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2018年1月

2018年1月30日 (火)

江戸城周辺の戦争遺跡

とても寒い1日となった1月最後の日曜日、お誘いをいただいて江戸城の周辺を散策してきました。

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有楽町で集合した後は日比谷方面に向かって歩き、まずは第一生命館を仰ぎ見る。
戦時中は陸軍東部軍管区司令部が置かれ、屋上には高射砲陣地も設置されていたのだとか。
戦後はGHQに接収され、その本部庁舎として利用されていました。平成に入って再開発された際に内部の殆どは改変されたようですが、マッカーサーの総司令官室は保存されています。

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そのまま内濠沿いを進み、桜田門や半蔵門を越えて千鳥ヶ淵を目指します。
1週間前に降った雪が、まだかなり残っていました。

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千鳥ヶ淵高射砲陣地跡
コンクリート製の円形砲台(座)が、全部で7基並んでいます。
すぐ近くには近衛師団司令部の庁舎があり、この陣地には近衛機関砲第一大隊が配置されていたようです。

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この後に訪れた靖国神社遊就館に展示されていた「八八式七・五糎野戦高射砲」
千鳥ヶ淵の陣地に据え付けられていた高射機関砲とは型式が違うようですが、イメージは掴めますね。

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陣地跡から北の方角。
見晴らしのいい高所を利用して築かれていたことがわかります。
高射機関砲はB29などの大型爆撃機ではなく、低空侵入してくる小型機を迎撃するための兵器とのこと。そういった意味でこの見晴らしは、理に適った選地といえそうです。

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普段は「お城」としての江戸城しか観ていませんでしたが、その土塁上にこのような遺跡が残っていたとは・・・驚きました。

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そのまま土塁上を東へ歩いていくと・・・

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首都高によって分断され、一見すると櫓台のようにも見える土塁の先端部分に、不思議な痕跡がありました。土塁上にチラッと、四角いコンクリートが見えています。
奥に見えている建物は旧近衛師団司令部庁舎なのですが、どうやらここには近衛機関砲第一大隊の地下壕があったらしいのです。
先ほどの四角いコンクリートは通気口の跡で・・・

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側面の、こちらのコンクリート部分が入口だったようです。
既に埋まっているようですが、周辺にはロープが張り廻らされて立入禁止になっていました。

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首都高に分断された土塁線
(左側の雪の残る面と、右側の白い壁面がそれぞれ断面)

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旧近衛師団司令部庁舎

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まさに終戦当日の昭和20年8月15日、無条件降伏に反対する一部の若手将校によるクーデター(宮城事件)が起き、説得にあたった森赳師団長が射殺される事件が起きた現場でもあります。

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北白川宮能久親王の銅像
明治28年(1895)、近衛師団長として師団を率いて出征した先の台湾で病に罹り、薨去されました。
ちなみに幕末期には上野寛永寺に入り、公現法親王として寛永寺貫主・日光輪王寺の門跡を務めてもいます。
そのため、慶応4年に戊辰戦争が勃発すると上野に立て籠もった彰義隊に担がれ、上野戦争の敗戦から脱出した後は東北へ逃れ、奥羽列藩同盟の盟主に擁立されたりもしました。

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日本武道館のすぐ脇、近衛歩兵第一聯隊跡記念碑。

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田安門から北の丸を抜け、今度は靖国神社へ向かいます。

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靖国神社では遊就館を一通り見学し、詳しい方に偕行文庫の利用方法などをご案内いただきました。

靖国神社の後は、市ヶ谷~四ッ谷間の外濠沿いの土塁を散策し、この日の行程は終了です。

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夜は新宿の“いつもの”居酒屋で懇親会。
貴重なお話も聞けて、有意義な一日となりました。

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2018年1月25日 (木)

またも雪に阻まれた・・・基肄城

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2泊3日の福岡旅、最後の行程は基肄城です。
基肄城は唐・新羅の襲来に備え、福岡県筑紫野市と佐賀県基山町とに跨る基山に築かれた古代朝鮮式山城。
南北に連なる東西の尾根や、その間に開く谷をも総延長4.2㎞に及ぶ土塁や石塁で取り巻いています。

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まずは南麓の水門跡から。
修復・復元された立派な石垣が出迎えてくれました。

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東西尾根間の谷の水を排除するために築かれた水門で、今でも水が流れていました。

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それにしても・・・麓でこの残雪(嫌な予感)

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暗渠の中を覗くと・・・つらら(笑)

続いて、基山山頂付近にある草スキー場の駐車場を目指して車で向かったものの・・・

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案の定、ご覧の積雪でタイヤがスタック・・・仕方なく瀧光徳寺奥之院の駐車場まで引き返し、そこから徒歩で向かうことにしました。

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瀧光徳寺奥之院から草スキー場までは1kmほどの道のり、雪道とはいえ20分程度で到着しました。
草スキー場・・・てか、普通にスキー場じゃん(笑)まずはこの斜面を登らないといけません。。。

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※注)決して自らすすんでダイブしたわけではありません。怖い人に「やれ」と命じられたのです(涙)・・・思ったよりは雪が薄く、飛び込んだ瞬間に顔面を打ちつけて痛かった。。。

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膝下までまとわりつく雪を掻き分け、やっとの思いで到達した尾根上部。
大きな岩が何やら城門を思わせますが・・・雪で構造がよくわかりません。

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天智天皇欽仰之碑
大野城や水城などと共に、基肄城築城を命じた天智天皇を顕彰する碑ですね。

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基山山頂から。
すぐ下に「いものがんぎ」と呼ばれる4連続堀切が見えています。

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4連続堀切が芋畑の畝に似ていることから、いものがんぎと呼ばれています。
お城で雁木(がんぎ)というと階段状のものを連想しますが、畝状のものを雁木と表現するのは初めて知りました。
なお、いものがんぎは基肄城の防塁線上にありますが基肄城の遺構ではなく、後にこの地に築かれた中世山城の遺構です。

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写真では雪の影響もあってわかりづらいですが、近づくと結構な深さがあります。

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畝の淵に沿って遊歩道が付いているのですが・・・見事なS字(笑)

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いものがんぎ越しに基山山頂(左奥)
基山山頂は曲輪跡で切岸も明瞭ですが、こちらもいものがんぎ同様、中世山城の遺構になります。

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基肄椽城跡

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土塁線から少し内側へ下ると・・・見えてきましたね。

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大礎石群
総柱式の建物礎石で、基肄城跡から見つかっている40棟あまりの建物礎石の中でも最大のもの。こちらは紛れもなく、古代の遺構です。
立地や雰囲気などから直感的に、食料庫のようなものが建っていたのかなぁと思いましたが、実際に大宰府政庁付近からは、基肄城に米を備蓄していたことを示す木簡が見つかっているようです。

さて、私の帰りのフライト時間の都合もあり、基肄城めぐりもこれまでとなります。

今回の旅は幾度ともなく雪に阻まれる行程となりましたが、その分、水城をじっくりと見れたり、九州歴史資料館で貴重な出土遺物に触れることができたりと、有意義な旅になりました。
これも案内してくれた九州在住のフォロワーさんや、一緒に旅をしてくれる仲間のおかげですね。今回ばかりは一人だったら2日目以降、何もできなかったかも・・・感謝。
そして、大野城や基肄城にはいずれまた必ず再訪します。

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ラストは離陸直後に撮影した、前日に必死になって登った水城から大野城への尾根筋の写真を載せて終わりにします。

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2018年1月24日 (水)

高良山神籠石

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福岡旅3日目、まずは久留米市まで移動して筑後國一宮、高良大社へ。

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高麗大社境内に残る神籠石の列石

神籠石とは、九州や瀬戸内地方に存在する列石遺構の総称で、一般的には「日本書紀」や「続日本記」に記述がない古代山城の遺構を指すようで、神籠石式山城とも呼ばれています。

引き続き境内から離れて山中に分け入り、この神籠石のラインを辿っていきます。

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高良山の山腹を取り巻く列石
現在確認されている列石の総延長は1.6㎞ですが、未確認の北側などの推定線を含めると4㎞にも及ぶと考えられています。

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延々と続く列石は一旦車道に分断されますが・・・

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車道の先からまた続いていました。

この列石には古代山城の遺構とする説の他に、神域を示すものとする説もあるようです。
678年の筑後国大地震の影響を受けていると考えられることから、少なくともそれ以前には築造されていたと推定されています。

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基本的には一段のみなのですが、一部には二段に積まれている箇所もありました。

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大学稲荷神社の辺りで再び車道に出て、ここから少しの間は列石も車道に沿って進みます。

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車道沿いで一旦土中に埋もれますが、すぐにまた顔を出し、その先はまた山中へ入っていきます。

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竪積みされた列石・・・誰が言ったか、「歯みたい」(笑)

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列石が直角に折れるポイント

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水門跡
もう殆ど崩れてしまっていますが、明らかに人工的に成形された石を積んでいた痕跡は留めています。
こうして谷筋をも包括的に列石(神籠石式)や土塁・石塁(朝鮮式)で取り巻くのが、古代山城の特徴の一つなのでしょうね。

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水門跡の先で、列石は高良大社の参道に出ました。
ここで列石めぐりは終了します。

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高良の神が神馬の蹄跡を残したとされる馬蹄石
中世の縁起書「高良記」には、「この石こそが神籠石で、八葉の石畳(=現在の神籠石列石)の起点・終点である」とあります。
そもそも「神籠石」とは、こうした神の依り代となる石を指す名称でしたが、その近くにあった列石と混同して報告されたために、列石の方を神籠石と呼ぶようになったのだとか・・・現在、列石の呼称の見直しも検討されているのだそうです。

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列石を辿ってかなり下りましたので、参道を登って駐車場へ戻ります。
参道も風情があって素敵でした。

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お昼は久留米ラーメンで舌鼓♪

この後は基肄城へ向かいます・・・雪の不安しかないけど?!

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2018年1月23日 (火)

水城

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福岡旅2日目、ラストは水城をめぐります。

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水城は大野城や基肄城などと共に、大宰府防衛のために築かれた大堤(土塁)です。
全長1.2㎞、基底部の最大幅約80m、最大高さ約14mを誇り、「日本書紀」にも
「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城と曰う。」
と記述されています。

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水城東門跡

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東門の礎石

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道路を挟んだ反対側、車列の間から礎石らしき石が見えています。
東門には官道が通り、大宰府の玄関口になっていました。現在も県道112号と574号が合流する地点で、交通の要衝のようですね。

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東門跡から尾根伝いに山を登り、大野城の水城口城門を目指してみます。

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しばらく登った先にある展望台から眺める水城。

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更に登った先から・・・

この先も雪の残る急勾配な尾根を直登し、頑張って水城口城門のすぐ手前のピーク辺りまでは辿り着きましたが・・・
いよいよ残雪も深まり、下山までの時間を考えると日没タイムリミットと判断し、止む無く撤退しました。

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下山後はまず、東門跡付近の内濠沿いを散策。
発掘された木樋(暗渠)を復元した展示。

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実際に木樋が発掘された場所。
木樋はヒノキ材で、内濠と水城の土塁を越えた先の外濠を繋ぐため、約80mに渡って敷設されていました。
出土した木樋の実物は、一つ前の記事でご紹介した九州歴史資料館にて見学することができます。

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内濠跡越しに水城
内濠の土手からは、瓦窯跡も発見されています。

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車で少し南西方向へ移動し、JR鹿児島本線水城駅付近。
線路によって分断された水城を、土塁断面ひろばとして整備しています。

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引き続き水城駅周辺を散策・・・父子嶋の土盛。
水城築造のため、来る日も来る日も土を運んで働いていた、とある父子がいました。
ある日、「土塁が出来上がったぞ!」との声を聞き、全身の力が抜けて運んでいた土を放り出してしまいました。その土が盛り上がってできたこの場所を父子嶋(ててこじま)と呼ぶようになった、との伝承が残っているそうです。

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水城西門跡

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西門付近の土塁
その見事な高さを感じていただけますでしょうか。

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線路に分断された水城

大野城は残念でしたが、その分じっくりと水城をめぐることができ、これはこれで良かったかな。

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夜は、翌3日目の行程をご一緒するフォロワーさんとも合流し、博多でもつ鍋飲み会♪

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2軒目は海鮮系のお店に入り、大好物のごまさばも♪
2軒目には地元に住むフォロワーさんも急遽参戦し、楽しく盛り上がった一夜になりました☆

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2018年1月22日 (月)

大宰府政庁と大野城、九州歴史資料館

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旅の2日目は太宰府天満宮参拝からスタート。
何の因果か偶然か、この日はセンター試験の日でもありました。

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社殿の屋根には雪も残っていました。

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名物の梅ヶ枝餅

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大宰府政庁跡
背後には大野城跡の四王寺山の姿も。

大宰府政庁は;
Ⅰ期  7世紀後半~ 掘立柱建物
Ⅱ期  8世紀初頭~ 礎石を用いた朝堂院形式 
Ⅲ期 10世紀後半~ 藤原純友の乱で焼失した後の再建
といった変遷を辿っており、発掘調査で明らかになった建物礎石群(南門や中門、回廊、正殿、後殿、etc...)を見学できるようになっています。

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大宰府展示館では、発掘により表出した政庁東側の玉石溝を直接見ることができます。
それにしても、雪・・・(^_^;)

続いて大野城跡へ向かいましたが・・・

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山道を登るにつれて積雪が深くなり、大宰府口城門付近まで来たところで無念のリタイア。。。
ちなみに写真右側に写っているのは、大野城の土塁の断面です。

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大野城大宰府口城門の石垣も雪に埋もれ・・・

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大野城は標高410m四王寺山の尾根や谷を、総延長6.5㎞もの土塁で取り囲んだ古代朝鮮式山城です。
663年、白村江の戦いに敗れ、唐・新羅の襲来を恐れた朝廷(天智天皇)が水城・基肄城などともに築かせた防衛施設の一つ。
本来であれば土塁線をグル~ッとめぐりたかったのですが・・・この悪条件では致し方ありません。
行程を変更して九州歴史資料館へ向かいます。

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九州歴史資料館
こちらでは、出土した水城の木樋を見学しました。
また、ボランティアが待機するに限り、本物の出土遺物に触れることができるサービス(体験学習)があります。

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中世の永楽通寶洪武通寶
永楽銭は織田信長の旗印でも有名ですね。こうした銅銭は実際に手に取ってみると意外なほど薄くて軽く、裏には特に細工もなくて、なんだか「安っぽい」印象でした。
こうした情報も、実際に触れることで初めて知ることができたわけで、とても貴重な体験になりました。

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こちらは黒曜石の石器。ダイヤモンドカッターよりも硬いのだそうです。
いわゆる先史時代の遺物をこの手に触れることができるだなんて・・・信じられないでしょ?

九州歴史資料館では他に、出土遺物の調査や洗浄~修復に至る工程をオープンにしており、ボランティアガイドの案内で中庭から各工程の様子を見学させていただくこともできます。

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2018年1月21日 (日)

生の松原元寇防塁と壱岐神社

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2度に及ぶ蒙古の襲来(元寇)
その1度目となる文永の役(1274)を受けて鎌倉幕府は、元の再襲来に備えて博多湾沿岸一帯に防塁(石築地)を築かせました。
元寇防塁は福岡市内の数ヶ所で保存されており、5年前に博多を訪れた際には西新地区の防塁を見学しましたが、今回は竹崎季長奮戦の地としても知られる(蒙古襲来絵詞)生の松原の元寇防塁に来てみました。

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海も綺麗ですが吹きつける強風が冷たく、手の感覚を失うほどに凍えました。。。

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復元された元寇防塁の石築地(石垣)

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この海の彼方から、元の大船団が現れたのですね・・・。

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松原の中を進む遊歩道はちょっとした高まりの上を通り、復元石垣ともラインで繋がりますので、こちらも長い年月の中で砂に埋もれていった防塁の痕跡ではないかと思います。
石の大半は、福岡城築城の際に運び去られたようですが。

2度目の蒙古襲来となった弘安の役(1281)。
攻め来たった彼らの目に、この防塁はどのように映ったのでしょうか。

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生の松原元寇防塁の近くに鎮座する壱岐神社
武内宿禰の身代わりとなった壱岐直真根子を祀る社とされています(日本書紀)。

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参道は海へ向かって真っすぐに延びています。

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参道の先、海岸に建つ鳥居。

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その近くには逆松の碑が建っていました。
神功皇后が松の枝を逆さにして戦勝を占った際、その枝が根付いて松が生き返ったとの伝説から、この地は生の松原と呼ばれるようになったと云われています。
その松は既に枯れていますが、幹が壱岐神社に奉納されているそうです。

さて、これにて旅の初日は終了です。
2日目からは仲間とも合流し、大宰府周辺をじっくりとめぐります。

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2018年1月20日 (土)

圧切長谷部と対面

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久しぶりの空の旅で、5年ぶりに福岡へお邪魔します。
空から見下ろす富士山がまた綺麗でした。

日本海側を覆う寒波の影響で雪の降りしきる福岡へ到着後、まず最初に向かったのは福岡市博物館です。

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母里太兵衛が福島正則から呑み獲ったとの逸話でも有名な名鎗・日本号
元々は朝廷の御物で、正親町天皇から足利義昭、織田信長、豊臣秀吉の手を経て正則へと渡りました。

その日本号の横に、今回の福岡旅を決めた最大の目的のものが・・・

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国宝・圧切長谷部
膳棚の下に逃げ込んだ茶坊主を、織田信長が棚ごとへし切ったとの逸話からその名で呼ばれています。
黒田官兵衛が天正3年(1575)に岐阜で信長に謁見した際に拝領したとも、信長から秀吉の手を経て伝わったとも云われますが、以降は黒田家の家宝として伝来しました。

大太刀を磨り上げて短くしています(刃長64.8cm/茎長16.7cm)。
考えてみれば信長は、宗三左文字(義元左文字)も義元から接収後に磨り上げ、大太刀を刃長67cmの打刀に改めています。
一概には言えないのかもしれませんが、大太刀よりも振り易くて実戦的な打刀を好んだのかもしれません。

圧切長谷部は「黒田家名宝展示」の中で、平成30年1月5日~2月4日まで展示されています。

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新春特別企画「黒田家の刀剣と甲冑展」(同1月7日~2月12日)では、圧切長谷部の拵(国宝)も展示されています。

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長谷部の拵の隣りには、やはり官兵衛の愛刀だった安宅切の拵(右/重要文化財)も並べて展示されていました。
共に金霰鮫青漆打刀拵という様式ですが、反りの違いが一目瞭然です。

ようやく念願叶って対面した圧切長谷部・・・寒さも忘れる至福のひと時。
平日とあって想定外に人も少なく、ゆっくりと拝観することができました。

※金印もちゃんと拝観してきました。

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2018年1月 7日 (日)

大庭城

本日(1/7)は、神奈川県藤沢市の大庭城址公園までドライブしてきました。

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大庭城は南北に伸びる舌状台地に築かれた城跡で、その起こりは定かではありませんが、源頼朝に仕えた大庭氏の拠点だったとも考えられています。
その後、室町時代中期に太田道灌の手により本格的な築城が成され、北条早雲(伊勢新九郎)に攻略されて後は北条氏の支配下に置かれたとも伝えられています。

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大庭城縄張図
図面上が北になります。

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Ⅳ郭東側の空堀aは・・・ド藪(^_^;)

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Ⅲ郭とⅡ郭間の空堀b
こちらは規模も大きく、割と形状をハッキリと確認できました。

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cのコーナー部分

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Ⅱ郭とⅠ郭間の土橋から見る堀切、その東側。
城址公園として整備されているのは平坦な曲輪面のみで、堀跡などは基本的に藪に覆われていました。

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同じく西側。この先は・・・

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竪堀として落とされています(d)。

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Ⅰ郭から、その堀切越しにⅡ郭を見る。

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台地の先端、Ⅰ郭。
昭和43年の発掘調査で明らかになった、建物の掘立柱址を示す石柱が建てられています。

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Ⅰ郭で見かけた・・・井戸跡?

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城跡西側の横堀

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Ⅱ郭とⅢ郭間の堀切跡(の窪み)。
堀切は、写真右手前の笹藪の先まで続き・・・

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そのまま竪堀として落とされていました(e)。

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fの竪堀

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城下、西側から眺める大庭城遠景。

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大庭城の南麓には、お地蔵さんが舟に乗った舟地蔵が祀られていました。

大庭城を攻める北条早雲は、城の周囲を取り囲む沼地に手を焼いていました。そこで近くに住む老婆に尋ねると、引地川の堤を切れば沼はたちまちに干上がると言います。
これによって早雲方は大庭城を攻略することができましたが、機密の漏洩を恐れ、その老婆を殺害してしまったとの伝承が伝えられています。
この舟地蔵は、その老婆を供養するためのものと云われているようです。

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2018年1月 4日 (木)

三枚橋城(沼津城)、興国寺城

2018年1月3日、家族からの要望で沼津までドライブへ出たついで?に、いつもはスルーしていた三枚橋城(沼津城)にも立ち寄りました。
といっても、遺構は完全に消滅してしまっていますが・・・これが今年の城初め。

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近世沼津城図

天正7年(1579)、御館の乱をめぐる外交のもつれから関東の北条氏と断交した武田勝頼は、駿豆国境にあたる沼津の地に三枚橋城を築いて対北条氏の前線拠点としました。
関ヶ原合戦(1600)の後には大久保忠佐が入城しますが、忠佐の死後、世子不在により大久保家が断絶となると、三枚橋城も廃城されました。
後に水野氏が沼津を拝領し、三枚橋城の跡地に沼津城を築きますが、その規模は三枚橋城の北半分程度だったとか・・・勝頼の築いた三枚橋城は、上の図の倍近い規模を誇っていたのですね。
※以降も勝頼~忠佐時代のものを「三枚橋城」、水野氏による近世のものを「沼津城」と表記を分けて記します。

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中央公園に建つ沼津城本丸址
先の図面(以下「図」とのみ記す)で現在地とある地点です。
足元の石は近くの静岡中央銀行新築工事の際に出土したもので、現地案内板では「三枚橋城当時の石垣に使われていたもの」と断定していました。
静岡中央銀行の位置を図で確認してみると、確かに近世の沼津城の範囲から微妙に外れているようですが、そのためでしょうか?

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aの復元石垣
位置からして、大手虎口付近の石垣となります。

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b地点の復元石垣
こちらも沼津城の範囲からは外れていますので、もしこの地点から発掘されたものであれば勝頼~大久保忠佐時代の三枚橋城のもの、ということになりますでしょうか。

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沼津城のすぐ南には、旧東海道が通っています。

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「東海道分間延絵図」に描かれた沼津城。
沼津城を築くにあたり、東海道を曲げて迂回させた様子が見て取れますが、三枚橋城の城域は更に南へ延びていたと云うことですから、或いは街道を城内に取り込むようにして築かれていたのかもしれません。

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旧東海道から、本丸との地形の高低差を確認する。

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三枚橋城から狩野川越しに東方を眺める。
写真中央奥には、北条方の最前線拠点・戸倉(徳倉)城があります。そのすぐ北から流れ込んでいる黄瀬川が当時の駿豆国境となっていたため、戸倉城のある地は伊豆国とされていました。
まさに武田と北条が対峙していた距離感です。
※但し、戸倉城将・笠原政晴は武田方へ寝返っており、この一帯は武田氏滅亡までは、その勢力下にあったようです。


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さて、折角沼津へ来たので興国寺城まで足を延ばします。

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興国寺城本丸跡
実は私、興国寺城にはこれが初めての訪問だったのですが、いきなりの物凄い土塁の規模に心底驚かされました。

伊勢新九郎盛時(北条早雲)は今川氏親の家督相続に尽力し、その功によって興国寺城を与えられました。
まさに北条五代百年発祥の地と言えます。

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その北条早雲と、興国寺城最後の城主となる天野康景の慰霊碑。
康景は徳川家康に仕え、岡崎三奉行にも任ぜられて「どちへんなし(彼是偏無し)の三郎兵衛」と称された公平な人物として伝えられます。
関ヶ原合戦後に興国寺城を与えられましたが慶長12年(1607)、城の修築用の竹木を盗もうとした者を康景の家来が殺害するという事件が起こります。
一見すれば康景の家来に正当性がありますが、この盗人が天領の民であったことから問題が大きくなり、康景は家康側近の本多正純から、盗人を斬った家来を差し出すよう迫られます。
ところが、この家来を庇おうとしたのか康景は正純の指示には従わず、あろうことから城を捨てて出奔してしまいました。
これにより天野家は改易され、興国寺城も廃城となりました。

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本丸の背後(北)を固める土塁に残る伝天守台の石垣。

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伝天守台
礎石らしき石が並んでいました。

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伝天守台から城下を眺める。
真正面からの逆光で苦しい写真となってしまいましたが、彼方には駿河湾もハッキリと視認できました。

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伝天守台から見下ろす、本丸北側の空堀。
とにかく深くて規模が大きいです。

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コントラストがきついですが、この規模が伝わりますでしょうか・・・。

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西櫓台

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最後は堀底へ。
伝天守台の土塁が、しっかりと横矢を掛けています。

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堀底を西へ進むと不思議な穴がありましたが・・・中を覗いても真っ暗でよくわかりませんでした。

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こちらの切通しを抜けると・・・

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城の西側へ出ます。奥の地形が上がって谷戸になっていました。
この辺りは当時、沼地になっていたようです。

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土塁と空堀の規模は本当に素晴らしかった・・・興国寺城。
今回は家族連れでの訪問だったため本丸の周囲しか観ていませんが、何れ再訪の機会があれば範囲を広げてめぐりたいと思います。

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