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2017年12月 2日 (土)

安養寺 (岐阜県郡上市)

先日の記事でも少し触れましたが、城友会で郡上八幡城を訪れた際、麓の安養寺にも立ち寄りました。

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遠郷山安養寺本堂
昭和11年の再建ですが、岐阜県下最大規模の木造建築とのことです。

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安養寺宝物殿

安養寺は、「宇治川の先陣争い」で有名な佐々木高綱(近江源氏)の三男・高重が出家して西信と号し、近江蒲生郡に創建した安要寺が始まりとされます。
その後は長い歴史の中で各地を転々とし、本願寺八世蓮如の命で寺号を安養寺に改め、戦国期には美濃国大島村(現白鳥町)に移っています。(天正6年から八幡中坪村園野→明治の大火による焼失後、現在地へ)
第十世住職乗了の時には石山合戦にも参戦していて関連する文書も多く、それらは「石山合戦関係文書及び安養寺文書」として岐阜県の重要文化財に指定され、その一部をこちらの宝物殿で拝観することができます。

本願寺十一世顕如が各地の真宗門徒へ宛てて、
織田信長の上洛より、一昨年以来いろいろと難題を懸けられ、随分な扱いにも何とか応じてきたが、その甲斐もなく、本願寺を破却すべき旨を通告してきた。この上は身命を顧みず、忠節に抽んでて(本願寺のために)馳走を頼み入る。もし無沙汰する者は永く門徒とは認めない」
と発した、いわゆる檄文も展示されていました。

その他、

武田信玄/朝倉義景からの書状
本願寺教如の石山退去前後二通の書状(※後述)
足利義昭御内書

などもありましたが、それらの展示文書の中で少々意外だったのは;

織田信長地子免除安堵朱印状

です。その全文は以下の通り。

依今度忠儀、當寺
境内寺領地子
以下之事、令免除
之訖、永不可有
相違者也

天正三年
   五月三日 信長(朱印)


「地子」とは土地に架かる租税のようなもので、本史料は安養寺に対し、境内寺領の地子免除を安堵したものです。
宝物殿の説明には;
「織田の圧力を受けて飛騨白川へ退避していた安養寺は、この安堵状を以て大島へ戻った
とありましたが、天正3年の5月といえば、信長と本願寺は未だ交戦状態の真っ只中にあります。(一時的な和議が結ばれるのは同年10月)
ましてや、安養寺乗了は後の天正8年に至っても、本願寺顕如が信長と講和して石山を去ることに反対し、教如と共に抗戦する姿勢を示しています。
※前出の二通の教如書状(①顕如退去後も徹底抗戦継続への協力要請/②結局は石山を退去することになった無念の胸の内)が両者の関係を物語るように、安養寺はその後、教如の真宗大谷派に属しています。

そのような安養寺が天正3年5月の段階で、果たして如何なる「忠儀」を信長に示したというのでしょうか・・・?
安養寺の大島退去~帰還を、もう少し後のことだったとする説(天正3年の段階に於いては未だ白川へ退避すらしておらず、退避後の大島帰還も本能寺の変による信長の横死後、とする説など)もあるようで、この天正3年のタイミングで、わざわざ安堵を与えるような接触が信長と安養寺の間にあったのかも含め、まだまだ解明が待たれる謎が多そうです。

※一つ気になるのは、郡上で勢力を張っていた遠藤氏の存在。
永禄12年(1569)、飛騨の三木自綱と結託した父の旧臣・畑佐某の攻撃を受けた遠藤慶隆は、安養寺の助けを借りてこれを撃退しています。
慶隆は信長の稲葉山城制圧(永禄10年)以後、元亀3年の一時期、武田信玄が西上を始める頃には武田に誼を通じる動きも見せたようですが、基本的には織田家に従属しています。
そして天正3年の5月3日といえば、長篠設楽原合戦(同月21日)のまさに直前。遠藤氏も信長軍(佐久間信盛寄騎)に従って参戦しています。
こうした情勢も相まって安堵状の影信長と安養寺の間に、或いは遠藤氏の存在が絡んでいたのかなぁ~と想像を逞しくしています。
(いずれにしてもこの安堵状は、安養寺の大島帰還問題とは直接的な関係はないものと、個人的には考えます)


宝物殿には他に、本願寺九世実如の裏書のある絹本著色親鸞聖人御影や、宇治川の川底に張られた綱を切ったと云う佐々木高綱の太刀綱切丸!?なども展示されていました。

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