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2018年1月 4日 (木)

三枚橋城(沼津城)、興国寺城

2018年1月3日、家族からの要望で沼津までドライブへ出たついで?に、いつもはスルーしていた三枚橋城(沼津城)にも立ち寄りました。
といっても、遺構は完全に消滅してしまっていますが・・・これが今年の城初め。

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近世沼津城図

天正7年(1579)、御館の乱をめぐる外交のもつれから関東の北条氏と断交した武田勝頼は、駿豆国境にあたる沼津の地に三枚橋城を築いて対北条氏の前線拠点としました。
関ヶ原合戦(1600)の後には大久保忠佐が入城しますが、忠佐の死後、世子不在により大久保家が断絶となると、三枚橋城も廃城されました。
後に水野氏が沼津を拝領し、三枚橋城の跡地に沼津城を築きますが、その規模は三枚橋城の北半分程度だったとか・・・勝頼の築いた三枚橋城は、上の図の倍近い規模を誇っていたのですね。
※以降も勝頼~忠佐時代のものを「三枚橋城」、水野氏による近世のものを「沼津城」と表記を分けて記します。

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中央公園に建つ沼津城本丸址
先の図面(以下「図」とのみ記す)で現在地とある地点です。
足元の石は近くの静岡中央銀行新築工事の際に出土したもので、現地案内板では「三枚橋城当時の石垣に使われていたもの」と断定していました。
静岡中央銀行の位置を図で確認してみると、確かに近世の沼津城の範囲から微妙に外れているようですが、そのためでしょうか?

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aの復元石垣
位置からして、大手虎口付近の石垣となります。

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b地点の復元石垣
こちらも沼津城の範囲からは外れていますので、もしこの地点から発掘されたものであれば勝頼~大久保忠佐時代の三枚橋城のもの、ということになりますでしょうか。

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沼津城のすぐ南には、旧東海道が通っています。

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「東海道分間延絵図」に描かれた沼津城。
沼津城を築くにあたり、東海道を曲げて迂回させた様子が見て取れますが、三枚橋城の城域は更に南へ延びていたと云うことですから、或いは街道を城内に取り込むようにして築かれていたのかもしれません。

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旧東海道から、本丸との地形の高低差を確認する。

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三枚橋城から狩野川越しに東方を眺める。
写真中央奥には、北条方の最前線拠点・戸倉(徳倉)城があります。そのすぐ北から流れ込んでいる黄瀬川が当時の駿豆国境となっていたため、戸倉城のある地は伊豆国とされていました。
まさに武田と北条が対峙していた距離感です。
※但し、戸倉城将・笠原政晴は武田方へ寝返っており、この一帯は武田氏滅亡までは、その勢力下にあったようです。


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さて、折角沼津へ来たので興国寺城まで足を延ばします。

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興国寺城本丸跡
実は私、興国寺城にはこれが初めての訪問だったのですが、いきなりの物凄い土塁の規模に心底驚かされました。

伊勢新九郎盛時(北条早雲)は今川氏親の家督相続に尽力し、その功によって興国寺城を与えられました。
まさに北条五代百年発祥の地と言えます。

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その北条早雲と、興国寺城最後の城主となる天野康景の慰霊碑。
康景は徳川家康に仕え、岡崎三奉行にも任ぜられて「どちへんなし(彼是偏無し)の三郎兵衛」と称された公平な人物として伝えられます。
関ヶ原合戦後に興国寺城を与えられましたが慶長12年(1607)、城の修築用の竹木を盗もうとした者を康景の家来が殺害するという事件が起こります。
一見すれば康景の家来に正当性がありますが、この盗人が天領の民であったことから問題が大きくなり、康景は家康側近の本多正純から、盗人を斬った家来を差し出すよう迫られます。
ところが、この家来を庇おうとしたのか康景は正純の指示には従わず、あろうことから城を捨てて出奔してしまいました。
これにより天野家は改易され、興国寺城も廃城となりました。

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本丸の背後(北)を固める土塁に残る伝天守台の石垣。

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伝天守台
礎石らしき石が並んでいました。

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伝天守台から城下を眺める。
真正面からの逆光で苦しい写真となってしまいましたが、彼方には駿河湾もハッキリと視認できました。

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伝天守台から見下ろす、本丸北側の空堀。
とにかく深くて規模が大きいです。

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コントラストがきついですが、この規模が伝わりますでしょうか・・・。

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西櫓台

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最後は堀底へ。
伝天守台の土塁が、しっかりと横矢を掛けています。

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堀底を西へ進むと不思議な穴がありましたが・・・中を覗いても真っ暗でよくわかりませんでした。

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こちらの切通しを抜けると・・・

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城の西側へ出ます。奥の地形が上がって谷戸になっていました。
この辺りは当時、沼地になっていたようです。

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土塁と空堀の規模は本当に素晴らしかった・・・興国寺城。
今回は家族連れでの訪問だったため本丸の周囲しか観ていませんが、何れ再訪の機会があれば範囲を広げてめぐりたいと思います。

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