峯城と古城(フルシロ)
峯城遠景
峯城想像復元図
1枚目の遠景は、この図に「青館」とある付近から撮影しています。間を流れているのは八島川。
※郭のローマ数字は便宜上、現地で使用した測量図に合わせたものです。
天正11年(1583)、賤ヶ岳で対峙する羽柴秀吉と柴田勝家。その勝家と連携する滝川一益は、関盛信・一政父子が秀吉の元に赴いた隙を衝いて亀山城を占拠し、更に峯城を岡本良勝(宗憲)から奪って家臣・滝川益重を入れます。
これを受けて秀吉は直ちに峯城を包囲し、数ヶ月に及ぶ籠城戦の末、益重は城を開いて退去しました。
峯城は織田信雄の管理下となって彼の家臣が入城しますが、翌天正12年、秀吉と信雄が対立(小牧長久手の戦い)すると、秀吉は蒲生氏郷・関一政らに峯城を攻めさせ、峯城はまたしても落城の憂き目を見ることになりました。
天正18年、秀吉政権下で峯城に返り咲いていた岡本良勝が亀山城へ移るにあたり、峯城はその役目を終えて廃城になったと伝えられます。
今回は城の北側からアプローチしました。
まず出迎えてくれたのは「かんざし井戸」
落城の折、城主の奥方が宝物の銀のかんざしをさし、この井戸に身を投げたとの伝承からそう呼ばれています。
aの枡形虎口
上から見ると、ちゃんと枡形になっている様子が分かります。
Ⅹ郭の土塁
b部分
想像図では郭として描かれていませんが、2段に綺麗に削平されています。
Ⅷ郭は鬼藪・・・
Ⅶ郭は鉄塔(と藪)
Ⅴ郭西側の土塁
Ⅴ郭の西虎口
西虎口から帯郭に出て、Ⅴ郭と本丸(Ⅰ郭)間の堀切方向を見た様子。
写真←方向に堀切がありますが、あまりの藪のため写真は撮りませんでした(^_^;)
本丸北西の切岸を見上げる。
この頭上には櫓台があったものと思われます。
本丸切岸の高さを、人尺付きで体感してください。
(写真提供:流星☆さん)
本丸の切岸下をグルッと回り込み、南虎口から本丸へ。
但しこの南虎口、その先に続く通路のような掘り込みが単なる水抜き用の側溝のようにも見え、明らかに後世の改変を受けた雰囲気を感じましたので、果たして本当に虎口だったのかは少々疑問です。
※東面にも虎口があるようなのですが、残念ながら激藪のため探索を諦めました。
本丸の土塁
この土塁上を進んで天守台へ向かいます。
天守台
天守台には方形に窪んだ箇所があり、今流行り?の穴蔵構造か!?とも思いました。
天守台の斜面には、石垣の跡が僅かに残っています。
石垣の隙間からは裏込め石(栗石)も見えています。
他では見受けられませんでしたので、天守台など重要な箇所にのみ、石垣を用いていたのでしょう。
城域の南端、尾根を断ち切る大きな堀切(c部分)
更に先にもう1本ありました。
峯城・・・なかなか見応えのある城跡でした。
さて、ラストは峯城から八島川を挟んだ対岸にある古城(フルシロ)へ向かいます。
古城縄張図
車道沿いのaの虎口から侵入を試みますが・・・
虎口の先はあまりのド藪具合に、さすがの猛者たちもちょっと躊躇したほど(^_^;)
曲輪内はまず、まともに歩くことも叶いませんので、土塁上を進んでいくことにします。
bの空堀
cの土橋
cの土橋を渡った先は、土塁を畝状に連ねたような不思議な形状をしていました。
dの喰違虎口
峯城と対峙する西側には、立派な横堀が廻らされていました。
古城はその名から、1300年代に峰城を築く以前までの峯氏の居城とも考えられていますが、その遺構からは織豊期の付城・陣城の雰囲気を感じます。
天正11年~12年にかけての秀吉軍による峯城包囲戦の際に改修され、峯城攻めの拠点として利用されたものと思います。
最後に古城から、包囲する峯城を遠望する。。。
この日訪れたお城はどれも遺構・歴史両面で大変興味深く、とても充実した城攻めとなりました。
お誘いいただいた方や現地でご案内いただいた方、同行者皆さんに感謝ですね。楽しかったです。
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