釆女城
旅の2日目は三重県へ移動し、四日市~亀山の城をめぐります。

移動途中、桑名で旧東海道七里の渡し碑を眺めつつ・・・

浄土寺へ立ち寄り。
徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝の墓所にお参りします。

浄土寺の近代的な山門。
鹿角脇立兜に蜻蛉切・・・洒落てますね。

本多忠勝墓所
彼を追って殉死した家臣らの墓碑も建っていました。
四日市駅前で他の参加者とも合流し、総勢9名で向かった先は・・・

四日市市の釆女城
永禄11年(1568)、足利義昭を奉じての上洛戦の前に織田信長は伊勢に進攻、伊坂城や市場城などに続き、釆女城を攻略して北伊勢を制圧していきます。
この北伊勢攻めをきっかけに神戸具盛や長野具藤が織田方に降伏し、信長は息子の信孝を神戸家へ、弟の信包を長野家へ養子として送り込み、伊勢攻略の地歩を固めていきました。

五の郭への枡形虎口

その枡形虎口を上から・・・綺麗な四角(枡形)をしています。

五の郭と一の郭間の空堀

一の郭の井戸跡

一の郭北面の土塁
郭のコーナー部分(写真奥)は土塁が厚くなっており、櫓が建っていたのではないかと思われます。

一の郭から空堀越しに、二の郭を見る。

一の郭と二の郭間の空堀・・・かなりの規模です。
尾根を分断する「堀切」でいいのでしょうが、不思議と両サイドの縁を削り残して土橋のようにしていたので、あえて「空堀」としました。

二の郭にも土塁が明瞭に残り・・・

やはりコーナー部分には櫓台がありました。
写真は櫓台の上から、三の郭方向を見ています。案内板の奥に空堀が見えています。

二の郭と三の郭間の空堀

三の郭から東の斜面を下り、斜面下に残る遺構を見ていきます。
上写真正面は、先の縄張図aの土塁(横から)。

一の郭~二の郭間の空堀下には、静岡の丸子城にもあるような半円状の橋頭保bが築かれていました。
横堀と土橋の先に続く半円状の削平地が、写真でおわかりいただけますでしょうか・・・?

こちらは四の郭への虎口
ちょっとわかりづらいですが、やはり左へ折っています。
この虎口の先にはもう一つ、北側の斜面からのルートに繋がる虎口があり、そちらは内枡形のように土塁で受けていました。差し詰め「二重枡形虎口」と言ったところでしょうか。

四の郭西面の土塁
あちらの土塁の先は・・・

深い堀切になっています。

その堀切から北側の斜面には、竪堀も落とされています。
写真は竪堀を横から撮影したもので、水色の服の同行者が立っている辺りが竪堀の底。

四の郭からしばらく何もない尾根をダラダラと下った先、cの削平地に転がっていた五輪塔などの石材。
専門の方によると、宝篋印塔の形状から16世紀頃のものではないか、とのことでした。
九の郭を含めた山麓付近の削平地には寺院、或いは畑の跡のような雰囲気も感じ、四の郭との間に何もなかったことも踏まえ、果たして城の遺構としていいのかは参加者一同、少々懐疑的でした。
※dの辺りには、池・滝・弁天島などを備えた庭園跡とも受け取れる痕跡がありました。

六の郭の幅広な土塁上から、五の郭との間の堀切を見る。

最後に八の郭へ。
写真は一の郭(左)と八の郭間の堀切。
ここには土橋がなく、一の郭の切岸との高低差から橋を架けることもできそうにないので、八の郭は完全に独立した郭だったことになります。

八の郭南端の虎口の先には土橋が架かり、土橋の左は切岸、右は空堀になっていました。
この土橋を進み、空堀に沿って右へカーブした先は・・・

土塁を広げたような削平地が設けられていました。
右が八の郭との間の空堀。

その空堀から、正面に八の郭からの土橋を見る。
さて、これにて釆女城攻めは終了です。
一通り観てまわった印象としては、とにかく規模がデカい!とても一土豪・国人クラスのお城とは思えませんでした。
やはり織田軍が占拠した後、自らの軍事拠点として改修の手を加えたのではないでしょうか。
この後は亀山市の峯城へ向かいます。

移動途中、桑名で旧東海道七里の渡し碑を眺めつつ・・・

浄土寺へ立ち寄り。
徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝の墓所にお参りします。

浄土寺の近代的な山門。
鹿角脇立兜に蜻蛉切・・・洒落てますね。

本多忠勝墓所
彼を追って殉死した家臣らの墓碑も建っていました。
四日市駅前で他の参加者とも合流し、総勢9名で向かった先は・・・

四日市市の釆女城
永禄11年(1568)、足利義昭を奉じての上洛戦の前に織田信長は伊勢に進攻、伊坂城や市場城などに続き、釆女城を攻略して北伊勢を制圧していきます。
この北伊勢攻めをきっかけに神戸具盛や長野具藤が織田方に降伏し、信長は息子の信孝を神戸家へ、弟の信包を長野家へ養子として送り込み、伊勢攻略の地歩を固めていきました。

五の郭への枡形虎口

その枡形虎口を上から・・・綺麗な四角(枡形)をしています。

五の郭と一の郭間の空堀

一の郭の井戸跡

一の郭北面の土塁
郭のコーナー部分(写真奥)は土塁が厚くなっており、櫓が建っていたのではないかと思われます。

一の郭から空堀越しに、二の郭を見る。

一の郭と二の郭間の空堀・・・かなりの規模です。
尾根を分断する「堀切」でいいのでしょうが、不思議と両サイドの縁を削り残して土橋のようにしていたので、あえて「空堀」としました。

二の郭にも土塁が明瞭に残り・・・

やはりコーナー部分には櫓台がありました。
写真は櫓台の上から、三の郭方向を見ています。案内板の奥に空堀が見えています。

二の郭と三の郭間の空堀

三の郭から東の斜面を下り、斜面下に残る遺構を見ていきます。
上写真正面は、先の縄張図aの土塁(横から)。

一の郭~二の郭間の空堀下には、静岡の丸子城にもあるような半円状の橋頭保bが築かれていました。
横堀と土橋の先に続く半円状の削平地が、写真でおわかりいただけますでしょうか・・・?

こちらは四の郭への虎口
ちょっとわかりづらいですが、やはり左へ折っています。
この虎口の先にはもう一つ、北側の斜面からのルートに繋がる虎口があり、そちらは内枡形のように土塁で受けていました。差し詰め「二重枡形虎口」と言ったところでしょうか。

四の郭西面の土塁
あちらの土塁の先は・・・

深い堀切になっています。

その堀切から北側の斜面には、竪堀も落とされています。
写真は竪堀を横から撮影したもので、水色の服の同行者が立っている辺りが竪堀の底。

四の郭からしばらく何もない尾根をダラダラと下った先、cの削平地に転がっていた五輪塔などの石材。
専門の方によると、宝篋印塔の形状から16世紀頃のものではないか、とのことでした。
九の郭を含めた山麓付近の削平地には寺院、或いは畑の跡のような雰囲気も感じ、四の郭との間に何もなかったことも踏まえ、果たして城の遺構としていいのかは参加者一同、少々懐疑的でした。
※dの辺りには、池・滝・弁天島などを備えた庭園跡とも受け取れる痕跡がありました。

六の郭の幅広な土塁上から、五の郭との間の堀切を見る。

最後に八の郭へ。
写真は一の郭(左)と八の郭間の堀切。
ここには土橋がなく、一の郭の切岸との高低差から橋を架けることもできそうにないので、八の郭は完全に独立した郭だったことになります。

八の郭南端の虎口の先には土橋が架かり、土橋の左は切岸、右は空堀になっていました。
この土橋を進み、空堀に沿って右へカーブした先は・・・

土塁を広げたような削平地が設けられていました。
右が八の郭との間の空堀。

その空堀から、正面に八の郭からの土橋を見る。
さて、これにて釆女城攻めは終了です。
一通り観てまわった印象としては、とにかく規模がデカい!とても一土豪・国人クラスのお城とは思えませんでした。
やはり織田軍が占拠した後、自らの軍事拠点として改修の手を加えたのではないでしょうか。
この後は亀山市の峯城へ向かいます。
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