竹ヶ鼻城水攻めの舞台
白鬚神社~八神城跡とまわった後は、羽柴秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの舞台をめぐります。
羽島市歴史民俗資料館前に建つ竹ヶ鼻城本丸之址碑。
竹ヶ鼻城の遺構はほぼ全て失われていますが、資料館付近が本丸跡と推定されているようです。
資料館向かい、竹鼻別院の門前に建つお城地蔵大菩薩。
慶長5年(1600)、織田秀信の配下にあった竹ヶ鼻城は関ヶ原合戦の直前、福島正則ら東軍に攻められて落城しています。
この時の戦没者を供養しようと、昭和になって建立されました。
羽島郵便局前に建つ一夜堤の跡碑
※後出地図(以下略)a
慶長5年から遡ること16年の天正12年(1584)4月、長久手での戦闘で徳川家康の軍勢に敗れた羽柴秀吉は、その矛先を家康と連携する織田信雄へ向けます。
同年5月、まずは信雄方の加賀野井城を落とし、更に竹ヶ鼻城へと迫りました。
竹ヶ鼻城の東には足近川から分岐した逆川の堤防があったため、北から西、南にかけて堤を築き、足近川から水を引き入れて城を水攻めにしました。
※aの石碑の東、逆川と交錯する付近には「下土手」という交差点もあります。
aの石碑から西へ進み、県道151号と交わる「竹鼻町蒲池」交差点に建つ石碑b。
bから県道151号を北東方向へ進んだ「竹鼻町今町」交差点付近に建つ石碑c。
碑の建つ場所がまさに堤跡であることを示すかのように、写真奥の地形が下っていますし、堤跡のライン上と思われる通りの延長上には・・・
とても興味深い土盛りが残っていました。
上には小さな祠が建っています。だからこそ、奇跡的に消失を免れた堤の一部ではなかろうかと密かに考えています。
石碑a~bのライン上に、北西方向へ進んだ先。
この通りも堤の跡だろうとおもっていたら・・・
やはり通り沿いの斎場の敷地に石碑dが建っていました。
以上の4基で、一夜堤石碑めぐりはコンプリートです。
ラストは竹ヶ鼻城の北西1㎞、間島太閤山跡の碑。
その昔、旧間島村には40m四方ほどの丘陵があり、竹ヶ鼻城を水攻めにする秀吉が本陣を布いた場所と伝えられています。
その丘陵も宅地等の造成でかなり失われたようですが、八幡神社の建つ部分だけが今でも残されています。
太閤山の八幡神社。
実際に上まで登ってみましたが、樹木に遮られ、残念ながら竹ヶ鼻城方向の視界はききませんでした。
間島太閤山碑の裏に並べられていた五輪石。
丘陵削土の際に出土したもので、水攻めによる戦没者を祀ったものではないかと考えられています。
太閤山の付近で足近川・逆川が、長良川より分水していました。
逆川はこの先、竹ヶ鼻城の東側を通ることになります。
今回めぐった地を現在の地図に落とし込むと下のようになります。
こうして見ていくと、秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの全容、その規模が見えてくるような気がしませんか?
水攻めにより孤立した竹ヶ鼻城は同年6月、秀吉方の降伏勧告を受け入れて開城します。
そしてその16年後、再び歴史の表舞台に登場し、最期の花を咲かせることになるのでした。
さて、旅の初日の行程はこれにて終了です。
2日目は三重県へ移動しての城攻めとなります。
羽島市歴史民俗資料館前に建つ竹ヶ鼻城本丸之址碑。
竹ヶ鼻城の遺構はほぼ全て失われていますが、資料館付近が本丸跡と推定されているようです。
資料館向かい、竹鼻別院の門前に建つお城地蔵大菩薩。
慶長5年(1600)、織田秀信の配下にあった竹ヶ鼻城は関ヶ原合戦の直前、福島正則ら東軍に攻められて落城しています。
この時の戦没者を供養しようと、昭和になって建立されました。
羽島郵便局前に建つ一夜堤の跡碑
※後出地図(以下略)a
慶長5年から遡ること16年の天正12年(1584)4月、長久手での戦闘で徳川家康の軍勢に敗れた羽柴秀吉は、その矛先を家康と連携する織田信雄へ向けます。
同年5月、まずは信雄方の加賀野井城を落とし、更に竹ヶ鼻城へと迫りました。
竹ヶ鼻城の東には足近川から分岐した逆川の堤防があったため、北から西、南にかけて堤を築き、足近川から水を引き入れて城を水攻めにしました。
※aの石碑の東、逆川と交錯する付近には「下土手」という交差点もあります。
aの石碑から西へ進み、県道151号と交わる「竹鼻町蒲池」交差点に建つ石碑b。
bから県道151号を北東方向へ進んだ「竹鼻町今町」交差点付近に建つ石碑c。
碑の建つ場所がまさに堤跡であることを示すかのように、写真奥の地形が下っていますし、堤跡のライン上と思われる通りの延長上には・・・
とても興味深い土盛りが残っていました。
上には小さな祠が建っています。だからこそ、奇跡的に消失を免れた堤の一部ではなかろうかと密かに考えています。
石碑a~bのライン上に、北西方向へ進んだ先。
この通りも堤の跡だろうとおもっていたら・・・
やはり通り沿いの斎場の敷地に石碑dが建っていました。
以上の4基で、一夜堤石碑めぐりはコンプリートです。
ラストは竹ヶ鼻城の北西1㎞、間島太閤山跡の碑。
その昔、旧間島村には40m四方ほどの丘陵があり、竹ヶ鼻城を水攻めにする秀吉が本陣を布いた場所と伝えられています。
その丘陵も宅地等の造成でかなり失われたようですが、八幡神社の建つ部分だけが今でも残されています。
太閤山の八幡神社。
実際に上まで登ってみましたが、樹木に遮られ、残念ながら竹ヶ鼻城方向の視界はききませんでした。
間島太閤山碑の裏に並べられていた五輪石。
丘陵削土の際に出土したもので、水攻めによる戦没者を祀ったものではないかと考えられています。
太閤山の付近で足近川・逆川が、長良川より分水していました。
逆川はこの先、竹ヶ鼻城の東側を通ることになります。
今回めぐった地を現在の地図に落とし込むと下のようになります。
こうして見ていくと、秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの全容、その規模が見えてくるような気がしませんか?
水攻めにより孤立した竹ヶ鼻城は同年6月、秀吉方の降伏勧告を受け入れて開城します。
そしてその16年後、再び歴史の表舞台に登場し、最期の花を咲かせることになるのでした。
さて、旅の初日の行程はこれにて終了です。
2日目は三重県へ移動しての城攻めとなります。
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