地を得るための平地からも離れています。
確かな文献史料でも一切、その名を確認することができないため、現在に至るまで築城者や来歴などを確定できない謎の城とされています。

Ⅲ郭から南へ伸びる急勾配の尾根を覗いた様子。
一段下には腰曲輪、その先にも何か見えていますね。まずはこの尾根を下ってみます。

尾根の斜面に残っていた、石積みを思わせる痕跡。

更に急斜面を慎重に下ると、その先には堀切が2本切られています。
こちらが1本目で・・・

そして2本目。
あまりに細い上に、これほどの急斜面に果たして堀切が必要だったのか?との疑問も禁じ得ず・・・
個人的な印象としては、堀切というよりは塹壕、といったところかな。

再び曲輪群に戻り、東へ進みます。
切岸によって曲輪が幾段にも築かれています。写真手前には堀切、奥の一番高い部分がⅡ郭になります。

先ほどの堀切から北側へ落とされている竪堀。
この付近で一旦、昼食休憩をとりました。

Ⅱ郭
2段に削平されています。

Ⅱ郭からも南へ、細くて急勾配な尾根が伸びています。
その先にやはり、二重の堀切があるらしいので目指しますが・・・それにしても、いきなり凄い切岸。

Ⅱ郭南尾根の堀切、その1本目に・・・

2本目。
堀切先の地形を見ても、いかに勾配のきつい尾根かがおわかりいただけるかと思います。

Ⅰ郭(主郭か)
Ⅱ郭から更に東へ、削平地を数段上がった先にあり、直列に配置された曲輪群の東端にあたります。
その東端部に、この城跡では珍しい土塁(他にはⅢ郭や、この後にご紹介するⅠ郭南尾根の曲輪で見たのみ)があり、その先には・・・

切岸の直下に三重堀切が!
ちょうど各堀底付近に、同行者たちが立っています。

三重堀切越しに、Ⅰ郭の切岸を見る。
こちらから見上げると、Ⅰ郭の切岸はまさに絶壁。Ⅰ郭の背後をこの切岸と三重堀切で、がっちりと固める意図を感じ取れます。

さて、Ⅰ郭からもやはり南へ尾根が伸び、その先にも遺構が残っています。
写真は逆さコの字型の土塁に囲まれた曲輪。
今回用いた図面によると、その先の急斜面を下ると・・・

畝状竪堀状の遺構があるらしかったのですが・・・これか?

堀切はどれも、規模が小さかったようですね。
このように男鬼入谷城は、南側へ向けて(堀切の規模はともかくとして)防御をしっかりと固めているのに対し、踏査はしていませんが図面で見る限り、北側にはこれほどの対策を講じていなかった模様。
地形図や地図で確認すると、城山の南麓には多賀町の平野部へと連なる谷筋のルート(現在の県道17号)があったようです。城山の周辺に、やけに寺社が集中していることも気にかかります。
また、城跡は北の男鬼町と南の多賀町との、ちょうど境界線上にあたる尾根に築かれた山城でもあります。これらの諸条件の中に、或いは男鬼入谷城の謎に迫るヒントがあるのかも・・・と思いましたが、私にはこれ以上迫れそうにもありません。
男鬼入谷城、その遺構も充分に堪能させていただきましたが、何より、これほどの城跡が確かな文献上では全く確認できないという不思議にも魅かれる・・・そんな存在でした。
(一部、江戸期の記録に「川原豊後守」なる人物が、城主として伝えられているそうですが)
さて、なんとか冬の早い日没前に無事下山し、彦根駅前へ戻った後は、これまた恒例の忘年会。
踏査会にはお仕事の都合で来れなかったN井先生も合流し、楽しくマジメに?盛り上がりました。
来年も皆さんと楽しい城攻め、史跡めぐりをご一緒できることを祈念しつつ・・・今回はこれにてお開き、ありがとうございました。
※旅の記事は2日目へつづきます。
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