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2017年12月

2017年12月24日 (日)

峯城と古城(フルシロ)

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峯城遠景

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峯城想像復元図
1枚目の遠景は、この図に「青館」とある付近から撮影しています。間を流れているのは八島川。
※郭のローマ数字は便宜上、現地で使用した測量図に合わせたものです。

天正11年(1583)、賤ヶ岳で対峙する羽柴秀吉と柴田勝家。その勝家と連携する滝川一益は、関盛信・一政父子が秀吉の元に赴いた隙を衝いて亀山城を占拠し、更に峯城を岡本良勝(宗憲)から奪って家臣・滝川益重を入れます。
これを受けて秀吉は直ちに峯城を包囲し、数ヶ月に及ぶ籠城戦の末、益重は城を開いて退去しました。
峯城は織田信雄の管理下となって彼の家臣が入城しますが、翌天正12年、秀吉と信雄が対立(小牧長久手の戦い)すると、秀吉は蒲生氏郷・関一政らに峯城を攻めさせ、峯城はまたしても落城の憂き目を見ることになりました。

天正18年、秀吉政権下で峯城に返り咲いていた岡本良勝が亀山城へ移るにあたり、峯城はその役目を終えて廃城になったと伝えられます。

今回は城の北側からアプローチしました。

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まず出迎えてくれたのは「かんざし井戸」
落城の折、城主の奥方が宝物の銀のかんざしをさし、この井戸に身を投げたとの伝承からそう呼ばれています。

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aの枡形虎口

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上から見ると、ちゃんと枡形になっている様子が分かります。

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郭の土塁

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b部分
想像図では郭として描かれていませんが、2段に綺麗に削平されています。

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郭は鬼藪・・・

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郭は鉄塔(と藪)

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郭西側の土塁

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郭の西虎口

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西虎口から帯郭に出て、郭と本丸(郭)間の堀切方向を見た様子。
写真←方向に堀切がありますが、あまりの藪のため写真は撮りませんでした(^_^;)

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本丸北西の切岸を見上げる。
この頭上には櫓台があったものと思われます。

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本丸切岸の高さを、人尺付きで体感してください。
(写真提供:流星☆さん)

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本丸の切岸下をグルッと回り込み、南虎口から本丸へ。
但しこの南虎口、その先に続く通路のような掘り込みが単なる水抜き用の側溝のようにも見え、明らかに後世の改変を受けた雰囲気を感じましたので、果たして本当に虎口だったのかは少々疑問です。
※東面にも虎口があるようなのですが、残念ながら激藪のため探索を諦めました。

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本丸の土塁
この土塁上を進んで天守台へ向かいます。

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天守台
天守台には方形に窪んだ箇所があり、今流行り?の穴蔵構造か!?とも思いました。

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天守台の斜面には、石垣の跡が僅かに残っています。

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石垣の隙間からは裏込め石(栗石)も見えています。

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他では見受けられませんでしたので、天守台など重要な箇所にのみ、石垣を用いていたのでしょう。

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城域の南端、尾根を断ち切る大きな堀切(c部分)

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更に先にもう1本ありました。

峯城・・・なかなか見応えのある城跡でした。
さて、ラストは峯城から八島川を挟んだ対岸にある古城(フルシロ)へ向かいます。

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古城縄張図

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車道沿いのaの虎口から侵入を試みますが・・・
虎口の先はあまりのド藪具合に、さすがの猛者たちもちょっと躊躇したほど(^_^;)
曲輪内はまず、まともに歩くことも叶いませんので、土塁上を進んでいくことにします。

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bの空堀

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cの土橋

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cの土橋を渡った先は、土塁を畝状に連ねたような不思議な形状をしていました。

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dの喰違虎口

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峯城と対峙する西側には、立派な横堀が廻らされていました。

古城はその名から、1300年代に峰城を築く以前までの峯氏の居城とも考えられていますが、その遺構からは織豊期の付城・陣城の雰囲気を感じます。
天正11年~12年にかけての秀吉軍による峯城包囲戦の際に改修され、峯城攻めの拠点として利用されたものと思います。

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最後に古城から、包囲する峯城を遠望する。。。

この日訪れたお城はどれも遺構・歴史両面で大変興味深く、とても充実した城攻めとなりました。
お誘いいただいた方や現地でご案内いただいた方、同行者皆さんに感謝ですね。楽しかったです。

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釆女城

旅の2日目は三重県へ移動し、四日市~亀山の城をめぐります。

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移動途中、桑名で旧東海道七里の渡し碑を眺めつつ・・・

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浄土寺へ立ち寄り。
徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝の墓所にお参りします。

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浄土寺の近代的な山門。
鹿角脇立兜に蜻蛉切・・・洒落てますね。

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本多忠勝墓所
彼を追って殉死した家臣らの墓碑も建っていました。

四日市駅前で他の参加者とも合流し、総勢9名で向かった先は・・・

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四日市市の釆女城

永禄11年(1568)、足利義昭を奉じての上洛戦の前に織田信長は伊勢に進攻、伊坂城や市場城などに続き、釆女城を攻略して北伊勢を制圧していきます。
この北伊勢攻めをきっかけに神戸具盛や長野具藤が織田方に降伏し、信長は息子の信孝を神戸家へ、弟の信包を長野家へ養子として送り込み、伊勢攻略の地歩を固めていきました。

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五の郭への枡形虎口

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その枡形虎口を上から・・・綺麗な四角(枡形)をしています。

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五の郭と一の郭間の空堀

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一の郭の井戸跡

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一の郭北面の土塁
郭のコーナー部分(写真奥)は土塁が厚くなっており、櫓が建っていたのではないかと思われます。

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一の郭から空堀越しに、二の郭を見る。

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一の郭と二の郭間の空堀・・・かなりの規模です。
尾根を分断する「堀切」でいいのでしょうが、不思議と両サイドの縁を削り残して土橋のようにしていたので、あえて「空堀」としました。

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二の郭にも土塁が明瞭に残り・・・

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やはりコーナー部分には櫓台がありました。
写真は櫓台の上から、三の郭方向を見ています。案内板の奥に空堀が見えています。

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二の郭と三の郭間の空堀

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三の郭から東の斜面を下り、斜面下に残る遺構を見ていきます。
上写真正面は、先の縄張図aの土塁(横から)。

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一の郭~二の郭間の空堀下には、静岡の丸子城にもあるような半円状の橋頭保bが築かれていました。
横堀と土橋の先に続く半円状の削平地が、写真でおわかりいただけますでしょうか・・・?

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こちらは四の郭への虎口
ちょっとわかりづらいですが、やはり左へ折っています。
この虎口の先にはもう一つ、北側の斜面からのルートに繋がる虎口があり、そちらは内枡形のように土塁で受けていました。差し詰め「二重枡形虎口」と言ったところでしょうか。

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四の郭西面の土塁
あちらの土塁の先は・・・

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深い堀切になっています。

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その堀切から北側の斜面には、竪堀も落とされています。
写真は竪堀を横から撮影したもので、水色の服の同行者が立っている辺りが竪堀の底。

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四の郭からしばらく何もない尾根をダラダラと下った先、cの削平地に転がっていた五輪塔などの石材。
専門の方によると、宝篋印塔の形状から16世紀頃のものではないか、とのことでした。

九の郭を含めた山麓付近の削平地には寺院、或いは畑の跡のような雰囲気も感じ、四の郭との間に何もなかったことも踏まえ、果たして城の遺構としていいのかは参加者一同、少々懐疑的でした。
dの辺りには、池・滝・弁天島などを備えた庭園跡とも受け取れる痕跡がありました。

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六の郭の幅広な土塁上から、五の郭との間の堀切を見る。

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最後に八の郭へ。
写真は一の郭(左)と八の郭間の堀切。
ここには土橋がなく、一の郭の切岸との高低差から橋を架けることもできそうにないので、八の郭は完全に独立した郭だったことになります。

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八の郭南端の虎口の先には土橋が架かり、土橋の左は切岸、右は空堀になっていました。
この土橋を進み、空堀に沿って右へカーブした先は・・・

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土塁を広げたような削平地が設けられていました。
右が八の郭との間の空堀。

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その空堀から、正面に八の郭からの土橋を見る。

さて、これにて釆女城攻めは終了です。
一通り観てまわった印象としては、とにかく規模がデカい!とても一土豪・国人クラスのお城とは思えませんでした。
やはり織田軍が占拠した後、自らの軍事拠点として改修の手を加えたのではないでしょうか。

この後は亀山市の峯城へ向かいます。

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2017年12月23日 (土)

竹ヶ鼻城水攻めの舞台

白鬚神社~八神城跡とまわった後は、羽柴秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの舞台をめぐります。

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羽島市歴史民俗資料館前に建つ竹ヶ鼻城本丸之址碑。
竹ヶ鼻城の遺構はほぼ全て失われていますが、資料館付近が本丸跡と推定されているようです。

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資料館向かい、竹鼻別院の門前に建つお城地蔵大菩薩
慶長5年(1600)、織田秀信の配下にあった竹ヶ鼻城は関ヶ原合戦の直前、福島正則ら東軍に攻められて落城しています。
この時の戦没者を供養しようと、昭和になって建立されました。

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羽島郵便局前に建つ一夜堤の跡
※後出地図(以下略)a

慶長5年から遡ること16年の天正12年(1584)4月、長久手での戦闘で徳川家康の軍勢に敗れた羽柴秀吉は、その矛先を家康と連携する織田信雄へ向けます。
同年5月、まずは信雄方の加賀野井城を落とし、更に竹ヶ鼻城へと迫りました。
竹ヶ鼻城の東には足近川から分岐した逆川の堤防があったため、北から西、南にかけて堤を築き、足近川から水を引き入れて城を水攻めにしました。
aの石碑の東、逆川と交錯する付近には「下土手」という交差点もあります。

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aの石碑から西へ進み、県道151号と交わる「竹鼻町蒲池」交差点に建つ石碑b

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bから県道151号を北東方向へ進んだ「竹鼻町今町」交差点付近に建つ石碑c
碑の建つ場所がまさに堤跡であることを示すかのように、写真奥の地形が下っていますし、堤跡のライン上と思われる通りの延長上には・・・

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とても興味深い土盛りが残っていました。
上には小さな祠が建っています。だからこそ、奇跡的に消失を免れた堤の一部ではなかろうかと密かに考えています。

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石碑abのライン上に、北西方向へ進んだ先。
この通りも堤の跡だろうとおもっていたら・・・

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やはり通り沿いの斎場の敷地に石碑dが建っていました。

以上の4基で、一夜堤石碑めぐりはコンプリートです。

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ラストは竹ヶ鼻城の北西1㎞、間島太閤山跡の碑。
その昔、旧間島村には40m四方ほどの丘陵があり、竹ヶ鼻城を水攻めにする秀吉が本陣を布いた場所と伝えられています。

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その丘陵も宅地等の造成でかなり失われたようですが、八幡神社の建つ部分だけが今でも残されています。

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太閤山の八幡神社。
実際に上まで登ってみましたが、樹木に遮られ、残念ながら竹ヶ鼻城方向の視界はききませんでした。

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間島太閤山碑の裏に並べられていた五輪石。
丘陵削土の際に出土したもので、水攻めによる戦没者を祀ったものではないかと考えられています。

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太閤山の付近で足近川・逆川が、長良川より分水していました。
逆川はこの先、竹ヶ鼻城の東側を通ることになります。

今回めぐった地を現在の地図に落とし込むと下のようになります。

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こうして見ていくと、秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの全容、その規模が見えてくるような気がしませんか?

水攻めにより孤立した竹ヶ鼻城は同年6月、秀吉方の降伏勧告を受け入れて開城します。
そしてその16年後、再び歴史の表舞台に登場し、最期の花を咲かせることになるのでした。

さて、旅の初日の行程はこれにて終了です。
2日目は三重県へ移動しての城攻めとなります。

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2017年12月22日 (金)

八神城と金宝寺

白鬚神社参拝後は昼食を挟み、羽島市桑原町の八神城跡へ向かいます。

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木曽川の畔に建つ八神渡船の跡碑を眺めつつ・・・

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まずは金宝寺へ。
八神城主・毛利氏の菩提寺です。

八神毛利氏は土岐・斎藤・織田氏などに仕えた一族で、江戸時代に入ると尾張徳川家で2000石(当初は3000石)を宛がわれました。

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特別に本堂へ上げていただき、江戸時代の古絵図を元に製作された八神城の模型や・・・
(模型の一番奥が金宝寺。この位置関係を参考に、後ほど城跡を歩きます)

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毛利氏が徳川家から拝領した駕籠を拝観させていただきました。

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駕籠は江戸中期の作と推定されています。
装飾の美麗さは、相当な格式を思わせました。

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毛利氏歴代(初代~13代)の墓所

金宝寺を辞した後は、八神城の主郭があったと思われる方向へ向かって歩きます。

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左奥の大きな銀杏の木を目印に進みます。
写真右に見えている土塁のような土盛りも気になるところ・・・。

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市の天然記念物に指定されている銀杏の足元には、八神城の土塁が僅かに残っていました。
ちなみにこの銀杏、推定樹齢は300年以上で、毛利氏が移植したものと云われています。
なお、現在も八神氏のご子孫がお住まいで、先に訪れた金宝寺のご住職も縁戚なのだそうです。

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周辺には堀跡を思わせる箇所もありましたが、正確な位置関係は把握しきれませんでした。
また、周辺には八神城の移築門が2基現存しているそうですが、事前に下調べをしていなかったので見逃しました。

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2017年12月21日 (木)

白鬚神社 (道三・信長別れの地)

またまた岐阜への旅です。
2017年は本当によく岐阜県にお邪魔しました。数えたところ、今年だけで8回目とか・・・(笑)

 

いつもお世話になっている流星☆さんと岐阜羽島で待ち合わせ、まず最初に連れて行ってもらったのは・・・

 

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笠松町田代の白鬚神社

 

又、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。廿町許り御見送り侯。
(信長公記 首巻「山城道三と信長御参会の事」より抜粋)

 

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天文22年(1553)4月20日、富田の正徳寺斎藤道三と会見した織田信長は、会見終了後、道三を廿町許り見送って、この地で別れの儀式を執り行ったと伝えられています。

 

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白鬚神社の北方2㎞を流れる境川
美濃・尾張の国境となる木曽川の、この当時の本流はこちらの境川でした(まさに“国境の川”)。つまり、笠松は今でこそ岐阜県ですが、当時は尾張の一部だったということになります。
信長は美濃へ帰る道三を、国境ギリギリまで見送りに来た、ということになるのでしょう。
※天正14年の洪水でほぼ現在の流路に変わる。但し天正10年の段階で、美濃を領する織田信孝と尾張の信雄が、国境を木曽川(現境川)にするか「大川(現木曽川)」にするかで揉めているので、この段階で既に現在の木曽川も遜色ない規模を誇っていたものと考えられる。

 

但し、1点疑問もあります。
太田牛一は「信長公記」の中で、(正徳寺から)廿町許り御見送りした、と記しています。廿町とはおよそ2.2㎞
ところが、正徳寺(聖徳寺)跡から白鬚神社までは7~8㎞ほどもあり、いくらなんでも距離が一致しません

 

ちなみに正徳寺から2㎞前後の距離には後年(1556)、道三が嫡子の義龍と対立した際、その救援のために出撃した信長が、義龍軍との戦闘(大良の戦い参照記事)に備えて着陣した大浦の寺砦があります。大浦の寺砦に入った信長軍はその北方、現在の笠松町北及の辺りで義龍軍との戦闘に及んだと云われています。
その北及は白鬚神社のすぐ南。正式な(当時の)国境は越えていますが、この近辺まで斎藤家の勢力が既に及んでいたのだとすれば、案外、会見後に信長が道三を見送ったのも大良(大浦)の辺りまでだった可能性もあるのでは?・・・などと、勝手に想像を膨らませています。

 

※「信長公記」天理本には、

 

萩原之渡廿町計御見送候

 

とあり、聖徳寺を出た二人が同道して別れた場所を、日光川(木曽川支流)の萩原の渡し(天神の渡し)としています。
萩原の渡し跡は聖徳寺から美濃路を南東へ2㎞ほど行った先で、廿町計という牛一の記述とも距離は一致します。
しかし、聖徳寺を起点にすると白鬚神社とはまるで反対の方角で、むしろ道三の方が信長を見送ったような印象さえ受けます。
「信長公記」の史料価値は周知のところなので、そうなると白鬚神社で別れたとする伝承の信憑性を量る上でも、その典拠を知りたいところです。

あかなべ
と申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。

(同)

 

信長と別れて美濃に入った道三は、あかなべ(岐阜市茜部)まで来たところで、
「信長はやはり“たわけ”でしたな」
と言う猪子に対し、
「ならば無念なことだ。私の子供は将来、その“たわけ”の門前に馬を繋ぐことになる(家来になる)であろう」
と呟いたとか。
その後の歴史は・・・周知の通りです。

 

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ところで、白鬚神社の境内には蓮台寺遺蹟の石碑が建っていました。
付近の笠松町長池東流地区で昭和32年、土地改良工事によって古代寺院(蓮台寺、或いは東流廃寺とも)のものと思われる塔の礎石が出土しています。

 

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白鬚神社の境内に安置されている塔の出土礎石(半分)
この礎石の大きさから、塔の高さは30mほどもあったのではないかと考えられています。
何故か半分に割られ、もう一方は東別院(西宮町)に保管されているようです。

 

そういえば白鬚神社の所在地である「田代」は「でんだい」と読むそうです。
「蓮台(寺)」⇒「でんだい」と、地名の由来になっていたのかもしれませんね。

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2017年12月14日 (木)

近江丸山城 (丹羽砦)

直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取出仰せつけられ、丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通路をとめ、
(信長公記 巻三「あね川合戦の事」より抜粋)

元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した織田信長は7月1日、佐和山城 へ軍勢を寄せ、北の山に砦(物生山城…参照記事)を築かせて市橋九郎右衛門に守らせ、南の山※1に水野信元、西彦根山※2には河尻秀隆を配し、百々屋敷にも砦を築かせて丹羽長秀を置き、東西南北の四方から佐和山城を包囲させています。
※1 里根山。現在はほぼ全域がゴルフ場。
※2 実際に砦が築かれたのは、彦根山のすぐ東にあった尾末山とされている。彦根城築城の際、周辺の湿地帯埋め立てのために切り崩されて消滅。現在の尾末町


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ちなみにこちらが、尾末町越しに彦根城から見る佐和山城(河尻秀隆目線)

「百々屋敷」の跡地とされるのは佐和山城跡の東約1km、国道8号線沿いの彦根トラックステーション一帯
しかしこの場所は、佐和山城からあまりに至近な上に全くの平坦地で、とても包囲網を維持するのに適した占地とは言えそうにありません。
そのため、その更に南東500mほどにある近江丸山城(以下「丸山城」)を、「信長公記」の著者・太田牛一が百々屋敷と記した場所と比定する見解があります。(他に、百々氏が東山道摺針峠の関を守っていたことから、同所付近とする説も)
※但し、牛一が東にだけ「」の一字を用いていないことが若干引っ掛かりますが・・・。

という訳で今回、その丸山城にアタックさせていただくことにしました。
(お付き合いいただいた方々には本当に感謝!)

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鳥居本の旧中山道から県道239号を東へ折れ、名神高速のガード下を潜ってすぐの場所からアタック開始です。
こちらは、丸山城のある尾根の1本北隣りの尾根になりますが、城跡は鳥居本町と小野町の境界線上に築かれており、南の小野町側は入山を禁じているようなので、こちらから登って隣りの尾根へと移動し、町の境界線ギリギリに沿って歩いていきます。

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登り始めるとすぐ、小さな神社の境内に出ます。
ここから更に、右手の山道を登っていきます。
※この神社の脇、尾根下には百々家先祖代々之墓が建っていました。詳細は分かりませんが、「百々屋敷」の百々氏に関係しているのではないでしょうか。

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しばらくすると鉄塔の足元に出ます。
その付近から丸山城の方向を見た様子・・・城跡は樹間に覗く尾根上にあります(本当は鉄塔付近の視界はもっと開けていたのですが、写真を撮り忘れました…)。
あちらの尾根へ向かい、まずは鉄塔の先で獣道を少し下り、鉄塔管理用のものと思われる山道を登り直し、2つの尾根の間にある谷戸を迂回するようにして移動していきます。

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尾根を移ると、別の鉄塔の足元に出ました。
奥には佐和山のピーク(本丸)が見えています。

丸山城はこの鉄塔から、西へ少し下った先になります。
鉄塔からしばらくは、きつい藪を掻き分けての行程となりました。

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ようやく尋ね当てた、城域の東端と思われる切岸?土塁?による段差。
なお、左手のフェンスが鳥居本町と小野町の境界線になります。

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北側には腰曲輪状の平坦地も。

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主郭と思われる最上段の曲輪の切岸。
一段低い平坦部(写真左)と、鏡石を思わせる大石が虎口を連想させました。
(※個人的感想です)

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境界フェンスの向こう、小野町側には土塁らしきものが主郭から西へ、2段ほどの曲輪跡を取り巻いていました。
※写真はフェンスから手を伸ばして撮影しています。

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城域西端付近にあった・・・竪堀?

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城域西端の土塁を外側から。
段差は割とハッキリと残っています。

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城域内は視界が利かなかったので、少し下った先から見る佐和山城の遠景
丹羽長秀の手勢は、この距離間で佐和山城と対峙していたのでしょうか。

佐和山の右の尾根続きには、市橋九郎右衛門の北の山(物生山城)が見えていますし・・・

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少し左へ目を転じると、水野信元の南の山まで見渡すことができます。
まさに元亀元年7月~翌2年2月までの佐和山城包囲戦の舞台を、一望の元に収める光景です。

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下山後、佐和山城との間を通る旧中山道(東山道)から遠望する丸山城。

北の物生山城に比べ、丸山城の遺構自体は見るべくもない※3ですが、こうして実際に現地に立てる喜びは、やはり何物にも代えがたい喜びがあります。
※3 確認できた遺構範囲も狭く、100人も入れば満員になってしまうような規模でしたので、もし丸山城が佐和山城包囲の東の付城であるならば、尾根全体にもっと広く兵を展開させていたものと思います。

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2017年12月13日 (水)

彦根城 (登り石垣めぐり)

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山城踏査会&忘年会の明けた旅の2日目、まずは久しぶりの彦根城へ。
腰巻・鉢巻石垣を眺めつつ、表門へまわります。

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彦根にはここ数年の間にも何度か訪れていますが、彦根城を攻めるのは実に12年ぶり。
今回は絵図にある5本の登り石垣を中心に、じっくりと観てまわります。

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表門の脇を固める1の登り石垣。

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天秤櫓下の大堀切にて。
廊下橋の橋脚の奥(写真中央)、平に均された石垣の窪みが本来の橋脚跡なのだそうです。

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天秤櫓

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鐘の丸から大手門へと続く2の登り石垣。
ここでも城の導入路を、登り石垣で遮断している様子がよく見てとれます。

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2の登り石垣を、大手門側から見上げた様子。

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本丸到着後、天守よりも先に「ひこにゃん」を撮る人を撮る人を撮る(笑)
※いいオヂサンたちですw

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本丸から佐和山城跡の眺め。

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本丸から、表御殿の裏門へと続く3の登り石垣。

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天守の背後に飛行機雲がかかり、あたかも狼煙が上がったかのような・・・!?
この日は「ブラタモリ」彦根編の放映翌日でしたが、朝早い時間帯だったため、天守内部も待ち時間なしで見学できました。

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西の丸から天守を見上げる。
台風の影響による漆喰の剥がれが痛々しい・・・。
(修復のための募金に少しばかり、協力させていただきました)

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西の丸三重櫓も見学。

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三重櫓から山崎曲輪方向の眺め。

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西の丸と出曲輪間の大堀切。

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この堀切の両サイドにも、竪堀や登り石垣が落とされています(←可笑しな日本語…)
写真は4の登り石垣を上から見た様子。

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同じく、登り石垣4を下から。

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旧藩主の下屋敷、楽々園。
松原内湖や伊吹山、佐和山を借景にした眺めが自慢だったとか。

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玄宮園より天守を望む。
池の逆さ天守にまで、漆喰の剥がれが・・・。

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玄宮園の茶室にて、しばし一服。
茶室の柱と縁側の柱、2本の柱が1本に重なるこの位置が、お殿様のためのポジション。

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続いて山崎曲輪へ・・・奥に山崎門。

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往時は山崎門からあちらの対岸へ、橋が架けられていました。

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米蔵(今は梅林)へと続く門跡。
この左側の石垣から・・・

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それは見事な登り石垣5が続いていました。

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彦根城・・・改めて「近世城郭もいいな」と思わせてくれる素晴らしい城郭でした。

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最後に若き井伊直弼が過ごした埋木舎を見て・・・

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開国記念館でこちらの企画展を見学してから、彦根城とはお別れ。

この後は今回の旅、最後の目的地へ。

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2017年12月12日 (火)

男鬼入谷城 …山城踏査会&忘年会2017

年の瀬の足音も少しずつ聴こえてくる12月9日、毎年恒例の山城踏査会&忘年会に参加させていただきました。
今年の踏査地は彦根市の山中、標高685mに眠る男鬼入谷城(おおりにゅうだにじょう/別名「近江高取城」とも)。

参加者は総勢18名。朝の交通機関の乱れに若干翻弄された方もいたものの、無事に鳥居本公園で全員集合し、城跡の麓までは車3台に分乗し、林道をひたすら進みます。

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なかなかハードな林道を40分ほども走ったでしょうか・・・山深い地にひっそりと佇む男鬼の集落に到着しました。
実はここ、既に廃村となって久しいのだとか。その割に荒れていないのは、今でも定期的に手入れされているからなのだそうです。
「男鬼」という地名にも何か、歴史・云われがありそうですが・・・そこまで追及していると深みにハマりそうなので、今回はスルーで。←

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集落の外れに建つ、比婆神社の鳥居。
まずはここから九十九折れの参道を伝い、集落の背後にそびえる山の頂きを目指します。

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鳥居からひたすら登り続けること3~40分、ようやく比婆神社に到着。

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比婆神社
伊邪那美大神を祀ります。

男鬼入谷城跡へは、この社殿裏の尾根上を更に進み、ピークまで達したら尾根に沿って左へ折れ、そこからは少し下ります。

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下った先、尾根の鞍部にあった堀切と土橋のような痕跡。
この先、再びしばらく登ると・・・

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ようやく城跡に到達します。いきなり凄い切岸がお出迎え。
なお、城域には西側からのアプローチとなります。当記事での各曲輪の呼称は、彦根市教育委員会のものに準拠することとします。

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最西端のⅢ郭から、尾根に沿って東へ連なる曲輪群を見る。
切岸による段差が明瞭に確認できます。

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城跡付近からの風景。
男鬼入谷城はご覧のような山深い地に眠り、主要な街道や耕作地を得るための平地からも離れています。
確かな文献史料でも一切、その名を確認することができないため、現在に至るまで築城者や来歴などを確定できない謎の城とされています。

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Ⅲ郭から南へ伸びる急勾配の尾根を覗いた様子。
一段下には腰曲輪、その先にも何か見えていますね。まずはこの尾根を下ってみます。

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尾根の斜面に残っていた、石積みを思わせる痕跡。

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更に急斜面を慎重に下ると、その先には堀切が2本切られています。
こちらが1本目で・・・

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そして2本目。
あまりに細い上に、これほどの急斜面に果たして堀切が必要だったのか?との疑問も禁じ得ず・・・
個人的な印象としては、堀切というよりは塹壕、といったところかな。

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再び曲輪群に戻り、東へ進みます。
切岸によって曲輪が幾段にも築かれています。写真手前には堀切、奥の一番高い部分がⅡ郭になります。

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先ほどの堀切から北側へ落とされている竪堀。
この付近で一旦、昼食休憩をとりました。

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Ⅱ郭
2段に削平されています。

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Ⅱ郭からも南へ、細くて急勾配な尾根が伸びています。
その先にやはり、二重の堀切があるらしいので目指しますが・・・それにしても、いきなり凄い切岸。

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Ⅱ郭南尾根の堀切、その1本目に・・・

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2本目。
堀切先の地形を見ても、いかに勾配のきつい尾根かがおわかりいただけるかと思います。

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Ⅰ郭(主郭か)
Ⅱ郭から更に東へ、削平地を数段上がった先にあり、直列に配置された曲輪群の東端にあたります。
その東端部に、この城跡では珍しい土塁(他にはⅢ郭や、この後にご紹介するⅠ郭南尾根の曲輪で見たのみ)があり、その先には・・・

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切岸の直下に三重堀切が!
ちょうど各堀底付近に、同行者たちが立っています。

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三重堀切越しに、Ⅰ郭の切岸を見る。
こちらから見上げると、Ⅰ郭の切岸はまさに絶壁。Ⅰ郭の背後をこの切岸と三重堀切で、がっちりと固める意図を感じ取れます。

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さて、Ⅰ郭からもやはり南へ尾根が伸び、その先にも遺構が残っています。
写真は逆さコの字型の土塁に囲まれた曲輪。
今回用いた図面によると、その先の急斜面を下ると・・・

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畝状竪堀状の遺構があるらしかったのですが・・・これか?

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堀切はどれも、規模が小さかったようですね。

このように男鬼入谷城は、南側へ向けて(堀切の規模はともかくとして)防御をしっかりと固めているのに対し、踏査はしていませんが図面で見る限り、北側にはこれほどの対策を講じていなかった模様。
地形図や地図で確認すると、城山の南麓には多賀町の平野部へと連なる谷筋のルート(現在の県道17号)があったようです。城山の周辺に、やけに寺社が集中していることも気にかかります。
また、城跡は北の男鬼町と南の多賀町との、ちょうど境界線上にあたる尾根に築かれた山城でもあります。これらの諸条件の中に、或いは男鬼入谷城の謎に迫るヒントがあるのかも・・・と思いましたが、私にはこれ以上迫れそうにもありません。

男鬼入谷城、その遺構も充分に堪能させていただきましたが、何より、これほどの城跡が確かな文献上では全く確認できないという不思議にも魅かれる・・・そんな存在でした。
(一部、江戸期の記録に「川原豊後守」なる人物が、城主として伝えられているそうですが)

さて、なんとか冬の早い日没前に無事下山し、彦根駅前へ戻った後は、これまた恒例の忘年会
踏査会にはお仕事の都合で来れなかったN井先生も合流し、楽しくマジメに?盛り上がりました。
来年も皆さんと楽しい城攻め、史跡めぐりをご一緒できることを祈念しつつ・・・今回はこれにてお開き、ありがとうございました。

※旅の記事は2日目へつづきます。

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2017年12月 3日 (日)

谷保城 (三田氏館跡)

本日は国立市の谷保城へ。
くにたち郷土文化館の東方300mほどに位置します(城山公園)。

谷保城は古くから「三田氏館」などと呼ばれ、(主に現在の青梅地方に勢力を張っていた)中世三田氏に関係する城跡遺構との見方もありますが、鎌倉幕府の御家人・津戸氏が城主だったとする史料も存在するようで、その成り立ちや歴史の詳細については不明です。
(主郭跡に現在もお住まいの、所有者の方のお名前も・・・?!)
立川崖線の一段下、南へ張り出した青柳崖線(崖線=ハケ/共に多摩川による河岸段丘)の縁に築かれた、南北に長い長方形の城館跡のようです。

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城館の北西付近から探索スタート。私有地につき立ち入ることができませんので、小道からこの距離感での見学。
井戸の向こうに横堀が見えています。その奥が主郭部。

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北西コーナー部分の横堀。

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北西端から南の方向。

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次はこちらから、城館の東面に沿って南へ進みます。

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紅葉も綺麗でした。

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当初、「東面の堀はやけに規模が大きいな」と思いましたが、後で地形図で確認してみると、どうもこれは人工的な堀ではなく、青柳崖線に注いでいた沢か何かによる自然の谷の名残のようです。
谷保城は青柳崖線と、それに流れ込む谷の角の部分を利用して築かれていたということになりますでしょうか。

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東面の土塁に残っていた、虎口のような窪み。

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南面、青柳崖線の縁。

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南側にも藪の影に、横堀のような窪みが覗いていましたが・・・古くからの用水(府中用水)の名残かもしれません。

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城山公園の南西には、古民家が移築復元されています。
郷土文化館と共に、城跡散策のついでに立ち寄るのもいいかもしれません。

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2017年12月 2日 (土)

安養寺 (岐阜県郡上市)

先日の記事でも少し触れましたが、城友会で郡上八幡城を訪れた際、麓の安養寺にも立ち寄りました。

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遠郷山安養寺本堂
昭和11年の再建ですが、岐阜県下最大規模の木造建築とのことです。

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安養寺宝物殿

安養寺は、「宇治川の先陣争い」で有名な佐々木高綱(近江源氏)の三男・高重が出家して西信と号し、近江蒲生郡に創建した安要寺が始まりとされます。
その後は長い歴史の中で各地を転々とし、本願寺八世蓮如の命で寺号を安養寺に改め、戦国期には美濃国大島村(現白鳥町)に移っています。(天正6年から八幡中坪村園野→明治の大火による焼失後、現在地へ)
第十世住職乗了の時には石山合戦にも参戦していて関連する文書も多く、それらは「石山合戦関係文書及び安養寺文書」として岐阜県の重要文化財に指定され、その一部をこちらの宝物殿で拝観することができます。

本願寺十一世顕如が各地の真宗門徒へ宛てて、
織田信長の上洛より、一昨年以来いろいろと難題を懸けられ、随分な扱いにも何とか応じてきたが、その甲斐もなく、本願寺を破却すべき旨を通告してきた。この上は身命を顧みず、忠節に抽んでて(本願寺のために)馳走を頼み入る。もし無沙汰する者は永く門徒とは認めない」
と発した、いわゆる檄文も展示されていました。

その他、

武田信玄/朝倉義景からの書状
本願寺教如の石山退去前後二通の書状(※後述)
足利義昭御内書

などもありましたが、それらの展示文書の中で少々意外だったのは;

織田信長地子免除安堵朱印状

です。その全文は以下の通り。

依今度忠儀、當寺
境内寺領地子
以下之事、令免除
之訖、永不可有
相違者也

天正三年
   五月三日 信長(朱印)


「地子」とは土地に架かる租税のようなもので、本史料は安養寺に対し、境内寺領の地子免除を安堵したものです。
宝物殿の説明には;
「織田の圧力を受けて飛騨白川へ退避していた安養寺は、この安堵状を以て大島へ戻った
とありましたが、天正3年の5月といえば、信長と本願寺は未だ交戦状態の真っ只中にあります。(一時的な和議が結ばれるのは同年10月)
ましてや、安養寺乗了は後の天正8年に至っても、本願寺顕如が信長と講和して石山を去ることに反対し、教如と共に抗戦する姿勢を示しています。
※前出の二通の教如書状(①顕如退去後も徹底抗戦継続への協力要請/②結局は石山を退去することになった無念の胸の内)が両者の関係を物語るように、安養寺はその後、教如の真宗大谷派に属しています。

そのような安養寺が天正3年5月の段階で、果たして如何なる「忠儀」を信長に示したというのでしょうか・・・?
安養寺の大島退去~帰還を、もう少し後のことだったとする説(天正3年の段階に於いては未だ白川へ退避すらしておらず、退避後の大島帰還も本能寺の変による信長の横死後、とする説など)もあるようで、この天正3年のタイミングで、わざわざ安堵を与えるような接触が信長と安養寺の間にあったのかも含め、まだまだ解明が待たれる謎が多そうです。

※一つ気になるのは、郡上で勢力を張っていた遠藤氏の存在。
永禄12年(1569)、飛騨の三木自綱と結託した父の旧臣・畑佐某の攻撃を受けた遠藤慶隆は、安養寺の助けを借りてこれを撃退しています。
慶隆は信長の稲葉山城制圧(永禄10年)以後、元亀3年の一時期、武田信玄が西上を始める頃には武田に誼を通じる動きも見せたようですが、基本的には織田家に従属しています。
そして天正3年の5月3日といえば、長篠設楽原合戦(同月21日)のまさに直前。遠藤氏も信長軍(佐久間信盛寄騎)に従って参戦しています。
こうした情勢も相まって安堵状の影信長と安養寺の間に、或いは遠藤氏の存在が絡んでいたのかなぁ~と想像を逞しくしています。
(いずれにしてもこの安堵状は、安養寺の大島帰還問題とは直接的な関係はないものと、個人的には考えます)


宝物殿には他に、本願寺九世実如の裏書のある絹本著色親鸞聖人御影や、宇治川の川底に張られた綱を切ったと云う佐々木高綱の太刀綱切丸!?なども展示されていました。

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2017年12月 1日 (金)

広瀬城、小島城、増島城 城友会2017…③

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飛騨の国人・広瀬氏が築いたと云う広瀬城(高山市国府町名張)
まずは北端の現在地とある地点から、尾根伝いに南へ進みます。

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aの堀切
1本目はちょっと薄かったのですが・・・

20171126b03
2本目は竪堀もしっかりと落とされ、なかなか見応えがありました。

20171126b04
b曲輪
縄張図でb曲輪の北側に描かれている畝状竪堀は、残念ながら草木に覆われて殆ど見ることができませんでした。

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c曲輪(本丸か)

20171126b06
c曲輪西側の切岸を下る。
下った先は堀切(d)になっています。

20171126b07
下ってきたc曲輪の切岸を下から見上げる・・・結構な絶壁ですね。

そのままe曲輪方向へ向かって進むと・・・

20171126b08
本当に見事な畝状竪堀群が現れました。

20171126b09
この畝状竪堀、縄張図にもあるようにe曲輪の三方をグルリと取り巻いています。
写真は北面から西面にかけてのコーナー部分。

20171126b10
e曲輪西面の畝。
この先、南面も目視では畝を確認できたのですが、結構な藪でしたので写真はありません。

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畝状竪堀群の先にある堀切。
e曲輪周辺は本当に見応えがありました。

20171126b12
城内に建っていた「田中筑前守」の墓碑。
詳しくは分からないのですが、「飛州志」に;
同郷名張村にあり旧称広瀬の城と云う。広瀬宗城家臣田中与左衛門之を守る
とあり、田中氏は広瀬氏の家臣で、この広瀬城(別名:田中城)の城代を務めていたようです。
※但し、墓碑(右)には永正年間の年月日が刻まれていましたので、天正11年に討死している広瀬宗城の家臣だったという田中与左衛門と筑前守は別人となります。

さて、この後は小鷹利城へ向かいましたが、城跡が近付くにつれて深くなる残雪に前日の二日町城(の林道)を思い出し、急遽予定を変更して小島城を攻めることになりました。

20171126b13
小島城(飛騨市古川町)は小島姉小路氏の拠点だったようです。
※姉小路氏は小島・向・古川の三氏に分かれている。

20171126b14
林道終点の駐車スペース付近(東)から、城攻めをスタート。
・・・早くも主郭部が見えています。

20171126b15
一段高い、東屋の建つ位置が主郭。

20171126b16
小島城主郭

20171126b17
主郭から櫓台方向を振り返る。

20171126b18
主郭から西へ進み、細い曲輪の先端のような場所には枡形虎口。
ここから一段下りて時計回りに回り込むと・・・

20171126b19
石垣が一部、残っていました。

20171126b20
往時は一面に積まれていたのでしょうね。

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石垣の前から、aの急斜面をロープ伝いに下りていきます。

20171126b22
細い尾根上に築かれた段曲輪をいくつか過ぎ、「小島古城跡」の石碑を越えて更に進むと・・・

20171126b23
城域の西端を仕切る大きな堀切(b)がありました。

20171126b24
竪堀も綺麗に落とされています。

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主郭へ戻る途中、呆然と見上げたaの斜面・・・下りたからには登らなければならない訳で(;^ω^)

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城友会2017、ラストは飛騨で唯一という平城の増島城(飛騨市古川町片原町)です。
街中に本丸の櫓台(天守台)石垣と堀だけが僅かに残されています。

増島城は飛騨を制圧した金森氏によって築かれ、長近は高山城を築いて居城とし、増島城には養子の可重を入れました。
可重が二代高山藩主になると、増島城にはその長男・重近(宗和流茶道の祖)が入りますが、元和の一国一城令により「古川旅館」と改称し、更に元禄5年(1692)には金森氏が出羽へ移されて高山は天領となり、幕命により増島城は破却されました。


さて・・・事故も熊との遭遇もなく、城友会2017は無事に終了です。
この後は岐阜駅まで送っていただき、解散となりました。今年の城友会もあっという間に過ぎ去ってしまったなぁ・・・来年はどこになるかな?

また1年後を楽しみに・・・おしまい。

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