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2017年12月21日 (木)

白鬚神社 (道三・信長別れの地)

またまた岐阜への旅です。
2017年は本当によく岐阜県にお邪魔しました。数えたところ、今年だけで8回目とか・・・(笑)

いつもお世話になっている流星☆さんと岐阜羽島で待ち合わせ、まず最初に連れて行ってもらったのは・・・

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笠松町田代の白鬚神社

又、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。廿町許り御見送り侯。
(信長公記 首巻「山城道三と信長御参会の事」より抜粋)

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天文22年(1553)4月20日、富田の正徳寺斎藤道三と会見した織田信長は、会見終了後、道三を廿町許り見送って、この地で別れの儀式を執り行ったと伝えられています。

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白鬚神社の北方2㎞を流れる境川
美濃・尾張の国境となる木曽川の、この当時の本流はこちらの境川でした(まさに“国境の川”)。つまり、笠松は今でこそ岐阜県ですが、当時は尾張の一部だったということになります。
信長は美濃へ帰る道三を、国境ギリギリまで見送りに来た、ということになるのでしょう。
※天正13年の洪水でほぼ現在の流路に変わる。但し天正10年の段階で、美濃を領する織田信孝と尾張の信雄が、国境を木曽川(現境川)にするか「大川(現木曽川)」にするかで揉めているので、この段階で既に現在の木曽川も遜色ない規模を誇っていたものと考えられる。

但し、1点疑問もあります。
太田牛一は「信長公記」の中で、(正徳寺から)廿町許り御見送りした、と記しています。廿町とはおよそ2.2㎞
ところが、正徳寺(聖徳寺)跡から白鬚神社までは7~8㎞ほどもあり、いくらなんでも距離が一致しません

ちなみに正徳寺から2㎞前後の距離には後年(1556)、道三が嫡子の義龍と対立した際、その救援のために出撃した信長が、義龍軍との戦闘(大良の戦い参照記事)に備えて着陣した大浦の寺砦があります。大浦の寺砦に入った信長軍はその北方、現在の笠松町北及の辺りで義龍軍との戦闘に及んだと云われています。
その北及は白鬚神社のすぐ南。正式な(当時の)国境は越えていますが、この近辺まで斎藤家の勢力が既に及んでいたのだとすれば、案外、会見後に信長が道三を見送ったのも大良(大浦)の辺りまでだった可能性もあるのでは?・・・などと、勝手に想像を膨らませています。

※「信長公記」天理本には、

萩原之渡廿町計御見送候

とあり、聖徳寺を出た二人が同道して別れた場所を、日光川(木曽川支流)の萩原の渡し(天神の渡し)としています。
萩原の渡し跡は聖徳寺から美濃路を南東へ2㎞ほど行った先で、廿町計という牛一の記述とも距離は一致します。
しかし、聖徳寺を起点にすると白鬚神社とはまるで反対の方角で、むしろ道三の方が信長を見送ったような印象さえ受けます。
「信長公記」の史料価値は周知のところなので、そうなると白鬚神社で別れたとする伝承の信憑性を量る上でも、その典拠を知りたいところです。

あかなべ
と申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。

(同)

信長と別れて美濃に入った道三は、あかなべ(岐阜市茜部)まで来たところで、
「信長はやはり“たわけ”でしたな」
と言う猪子に対し、
「ならば無念なことだ。私の子供は将来、その“たわけ”の門前に馬を繋ぐことになる(家来になる)であろう」
と呟いたとか。
その後の歴史は・・・周知の通りです。

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ところで、白鬚神社の境内には蓮台寺遺蹟の石碑が建っていました。
付近の笠松町長池東流地区で昭和32年、土地改良工事によって古代寺院(蓮台寺、或いは東流廃寺とも)のものと思われる塔の礎石が出土しています。

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白鬚神社の境内に安置されている塔の出土礎石(半分)
この礎石の大きさから、塔の高さは30mほどもあったのではないかと考えられています。
何故か半分に割られ、もう一方は東別院(西宮町)に保管されているようです。

そういえば白鬚神社の所在地である「田代」は「でんだい」と読むそうです。
「蓮台(寺)」⇒「でんだい」と、地名の由来になっていたのかもしれませんね。

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