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2017年12月14日 (木)

近江丸山城 (丹羽砦)

直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取出仰せつけられ、丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通路をとめ、
(信長公記 巻三「あね川合戦の事」より抜粋)

元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した織田信長は7月1日、佐和山城 へ軍勢を寄せ、北の山に砦(物生山城…参照記事)を築かせて市橋九郎右衛門に守らせ、南の山※1に水野信元、西彦根山※2には河尻秀隆を配し、百々屋敷にも砦を築かせて丹羽長秀を置き、東西南北の四方から佐和山城を包囲させています。
※1 里根山。現在はほぼ全域がゴルフ場。
※2 実際に砦が築かれたのは、彦根山のすぐ東にあった尾末山とされている。彦根城築城の際、周辺の湿地帯埋め立てのために切り崩されて消滅。現在の尾末町


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ちなみにこちらが、尾末町越しに彦根城から見る佐和山城(河尻秀隆目線)

「百々屋敷」の跡地とされるのは佐和山城跡の東約1km、国道8号線沿いの彦根トラックステーション一帯
しかしこの場所は、佐和山城からあまりに至近な上に全くの平坦地で、とても包囲網を維持するのに適した占地とは言えそうにありません。
そのため、その更に南東500mほどにある近江丸山城(以下「丸山城」)を、「信長公記」の著者・太田牛一が百々屋敷と記した場所と比定する見解があります。(他に、百々氏が東山道摺針峠の関を守っていたことから、同所付近とする説も)
※但し、牛一が東にだけ「」の一字を用いていないことが若干引っ掛かりますが・・・。

という訳で今回、その丸山城にアタックさせていただくことにしました。
(お付き合いいただいた方々には本当に感謝!)

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鳥居本の旧中山道から県道239号を東へ折れ、名神高速のガード下を潜ってすぐの場所からアタック開始です。
こちらは、丸山城のある尾根の1本北隣りの尾根になりますが、城跡は鳥居本町と小野町の境界線上に築かれており、南の小野町側は入山を禁じているようなので、こちらから登って隣りの尾根へと移動し、町の境界線ギリギリに沿って歩いていきます。

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登り始めるとすぐ、小さな神社の境内に出ます。
ここから更に、右手の山道を登っていきます。
※この神社の脇、尾根下には百々家先祖代々之墓が建っていました。詳細は分かりませんが、「百々屋敷」の百々氏に関係しているのではないでしょうか。

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しばらくすると鉄塔の足元に出ます。
その付近から丸山城の方向を見た様子・・・城跡は樹間に覗く尾根上にあります(本当は鉄塔付近の視界はもっと開けていたのですが、写真を撮り忘れました…)。
あちらの尾根へ向かい、まずは鉄塔の先で獣道を少し下り、鉄塔管理用のものと思われる山道を登り直し、2つの尾根の間にある谷戸を迂回するようにして移動していきます。

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尾根を移ると、別の鉄塔の足元に出ました。
奥には佐和山のピーク(本丸)が見えています。

丸山城はこの鉄塔から、西へ少し下った先になります。
鉄塔からしばらくは、きつい藪を掻き分けての行程となりました。

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ようやく尋ね当てた、城域の東端と思われる切岸?土塁?による段差。
なお、左手のフェンスが鳥居本町と小野町の境界線になります。

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北側には腰曲輪状の平坦地も。

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主郭と思われる最上段の曲輪の切岸。
一段低い平坦部(写真左)と、鏡石を思わせる大石が虎口を連想させました。
(※個人的感想です)

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境界フェンスの向こう、小野町側には土塁らしきものが主郭から西へ、2段ほどの曲輪跡を取り巻いていました。
※写真はフェンスから手を伸ばして撮影しています。

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城域西端付近にあった・・・竪堀?

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城域西端の土塁を外側から。
段差は割とハッキリと残っています。

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城域内は視界が利かなかったので、少し下った先から見る佐和山城の遠景
丹羽長秀の手勢は、この距離間で佐和山城と対峙していたのでしょうか。

佐和山の右の尾根続きには、市橋九郎右衛門の北の山(物生山城)が見えていますし・・・

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少し左へ目を転じると、水野信元の南の山まで見渡すことができます。
まさに元亀元年7月~翌2年2月までの佐和山城包囲戦の舞台を、一望の元に収める光景です。

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下山後、佐和山城との間を通る旧中山道(東山道)から遠望する丸山城。

北の物生山城に比べ、丸山城の遺構自体は見るべくもない※3ですが、こうして実際に現地に立てる喜びは、やはり何物にも代えがたい喜びがあります。
※3 確認できた遺構範囲も狭く、100人も入れば満員になってしまうような規模でしたので、もし丸山城が佐和山城包囲の東の付城であるならば、尾根全体にもっと広く兵を展開させていたものと思います。

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